逆転!? 大奥喪女びっち

みく

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【城下逃亡編】

222 脱兎の如く

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「……――ぃ……」

「え?(今、何て言ったの……? さっきもこんなことなかった……?)」


 不意にぼそっと何か言われたが、あまりに声が小さく家光には聞き取れなかった。
 家光の目蓋がぱちぱちと何度も瞬く。


「……千代さん。埃が出てきたようですよ、一度目を閉じて下さい」

「え?」


 埃なんて別に入っていないのに。
 なのに満は目を閉じろと――?

 自らの嘘に付き合ってくれるというのだろうか……。家光は言われるままに目を閉じた。


 “ちゅっ”


 目蓋を閉じて間もなく、小さな水音と共に柔らかい何かが目蓋に触れる。


「えっ!?(今のは……!?)」


 驚きに家光の目蓋はすぐに開いた。
 目の前には穏やかな顔の満がいて――。


「……」

「みちるさん、今の」

「……参りましょうか」

「は……はい……っ♡」


 目蓋に触れた柔らかな感触は何だったのだろう――、触れられた目蓋が熱い気がする。
 そしてその熱が目蓋から頬に耳にと伝播していくようだ……。
 家光は舞い上がり鼻の奥がつんとしたものの、顔を伏せてなんとかやり過ごした。









 ……休憩を終えた二人はどちらからともなく手を繋ぎ、再び駕籠探しを始めた。
 今日は久しぶりの晴天のためか、駕籠を利用する人が多いようで中々空き駕籠が見つからない。

 その一方で満が町を案内してくれる。
 この辺り一帯を訊ねたことがなかった家光は、満の町案内にデートみたいだと心躍らせ楽しい時を過ごした。


「千代さん、あそこの汁粉屋はこの辺りでは有名なんですよ」

「へぇ……いっぱい人が並んでますね……あ、いい匂い……」


 ……満と共に暫く歩いていると、汁粉屋に続く行列を見つける。
 通り掛かりに丁度風向きが変わり、汁粉屋から家光達へ餅の焼ける好い匂いが漂ってきた。


“ぐぅぎゅるるる……”


 鼻腔を刺激された途端、家光の腹が鳴り顔を真っ赤に染める。思いの外大きく鳴った気がして慌てて腹を押えたが、聞こえてしまっただろうか……。
 気になった家光は満をそっと見上げた。

 満はといえば、一瞬大きく目を瞬かせ汁粉屋に投げていた視線を家光に移している。
 その顔は……しっかり聞かれていたらしい。

 不味い、恥ずかしい――。
 昼にも腹を鳴らし、しっかり食べたというのに今また鳴らし……。
 居た堪れなくなった家光はすぐに俯き身を縮めた。


「……ふふふっ、ずっと歩いてましたし、そろそろ小腹が空く頃ですよね。せっかくだから寄って行きましょうか。ご馳走します」

「っ、みちるさぁああん……♡」


 顔を上げられなくなった家光の頭上から優しい声が降り注ぐ。
 遠慮なく鳴った腹の虫など気にする素振りもなく、繋いだままの満の手が行列の最後尾へと導いていく。
 手を引かれ、こっそりと顔を上げた家光と目が合った満は、爽やかな笑顔で眩しかった。


「美味しいのは保証できますけど……少し時間が掛かりそうですね。お時間は大丈夫ですか?」

「満さんさえ良ければ私は……、その分一緒に居られて嬉しいし……」

「千代さん……。私も嬉しいですよ。では待ち時間に何かお話し致しましょう」

「はい……♡」


 順番が回って来るまで満は、僧侶時代に聞いた人々の苦労話やとっておきの逸話なんかを教えてくれる。
 そのどれもが明るい結末で締めくくられ、家光は楽しくてすっかり聞き入ってしまい、気付けば満を真っ直ぐに見つめていた。
 満、彼も優しい瞳を家光に向け続けており、長い待ち時間はあっという間に過ぎ去った。

 待ちに待った汁粉はこしあん、角餅入り。
 味は――塩味だ。

 甘くないおしるこかー……なんて思ったものの、希少な砂糖がまぶしてあり、そこは甘い。
 食べ慣れない味だったが美味しかった。


「みちるさん。ごちそうさまでした、おいしかったです!」

「ふふ、気に入っていただけたようで良かった。また来ましょうね」

「っ、はいっ♡」


 汁粉屋を後にし、満が手を差し出してくれる。家光は照れながらも素直にその手を取った。
 親切にしてくれるのも手を繋いでくれるのも、恐らく満が招いた客人である家光、自らを慮ってのもの。
 なれど仲が深まったという手応えは感じる。

 ……今は友達以上、恋人未満というところだろうか。

 こちらからお願いしたことを一度断ってしまっていたのは、彼も恥ずかしがり屋だからなのかもしれない。
 河原から今まで何度も繋いでくれている手を見下ろし、家光の心は幸福感でいっぱいだった。

 今日はこれだけで充分。
 明日も寺で会って話をする。

 そして少しずつ自分を好きになってもらう。
 あわよくば、拗らせ手入らずを掠め取ってもらえたならば。


 ……家光はそう思っていたのだが――。


「申し訳ありません……、私達はもう会わない方が良いと思います。お寺にも暫くは行けそうにありません」


 いつの間にか何度も取り合っていた手は離れ、満は僅かに微笑した後で悲し気に目を伏せる。
 ……それは町を歩き、やっと捉まえた辻駕籠を目の前にした時だった。
 つい数刻前に約束したばかりだというのに、満はそれを反故にしたいらしい。


「……どうしてですか? さっき毎日お寺に通うって」


 当然家光は納得がいかなかった。


「……千代さんにご迷惑をお掛けしたくないので、理由をお話することは出来ません。どうか何も言わずにお乗りください」

「どうして……みちるさん……」

「……」


 駕籠に乗り込むために、満が手を貸そうと差し出してくれている。
 せめて理由くらいは訊かせて欲しいと思ったものの、はっきりと拒絶しそれを教えてはくれない。
 ただ彼は。
 満は僅かに眉を寄せただけで、駕籠に乗るようにと促した。


「……っ、わっかりました! 私、もう会ってくれなくていいです! 大丈夫です!」


 ……酷いひとだ。
 きっとこちらの気持ちに気付いているくせに、何度も突き放してくる。
 こんなに心惹かれる男に出逢ったことはなかったというのに……。


 ――やっぱり、私の勘違いだったんだ……!!


 家光は悲しみに目の奥が痛むのを感じた。

 ……思えば満が優しいのは最初からだった。
 僧侶の時は様々な人々の相談にも乗っていたという彼。誰かに優しくすることなど造作もないのだ。
 女の扱いが上手いのは僧侶時代に培った人当りの良さからで、家光もつい取り違えてその気になってしまったではないか。
 もしくは――満も始めはいいと思ったが、面倒に思ってしまったというのか。


 ……何度も心を揺さぶられた家光の足は、乗り込もうとしていた駕籠から身体を逸らし、その場から逃げるように走り出していた。


「あっ! 千代さん!? 一人で行ってはいけません……! この辺りはあまり治安が……!」

「色々とご馳走様でした! とっても楽しかったです、さよなら!」

「千代さん!!」


 満が呼び止めると家光は一度だけ振り返り、やにわに裾を引っ掴んで反転、脱兎の如く全速力で走る。


「ぅぅっ……!!」


 ……目の奥が痛い。
 好きになってしまった相手に拒絶されるとこうも辛いものなのか。

 先程まであんなにも幸せな気分だったというのに、今は急転直下のどん底だ。
 涙が零れ落ちそうになりながらも泣き顔を見られたくなくて、早く満から遠ざかりたい。

 満が追って来ている足音が背後に聞こえた気がしたが、家光は振り返らなかった。
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