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【城下逃亡編】
221 赤っ恥
しおりを挟む「……でもよかった」
「え?」
――でもよかった……? なにが……?
ここでは駕籠が捉まらなくてよかったという意味なのだろうとは思うが、何故か急に満の相好が崩れ、蕩けるような笑みを向けられる。
家光は訳が解らず首を傾げた。
「……千代さんと、もう少し一緒に居られますから……」
「ぁ……、っ、はいっ! ……わ、私もうれしいですっ……!」
――ちょ、どういう意味……!? みちるさんっ……!?
嬉しそうでいて照れたような満の声は優しく、彼が自分を好きなのではないかと、妄想を止めたにもかかわらず勘違いでもしてしまいそうだ……。
……でも待って欲しい。
彼は今日中に家光――自分を家に帰すつもりで、もう部屋には呼ばないと断られた相手。
確か用事があるとか言っていたような……――昼寝で部屋を貸す間に用事を済ませてくると言っていた気がする。
……それを思い出した家光は訊ねることにした。
「……でも、あの」
「はい?」
「みちるさん、午後はご用があったんじゃ……? 私、邪魔してしまってはいませんか?」
「ん? 用など何もありませんよ。どうしても今日しなければならない事柄をあえて上げるとすれば、干した褥を取り込むくらいでしょうか」
特に用はない――。
家光の質問に満は不思議顔をしたかと思うとはにかむ。
彼の長く白い睫毛が伏せられ細くなる様子と、形の良い唇の両端が僅かに上がる様は、白い肌と高い鼻梁、整った眉も相まって間近で見ると麗しいことこの上ない。
美しいその笑顔を向けられるだけで、家光の心は弾んだ。
“あぁ、尊い……。”
昼餉の時は膳を挟んで向かい合い、片付けの時は身長差と照れもあってじっくり見られなかった満のご尊顔。
こんなに美麗な笑顔を間近で見られるなんて何たる幸運。
前世の世でこんなに美しい男の人を間近で見たことはない。
これは一度死んだからこそ出会えた奇蹟――。
「え……、でも」
――もうすぐお別れだからしっかり見とかなきゃ……! って、満さん毛穴なくない!?
満の答えは思っていたものとは違ったが、視界いっぱいに広がる好みの顔に家光は恥ずかしさ半分、記憶に焼き付けたい半分で目を逸らしつつ、時に見つめ返す。
見つめる度、毛穴の見えないきめ細かな肌に釘付けになった。
だが、例え相手に見惚れていたとて、家光が元の話題を投げ出すことはない。
「……千代さんとこうして一緒に居られることの方が大事ですから」
満はたおやかに、ちらちらと恥ずかしそうに目を合わせる家光に告げる。
こうして一緒に居ることの方が大事とは一体……。聞き間違いだろうか、家光の目は大きく見開かれた。
「それって……」
「毎日でもお会いできたらいいのに……」
一体、目の前の二枚目は何を言っているのだろう……。
こっちはもう既に惚れてしまっているというのに、思わせぶりなことばかり告げてくる意図は何だ。
……頬にほんのり赤みを帯びた満の言葉が嘘だとは思えない。
それならば――と、家光は口を開いた。
「みちるさん……。私、毎日お寺に通います。お家に行きたいなんて言わないから、だから満さんもお寺に来て頂けませんか……? あのお庭でまたお話が出来たら……」
――みちるさん、ひょっとして私のこと少しはいいなって思ってくれてる……?
これもう、勘違いではないのでは――。
想いの度合いがどうかはともかく、満が自らを少なからず想ってくれているのなら、こちらももう少し攻めてもいいだろうか。
家光は先ず出会う回数を増やすことから始めようと思っていたが、それは偶然ありきである。
自らが誘えばもしかしたら毎日来てくれるのでは……? そんな淡い期待を込めて満の手を取った。
彼の返事はこうだ――。
「千代さん……。はい、千代さんが飽きるまで、私も毎日通いましょう」
満は手を握り返し、今にも泣き出しそうな表情で笑顔を見せる。
「みちるさん……♡」
――ぐぅ……ふ、ふつくしぃ……! 飽きるだなんて絶対ない……!!
何故泣きそうなのかはよく解らないが、天人のような美しい男の儚げな笑顔に家光の心は鷲掴まれた。
ひょっとすると、満は恋心に気付いていないだけなのではなかろうか……。
甘い態度と素っ気ない仕草のアンバランスさは、まだ恋を自覚していないからなのでは。
家光自らも妄想疑似恋愛ではなく、ガチ恋したのは初めてで言えた立場ではないが、恋心に無自覚な人も世の中にはいたりするはず――。
今の自分はただの武士だ。
将軍という圧倒的権力を行使せずとも、親切にしてくれるドタイプの男に希望的観測しか思い浮かんでこない。
……あれこれと脳内に都合の良い考えばかりが巡った家光は、そっと目蓋を閉じて顎を突き出していた。
「っ……」
閉じられた視界の外で、満が息を呑んだのがわかる。
「……」
――みちるさん、キス、しよ……? 少しでも好意を寄せてくれているなら、キスくらいいいよね……?
キスが好きな家光ならではなのかもしれない。
身体に触れられるのはまだ慣れていない家光でも、唇同士のキスだけはそこまで緊張せず出来てしまえる……のは春日局や風鳥、孝と振と経験済みであるからだろう。
特に振とは何度も唇を重ねているから、キスに慣らされてしまった。
……慣れとは恐ろしいものである。
つい、満にキスをせがんだ恰好になったではないか。
満の握り返してくれた手はそのままだ。
なれど口付けをしてくる気配はなく、時折風が髪を撫でていくだけ……。
……暫く待ってみたが、満が口付けをしてくることはなかった。
「……千代さん……」
「……ぁっ、めっ、目に埃が入っちゃったみたいで……!!」
少し飛ばし過ぎたかもしれない。
満から名を呼ばれて漸く、家光は目蓋を開く。
実は途中から“今、キスは違ったな”と気付いていたが、羞恥心に心を支配され、開けるに開けられなかったのだ。
慌てて目に埃が入ったことにして目蓋を擦ってみる。
「……ああ、それは痛いですね、擦ると目を傷めますよ。取って差し上げますから見せてください」
「ぅ……お、お願いします……」
――うう、恥ずかしい……。
今の行動を満はどう思ったのだろう……。
気にはなったが、目蓋を開いて視界に入って来た彼の顔は心なしか涼やかで、妖艶に微笑んでいるように見えた。
うっかり暴走してしまった。
今は徳川家光だが、前世、竹 千代の性格はそのまま、変わっていない。
心は前世のままで、喪女が恋を勝手に進めるとこうなってしまうのだ。
赤っ恥も赤っ恥。
穴があったら入りたい――家光の顔は真っ赤に染まった。
……それにしたって満は近接距離で見ても好い男である。
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