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【城下逃亡編】
211 お誘い
しおりを挟む“あなたの憂いが如何程のものか、私のような者では推し量ることなど敵いませんが、千代さんの心が軽く健やかになるよう願っています。”
そう告げる満の表情は穏やかで……。
家光の家が何万石の家か満は知らない。知らないが大きな家であれば正室だけでなく側室を迎えることになるであろうことは理解している。
本人が望んでも望んでいなくても……と、院主を務めていた時に聞いた家督を継いだ女性達の嘆きを思い出す。
好いた男の子供だけが欲しいのに、生存率を上げるために別の男との子も産まなければならない。
正室ただ一人でいいのにという一途な女性もいれば、側室に溺れて愛憎劇に発展、命を脅かされる女性もいた。
そんな女性達に満ができることと言えば一晩の宿を貸し、夜通し女性達の話を聞いてあげることくらいだ。
正室と側室の狭間で疲れ果てた女性達に一時の安息を与え、親身にただ話を聞いて仏の教えを説く……僧侶としてできることはそれくらいだが満の見た目故か勘違いする女も多く、何度かは揉め事に巻き込まれている。
――こんな可憐な女性がいずれ複数の男達の子を……あなたも溺れてしまうのですか、千代さん……。
目の前のまだ男を知らないであろう“千代さん”――。
満は愛らしい家光がこれから汚されていくのだと思うと悲しくて仕方なかった。
「あ、ありがとうございます……、っ……、ぁっ、あのっ!!」
満の何とも言えない憂いを帯びた瞳にじっと見つめられていた家光は目礼をし、息を詰まらせてから口を開く。
「はい……?」
「み、みちるさん、おっ、お昼っ、お昼はもう済ませましたか?」
「え……昼? あ、いえまだ……」
突然の問いに満が何のことやら解らず目を瞬かせた。
そういえばあと半刻もすれば昼九つ、昼餉の時間である。
満は古那との面会を既に終えている。とすれば、もう帰るのだろう。
……家光はこのまま満と別れるのが嫌だったのだ。
「よ、よかったら、私と一緒にランチでも……」
――もう少し一緒に居たいの……!
いつもなら相手から声を掛けられる家光だが、まさか自分からナンパをするとは思わなかった。
気付けば満を食事に誘っていた。
「らんち……ですか?」
「あっ、昼餉をご一緒したいと思いまして……! 悩みを聞いて下さったお礼に私、ご馳走しますっ! ……だ、だめですか?」
満のぽかんとした小首を傾げる仕草も眩しく見えて、家光は“可愛い……♡”などと頬を赤らめつつもう一押し。
一年後くらいにはまた纏まった休みも取れるかもしれないが、今の家光には二週間しか残されていない。
城に帰れば政務に夜伽にと追われ、懐妊でもすれば身動きも取り辛くなる。
――この人と仲良くなりたい、この人とならもしかしたらいけるかも……。
自らを将軍としてではなく、純粋に一人の人間として見てくれる満に家光は惹かれていた。
「……お誘いは嬉しいのですが、実は家に昼の用意がしてあるのです」
家光の誘いに満は外していた鬘を再び被り、困った様子で微笑む。
……どうやらこれはお断りということ……らしい?
「えっ」
――駄目なの!?
満の返答に家光は驚いて目を丸くした。
自惚れていたわけではないが、家光は多くの男が振り向くような可憐な容姿の持ち主である。
同行者や護衛がいなければ、身の程知らずの男達がわらわらとやって来る男ホイホイとも言える。
過去、声を掛けたそうにしている男達が春日局が付けた護衛によって排除されているのを何度も目撃しているのだ。
とはいえ寄って来るのは男だけではない。徳川の特殊な血に惹かれている部分が多く、女も同様である。
そんな自らの誘いを断られるとは断られるとは思わなかった。
最近自分の容姿も悪くないと思い始めて自信がついて来たというのに、一気に奈落の底へ落とされた気分だ……。
「……っ(……フラれてしまった。人生初逆ナンで速攻フラれるとは――)」
――でもみちるさん、お家にご飯があったらそりゃ断るよね……。
断られてしまったから残念ではあるが、急なお誘いでは仕方ないだろう。人にはそれぞれ予定があるものだ。
……本当のところどういう理由で断られたのかはわからない。
ただ、家光は満が自らが嫌で断ったわけではないと思いたい。
だが、断られた手前どうにも気まずいではないか。
こんな時は笑って「急にお誘いしてすみませんでした」の一言でも云わなければ――そう思うのに二の句が継げなかった。
前世でも逆ナンパなどしたことはない。
前世の千代は痛い女。自らを高嶺の花と過大評価し、いつでも待ちの姿勢でいたのだから。
そんな自らでも誘いたくなったのが満という目の前の男――。
素性は元僧侶ということだけしか知らないが、恐らく優しい男だということは直感的に感じている。
それに見た目がとにかくドタイプ。美し過ぎるからきっとモテるのだろう。
なぜ還俗したのかは不明だが、あのプラチナブロンドが長く伸びれば江戸中で噂になるに違いない。
その噂が出回る前に一度でいいから家光は一緒に食事がしたかった。
この際、あわよくば処女を奪ってもらい……なんて希望は捨ててもいい。
ただ満と一緒に少しでも長い時間を過ごしたい――これに尽きる。
そんな黙り込む家光に満もなぜか黙り込んだまま、澄んだ瞳が左右に揺れている。
……そうして冷たい秋風が二人の間に何度か吹き抜け、互いに暫し沈黙した後で漸く満が口を開いた。
「……千代さんさえ宜しければ、私の家で一緒に食べませんか?」
「ぇっ」
大したおもてなしは出来ませんが――と、満は家光に手を差し出す。
節くれだった長い指の大きな手と、穏やかな優しい瞳が家光を見下ろした。
「私の家はここからそう遠くはありません。お帰りの際はお家へお送り致しますから良かったら」
「え……、えっ? お家にお邪魔しちゃってもい、いいんですか?」
「ええ……、千代さんともう少し一緒に居たいのです」
「えっ」
――ええぇぇええええぇぇえええっっ!?!?
家光がそぅっと満の手に触れると長い指がそれを捉え、しっかりと手を繋がれる。
満の手は大きく力強く、歩き出しても家光の脳内はパニックを起こしたまま。何が何やらわからない内に家光は寺から連れ出されたのだった。
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