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【城下逃亡編】
203 家光、逃亡を図る②
しおりを挟む「いやぁ~、仕事があるってありがたいねぇ」
「そうですね、家光様。こちら先程報告が来まして……」
ある日のこと――大老達との会議を済ませ、家光は正勝と共に自室へ向かっていると中庭に差し掛かる。
中庭の木々がすっかり色付き、ちらほらと葉が散り始めたのを見るに、季節の移り変わりが感じられる。
……家光が微笑むと正勝ははにかみ、今し方会議場を出る際受け取った資料を取り出し手渡した。
「あ、やっと上がって来たのね。ふむふむ。そっか……やっぱり城下で風邪が流行ってたんだね」
家光は立ち止まり正勝から手渡された資料に目を通す。
その資料には江戸で秀忠達と似たような症状の患者が、この数か月の間増えていると記されていた。
「そのようですね。元々禊ぎをこまめにするという防疫対策をしてはいましたが、如何せん感染力が強いようで……、秀忠様方も運悪く患われてしまったようです」
……正勝の報告に家光は資料に目を通しながら黙って耳を傾ける。
感染したのはどこでだろうか……。母である秀忠は倒れる前、暫く城から出ていないはずなのだ。
となると、城内で感染したことになるのだが、城を出入りする人間は多い。この世界では衛生観念も家光の前世には遠く及ばず、感染元の特定ができない。
感染元を特定したとして、もう既に広まっているため自然に収束するのを待つしかなかった。
幸いなことに死者は殆どなく、皆、一月も横になり、しっかり食べていれば快復する程度のもの――。
だが、小さな子どもにも感染するようで、体力のない老人や子どもが何人か亡くなった……と資料には書かれていた。
……国にとって子は宝。
家光は前世での経験からもしかしたらと、病人が出た幼子の居る家庭に食料の配給と、手洗い徹底のお触れ、気休め程度にしかならないがマスク代わりの口と鼻を覆う手拭いの配布を指示しておいた――が、目の前の資料を見るに死者無し……というわけにはいかなかったようだ。
現在、感染者は減り始めており、少しずつ収束している状態である。
「家光様の対応が早かったのか、想定していた死者よりも少なかったそうです。岡本医師に聞いたところ、過去にも似た流行り病があったそうで、その時は餓死者が多く出て酷い有様だったと……」
正勝が言うには以前にも感染症が流行ったらしい。
家光が幼い頃のことだろうか……? いや、家光にそんな記憶はないから家康か秀忠の時代……もしくは前世で言うところの戦国時代のことかもしれない。
今度岡本医師に話を聞いてみるのもいいかと思いつつ、資料を読み終えた家光は正勝にそれを返し、再び廊下を歩き出した。
「この世界じゃ予防接種とかないしね~」
「よぼうせっしゅ……ですか?」
感染症に役立つ予防接種があれば、症状を和らげることができる……が、この世界にそんなものは存在してしない。
……家光が口に出した言葉に正勝は首を傾げた。
「まさかのコロ……アレではないと思うんだけど……。まあ、なんにしても自然治癒力しか頼りにならないからね、食べて寝るしか治す方法がないよね。死者が少なくてよかったよ」
将軍に出来るのは、食料や手拭いを配る程度のもの。
あとは人々の体力次第である。
無償での食料と手拭い配布に難色を示した老中達もいたが、秀忠と江の感染もあってか強く反対する者はおらず、こんな時最高権力者でよかったと家光はつくづく思ったものだ。
まあ、掛かった費用はその殆どが徳川家から出たものだから、秀忠が復帰したら怒られるかもしれないが、民を思えば拳骨くらい受けてやろうじゃないか。
「はい。本当に……」
家光のほっとしたような顔に正勝の表情も綻ぶ。
「ところであれからもう随分経つけど、お母様達もさすがに元気になってるよね?」
「そのはずです。今月の半ばには完全に快復されたとお聞きしました」
「西の丸に出向して約二ヶ月……、福が戻って来ないのはなんで? 私、二ヶ月の間、福の顔全然見てないんだけど?」
――そろそろ福に奥に戻ってもらいたいんだけどな~……。
春日局は未だ西の丸に留まり、奥へと戻って来ていない。
つい先日のことであるが、朝の総触れにて奥の業務がしばしば停滞しているとの報告を受けた。
春日局、彼はあの広い大奥の運営を一手に引き受け回している。
春日局が奥を取り仕切り始めたのは家光が将軍となる以前のことであるが、ある日江が引継ぎもなしに春日局に丸投げしたのだ。
それでも彼は業務を滞らせることなく見事に奥の運営をやってのけ、それまでざっくりとしていた役職の取り決めも細かく選別。
江にお伺いを立て、自らの地位でも出来る範囲で奥のしきたりを改めた。
それにより職場環境は改善。働きやすくなり、奥は人気の職場となった。
その一方で家光には毎日顔を見せ、厳しいが愛のある指導を欠かさない。片手間に座学講授をしていても、奥の運営が停滞することはなかった。
元服前の家光の部屋にまで春日局に意見を訊きに来る者も多かったが、一聞けば十解る彼は直ぐに応えて、毎度三嘆されていた。
彼から座学を受けている間、涼しい瞳と声は変わらなかったが、時折少し上がる口角と、ふっと緩む瞳に家光は“出来る男に褒められた。出来る女私、すごい。”と自画自賛したものである。
『福、私の勉強なんて見なくていいよ? 私の所為で奥の運営が停滞したら申し訳なくて』
……家光は一度、春日局に訊いたことがあるのだ。
自分の座学に付き合わせてしまい、春日局の貴重な時間を奪っているのではないのかと。
春日局の答えはこうだった――。
『何を仰いますか……私が全て取り仕切っているのですよ? 奥が停滞することは万に一つも御座いません』
『わお。すごい自信……!』
……ふっと鼻で笑って冷ややかに見下ろされたものである。
であるから、今まで一度も聞いたことの無かった報告に耳を疑った。
家光が将軍に就いて江戸城に戻った頃から朝の御勤めがあるからか、会わない日は無かったが、お互い多忙のために昼間会うことは少なくなった。
……今は出向中だから朝会うこともない。
こんなに長い間、春日局と顔を合わせていないのは転生してこの方初めてだ。
家光は口煩い養父ながら少し淋しかったが、そんなことより奥のことが気に掛かっていた。
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2023年最後の投稿となります。
今年も一年お付き合い頂きましてありがとうございました。
皆さま良いお年をお迎えください。
応援ありがとうございます!
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