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【新妻編】
200 孝の提案
しおりを挟むしばしの間を置き、孝が口を開く。
「……ふぅむ……、家光の初めての相手が、俺以外の男っつーのは腹立たしいことではあるが……振、昨日の話を詳しく聞かせてもらえないか? あ、協力してやりたいんだ」
「……え? あ……」
孝に訊かれては話すしかない。
別の男との閨事など訊きたくもないだろうに訊ねたのだ、彼は真に協力するつもりなのだろう。
“あまり憶えていません”――などと言い逃れることはできない。
何故ならそもそも昨夜は忘れられない一夜である。
心の臓が高鳴り続け、興奮に幾度も気が遠くなりそうになったが、家光の様子はすべて憶えている。
……艶のある虚ろな瞳、甘さを含んだ声音、陶器のような肌の滑らかさ、豊かな乳房に実る二つの小さな桃色の実、とろとろとしとどに潤う甘い蜜――。
「――と、すごく恥ずかしがっておられて……」
振は恐る恐るながら、事細かに昨夜の事を打ち明けていった。
話を進めていく内、孝の眉間の皺が何度も深く刻まれたが、彼は最後まで黙って聞いていた。
「――…………うわ……、そりゃあいつも恥ずかしいだろうよ……。そういうのはもっと慣れた関係になってからの常套手段なんだがな……」
最後まで聞き取りを終えた孝は口元を手で覆い、何とも言えない表情をしたかと思うと脇息に傾けていた身体を起こし、今度はずいっと上半身を前方に傾ける。
孝の目は鳥でも射抜くように真っ直ぐ振を捉えており、正面に座る振との距離が間近に縮まった。
「え……」
「振、お前天性の才能持ちなのか……?」
「……はい?」
探るように孝が腕組みしつつ、まじまじと見つめてくる。
孝の頬がほんのり赤い気がするが、一体どうしたというのか――。
一体何のことなのだろう……、振は孝の鋭い瞳に気後れするように身を竦ませた。
「……俺からの助言は、不用意に事細かな様子を口にするなってことくらいだな。あとは実践してみればいいんだが――、あ、娼妓……」
身体を元の位置に戻し、孝は腕組みをする。
するとふと何かに思い当たったかのように、口から“娼妓”と漏れ聞こえた。
「え……?(娼妓……?)」
「召喚した娼妓と寝てみるってのはどうだ? 明日来るようだし」
俺は娼妓とは寝ないから譲ってやる――と、孝の表情は良い解決策が見つかったと満悦そうだ。
だが奨められた振の瞳は驚きに見開いていた。
「そっ、それは嫌ですっ! 私は家光さまとしかっ……!!」
「っ――……わかる! 俺も家光以外嫌だ!」
やにわに振が畳を叩くように手を突き音が弾け、前のめりに訴えかける。
いつもゆったりした動作と言動の振らしからぬ行動。孝は一瞬面食らったが口角を上げて同意した。
「っ、では何故そのようなことを……!!」
――私は家光さまにだけしか……!
振の眉が訝し気に歪められる。
まだ側室候補の身分で御台所の前だというのに、ここまで不快感を露わにするのは如何なものか。
身の程知らず……だが、振が家光を心から慕っているのだろうと孝には伝わったようで――。
「ふっ、別に実際に寝なくてもいいんだよ。女の喜ばせ方は女に訊くのが一番だろ?」
微笑ましかったのか、鼻息が漏れた孝の目は細くなり、気付けば振の肩にぽんと手をのせていた。
「へ?」
――それは一体、どういう……?
振はどういうことなのか、理解が及ばず目を瞬かせる。
孝は邪気の無い笑顔を浮かべているではないか――。
“女の喜ばせ方は女に訊くといい”
……その言葉に始めは要領を得なかった振だが、翌日、孝の奨めにより召喚した娼妓と会うことになってしまった。
振は嫌だと抵抗したが御台所の権力は強く、孝に止めてもらうよう懇願している途中で、上臈御年寄の男が戻って来てしまったこともあり、「御台様の命に従えぬとは随分と高貴なお方のようで――云々――上様に抗議文を提出させて――云々かんぬん――」……嫌味のたっぷり込もった長いお喋りの果て、最終的に受け入れざるを得ない状況に陥ってしまう。
上臈御年寄が話す間、孝はうんざり顔で聞いていたのにも関わらず、止める気配はなかった。
孝も家光以外とは嫌だと云い、また振、自らも嫌だと同じ想いを持つ者同士、解り合えると思ったのは早計過ぎたかもしれない。
同情したのは間違いだった。正室と側室が解り合うことなどないのだ……と、後悔に駆られた振だがもう後の祭りである。
その日振は疲れ切った顔で孝の部屋を後にした。
◇
……翌日。
(孝さま、なぜこのような仕打ちを……。私は家光さま以外の女性を抱くなど……。)
朝の総触れが終わり振は、美人の部類に入るが家光とは似ても似つかない、見るからに経験豊富そうな娼妓を前に、真昼間から指定された奥の部屋へと通され、赤い褥に寝衣という格好で座らされていた。
「……(なぜ私はこんな所にいるのでしょうか……)」
孝が協力してくれると云ったのは虚偽だったか……。自らを罠に嵌め、家光との仲を引き裂こうというのか――。
振には家光以外の女と契りを交わすくらいなら、死を選ぶ覚悟がある。それ程に家光を慕っているのだ。
……だが、この今の状況はどう考えてもおかしい。
「……御台さま、振さま、わっちは初寧と申しんす。本日はご召喚頂き誠に有難うござりんす」
「初寧か。へえ、江戸の遊女は初めて見たな」
振が座る褥を挟み、下座で恭しく頭を垂れる娼妓の初寧と、上座で寛ぐように胡坐を掻く孝が挨拶を交わしていた。
……初寧、彼女は美しく妖艶、装いは明るく艶やかで、家光に懸想していなければ惚れる者も多い、男受けをする美貌の持ち主だ。
この奥に何度か召喚されている娼妓で、奥に住まう男達の癒しの存在であり、愛好者が多くいるという玄人である。
だが、彼女は振の好みではない。
「……(孝さまは何故ここに……、やはり初寧さんと……?)」
……振は黙って二人の様子を窺う。
孝を見やれば初寧を物珍しそうに眺め、口角を上げている。
昨日は「俺は娼妓なんて――」と、不機嫌に吐き捨てていた孝の顔とはまるで正反対だ。初寧に好意的な気さえする。
一目見て気でも変わったというのか……、彼女に対する印象は悪くなさそうだ。
では初寧はといえば、顔を上げると目の前の振、そして部屋の奥、上座に座る孝と交互に視線を移して困惑したように眉を下げていた。
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