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【新妻編】
199 振、吐露する
しおりを挟む「はーい、上臈御年寄さま! ……では、僕は失礼します」
男に返事をする夏の表情は爽やかで、明るい声だけ部屋に残し、襖は閉じられた。
上臈御年寄の男が消えた途端、部屋には静寂が訪れる。この部屋はこんなに静かだっただろうかと疑う程だ。
「……ふぅ……騒がしくて悪いな」
閉じられた襖を一瞥し、孝の視線が振に移る。
「い、いえ……」
「俺は娼妓なんて呼んでないからな」
振が頭を左右に動かすと孝の不機嫌な一声、その顔は苦虫を噛み潰したよう……。
奥で娼妓を召喚する制度があるということは振も知ってはいるが、まだ申請したことはない。
振も男だから解るが、禁欲はそう長く続けられるものではない。
数日もすれば夢精してしまうから定期的に発散はさせているのだ。
人によって発散のさせ方は様々……娼妓の召喚もその内の一つ。
正室が娼妓を召喚してはいけないという決まりはないし、孝が召喚したとして家光から許可も出ているよう(?)だし、振が何か言える立場でもない。
「あ……はぁ……」
……振はむっとした顔の孝に軽く目礼をした。
「こほんっ! ……さて、家光を喜ばせるって話だったな。……確認だが、お前が未経験ってことは、家光もまだ……ってことだよな?」
「あ…………はい」
仕切り直しだとばかりに孝が再び話を戻してくる。
振の未経験が発覚した今、家光もまだ未経験だということが露呈してしまった。
……孝の表情は穏やかで、何だか嬉しそうだ。
嘲笑おうとでもいうのか――、何を言われるのか分からない振は微苦笑しながら首を縦に下ろす。
ところが振の思っていたことは起こらず、次の瞬間、柔和な顔だった孝は脇息に肘を掛け額を抱えるようにして悲し気に目を伏せていた。
「っ……ったく、なんだって正室がいるってのに側室の男が孕ませるんだよなー。政略結婚っつーのはやなもんだな……はぁー……」
「御台さま……」
孝の口から零れる溜息は深く、その表情は暗い。
……憂い顔の孝、彼が家光を想っていることがわかってしまい、振は同情してしまった。
「……俺のことは御台所ではなく、孝と呼んでくれ。俺は正室だが、家光の前じゃただの男だ。お前もそうじゃないのか? 同じ女を慕う者同士、名前で呼び合ってもいいだろ」
「みだ……孝さま……」
――孝さまは……悪い方ではないのかもしれませんね……。
上臈御年寄が居た時には解り辛かったが、孝は正室だというのに偉ぶることなく気さくに接してくれている。
目の前の彼の表情は演技しているようには見えない。
まだ全面的に信用は出来ないが、多少は信用しても良いのかもしれない。
……孝の自身の名を呼んでくれという言葉に、振は望まれるままに返していた。
「振、お前自信がないのか?」
「あ……お恥ずかしながら……、その……勉強不足でして……。高貴なお方に身を捧げる立場なれど、そちらの作法が身についておらず……」
不意に話題を戻され、素直な振は素のままに答えてしまう。
実は奥にいる男達は殆どの者が経験済みなのだ……というのも家光相手に粗相を働かない為の嗜みである。
家光が初物好きであれば残念だが、拙い愛撫で家光がその気にならなければ夜伽が成立しない。
嫌だと言われればそこで終了――ここは大奥、完全に家光優位の男の園なのだ。
「ふーん、なるほど。側室候補の癖に、女の抱き方を知らないとはなー。俺は家でそう教育されてたけど、春日局は何もしなかったということか……(俺とは随分待遇が違うんだな……)」
振の答えに孝は頬杖を突きながら視線を天井に向ける。
正室の自分は経験済みなのに、振はなぜ未経験なのか――。
……上臈御年寄の情報によれば振は二十歳だと聞いている。
既に成人し、奥に勤め始めたのは一年程前で、その頃から水面下で側室候補にとの話はあったらしい。とっくの昔に経験していてもおかしくはないはずだが、彼は未経験……。
春日局が意図的にそうしたのだろうと勘ぐってしまう。
孝は鷹司家で好きでも何でもない女を何人も宛がわれ、経験させられ、淡い恋だってしたこともあるというのに実を結ぶことはなく、ただただ女を喜ばせる技能だけ身に付け、輿入れしたというのにその技能が無駄に終わるとは……。
自らも未経験であったなら、初夜で家光の気持ちをもう少し汲み取って仲良くできたかもしれないのに……なんて、今更過ぎて溜息も出ない。
「はい……、お局さまは書物を読み込む様にと仰られただけで、他は特に……」
振に与えられた書物は現代風に言うなれば、性教育本である。
どうすれば子を成せるか……前戯と挿入、後戯に妊娠、出産――といった一連の流れをざっと纏めたもの。
真面目な振は何度もそれを読み込み昨夜に挑んだ。
……身体の弱い振はそこまで性欲が強くない。
だが家光と仲が良く、彼女を慕い、彼女も受け入れられそうな相手といえば振しかいなかった。
本来なら経験豊富な側室候補が良かったのだが、何せ家光優位の大奥……嫌と言われたら無理強いはできない。そうなると年を跨ぎ、世継ぎの誕生が大幅に遅れることは必至――。
初めての相手としては些か不安だが、当の家光が中々に手強いため致し方無く、振に白羽の矢が立ったというわけだ。
……そんな春日局の意図など振が知るわけがなかった。
「……まあ、経験は無くても抱けるっちゃ抱けるだろうけど、すんなりいくとは限らんからなぁ……」
「っ……お、お恥ずかしい限りで……」
振の話に孝が呆れたような目を向けてくる。
振は頬を赤く染め恐縮するように頭を垂れた。
……自らが経験者であったなら、家光に不安を抱かせずに今頃は――。そう思わずにいられない。
「まあ、そんな縮こまんなくていいって。誰にだって初めてはあるんだし、最初から上手くいくとは限らんから(経験者でも失敗したしなー……)」
「……孝さま……」
孝が頬杖を突いたままではあるが、穏やかに目を細め頷いた。
……その表情に嘲る様子は感じられない。
先程言っていた“同じ女を慕う者同士――”という孝の言葉が振の脳裏に過ぎる。
「……三日後だっけ、御渡り」
「あ、はい。ですが、家光さまもまだご不安な様子で三日後も上手くいくかは……」
三日後に再びの御渡り――。
振は恥を忍んで不安を吐露し俯くと畳の目を数え始めた。
こんな事を正室に相談するのは如何なものか――、とはいえ彼は笑うことなく静かに聞いてくれている。
……何か考えでもあるのだろうか。畳の目を数える振には理解が及ばず、孝が口を開くのを待つことにした。
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