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【新妻編】
137 振と共に
しおりを挟む「……家光様……」
春日局の眉根が僅かに寄せられ、訝し気に家光を見つめる。
「ははっ、大丈夫よ、福。正勝のことは歳の近い兄くらいにしか思ってないからさ!」
正勝はこれから妻を娶って出世していく。命が懸かった非常事態ならば恐らく助けてくれたはずだ。
徳川に対して決して背いたりしない忠臣となる存在で。
それが徳川にとっても良いことなのである。
――けどなんでかな。ちょっと悲しかったんだよね……。
家光は口を歪めたまま段々と頭を垂れてしまった。
すると、春日局が家光の手を引いて抱き寄せる。
「っ!? ふ、福……?」
「…………家光様…………あれ如きに御心を乱す必要は御座いません。あんな者よりもっと貴女には相応しい御方がおります」
家光の耳元に春日局の低音が沁み込んで来る。
その声は優しいが掛かる吐息が少し熱く感じて、家光の身体が びくりと反応してしまった。
「っ……福っ、は、放して……! ……ぁ」
家光は困惑して春日局から逃れるように手を突っ撥ねる。
と、春日局は腕の力を弱めて直ぐに解放してくれた。
……その代わりに両手を取り、そっと手を繋ぐ。
「…………この先、貴女がどうしても辛い時が来たのなら、どうぞ私にご相談下さい。貴女の衝動を治めることも吝かでは御座いません」
「しょ、衝動……?(な、何それ……?)」
衝動って何ぞや? と家光は瞳を瞬かせるが、春日局は優し気な瞳で自分を見つめるだけ。
「……どうぞ、そのことをお忘れなきよう……」
“さあ、そろそろ皆が起きる時間です。後のことはお任せ下さい。”
春日局は最後にそう告げて、手をきゅっきゅっと上下に軽く揺らし、珍しく優しい笑顔で家光を部屋から送り出したのだった。
◇
そして、二週間後の今……。
家光は振が来るのを待っていた。
「……衝動って何だろな……??(はて……?)」
二週間前、春日局が云っていた“衝動”が何かなど、今の家光には知る由もない。
秀忠が旅先でそれに駆られて一夜の恋をしていたわけだが、秀忠は江にベタ惚れな為、まさか母がそんなことをしていた……などと家光は露程にも思っていないのである。
やがて家光の身にも訪れるであろう身体の疼きに、春日局は対処してやると云っていたわけだが、彼女がその言葉の意味を理解するまでには至らなかったようだ。
……正確には以前後水尾天皇の話を聞いて知っているはずなのだが、ここでもまさか養父である春日局が そんなことに対処するなどと家光が気付くはずもなかった。
そうして ぼんやり考えていると、とんとんと、襖を叩く音がする。
『……お呼びでしょうか、家光さま。振です』
「あ、振ちゃん、来た? 今出るね!」
振の声が聞こえて家光は立ち上がって襖に向かう。
戸を開くと、振が廊下で恭しく座礼していた。
「顔を上げて? お母様に呼ばれたの。振ちゃん、一緒に行ってくれない?」
「私で宜しいので……? あの、正か……」
「うん、勿論よ!」
振が正勝の名を告げようとすると、家光は被せる様にして顔を上げた振の腕を掴む。
「では、僭越ながら私がご案内致します」
「ありがとう!」
振は立ち上がると、手を差し出す。
家光は満面の笑みでその手を取って、繋いだ。
彼は男なのにも関わらず、男を感じさせない雰囲気を持ち合わせていて、家光は振といると同性と居るようで気が楽なのである。
正勝とぎくしゃくしてからは 事あるごとに振とばかり過ごしていた。
……振は後に側室候補となるのだが、今はまだ互いにそのことを知らない。
「ところで、振ちゃん場所は知ってる? 私聞いて無くて」
「はい。正勝さまより場所は富士見櫓だと伺っております。早速参りましょう」
「富士見櫓か……結構遠いな。うん、道案内宜しく!」
――富士見って付くくらいだから、富士山が見えるよね……用事が済んだら見て帰ろ……。
江戸城には幾つか櫓があるが、家光は過去その総てに社会見学とばかりに見に行ったことはあるものの、中に入ったことは無かった。
何せ座学の合間、逃亡中の出来事である。各櫓には錠が掛かっていたり、見張りが居たりと入れる隙などない。
見つかれば連れ戻されてしまうため、幼い家光はこっそり眺めるだけで観光気分を味わっていたのだった。
その中でも富士見櫓は正面側面、背面……どの面から見ても同じように見える、八方正面の櫓とも呼ばれる美しい三重の櫓である。
この櫓からは富士の山だけでなく、江戸湾、転生前の世界でいう所の秩父の山々や筑波山などを望めることが出来た。
家康や秀忠が時折この櫓にのぼっては両国の花火や品川の海を眺めたりしていたらしいが、家光はまだ中に入ったことが無い。
今回秀忠が何の用なのかは知らないが、景色を眺めるのが楽しみな家光だった。
◇
……振と手を繋ぎ、中奥を抜けて行く。
中奥生活はまだ慣れておらず迷うこと必至だった家光だが、振に任せておけば問題ないだろう。
家光はこの二週間で随分振と仲良くなった。湯殿に行くついでに中奥の案内をして貰ったこともある(まだ中奥内を憶えきれてはいない)。
振は家光が言うことをいつも快く受け止めてくれていた。穏やかな笑みに常に優しい眼差しと、癒し系の振……。
彼について行けば無事 富士見櫓へと辿り着くはずだと、家光は振に任せきりで彼に連れられるまま、歩みを進めていた。
(こういう時、道を憶えなくてもいいって将軍様様ね……)
振の手に引かれるまま、家光は周りをきょろきょろ。
庭の前を通れば、庭に咲いた花を眺め。
見知らぬ部屋が目に入れば、それをちらり。
中奥内を憶えるつもりなどない。
案内は振にお任せである。
振を信用し過ぎているというより、すっかり手懐けられている気がもするが、大丈夫なのだろうか。
とはいえ、振は悪い人間ではない。
「家光さま、今日は良いお天気ですね」
ふと、振は外に面した廊下を歩きながら空を見上げると家光に穏やかな笑みを向ける。
「そうね。こんな日は城下でお散歩したくなっちゃうな」
家光も振に倣って空を見上げた。
昨日は雨が降っていたのだが、今日は見事な晴天である。
雲一つない青い空に、久しぶりに城下に下りたくなった家光だった。
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富士見櫓(ふじみやぐら):
今も現存する高さ約16メートルの三重の櫓。八方正面の櫓とも呼ばれる。後に明暦の大火で天守閣と共に焼失するものの、この物語は消失前で家光が没するため出て来ません……。
気になった方は検索してみてください。
私はいつか見学に行ってみたいです。
応援ありがとうございます!
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