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【上洛の旅・旅情編】
041 父親対決の勝者
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――隣の旅籠に着くと、二人は手を離して暖簾を潜る。
すると、そこには旅支度をする江の姿が目に入った。
いつもの雅な着物姿ではなく、旅人のような軽装をしている。
「あれ……お、父様……?」
辺りを見回すが、秀忠の姿も春日局の姿も見えない。
「ああ、家光おはよう。お前は今日も可愛いな」
江が珍しく家光に優しく笑い掛ける。
その笑みは妖艶で美しく、かつての江を思わせ、家光はつい見蕩れてしまうのだった。
「っ、おはようございます、お父様にそう言われると何か照れます……」
恭しく一礼してから、家光は照れたように頬を掻いた。
「あれ? もう出立ですか? 私まだ朝餉を戴いていなくて……」
そういえば、江の格好が旅人のそれだなと気付いて、疑問を抱く。
「ああ、私は……」
江が説明しようとすると、廊下から春日局が小走りで駆け寄ってきて眉を寄せた。
「……家光様? どこにいらっしゃったんですか、先に出たのにいらっしゃらないから朝餉が終わってしまいましたよ。秀忠様もすぐ来られます」
春日局が履物を履いて土間に下りると、家光が近寄って袖を引っ張り眼光鋭く見上げてくる。
「なぬぅ!? お腹減ってるのに!!」
「なぬぅとは、なんですか! 直ぐ隣に来るのにどれだけ時間が掛かるんですか! 一体何をなされてたんですか!」
「何って、ナニですよ! 何してたっていいでしょう!?」
(正勝が時折しつこいのは福に似たんだな!!)
ちびっこ家光が背の高い春日局に負けじと唾を飛ばし合うのを見ながら、後ろに控えていた風鳥は思う。
(いやいや、それ言うなよ……)
額に手を宛ててふぅとため息を吐くのだった。
「ぷっ……くくくっ、これは愉快、はははっ!!」
二人の言い争いにその内江が吹き出す。
「へ?」
「ん?」
睨み合っていた二人が江に視線を移すと、江が心の底から楽しそうに笑う姿が目に入ってきた。
「お父様……?」
「お江与の方様……?」
視線を移すその二人の動きが同時に行われ、それを見てさらに江は声を出して笑う。
「くくくっ、お前達親子は良く似ているな、どちらも同じ顔で言い合っている、はははっ、これは面白いっ!」
「そんなことっ!」
(顔なんて全然似てないよー!! 私あんな冷たい目できないし!!)
家光は春日局の冷淡な視線を思い出して否定し、
「……そ、そのようなことは……」
(秀忠様と私は何も関係は……)
春日局は江にまた後ろ暗く考えて欲しくなくて口を開くものの、
「良い、そういう意味で言ったのではない。お前達は良き絆で結ばれているようだと思っただけのこと」
江は晴れやかな笑顔でそう告げるのだった。
「え?」
その様子に春日局も家光も不思議に顔を見合わせる。
「……私も私で、家光との絆を作りに行こうと思う。な、春日局?」
「え?」
江が春日局を横目でちらりと見やり窺うと、家光は何のことかわからず目を瞬くが、春日局はそのアイコンタクトを受け取り、頭を下げるのだった。
「……はい、道中どうか御気を付け下さいませ」
「ああ、久しぶりの旅だ。私もたまには自分で歩いてみるよ、短い距離だが各地の名産品でも見ながら戻るとしよう」
江はそう話しながら、家光の元へと歩み寄って行く。
「お父様……もしかして、城にお戻りに?」
家光は江が江戸に戻ることに気が付いて、近寄る江にそれを訊ねていた。
「……家光、道中くれぐれも気を付けるんだよ。もちろん、春日局にも。ああ、それから他の男共にもな、お前は可愛い、周りは獣ばかりと思え、いいな?」
家光の頭に手をそっと乗せて優しく撫でながら耳打ちすると、春日局と風鳥に一瞥を投げてから家光と目を合わせ微笑んだのだった。
「へ? あ、は、はい……」
家光はさっきの風鳥とのことがもしやばれているのかと思い、僅かに照れくさそうに目を泳がせたが、春日局と風鳥も同様に気まずそうに二人から視線を外す。
――それから江は数人のお供と共に一足先に旅籠を出るのだった。
「江、気を付けてな。私も直ぐに戻る。孝の件頼んだぞ」
あれから直ぐに秀忠が朝餉を終えて江の見送りに旅籠の外へと出ると、江を見上げ頬に触れながら優しく微笑んでいた。
「はい、秀忠様も道中御気を付けください。無事のご帰還をお待ち申し上げております。それから……」
「ああ、色んな土産を持ち帰るから楽しみにしていてくれ」
秀忠が花が綻ぶような笑顔を見せると、江も秀忠に応えるようにまだ結っていない秀忠の髪を愛おしそうに撫で穏やかな表情で眺めていた。
「はい、秀忠様……」
そうして、そっと秀忠の肩に腕を回すと、自分の方へと引き寄せ抱きしめる。
「ご、江、こら、皆の前だと言うのに」
秀忠は恥ずかしいのか江の胸に埋まりながら、耳まで赤く染め上げ抵抗するようにじたばたし始めたものの、江がしっかり腕の中に閉じ込めていたためそれを解くことはできなかった。
「……少しだけ……」
甘えたような声と息が秀忠の耳朶を擽る。
「む……しょうがない奴め……」
観念したのか秀忠も江を抱きしめ返して、江の少し白髪混じりの長い髪を引っ張って顔を寄せさせると、江もそれを合図か何かのように感じて二人は口付けを交し合った。
「……おぉ……公衆の面前でしちゃうんだ……すごいな」
「……コホンッ……お二人は本当に仲睦まじく……」
見送りの列に並ぶ家光と春日局は二人の姿に少々恥ずかしさを覚えて見てはいけないなと視線を逸らすと、互いに逸らした方向が向かい合う格好となってしまう。
「……」
(私、昨日は春日局とキスしたんだよね……何度も。春日局の唇、気持ち良かったな……もっとしたい……って何言ってんの私!? 春日局なんてセクハラおじさんじゃないっ!)
(家光様の唇……柔らかくて甘かった……、い、いや、私は家光様の養育係としてっ。そもそも、家光様はまだ子供ではないか)
二人は無言で視線を絡ませると互いに唇へと意識が集中し、直ぐに反対側へと目線を移したのだった。
風鳥とのキスなどすっかり忘れている。
「……ま、正勝はどうしたのよ」
胸の内がざわざわとざわめくのを押さえながら、家光は春日局を見ないままに話を振る。
「そろそろ戻るかと……」
(ん? 家光様の様子がおかしい?)
春日局は振り返って自分を見ない家光の横顔を眺めながら答えた。
「はっ……はぁっ、お、お待たせしましたっ!!」
ちょっとすみません、通してください、と見送る人々の間を縫って正勝が何やら両手で抱えれる程度の大きさの木箱を一つと、その上に手の中に納まる小さな布袋を二つ持って現れる。
「あ、正勝!」
「丁度良かった。良く間に合ったな」
家光がいち早く正勝がこちらに寄ってくるのに気付いて声を掛けると、春日局も珍しくやんわりと微笑んで正勝の頭を乱暴に撫でた。
「……はぁっ、遅くなりました。一軒今日はお休みだったようで、開けてもらうまでに時間が掛かってしまいました」
家光の足元、持っていた荷物を地面に下ろしながら正勝は木箱の上の袋を一つ手に取ると、春日局に渡す。
「うむ、確かに」
春日局は即座に中身を確認し、それをまだラブラブ中の二人に近付いて咳払いを一つしてから我に返って慌てふためいたお江与の方に手渡す。
「……これは?」
江は春日局から布袋を受け取ると、中から蓋に花の絵柄が描かれた美麗な陶器で出来た小さな丸い箱が現れ、その中には表面が凸凹した角を持つ丸い砂糖菓子が入っていたのだった。
「秀忠様からの贈り物です。道中疲れたら食べるようにと」
春日局は目礼し、説明をする。
「金平糖だよ、甘いものを食べると元気になるからな。私のもあの中に入っている」
家光の側に置いてある大きな木箱を指差して秀忠が江に微笑み掛けると、江の目が潤んでくるのだった。
「ありがとうございます、秀忠様っ!!」
「あっ、だ、だから皆が居るというのに!!」
ぎゅうっと強く抱きすくめられて、秀忠は再び江の胸に埋まるのである。
「……え……これ、もしかして全部お菓子なの……」
家光が足元の木箱をちらりと見下ろし辟易した。
(将軍のお菓子のために朝餉も食べずに走らされるなんて……可哀想な正勝……にしても、正勝って意外と筋肉あるよね……)
重たかったのだろう、腕まくりをし、額に汗しながら戻ってきた正勝を見ながら乙の言葉を心で念じる家光であった。
その際に、正勝の上腕二頭筋をちらりと見て、引き締まったいい筋肉だなぁとつい見蕩れてしまう。
「はい、詰め合わせです。あと、こちらは家光様に」
家光の熱い(?)眼差しに気付くことなく、正勝は木箱の上に残った布袋を家光に差し出した。
「え? 私にも金平糖?」
別に要らないけど……と、思いながら家光は正勝の手元の袋を眺める。
「ああ、いえ、こちらはお薬です。頭の痛みと、お腹の痛みと、軟膏等等……春日局様が家光様は未だ御身体が弱いのではと、心配なされているようです」
正勝が袋の紐を緩め、中を家光に見せると、家光はぴんと来て、
「ああ、救急セットね」
(そういや、小さい頃はよくお腹壊したり、熱出したり、怪我したりしたもんね……今は元気だけど)
幼少時の自分が身体を壊すたびに慌てていた春日局の姿が家光の脳裏を過ぎる。
「きゅうきゅうせっと?」
「えっと、お薬の詰め合わせみたいなもの。怪我したり具合が悪くなったら救急セットでとりあえず応急処置できるでしょ?」
と、正勝に説明をするのだった。
「なるほど」
正勝は家光に頷きつつ、思う。
(そういえば家光様普通に話して下さってるな……先程のこと、もうお怒りではないのだろうか……)
「後で飲んでおこうかな」
「あ、はい、頭痛がするんでしたね」
「正勝は平気?」
家光は一歩正勝に近付いて覗き込むように見上げる。
「あ、は、はい」
正勝は本当はまだ頭痛がするものの、急に近付いた家光に脈が強く波打ち何でもないと告げるのだった。
「そっか。ならいいんだけど」
家光はそう言うと正勝から離れ、秀忠と江の抱擁が終わるのを見守った。
(家光様……怒ってない。それよりも私を気遣って下さった……家光様……今日も、なんて可愛いくお美しいのでしょうか)
隣に立つ家光をぼうっと眺め、頭痛なんてどこへやら。
正勝は秀忠と江を見守り僅かに赤面している家光の横顔を見つめる。
「……早く終わんないかな……この間に朝餉食べたいよ……ね、正勝?」
「っ……あっ、そ、そうですね」
突然家光が口元に手を添えて正勝に身体を傾けてこっそりと話すと、正勝ははっとして相槌を打つ。
「あ、終わった。もー、二人共長過ぎ……今生の別れってわけじゃないんだから」
しばらくして、二人の抱擁が終わると、ぶーっと頬を膨らまして家光が抗議の声を上げた。
「っ、家光。まー、そう言うな。私と江は仲良しなのだからしょうがないだろう?」
「そうだよ家光、お前も僅かの別れが切なく哀しくなるくらいの相手と出会えばきっとわかる」
二人は抱擁を終えたものの、手を繋いでぶーたれる家光に向けてそれぞれ反論する。
「……そういう相手が居なくてすいませんね……」
反論された家光は益々不機嫌な声を上げたのだった。
(どうせ私は好きでもない男と結婚させられるし、集められた男から側室選んで子供産むだけですよー。
そこに私の意思なんてないんだよーだ!
まぁ、相手がイケメンだっていうのはわかってるからいいけどさ~)
家光は風鳥から言われた側室のことを思い出し自暴自棄になっているようである。
「大丈夫、お前にもきっと出会えるさ」
「ああ」
家光が地面の小石を蹴りながらいじけていると、江が近付いて、家光の頭を撫でて安心させるように宥める。
その後ろで秀忠が頷いていた。
「……お父様、お母様……」
その後、江は秀忠から何やら耳打ちされて了承するように頷くと、一足早く出立したのだった。
「さっき、何を言われたんですか?」
江達一行に手を振りながら、隣に佇む秀忠に春日局は尋ねる。
「ん? ああ、江の黒髪がもう一度見たかったのでな。染料剤を勧めたのだ」
「それはそれは……」
江の白髪は確かに正室としては相応しくないと思っていた春日局が、秀忠の答えに頷く。
「以前は気を付けていたようだが、最近は自分に構うことすらしてなかったようだしな……、また元気になってくれれば私は嬉しい」
「お江与の方様の御髪は江戸一番ですからね」
「そうなのだ、あの漆黒の艶髪はそうはないからなぁ。私はあれが好きでな。家光も恐らくそう思っているはず」
秀忠が小さくなっていく江の姿をじっと優しく見つめながら言う隣で、春日局が納得したように息を漏らす。
「……ああ、道理で」
「ん?」
秀忠は春日局に訊ねるも興味がないのか江が見えなくなると、自分の駕籠へと向かうのだった。
「いえ……」
春日局は自分の長い髪を一房掴んで眺める。
(家光様が長い髪がお好きなのはお江与の方様の影響だったのだな……)
家光が幼少期に自分に髪を伸ばして欲しいと頼まれた記憶が蘇る。
それは江と疎遠になった頃からだった気がする、と春日局はやはり親子の縁というものは切れないものなのだと痛感するのだった。
(……お江与の方様、どうやら私の負けのようですよ。私は本当の父親には成れなかったようです)
本当の父親対決で完敗したことに気付き悔しいと思いつつ、どこかほっとする春日局だった。
すると、そこには旅支度をする江の姿が目に入った。
いつもの雅な着物姿ではなく、旅人のような軽装をしている。
「あれ……お、父様……?」
辺りを見回すが、秀忠の姿も春日局の姿も見えない。
「ああ、家光おはよう。お前は今日も可愛いな」
江が珍しく家光に優しく笑い掛ける。
その笑みは妖艶で美しく、かつての江を思わせ、家光はつい見蕩れてしまうのだった。
「っ、おはようございます、お父様にそう言われると何か照れます……」
恭しく一礼してから、家光は照れたように頬を掻いた。
「あれ? もう出立ですか? 私まだ朝餉を戴いていなくて……」
そういえば、江の格好が旅人のそれだなと気付いて、疑問を抱く。
「ああ、私は……」
江が説明しようとすると、廊下から春日局が小走りで駆け寄ってきて眉を寄せた。
「……家光様? どこにいらっしゃったんですか、先に出たのにいらっしゃらないから朝餉が終わってしまいましたよ。秀忠様もすぐ来られます」
春日局が履物を履いて土間に下りると、家光が近寄って袖を引っ張り眼光鋭く見上げてくる。
「なぬぅ!? お腹減ってるのに!!」
「なぬぅとは、なんですか! 直ぐ隣に来るのにどれだけ時間が掛かるんですか! 一体何をなされてたんですか!」
「何って、ナニですよ! 何してたっていいでしょう!?」
(正勝が時折しつこいのは福に似たんだな!!)
ちびっこ家光が背の高い春日局に負けじと唾を飛ばし合うのを見ながら、後ろに控えていた風鳥は思う。
(いやいや、それ言うなよ……)
額に手を宛ててふぅとため息を吐くのだった。
「ぷっ……くくくっ、これは愉快、はははっ!!」
二人の言い争いにその内江が吹き出す。
「へ?」
「ん?」
睨み合っていた二人が江に視線を移すと、江が心の底から楽しそうに笑う姿が目に入ってきた。
「お父様……?」
「お江与の方様……?」
視線を移すその二人の動きが同時に行われ、それを見てさらに江は声を出して笑う。
「くくくっ、お前達親子は良く似ているな、どちらも同じ顔で言い合っている、はははっ、これは面白いっ!」
「そんなことっ!」
(顔なんて全然似てないよー!! 私あんな冷たい目できないし!!)
家光は春日局の冷淡な視線を思い出して否定し、
「……そ、そのようなことは……」
(秀忠様と私は何も関係は……)
春日局は江にまた後ろ暗く考えて欲しくなくて口を開くものの、
「良い、そういう意味で言ったのではない。お前達は良き絆で結ばれているようだと思っただけのこと」
江は晴れやかな笑顔でそう告げるのだった。
「え?」
その様子に春日局も家光も不思議に顔を見合わせる。
「……私も私で、家光との絆を作りに行こうと思う。な、春日局?」
「え?」
江が春日局を横目でちらりと見やり窺うと、家光は何のことかわからず目を瞬くが、春日局はそのアイコンタクトを受け取り、頭を下げるのだった。
「……はい、道中どうか御気を付け下さいませ」
「ああ、久しぶりの旅だ。私もたまには自分で歩いてみるよ、短い距離だが各地の名産品でも見ながら戻るとしよう」
江はそう話しながら、家光の元へと歩み寄って行く。
「お父様……もしかして、城にお戻りに?」
家光は江が江戸に戻ることに気が付いて、近寄る江にそれを訊ねていた。
「……家光、道中くれぐれも気を付けるんだよ。もちろん、春日局にも。ああ、それから他の男共にもな、お前は可愛い、周りは獣ばかりと思え、いいな?」
家光の頭に手をそっと乗せて優しく撫でながら耳打ちすると、春日局と風鳥に一瞥を投げてから家光と目を合わせ微笑んだのだった。
「へ? あ、は、はい……」
家光はさっきの風鳥とのことがもしやばれているのかと思い、僅かに照れくさそうに目を泳がせたが、春日局と風鳥も同様に気まずそうに二人から視線を外す。
――それから江は数人のお供と共に一足先に旅籠を出るのだった。
「江、気を付けてな。私も直ぐに戻る。孝の件頼んだぞ」
あれから直ぐに秀忠が朝餉を終えて江の見送りに旅籠の外へと出ると、江を見上げ頬に触れながら優しく微笑んでいた。
「はい、秀忠様も道中御気を付けください。無事のご帰還をお待ち申し上げております。それから……」
「ああ、色んな土産を持ち帰るから楽しみにしていてくれ」
秀忠が花が綻ぶような笑顔を見せると、江も秀忠に応えるようにまだ結っていない秀忠の髪を愛おしそうに撫で穏やかな表情で眺めていた。
「はい、秀忠様……」
そうして、そっと秀忠の肩に腕を回すと、自分の方へと引き寄せ抱きしめる。
「ご、江、こら、皆の前だと言うのに」
秀忠は恥ずかしいのか江の胸に埋まりながら、耳まで赤く染め上げ抵抗するようにじたばたし始めたものの、江がしっかり腕の中に閉じ込めていたためそれを解くことはできなかった。
「……少しだけ……」
甘えたような声と息が秀忠の耳朶を擽る。
「む……しょうがない奴め……」
観念したのか秀忠も江を抱きしめ返して、江の少し白髪混じりの長い髪を引っ張って顔を寄せさせると、江もそれを合図か何かのように感じて二人は口付けを交し合った。
「……おぉ……公衆の面前でしちゃうんだ……すごいな」
「……コホンッ……お二人は本当に仲睦まじく……」
見送りの列に並ぶ家光と春日局は二人の姿に少々恥ずかしさを覚えて見てはいけないなと視線を逸らすと、互いに逸らした方向が向かい合う格好となってしまう。
「……」
(私、昨日は春日局とキスしたんだよね……何度も。春日局の唇、気持ち良かったな……もっとしたい……って何言ってんの私!? 春日局なんてセクハラおじさんじゃないっ!)
(家光様の唇……柔らかくて甘かった……、い、いや、私は家光様の養育係としてっ。そもそも、家光様はまだ子供ではないか)
二人は無言で視線を絡ませると互いに唇へと意識が集中し、直ぐに反対側へと目線を移したのだった。
風鳥とのキスなどすっかり忘れている。
「……ま、正勝はどうしたのよ」
胸の内がざわざわとざわめくのを押さえながら、家光は春日局を見ないままに話を振る。
「そろそろ戻るかと……」
(ん? 家光様の様子がおかしい?)
春日局は振り返って自分を見ない家光の横顔を眺めながら答えた。
「はっ……はぁっ、お、お待たせしましたっ!!」
ちょっとすみません、通してください、と見送る人々の間を縫って正勝が何やら両手で抱えれる程度の大きさの木箱を一つと、その上に手の中に納まる小さな布袋を二つ持って現れる。
「あ、正勝!」
「丁度良かった。良く間に合ったな」
家光がいち早く正勝がこちらに寄ってくるのに気付いて声を掛けると、春日局も珍しくやんわりと微笑んで正勝の頭を乱暴に撫でた。
「……はぁっ、遅くなりました。一軒今日はお休みだったようで、開けてもらうまでに時間が掛かってしまいました」
家光の足元、持っていた荷物を地面に下ろしながら正勝は木箱の上の袋を一つ手に取ると、春日局に渡す。
「うむ、確かに」
春日局は即座に中身を確認し、それをまだラブラブ中の二人に近付いて咳払いを一つしてから我に返って慌てふためいたお江与の方に手渡す。
「……これは?」
江は春日局から布袋を受け取ると、中から蓋に花の絵柄が描かれた美麗な陶器で出来た小さな丸い箱が現れ、その中には表面が凸凹した角を持つ丸い砂糖菓子が入っていたのだった。
「秀忠様からの贈り物です。道中疲れたら食べるようにと」
春日局は目礼し、説明をする。
「金平糖だよ、甘いものを食べると元気になるからな。私のもあの中に入っている」
家光の側に置いてある大きな木箱を指差して秀忠が江に微笑み掛けると、江の目が潤んでくるのだった。
「ありがとうございます、秀忠様っ!!」
「あっ、だ、だから皆が居るというのに!!」
ぎゅうっと強く抱きすくめられて、秀忠は再び江の胸に埋まるのである。
「……え……これ、もしかして全部お菓子なの……」
家光が足元の木箱をちらりと見下ろし辟易した。
(将軍のお菓子のために朝餉も食べずに走らされるなんて……可哀想な正勝……にしても、正勝って意外と筋肉あるよね……)
重たかったのだろう、腕まくりをし、額に汗しながら戻ってきた正勝を見ながら乙の言葉を心で念じる家光であった。
その際に、正勝の上腕二頭筋をちらりと見て、引き締まったいい筋肉だなぁとつい見蕩れてしまう。
「はい、詰め合わせです。あと、こちらは家光様に」
家光の熱い(?)眼差しに気付くことなく、正勝は木箱の上に残った布袋を家光に差し出した。
「え? 私にも金平糖?」
別に要らないけど……と、思いながら家光は正勝の手元の袋を眺める。
「ああ、いえ、こちらはお薬です。頭の痛みと、お腹の痛みと、軟膏等等……春日局様が家光様は未だ御身体が弱いのではと、心配なされているようです」
正勝が袋の紐を緩め、中を家光に見せると、家光はぴんと来て、
「ああ、救急セットね」
(そういや、小さい頃はよくお腹壊したり、熱出したり、怪我したりしたもんね……今は元気だけど)
幼少時の自分が身体を壊すたびに慌てていた春日局の姿が家光の脳裏を過ぎる。
「きゅうきゅうせっと?」
「えっと、お薬の詰め合わせみたいなもの。怪我したり具合が悪くなったら救急セットでとりあえず応急処置できるでしょ?」
と、正勝に説明をするのだった。
「なるほど」
正勝は家光に頷きつつ、思う。
(そういえば家光様普通に話して下さってるな……先程のこと、もうお怒りではないのだろうか……)
「後で飲んでおこうかな」
「あ、はい、頭痛がするんでしたね」
「正勝は平気?」
家光は一歩正勝に近付いて覗き込むように見上げる。
「あ、は、はい」
正勝は本当はまだ頭痛がするものの、急に近付いた家光に脈が強く波打ち何でもないと告げるのだった。
「そっか。ならいいんだけど」
家光はそう言うと正勝から離れ、秀忠と江の抱擁が終わるのを見守った。
(家光様……怒ってない。それよりも私を気遣って下さった……家光様……今日も、なんて可愛いくお美しいのでしょうか)
隣に立つ家光をぼうっと眺め、頭痛なんてどこへやら。
正勝は秀忠と江を見守り僅かに赤面している家光の横顔を見つめる。
「……早く終わんないかな……この間に朝餉食べたいよ……ね、正勝?」
「っ……あっ、そ、そうですね」
突然家光が口元に手を添えて正勝に身体を傾けてこっそりと話すと、正勝ははっとして相槌を打つ。
「あ、終わった。もー、二人共長過ぎ……今生の別れってわけじゃないんだから」
しばらくして、二人の抱擁が終わると、ぶーっと頬を膨らまして家光が抗議の声を上げた。
「っ、家光。まー、そう言うな。私と江は仲良しなのだからしょうがないだろう?」
「そうだよ家光、お前も僅かの別れが切なく哀しくなるくらいの相手と出会えばきっとわかる」
二人は抱擁を終えたものの、手を繋いでぶーたれる家光に向けてそれぞれ反論する。
「……そういう相手が居なくてすいませんね……」
反論された家光は益々不機嫌な声を上げたのだった。
(どうせ私は好きでもない男と結婚させられるし、集められた男から側室選んで子供産むだけですよー。
そこに私の意思なんてないんだよーだ!
まぁ、相手がイケメンだっていうのはわかってるからいいけどさ~)
家光は風鳥から言われた側室のことを思い出し自暴自棄になっているようである。
「大丈夫、お前にもきっと出会えるさ」
「ああ」
家光が地面の小石を蹴りながらいじけていると、江が近付いて、家光の頭を撫でて安心させるように宥める。
その後ろで秀忠が頷いていた。
「……お父様、お母様……」
その後、江は秀忠から何やら耳打ちされて了承するように頷くと、一足早く出立したのだった。
「さっき、何を言われたんですか?」
江達一行に手を振りながら、隣に佇む秀忠に春日局は尋ねる。
「ん? ああ、江の黒髪がもう一度見たかったのでな。染料剤を勧めたのだ」
「それはそれは……」
江の白髪は確かに正室としては相応しくないと思っていた春日局が、秀忠の答えに頷く。
「以前は気を付けていたようだが、最近は自分に構うことすらしてなかったようだしな……、また元気になってくれれば私は嬉しい」
「お江与の方様の御髪は江戸一番ですからね」
「そうなのだ、あの漆黒の艶髪はそうはないからなぁ。私はあれが好きでな。家光も恐らくそう思っているはず」
秀忠が小さくなっていく江の姿をじっと優しく見つめながら言う隣で、春日局が納得したように息を漏らす。
「……ああ、道理で」
「ん?」
秀忠は春日局に訊ねるも興味がないのか江が見えなくなると、自分の駕籠へと向かうのだった。
「いえ……」
春日局は自分の長い髪を一房掴んで眺める。
(家光様が長い髪がお好きなのはお江与の方様の影響だったのだな……)
家光が幼少期に自分に髪を伸ばして欲しいと頼まれた記憶が蘇る。
それは江と疎遠になった頃からだった気がする、と春日局はやはり親子の縁というものは切れないものなのだと痛感するのだった。
(……お江与の方様、どうやら私の負けのようですよ。私は本当の父親には成れなかったようです)
本当の父親対決で完敗したことに気付き悔しいと思いつつ、どこかほっとする春日局だった。
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