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第44話 全部……ぶち壊してやる!
しおりを挟む「うっ、いっでぇ……!」
ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。
腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。
たちまち渦巻き模様の底から迸る殺気にさらされた。
「退け。お前らに用はない」
〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。
それがふいに不自然な軌道に曲がった。
ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。
先端の短剣が風を斬って唸る!
「こいつ……ッ!」
それを見てラーナは確信した。
〈呪痕〉もちだ。
ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣が火花とともに弾き飛ばされた。
「……!」
それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかった。
「……」
〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ、剣の太刀筋を殺した。
すると三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。
そして腕を打ち振った。
はね上がったロープが息を吹き返した。
短剣は螺旋を描きながら、冒険者の背中を襲う!
ウェイグは真横に飛んだ。
二の腕が浅く裂けた。
が、目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かう。
「何故、邪魔をする?」
ところが、ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。
「お前こそ、なんで襲う!」
弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。
短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。
「魔獣だからだ」
「は?」
意味が解らなかった。
しかし背筋が凍りついた。
途轍もなく嫌な予感だけがした。
ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。
「あれ……?」
そこにハガーの姿はなかった。
〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥で舌を鳴らした。
「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」
「どういうことだ?」
今度はウェイグが問うた。
〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。
「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」
そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を打ち振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。
ウェイグがとび出す。左手にスティレットを抜き、突いた!
その時、ロープの表面がビクンと脈打った。
〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がり、スティレットは虚空を穿った。
ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。
その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。
「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」
くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。
不安をかきたてる螺旋の双眸で。
「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」
そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。
「待てッ!」
その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、
「あっ……」
たちまち全身から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。
「な、なんで……ッ!」
ラーナは笑う膝を殴りつけた。
早くハガーを捜さなければ。
〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。
「立て、立ってよ……ッ!」
焦燥が頭のなかを炙る。
しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの許に差しこんだ希望を黒く染め上げ、迷わせる。
『あの男は魔獣だ』
あり得ない。あり得るはずがない。
魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。
それなのに。
水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。
ハガーは何故――。
あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?
治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?
本当に野盗に襲われたのか?
気を失った際に現れた、額の変色は?
「大丈夫ですか……?」
疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。
ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。
「ケガは?」
「ない」
「それはよかった」
ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。
「よくない……」
「そういう意味では、あの、すみません……」
狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。
ラーナは額を押さえた。
「いや……ごめん。行かなくちゃ」
手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグが慌てて腰を浮かした。
「ちょ、待ってください!」
「なに?」
「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」
ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。
「関係ない」
ラーナは首を振った。
「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」
「ボクは死なない」
「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」
「うるさい! ボクは……!」
子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。
「おっと! とにかく大人しくしてください」
受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。
改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿したままの冷たい不安を際立たせた。
「う、うぇう……」
ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出した。
涸れたのだと思っていた。
裏切りの痛みを知った、あの時に。
けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。
「どう、しよう……!」
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日一緒に捜しましょう」
ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。
ラーナは濡れた顔で見上げた。
「一緒に、捜してっ、くれるの?」
ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。
「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」
ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。
本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。
夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。
けれど、力が湧いてこない。
夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。
その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。
ハガーの事は信じているつもりでも。
時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。
「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」
ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。
まだ、まだだ。
まだ独りではない。
そう思うと、無駄な力は抜けていった。
ハガーさん、死なないで……。
そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。
自分以外の誰かのために希うのは、もういつ以来かわからなかった。
あるいは、初めての経験なのかもしれなかった。
――
ドサ、ドサ。
足音が聞こえる。
赤いあかい土の上だった。
ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。
「死にたく、ねぇ……」
傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。ドサと土を踏みしめる音は胸に絡みつく。
まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音のように思えて。怖い。
無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。
ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。
ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。
ドサ、ドササ。
足音は追ってくる。いつまでも。
決して近くも遠くもならず。
いつまでも背中にぴったりとはり付いている。
「なんでオレが、こんな目に……!」
さらに足を速める。音は遠くならない。
見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。
どこへ向かってるんだ、俺は?
わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。
否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。
「うわっ!」
張りだした木の根に足をとられた。
惨めに土を舐めたら泣けてきた。
足音がやんだ。
追いつかれたのか?
振り返ることはできなかった。
恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。
「……エルマ」
共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。
それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。
だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。
「こんな事になるくらいなら……」
あいつの傍にいてやればよかった……。
引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。
帰りたい。
胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。
狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。
人の道もそうだったのだと気付く。
しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。
ビョウ!
その時、風を斬る音がして。
「ッ!」
反射的に土の上を転がっていた。
視界の端で、短剣がザクと土を抉った。
腹の底で、恐怖が拳を突きあげた。
地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。
前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。
頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。
突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。
影は瞬く間に、死角へ。
と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来する!
「クソぉ……!」
涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。
「ぐあぁ!」
跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。
ドサ。
背後に殺意が凝った。
〈ウズマキ〉が下りてきた。
死にたくない、とハガーは言った。
当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。
そしてこうも言った。
「これは慈悲だ」
と惻隠《そくいん》に。
「今度こそ》楽にしてやる」
と頑なに。
〈ウズマキ〉のロープが螺旋を描いた。
風が哀しげに唸りをあげた。
ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。
腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。
たちまち渦巻き模様の底から迸る殺気にさらされた。
「退け。お前らに用はない」
〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。
それがふいに不自然な軌道に曲がった。
ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。
先端の短剣が風を斬って唸る!
「こいつ……ッ!」
それを見てラーナは確信した。
〈呪痕〉もちだ。
ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣が火花とともに弾き飛ばされた。
「……!」
それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかった。
「……」
〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ、剣の太刀筋を殺した。
すると三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。
そして腕を打ち振った。
はね上がったロープが息を吹き返した。
短剣は螺旋を描きながら、冒険者の背中を襲う!
ウェイグは真横に飛んだ。
二の腕が浅く裂けた。
が、目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かう。
「何故、邪魔をする?」
ところが、ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。
「お前こそ、なんで襲う!」
弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。
短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。
「魔獣だからだ」
「は?」
意味が解らなかった。
しかし背筋が凍りついた。
途轍もなく嫌な予感だけがした。
ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。
「あれ……?」
そこにハガーの姿はなかった。
〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥で舌を鳴らした。
「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」
「どういうことだ?」
今度はウェイグが問うた。
〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。
「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」
そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を打ち振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。
ウェイグがとび出す。左手にスティレットを抜き、突いた!
その時、ロープの表面がビクンと脈打った。
〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がり、スティレットは虚空を穿った。
ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。
その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。
「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」
くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。
不安をかきたてる螺旋の双眸で。
「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」
そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。
「待てッ!」
その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、
「あっ……」
たちまち全身から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。
「な、なんで……ッ!」
ラーナは笑う膝を殴りつけた。
早くハガーを捜さなければ。
〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。
「立て、立ってよ……ッ!」
焦燥が頭のなかを炙る。
しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの許に差しこんだ希望を黒く染め上げ、迷わせる。
『あの男は魔獣だ』
あり得ない。あり得るはずがない。
魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。
それなのに。
水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。
ハガーは何故――。
あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?
治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?
本当に野盗に襲われたのか?
気を失った際に現れた、額の変色は?
「大丈夫ですか……?」
疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。
ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。
「ケガは?」
「ない」
「それはよかった」
ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。
「よくない……」
「そういう意味では、あの、すみません……」
狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。
ラーナは額を押さえた。
「いや……ごめん。行かなくちゃ」
手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグが慌てて腰を浮かした。
「ちょ、待ってください!」
「なに?」
「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」
ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。
「関係ない」
ラーナは首を振った。
「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」
「ボクは死なない」
「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」
「うるさい! ボクは……!」
子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。
「おっと! とにかく大人しくしてください」
受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。
改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿したままの冷たい不安を際立たせた。
「う、うぇう……」
ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出した。
涸れたのだと思っていた。
裏切りの痛みを知った、あの時に。
けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。
「どう、しよう……!」
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日一緒に捜しましょう」
ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。
ラーナは濡れた顔で見上げた。
「一緒に、捜してっ、くれるの?」
ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。
「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」
ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。
本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。
夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。
けれど、力が湧いてこない。
夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。
その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。
ハガーの事は信じているつもりでも。
時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。
「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」
ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。
まだ、まだだ。
まだ独りではない。
そう思うと、無駄な力は抜けていった。
ハガーさん、死なないで……。
そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。
自分以外の誰かのために希うのは、もういつ以来かわからなかった。
あるいは、初めての経験なのかもしれなかった。
――
ドサ、ドサ。
足音が聞こえる。
赤いあかい土の上だった。
ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。
「死にたく、ねぇ……」
傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。ドサと土を踏みしめる音は胸に絡みつく。
まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音のように思えて。怖い。
無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。
ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。
ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。
ドサ、ドササ。
足音は追ってくる。いつまでも。
決して近くも遠くもならず。
いつまでも背中にぴったりとはり付いている。
「なんでオレが、こんな目に……!」
さらに足を速める。音は遠くならない。
見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。
どこへ向かってるんだ、俺は?
わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。
否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。
「うわっ!」
張りだした木の根に足をとられた。
惨めに土を舐めたら泣けてきた。
足音がやんだ。
追いつかれたのか?
振り返ることはできなかった。
恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。
「……エルマ」
共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。
それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。
だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。
「こんな事になるくらいなら……」
あいつの傍にいてやればよかった……。
引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。
帰りたい。
胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。
狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。
人の道もそうだったのだと気付く。
しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。
ビョウ!
その時、風を斬る音がして。
「ッ!」
反射的に土の上を転がっていた。
視界の端で、短剣がザクと土を抉った。
腹の底で、恐怖が拳を突きあげた。
地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。
前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。
頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。
突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。
影は瞬く間に、死角へ。
と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来する!
「クソぉ……!」
涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。
「ぐあぁ!」
跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。
ドサ。
背後に殺意が凝った。
〈ウズマキ〉が下りてきた。
死にたくない、とハガーは言った。
当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。
そしてこうも言った。
「これは慈悲だ」
と惻隠《そくいん》に。
「今度こそ》楽にしてやる」
と頑なに。
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クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。
クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。
「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」
「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」
「ファンティーヌが」
「ファンティーヌが」
だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。
「私のことはお気になさらず」
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