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十八話 柔らかく熱い
しおりを挟むパーティーを無事に終えて真っ先に自室へと向かう。ドレスを脱ぐのも、髪を解くのも後だ。人々の目は悪意から好意へと変わっていた。それでも妖精という存在と近づきたい欲に満ちていて居心地のいいものではなかった。
だからこそ自室へ急ぐ。会いたい、と思う。今、誰よりも彼に会いたい。
自室の扉を開く。部屋の明かりは消えたまま、月明かりだけが差し込む窓際にティタニアスは立っていた。夜の闇に溶けそうな濃紺の髪を揺らして振り返った彼の、輝く炎にも似た明るい瞳だけが強く浮かび上がる。
「オフィリア。……羽の輝きがくすんでいるな。大丈夫か?」
「……ええ、少し疲れただけ」
妖精の疲れは羽に表れるのだろうか。そうだとすれば隠せるものでもないので疲労感を肯定した。窓際に立つティタニアスの元へゆっくり歩み寄る。月明かりだけでも充分に顔が見える距離まで。
「ねぇ、ニアの瞳が見たいわ。いいかしら」
「……これは貴女だけのものだ。好きなだけ見ればいい」
ゆらり、ゆらりと揺らめく炎のような輝きを見つめる。同時に私はその瞳に見つめられている。その燃え盛るような熱に、心の中のわだかまりが熔かされるようで、ふっと体が軽くなった。いつの間にか全身が強張っていたようだ。
欲をぶつけられるのは苦手だと、今日のパーティーでそれを再確認した。けれど、ティタニアスのそれは不快ではない。その理由は私も同じものを彼に持っているからなのだろう。
(センブルク殿下の目は本当に苦手。……私は目の前にいるのに、見えていないような)
彼の瞳にあるのは、対等な相手に向ける感情ではない。ティタニアスは私を宝石のようだ、とは言うが本当に宝石だとは思っていないだろう。私の意思を尊重しようとする、私個人を想う気持ちを常に感じる。感情のこもったそれはとても温かい目だ。
しかしセンブルクが私を見る目は――ガラス玉のようだ。私の感情など考慮されてはいない。婚約解消後に「はぐれ妖精姫」と名付けられてから色々とあったというのに、何故私が彼のダンスを受けると思うのか。……何かがおかしくなってしまっているのではないかとすら、思ってしまう。
「……手を借りてもいいかしら」
「ああ。……冷たいな」
「ええ。もうすぐ冬だもの」
体温の高いティタニアスの手を取ってその温もりを分けてもらう。冬が近づいて夜は冷えるようになってきた。背中の開いたドレスで冷やされて寒い、と言いたいところだがそれだけではない。やはり緊張や疲労があって体温が下がっているのだろう。
「俺にできることはないか?」
「そうね。……抱きしめて、温めてくれたら嬉しいかしら」
冗談交じりではあるが、割と本気で。今は抱き締めてほしいという気持ちが強かった。けれどきっと、彼にとっては「まだ早い」だろう。そう思いながら見上げたティタニアスの瞳の炎はひと際強く揺らめいて、私を見つめ返す。
「分かった」
その予想外の返答を理解するのには時間が必要だった。私が理解するよりも先に、熱いと感じる程の熱が私の体を包んだのだ。
羽に触れないように腰と首に当てられた手が私の体を優しく引き寄せる。頬に当たるティタニアスの胸から聞こえてくる心音が激しい鼓動を刻んでいた。いや、けれど、私自身の心臓も似たようなものか。どちらのものかよく分からない。
「……痛くはないか?」
「……いいえ、全く。優しすぎるくらいよ」
やわらかい毛布にでも包まれている気分だ。冷えた体に熱が戻っていくのは彼の高い体温が移っているのかそれとも、私自身の熱が上がっているのか。……おそらくその両方だろう。だって、先程まで冷えていたのに今はもう耳の先まで熱くて仕方がない。
「耳が赤いな」
「……言われなくても分かっているわ。貴方だって尻尾が赤いはずよ」
今は彼の体で見えないが先程から床や脚を叩いて音を立てているその尻尾だって赤いに違いないのだ。笑い声を漏らすように「そうだな」と肯定したティタニアスがふっと無言になったため、その顔を見上げる。
「どうしたの?」
「……オフィリア、変なことを言うが……俺は今、貴女に唇で触れたいと思っている」
ドッと変な音を立てたのは彼の尾ではなく私の心臓だった。これ以上熱くなんてならないと思っていたのに今まで以上に顔が熱くなる。とてもティタニアスの口から出そうにない発言が聞こえた。
唇で触れたいとはつまり、キスをしたいと言われている。抱きしめるのに三年は必要と言っていた彼が三か月ほどの時間をかけて今抱き締めてくれたわけだが、それがいきなりキスをしたがるのは流石に予想を飛び越えていた。
「ま……いえ、ちょっと待って。ニア、貴方……私とキスがしたい、ということよね?」
まるで彼の口癖のように「まだ早い」と言いそうになったがなんとか堪える。私がまだ早いなんて言えばきっとこれは十年くらい先に延びてしまいそうだ。しかしこの動揺も本物なのでまずは確認しなければと、その言葉の真意を尋ねた。
「きす? ……これはキスと言うのか?」
「まさか、知らないで言い出したの?」
「ああ。少し前からそうしたいと思うようになっておかしいと感じていたが……そうか、そういう行為があるのか」
ティタニアスはどうやらキスの存在自体を知らなかったようだ。愛しい相手に口づけたいと思うのは自然なことだろうけれど、それは知っているから起こる欲求だと思っていた。知らなくてもそうしたくなるならこれは本能的に愛情を示す行為なのかもしれない。
「……家族にもする愛情表現だから、おかしな行為ではないわ」
「そうなのか。……よかった。自分がおかしくなってしまったのではないかと少し不安だった。これは貴女の家族でも普通にしているものなんだな」
家族に対するそれと恋人に対するそれは意味合いが違ってくるのだが。ティタニアスの安心したように笑う顔を見ると心臓が跳ねて、言葉が出てこなくなってしまった。
「俺もオフィリアにしていいことだろうか?」
「……恋人ならするものだと、思うから……いい、けれど」
「そうか」
手を握るのにも抱きしめるのにも時間が掛かったのにこちらはいいのかと、それはふしだらではないのかと、頭の中に言葉が巡る。嫌ではない。嫌なはずはないがしかし、心がまだ受け入れる覚悟をしていない。
ティタニアスの長い髪が月光を遮り影が掛かる。間近に見ると力強い輝く瞳が印象的な、驚くほど整った顔だ。思わず目を瞑ってその時を待った。少しして瞼に柔らかいものが触れ、離れていったことに少し驚きながら目を開ける。
「この体なら唇は柔らかいからな。貴女を傷つける心配がなくていい」
「……そう。それは、よかったわ……」
恋人同士なのだから口づけとなれば当然唇にするものだと思って覚悟したのだが、そういえば彼はそういった常識を全く知らないのだったと思い直した。安心したような、少し残念なような、妙な気持ちになる。心臓の鼓動も全く落ち着かないままだ。
「他の場所にもいいだろうか」
「……構わないけれど……」
「そうか」
彼の唇が額、髪、耳の先と触れて離れていく。とても満足そうに笑む顔とその感情を表す尻尾の音を聞きながら、とんでもない竜がいたものだと心の中で呟いた。
ティタニアスが私に触れることをためらうのはその強い力で傷つけたくないという思いが強いから。そしてゆっくりと距離を詰めようとするのは私が驚いて逃げないようにするためだと思う。正しい距離が分からない、と彼は言った。だからいままで慎重に、順序を守って触れられる範囲を増やしてきたのだろう。決して傷つけないように、どの程度の力なら私が傷つかないか、怯えないか測りながら。
その彼にとって唇で触れることはきっと、手で触れるより、抱きしめるより簡単なことなのだ。キスの意味を知らないからこそ、体の柔らかい部分で触れれば傷つけることはないという理由でその愛情表現を選んでいる。私からすれば一気に距離を縮める行為だけれど彼にはその自覚がない。
(……私が家族にもすることだと言ったからね、きっと……)
エスコートを教えた時に家族でもやることだと、それは何も特別な行為ではないのだと教えた。そして先程、私はキスも家族にするものだと教えてしまったのだ。ティタニアスにとってキスという行為はおそらく、エスコートと同程度のものという認識になってしまったのだろう。いや、むしろそれよりも易いのかもしれない。……決して傷つけない、という安心感があるから。
「そういえば先程からオフィリアの心音が激しくて少し心配だ。……嫌がられてはいないと……思っているのだが」
「……貴方が好きだからこうなってるのよ」
「……ん……そうか。それなら嬉しい」
いままでティタニアスをからかって、驚かせて、翻弄するのは私だった。それは風の妖精としての本能で、彼をいい意味で慌てふためかせたいという欲求があったからだ。しかしここで今までのすべてをひっくり返されてしまったような気分でなんだか、納得がいかない。
ただ嬉しそうに微笑んでその自覚がないところがさらに納得できない。きっとこれも悪戯好きな風の妖精の性質なのだろう。……驚かされたままでは終われない。
(でも今日はもう無理……頭も心も、余裕がないわ)
何かを悩んでいたような、思いつめたような気持ちだったはずなのにもうすべて頭から抜けてしまった。もう何も考えられない。今できることはただ、暴れ狂う心臓をなだめるために深く呼吸するくらいだ。
「ニア。……次は覚悟しておいてね」
「……何の覚悟だ?」
「そうね。……心臓が飛び出る覚悟かしら?」
いつかの彼の冗談を思い出してそう言ったのだが、ティタニアスは心底真面目な顔で頷いて「分かった」と答えた。
……こういうところが、彼が彼たる所以だろうか。その日はティタニアスと別れるまでずっと心臓も体の熱も落ち着くことはなかった。
その翌日。ジファール家には様々な手紙や招待状、贈り物が続々と届いた。私が妖精であったことが知れ渡り、我が家との繋がりを求める貴族たちから心のこもった賄賂である。
王家からも大量に贈り物があった。宝石から装飾品や珍しい外国の品などと共に第二王子の非礼を詫び、謹慎処分を下したという内容の分厚い手紙もあった。……果たしてその非礼がパーティーでのことなのか、これまでの全てにあたるのかは分からないが。
そんな品々の中でも目立っていたのは私一人では抱えられそうにないほど大きな、紫の花束だった。ジファール家ではなく私宛に届いたものである。それを見たルディスがふと、何かに気づき花束の中へと手を差し入れた。
「姉上、メッセージカードが中に隠されていますよ。私たちの愛は枯れていない、センブ……よし、この花日当たりのいい場所に置いてきますね。すぐ枯らしましょう」
「ルディス、花に罪はないのよ。……けれど、何故なのかしら。妖精の恋人がいることは公表したはずよね」
「姉上が自分に惚れ込んでいると思いあがっているのが透けて見える文章ですよ。そうでなければ妖精崩れにとりつかれて正気を失っています」
「……ルディス。いくら苦手な方でも妄想で貶めてはいけないわ」
しかしいったいどういうつもりなのだろう。昨日の夜の衝撃ですっかり忘れていた紫の瞳を思い出し、花束を前にため息を吐いた。
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