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23話 森の王の子
しおりを挟む黒鹿はつぶらな瞳でじっと私を見つめている。親と似たように立派な角を持っているが、森の王を前にした時の威圧感とは違い、どこか温かみというか親しみを感じるような、柔らかい空気を纏った精霊だ。
この精霊が出てきたことで、馬の精霊も安心したのか『ああよかった、森に戻る時には呼んでくれ』と言い残してさっそうと牧草地へと走り出した。……うっ憤がたまっていたのかもしれない。
『笑い声の彼は急に取り込んでおいて、急に放り出すんだから……あ、はじめまして!』
「ええと……ウルベルト様、挨拶をされています。こちらも……」
『ああ、大丈夫。僕は人間の声も聞こえるよ』
黒鹿の返事に驚いた。いままで人間の声が聞こえる精霊などいなかったからだ。
もしかするとこの精霊の母親が人間である、という話が関係しているのだろうか。人と精霊の間に生まれ、他の精霊よりも人間に近しいのだろう。感じる親しみやすさのような空気もそのせいかもしれない。
『……でも、僕の声はそっちの彼には聞こえないかな?』
「ウルベルト様、この精霊には人間の声が聞こえるようです。……でも、声は精霊のものでしょうか」
『驚いた。……私には聞こえないが……お前なら会話ができるだろう。話を任せるので、あとで詳細を頼む』
「ええ、分かりました。……私たちが森へと必ず送り届けます。ですがその前に、少し話を聞かせていただいてもいいでしょうか?」
『うん、いいよ。人間と話すのなんて久しぶりで嬉しいな。……あ、僕のことはゼリスと呼んでよ』
どうやらこの精霊には名前があるらしい。ゼリスと名乗った黒鹿は、人間のようににっこりと笑って話に応じてくれた。
むしろ積極的に何があったかを話してくれたため、私は相打ちをしながらその話を聞く。人間と話し慣れているのか、ゼリスの話は他の精霊と比べてとても分かりやすい。
『僕は人間の声が聞こえるとついつい近寄っちゃうんだけど、それでおびき出されてね。知ってる顔だったし油断しちゃって、身動き取れないように呪いをかけられてさ』
「それは……申し訳ございません」
『君が謝ることじゃないよ。人間はたくさんいて、罪はそれぞれ、種全体のものじゃない。……そうだ。名前教えてくれる? 人間には名前があるでしょう?』
「私はメルアンと申します。そしてこちらはウルベルト様です」
『そっか、メルアンだね』
相手は人間ではないためあえて家名は名乗らなかった。彼らには苗字の概念がないだろうと考えたからだ。
そして名前を聞いたゼリスはニコニコと嬉しそうに笑いながら頷いたが、何故かウルベルトの名前は口にしなかった。……なんだか、彼はウルベルトに対して妙に冷たいような。
「ゼリス様、犯人は見知った顔だとおっしゃっていましたが……」
『うん。昔はあの人間がよく森に来てたんだよ。えーと、たしか……前の前の王の奥さんだね』
「前の前の王の奥さんというのは……先々代の王妃、ですか……?」
はっきりと断言された犯人は先々代の王妃。ウルベルトの祖母に当たる人物だ。隣をちらりと見ると彼は沈痛な面持ちで目を閉じ、軽く唇を噛んでいた。驚いていないということは彼の予想していた人物と合致したのだろう。
『……先代の王は、精霊によって行方不明になった。いまだ遺体も見つかっていない。おばあ様は……息子を奪った精霊を恨んでおられる』
「……それは……」
先代の王は突然の病で崩御したと知らされていたが、実際は精霊のしわざだったようだ。精霊と共存してきたアリテイル王国の根底を揺るがしかねない話である。その情報は隠されて当然だろう。
そして笑い声の精に兄を攫われたウルベルトがひどく狼狽えたのも、また仕方のないことだったのだと納得する。……むしろあの程度ですんでいたのは、充分冷静であったと褒められるくらいだ。
『……犯人は分かった。この精霊を森まで送り届け、森の王の怒りを解かなくてはな。人間側の処罰はそのあとだ』
「……はい」
『ああ、父さまやっぱり怒ったんだ。……僕が謝るの手伝ってあげようか?』
森の王は子供を無事に帰せば許す、とは言っていなかった。『考える』と言ったのである。彼を説得できるかどうかは不安だったが、被害者でもある子供が口添えしてくれるなら成功率は高くなるだろう。
しかしゼリスは一方的な被害者だ。犯人が先王のことで精霊を恨んでいたとしても、彼自身が先王を害した訳ではない。もっと怒ってもいいはずなのに、怒るどころかキラキラと輝くようなつぶらな瞳で見つめられて、私はなんだか申し訳なくなった。
「よろしいのですか……?」
『なんだ、どうした?』
「ゼリス様が謝罪に口添えをしてくださるとおっしゃっていて……こちらとしては非常に助かりますが……」
『うん、いいよ。その代わりメルアン、君は僕の友達になってよ』
代わりに友達になって。そう言われて驚いた。精霊と友人関係になるなんて考えたこともなかったからだ。
彼らは同じ土地に住む隣人だが、親しくなろうと考えたことはない。だって、彼らとは基本的に会話が成り立たないから。ウルベルトがいなければ、私だって会話は不可能だ。……そこまで考えて、気づいた。
『僕は人間の声が聞こえるけど、人間には僕の声が聞こえない。でもメルアンは僕の声が聞こえる! 実は母さまと話ができた頃を思い出せて、すごく懐かしいんだ。これからも話したいからさ』
「……分かりました、私でよろしければお友達にしてください」
『やった! じゃあメルアン、君も僕のことをもっと親しく呼んでね。これからお友達としてよろしくね!』
「ええ、ゼリス。よろしくお願いします」
ゼリスは嬉しそうに鼻先を私の頬にくっつけた。精霊からこんな親愛の表現を受けたのは初めてで、どこかくすぐったい気持ちになる。
ここまでのやり取りを無言で見守っていたウルベルトは、腕を組みながらそんなゼリスを見下ろしていた。
『おい、友達と言っていたがそれは本当に友としての態度か?』
『さあメルアン、父さまのところに戻ろう。さっきの子が送ってくれるって言ってたよね、呼んでくるね』
ウルベルトの声も聞こえているはずだが、綺麗に聞き流したゼリスは車庫を出て馬の精霊を呼びに行った。どうも彼はウルベルトを無視する傾向にあるのが気になるところだ。
「ウルベルト様、ゼリスに何かしましたか?」
『……私も森へと祭事に赴いたことがある。お前に会う前のことで……その、私は口が悪かったからな。それを聞いていたのかもしれない』
「それは……仕方ないですね……」
彼と出会った当初の私と同じように、ゼリスもウルベルトへの印象が悪いのかもしれない。それは共に過ごしながら理解していくしかないだろう。
私がウルベルトを理解できたように、ゼリスもそのうちウルベルトを理解してくれるかもしれない。人間と友人になりたいと思う精霊なのだから、友人が一人から二人に増えるなら悪くないはずだ。
『連れてきたよ! さあ、帰ろう!』
こうして無邪気な王の子供と共に、再びルクシアの森へと向かった。……残る問題は、精霊王の怒りのみ、だと思っていたが――。
(……何故か空気が重いわ……)
馬車の中、座っている私の膝に顔を乗せて甘えるゼリスと、そんな彼を鋭く冷たい目で睨むウルベルト。二人の会話を取り持とうと努力したが、なかなかうまくいかないまま馬車は森へと到着した。……この二者の関係もそれなりに問題のような気がする。
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