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2.5話 届かぬ声

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 ウルベルトは生まれた時、産声をあげなかった。否、正確には大きな口を開けて泣いているのに誰にもその声が聞こえなかった。しかし大人たちが首を傾げる中、城中から精霊たちが集まってきたという。……そう、ウルベルトの声は精霊にだけ聞こえるものだったのだ。
 他人には聞こえていないが、ウルベルト自身には不思議と耳のうちに響いて聞こえている。それは擦れてひび割れた酷い音なのに、精霊たちはこの声を好んでいるらしい。何となく呟いたウルベルトの願いを聞いて、勝手に叶えてくれることもしばしばあった。


『茶が冷めたな……もっと温かいと美味いんだが』


 その呟きを拾った赤い精霊が、カップの淵にぴたりとその小さな体を寄せた。赤い体色をしているのは熱を司る者であることが多い。その精霊が茶器から離れ、茶菓子として出されているクッキーのかけらを持って飛び去っていった後、一口飲んでみれば適温に温められていた。

(精霊に聞こえていたとしても、あちらの声が私には聞こえないのだから会話はできん。そこに居るだけの存在だ)

 一方的に伝えるばかりで、会話にならないのだから交渉にもならない。彼らはたまたま要望の呟きを拾って勝手に叶えて、手頃な報酬を持っていく。ウルベルトにとって精霊との関係はその程度のものだ。
 人間の中で暮らしているのに、他の人間に声が聞こえない。己の耳のうちだけで響く掠れて醜い声がどれほど孤独を煽るのか、他人には理解できないだろう。……精霊に聞こえる声よりも普通に誰とでも会話のできる声が欲しかった。

(文字を覚えるまではまともに意思の疎通もできなかったからな。……今でも不便だ)

 カップの底に残った赤茶の液体に映る自分をぼんやりと眺めながら、ウルベルトは過去を思い起こした。

 誰にも届かぬ声を張り上げて、誰かが応えてくれないかと泣いた幼き自分。精霊たちが遠巻きに様子を見に来るだけで、人は誰もその悲鳴には気づかない。
 言葉遣いを叱られる兄を見て、強い言葉を使えば誰かが注意をしてくれるのではないかと思いついた。出会う人間すべてを罵倒してみるも、相手は曖昧に笑うばかりで意味はなかった。反応してくれるまで言葉を変えていたら、誰かを罵る語彙ばかりが増えていく。しかしそれを注意してくれる相手は現れないまま時間だけが過ぎていった。
 その頃の癖が抜けず、今でもつい挨拶代わりに悪態ばかりを吐いてしまう。……いつか、誰かがそれに反応してくれるかもしれないと今でも思っているのだろうか。

(精霊の声を聞ける者なら私の声も聞こえそうだが。……ああ、でも……今居るものはすべて偽物だったな)

 貴族の半数は精霊を見ることができる。しかし声を聞くとなれば話は別だ。その才能は希少だからこそ、偽る者も多い。毎年のように「聞こえる」と言い出す者は現れるが、すべて詐欺だと判断されている。
 近々開かれる婚約者探しの社交パーティーにも、そのうちの一人が招待されていた。ウルベルトとしてはとても腹立たしい存在だ。……本当に聞こえる者がいるなら、この声に応えてほしい。その望みが強いからこそ、騙る人間が気に食わない。


「我が弟よ、どうしたんだい? 気分がすぐれないかな?」

『兄上……ノックくらいしたらどうなんだ。弟の部屋とはいえ許可なく踏み入るとは、横暴な王と呼ばれても知らんぞ』

「ふむ、それは文句を言っている顔だな。婚約者の件が不服かい?」

『……まあそれも不服だが……』


 兄であり、この国の王であるヴォルトはノックもなしに部屋に入ってきた。ここは王城ではあるが、この部屋はウルベルトに与えられた自室なのだ。ノックぐらいするべきだろう。
 そんな不満を読み取ることなくヴォルトはウルベルトの向かい側の椅子に勝手に腰を下ろした。兄は言葉までは分からないにせよ、ウルベルトの感情くらいは察せるので文字での会話でなくてもそれなりに意思の疎通ができる存在だ。……さすがに細かな考えまでは伝わらないので、ずれることもよくあるし結局筆談になることも多い。

(兄上以外とは文字がなければ意思の疎通もできやしない。この声は王族として欠陥品でしかないな)

 誰にも聞こえない声を持っていては、王族であっても社交などまともにできない。だからウルベルトはあまり人前には姿を見せず、人と会うとしても声なく口だけ動かしているのを見せないように、仮面を被ることが多かった。それゆえに無口と思われているのである。……声がないと思われるよりはそちらの方が幾分か良いだろう。
 他者と話せない者に王が務まるはずもないので王位継承権は早々に放棄し、王都の隣に小さな領地を与えられ、城と領地を行き来するような生活を送っていた。兄は国王となってもそんな弟が心配でならないらしい。


「君を支えてくれる女性が見つかるといいなぁ……ウルベルトには特別な仕事もあるから、やはりサポートしてくれる理解者がいたほうがいい」

『……余計なお世話だ』


 ウルベルトの声が精霊に聞こえるという特性を生かし、精霊が問題を起こした際、要求を告げて問題行動をやめるよう説得するという特殊な仕事を与えられている。しかし一方的に要求を伝えるだけなので上手くいくことは少ない。無理やり精霊を追い払うのはあまり良い気分にはなれないし、気苦労の多い仕事だ。
 そんなウルベルトを精神的に支えられる相手を見つけたいとお節介な兄は考えていて、婚約者を探すパーティーなどというものまで用意してしまった。


「ちゃんと一人一人と話して見極めるんだよ」

『……どうせ話などできない』

「ああ、今、どうせ不可能だって言っただろう? 分からないじゃないか。読唇術が使える令嬢がいるかも」

『ならば口は隠しておく。そういう会話がしたいわけじゃない』


 そう答えてウルベルトは気付いた。自分はただ、普通に会話がしたいのだ。こちらを見ていなくても呼びかければ振り返ってくれるような、そんな相手を求めている。
 幼い自分がいくら呼んでも、誰も振り返ってくれなかった。傍まで駆け寄り、その服を掴んで引かなければ存在に気づいてもらえなかった。……その記憶をいつまでも引きずっているのだろう。

(……全く、いつまでも幼稚だ。いい加減、現実を受け入れられないものか)

 そんな相手はこの世のどこにもいるはずがない。
 ――しかし、ウルベルトの考えを覆す出来事が、兄の用意したそのパーティーで起こった。

 メルアン=ディオット。その名を聞いて真っ先に浮かんだのは「偽耳」の二つ名。まずは思いついた偽耳という言葉がそのまま口から出た。彼女もまた、幼い頃に精霊の声が聞こえると発言し、それが虚言であるとされた者だ。子供のついた嘘が大人になっても名誉に傷をつけているのは憐れだが、親が矯正しなかったのも悪い。

(同情はしない。その嘘は、私が最も嫌うものだからな)

 小柄だが気の強そうな彼女はまるで威嚇をする小動物のようだ。偽耳の言葉だけでは気が収まらず、重ねて何か言おうと口を開きかけたウルベルトは、それより先に口を開いた彼女に驚き、固まった。


「お言葉ではありますが、私にはしかと精霊の声が聞こえています。偽耳などと呼ばないでくださいませ」


 まるでウルベルトの放った「偽耳」という言葉に反応したような返し。まさか、そんなことがあるのかと、緊張と期待で心臓の鼓動が加速していく。……期待しすぎるな、確かめる必要がある。
 会話のきっかけとしてまずは噂の否定から入っただけかもしれない。しかし尋ね返して返答があれば、彼女には本当にこの声が聞こえていることになる。


『なんだと?』

「ですから、その呼び方はやめていただきたいと申し上げております」


 意志の強そうな黄金の瞳が強い輝きを宿してウルベルトを見上げている。それから彼女ははっきりとウルベルトの物言いを拒絶し、何なら忠言までしてきた。……幼き日の自分が、そう望んだように。
 これだけ口が悪ければ、悪態ばかりついていれば、誰かがそれに反応して物申してくれるかもしれない。まさかそんな願いが叶う日が来るとは思わなかった。


『はは……ははは! まさか、こんなことがあるとは!』


 予想外だった。予想外に嬉しかった。思わず笑い声が漏れるほどに。……声をあげて笑ったのは、生まれて初めての経験だ。しかし笑わずにはいられない。ウルベルトはずっと、自分の声を受け取ってくれる人間を求めていたのだから。
 そんなウルベルトをメルアンは不審そうに見つめている。それはそうだろう、目の前の人間が叱られているのに笑い声をあげれば、そういう反応になる。だがそれが嬉しくてたまらない。


『お前、私の声が聞こえているな?』


 その言葉ではっと表情を変えたメルアンを見て確信した。彼女には自分の声が聞こえるのだ。それも他の人間との差が分からないくらい、はっきりと。

(彼女にだけは聞こえている。……私の声が届く。私以外の誰もができるように……彼女、メルアンとなら私も当たり前のように、言葉を交わせる)

 この喜びをどう表現したらいいのだろう。きっとこの感情はウルベルトにしか分からない。投げかけた言葉に返答があることの喜びなど、それが当たり前の人間に分かるはずがない。
 その思いを自然と表現しようとしたら、敬愛のキスがしたくなった。彼女からすれば逃げたくなるほど理解できない行動かもしれないが、それほど誰かに声が届くことはウルベルトにとって特別な出来事だったのだ。

(私からの好意が大きすぎるのだろうな。……分かってはいるが、抑えるのは難しい。この出会いは奇跡だ)

 もっと話がしたい。他の誰でもなく、メルアンと関わりたい。そう思ったからこそ婚約を提案した。婚約者を探すパーティーだと分かって訪れているのだから、断られないはずだと思っていた。


「貴方のように口の悪い御方はお断りです。私にはすべて聞こえていましたから、自覚はおありでしょう?」


 予想は外れてはっきりと断られてしまったが、その理由がウルベルトの口の悪さなのである。……声が聞こえなければありえない答えに喜んでしまった。彼女になら何を言われても嬉しくなってしまう。
 おそらく今の自分はとても異様だろう。メルアンがどのような反応をしても喜ぶなんて、彼女からすれば気味が悪いと感じるかもしれない。気分を害した彼女がパーティーの途中で帰ってしまっても、この浮かれた気分が収まることはなかった。

 正直、その後のパーティーのことはよく覚えていない。自分の声を聞ける唯一の存在を知っているのに、他の人間を婚約者に望む理由などないからだ。
 しかしこの後どうやってもう一度メルアンと会うべきか。婚約を断られたなら、それ以外の付き合い方を提案するべきだ。

(とにかく彼女ともっと話がしたい。……よし、どうにか関わる機会を増やすことにしよう。そうだな、ひとまず交際を申し込むのはどうか)

 まずは彼女の両親へ、手紙を書く。自分が彼女に惚れ込んで、交際を申し込みたいという手紙を。
 この出会いはウルベルトにとってあまりにも奇跡だったのだ。無理やり婚約を迫る気はないけれど、友人でも何でもいいからこの繋がりを失いたくない、どんな関係でもいいから逃がさないつもりでいる。
 評判の悪い娘を心配している伯爵家の夫妻はウルベルトの手紙を喜ぶだろう。きっと訪問を拒絶しはしない。この手紙はもう一度メルアンに会い、関係を絶たないための第一歩だ。

(彼女が嫌がるなら婚約や、恋愛関係である必要もない。……ああ、そうだな。彼女には精霊の声が聞こえるのだから……私の仕事に協力してもらうのもよさそうだな。これなら逃げられない)

 ならば王の許可も必要だと機嫌よく兄へも手紙を送った。彼女を仕事の助手にしたいと願う手紙である。
 メルアンの耳があればウルベルトの仕事はやりやすくなり、公然と仕事をすれば彼女の汚名をそそぐこともできるだろうし、なおかつ共に過ごす時間も増えるという、お互いにメリットのある考えだ。きっと彼女もこの仕事を引き受けてくれることだろう。……いや、引き受けさせてみせる。


『さて……まずはどれを手伝ってもらうか』


 ウルベルトは執務机の上に積まれた、精霊騒ぎに関する嘆願書を手に取った。彼女と力を合わせれば解決できる問題は多いはずだ。

(次に会ったらどんな話をしよう。……そうだな。何か贈り物をして、それを会話のきっかけにするか)

 自然と笑みを浮かべながら書類を確認していたウルベルトは、真新しい嘆願書に目を止めた。それはおそらく緊急性の高い問題であり、早期解決が望まれるもの。
 浮かれる気持ちを静めながら、どうやってメルアンの協力をとりつけるか、真剣に考えることにした。

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