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33.5話 竜を憎み竜を愛するエルフ
しおりを挟む二百年ぶりに見た黒い竜は、リュカの中に眠っていた恐怖を呼び起こした。黒い炎に焼かれた同胞を、見慣れた顔が黒に浸食されて崩れていく様を、思い出す。
(……忌々しい、竜め……)
あれから二百年、リュカは苦しみの渦の中にいた。最近はそれどころではないくらい楽しいことが多くてあまり思い出さなくなっていただけで、苦痛を忘れたわけではない。
しかしどれほど憎くともその存在は圧倒的であり、手を出せるものではないと感じる。アレに人では太刀打ちできない。人間など竜の前では紙切れ同然の存在だ。
「リュカ」
竜の咆哮に竦みそうになるリュカと違い落ち着き払った声で呼びかけられて我に返る。彼女を見ると何故か、覚悟を決めたような顔をしていた。……いやな予感がする。
「ごめんね。……本当にいつか、言うつもりでいたんだよ。……元気でいてね」
まるで別れを告げるような言葉を笑って口にする。彼女が翳した手から自分に向けて、光属性の魔法が使われたのが分かった。
また詠唱無しでこんなことをするなんて。無茶ばかりする彼女を止めようとした。しかしスイラはリュカの制止など聞かずに上空へと駆けあがる。……空を飛ぶ魔法の詠唱など、していないのに。
(詠唱もなしに魔法を使ってまで何故……)
混乱するリュカは、驚くべき光景を目にしてさらに混乱した。小さな人影となったスイラの姿が、膨らむように大きくなっていく。ヒトではなく、全身を白い鱗に覆われた、巨大な竜の姿へと。
「……白、竜…………」
目の前で起きたことが信じられない。ヒトから竜へと姿を変えた彼女は黒竜に合わせるように息吹を吐いて街を白い炎で覆っている。あの炎が人を傷つけるものでないことを、リュカはすでに知っていた。温かくて心地よさすら感じる白い炎なら二か月前にこの身へと受けたから。
(…………ああ……そうか……そういう、ことか……)
頭の中であらゆる出来事が繋がっていく。人間の常識を全く知らない、ハーフエルフにしてもエルフの知識が足りないスイラ。人とは思えぬ怪力を持っていて、精霊には異様なほど好かれていて、聞いたことのない魔法の詠唱をして、信じられないほど強大な魔法を平然と使う。……人並外れているはずだ、彼女は人ではなかった。
(竜ならできて当然だ。……誰も思いつくはずがない。竜が人になろうとするなど……)
竜は天災のようなもの。降って湧いて人を殺しあらゆるものを奪っていく。リュカの大事なものを奪った、憎むべき相手だ。
しかしそんな災いである属性竜が、まるで人間を手助けするかのような魔法を使った。白い体躯と黄金の瞳を持つその竜の考えなど理解できなかったが、今なら分かる。
『白竜は、他の竜とは少し違うかもしれないよ』
リュカの反応を窺うようにそんなことを口にした彼女を思い出す。人を助けようとする白い竜が、スイラだったらその行動の理由が分かるのだ。……お人よしの彼女なら、そうするだろう。助けられるから助けただけだ。
『リュカは、竜を恨んでいるかな』
そう問うてきた彼女に、リュカは是と返した。彼女に向かって、そう言ってしまった。
彼女はきっとあの時、リュカに打ち明けようとしてくれていたのだ。けれどその答えを聞いて言えなくなってしまった。言えなくて、当然だろう。……スイラは白竜だったのだから。自分も憎まれているのだと思っていたはずだ。
「――――!!」
「――――!!」
二頭の竜が何かを叫んでいる。竜が操る言葉は魔法言語、つまり精霊と同じ言葉だ。精霊の声を聞いたことのないリュカでは上手く聞き取れない。
ただ時折、意味のある単語を拾うことはできた。白い竜の背中越しに、透明な雫が大量に落ちていくのが見える。
(人、好……宝……壊……?)
泣きながら白い竜が何かを訴えている。意味のある単語を拾って頭の中でつなぎ合わせた。人が好きだと、自分の大事なものを壊さないでほしいと、そう言っているのかもしれない。
黒竜が何を言っているかは全く分からないが、白竜の――スイラの言いそうなことならなんとなく想像できる。ただそれはリュカの予想でしかないのだが。
(……君の言葉が分からないのが口惜しい)
スイラが泣いているのは分かるのにその言葉を理解できない。上手く聞き取れない、分からないことがもどかしい。
気が付けばリュカは走り出していた。自分の荷物はその場に放り出したのに、彼女が落としたずっしりと重いポシェットが目に入って拾ってしまう。この中には彼女が人間として生きるために必要な物が詰め込まれているはずだ。普段なら持ち上げるのに苦労する重さだが、今は平然と持ち運べる。……自分に使われた光魔法の効果だろう。身体能力が格段に上がっているのが分かった。
スイラの元へ行こうと思ったのに、彼女もまた黒竜へと飛びついたので距離が離れる。きっと、人を傷つけようとする黒竜に抗っているのだろう。彼女は人を救うために、リュカを置いて行ってしまったのだから。
(人を愛する竜がいるなんて思わなかった。……けれど、君を見てきたから知っている。君は人を愛する変わり者だ。だから……人になったんだな)
街の中を駆け抜ける。固唾をのんで二頭の竜の戦いを見守る人々は、その光景をどう思っているのだろう。恐ろしい怪物の決闘だと思っているだろうか。白い竜が、人々を守ろうとしていることが彼らに伝わっているだろうか。
決着はすぐについた。互いに傷を作りいくつか言葉を交わした後、黒い竜は空へと飛び上がり背を向けて遠ざかっていく。痛々しく翼に大きな穴を空けた白竜が振り返り、街を見下ろした。
見慣れた色の黄金に、きっとリュカは映っていない。竜にとって人は小さすぎる。同じ大きさでなければ、同じものは見えない。
白い光が街を包む。スイラの治癒の魔法だ。視界が白一色と変わってもリュカは足を止めなかった。もう少しで街を抜ける、障害物の位置は覚えているし何も見えずとも問題ない。
光の中を抜けて森に入ると、すでに白竜の姿はなかった。光魔法の効果なのか息一つ乱れていないのに心臓がうるさく鼓動して苦しく、血は巡っているはずなのに指先が冷たい。……あれが最後だなんて、納得できない。
(まだ、居てくれ。……言わなければならないことが、まだ……)
白竜が居た場所めがけて足に力を込めた。軽々と進む体にはまだ、彼女の魔法が残っている。木々の間をすり抜けて、竜の巨体によって押しつぶされた森の、ぽっかりと空いた空間に出た。
そこに蹲る少女の姿を見つけてまた心臓が跳ねる。一瞬目が合ったのに、すぐに俯いて顔をそらされてしまった。それでも今までにないくらいに、苦し気な顔をしているのが分かる。
体に傷は見えなくても、傷を負っていたはずだ。強力な魔法も何度も使っている。最強の竜とて生き物だ、限界はあるはずである。
(こんな風になってまで人を救おうとしたのか……本当に、無茶をする)
そもそも竜が人の姿に変化して、人として生きようとしている時点で無謀だ。……彼女は今までその無謀を続けてきたわけだが。
震える小さな体に自分のマントを羽織らせると驚いたようにスイラの肩が小さく揺れる。しかしまだ、彼女はリュカを見ようとしない。
(どうして、目を逸らす? 申し訳なく、思っているのか……?)
辛そうに見えるのは魔力切れのせいだと言うので、回復薬を渡した。それを飲んで体勢を起こし、ぺたりと地面に座り込んだ彼女はやはりリュカを見ようとしない。その膝の上で固く握られた拳はわずかに震えていて、何かに怯えているように見えた。
(……そうか、君が怖いのは……竜を憎む、私か)
彼女はリュカに憎まれているとそう思っているのだろう。たしかに彼女の秘密はあまりにも大きく、リュカからすれば憎むべき存在が何でもない様子で隣に居たようなものかもしれない。
竜は憎い。黒竜などできることなら殺してやりたいほどに。けれど白竜はどうだろうか?
目の前の彼女を見ても怒りの感情など湧いてこない。ただ、とてつもなく不安だ。今にも逃げ出しそうな様子の彼女に焦りを覚える。
スイラはリュカを騙していた罪悪感にさいなまれているのだろう。そしてリュカの元から去ろうとした。あんな、一方的な別れの言葉一つで。
(それでは……困る)
逃げないでほしい。そう思ったら自然と手を伸ばしていた。手を掴もうと思ったが、持ち上げようにもびくともしない。この小さな体にあの巨大な竜の体を押し込めているのだから、当然か。
(一番近くに居たのに気づかなかった。君は嘘が下手なのに……振り返ると不自然な点は多いのにな。竜が人として過ごしている方が想像できないことだったから、適当な理由を当てはめて納得してしまっていた)
特別な魔法で守られているのが理由ではなく、特別な魔法でここまであの巨体を圧縮していたのだとようやく分かった。この体で人と交じって過ごしてきたのだ。その苦労は想像を絶するだろう。
驚いたように顔を上げたスイラと目が合った。その黄金の瞳は、嵐の後に街を見下ろした白い竜の瞳と全く同じ色だ。
「リュカ、あぶな……」
「こうしていれば私から逃げられないだろう。……優しいからな、君は」
人を傷つけたくないスイラが絶対に逃げられなくなる方法だと分かっていて、こうしている。そもそも今のリュカには彼女が使った魔法の効果があるので多少のことで怪我などしないのだが。
しかしリュカが傷つけば彼女は自分を責めるだろう。この状況だからこそ使える、強引な手段だ。……普段ならこんなことはしない。ただ、今はリュカにも余裕がなかった。
「私の話も聞いてくれ。……それまで逃げないでほしい」
「そう、だよね……聞かずに逃げるなんて卑怯だよね。うん、分かったよ。……けれどどちらにせよ逃げられそうもないし危ないから、離れてよ。リュカを、傷つけたくないんだ……」
そんなことを言うスイラの手を離したが、あまり離れる気にはなれなかった。どこかに行ってしまいそうな、ふとした瞬間にリュカの前から消えてしまいそうな、そんな雰囲気が漂っているからだ。
彼女はまだリュカの前からいなくなる気だろう。……リュカの気持ちなど、知りもしないで。
「……私のことが、嫌いになったのか?」
「違う、リュカのことは好きだよ。……だからリュカに嫌われるのが怖いんだよ……」
以前、リュカは彼女が自分のことを嫌う日が来たら冒険者としてのパーティーを解消すると告げていた。その質問に対しての答えがこれだ。
しかしこの答えを聞いてかっと熱くなる体温が、リュカの答えだろう。
(竜は今も嫌いだ。属性竜は人の天敵であり、天災で、厄介な存在でしかない。……君もその同類だと、分かっている。それでも……君を嫌いになんてなれるはずがないだろう)
竜だとは知らなかった。人だと思って共にいた。けれどリュカが見てきた彼女の中身に違いなどないはずだ。むしろスイラは竜であるからこそ、この性格なのだろう。別の種族であれば今の彼女はない。……リュカが好きになったのは、白竜のスイラなのだから。
人を愛する変わり者の竜。彼女はきっと、同族とは生きていけない。人として生きるのも苦労ばかりだろうがそれでもこちら側を選んだ。竜であることを隠し、たったひとりで努力してきた。……ならばリュカはその協力者となりたい。彼女の進む茨の道を共に歩む者でいたい。
「……私が君のことを嫌っていないなら、このままでいいんだな?」
「う、ん……?」
スイラがリュカから離れようとする理由は嫌われることを恐れるからだ。けれど彼女が竜だと知った今も、彼女を嫌ってなどいない。恋の感情はもしかすると変わったかもしれないが、少なくとも離れたいなどとは思わない。
これからも仲間として冒険者をやろうと提案したリュカを、スイラは潤んだ瞳で見上げた。そしてとても愛らしい顔で、太陽のように笑って――。
「リュカ、大好きだよ。これからも一緒に冒険者、やろうね」
――こんなことを言ってくるのだ。知っている、エルフどころか人ではない彼女のこの言葉に、恋愛感情など微塵もないことを、今まで以上に知っている。途端に耳の奥で跳ねた心臓の音に、嫌でも自覚させられた。……エルフの恋は重くて深い。好きな相手の正体が竜だったくらいで変わるほど、軽い感情ではなかった。
まったく別の種族だとしても好きな相手にこんなことを言われて、心が揺れない人間などいるはずもないだろう。
(本当に……私は君が好きで、どうしようもないな。……竜を好きになってしまったエルフは、どうしたらいいんだ?)
それを考える時間もたっぷりあるはずだ。何せ、お互いに生きる時間はとても長い。……むしろようやく、スイラとリュカの時間は始まったのかもしれない。
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