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1巻

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   プロローグ


 日本で屈指の製薬会社、ミスミ製薬の秘書室は、昼休みということもありしんと静まり返っていた。
 重役の会食のお供に出掛けた者以外は社員食堂や社外に食事に出ており、現在秘書室に残っているのは入社半年の三隅杏樹みすみあんじゅだけだった。
 名前の通りミスミ製薬の関係者……というか社長である三隅孝太郎みすみこうたろうの娘で、今年の春入社したばかりだ。
 杏樹としては親とは関係のない一般企業への就職を考えていたのだが、父や兄が就職活動にあれこれ口を出し、最終的には丸め込まれてミスミ製薬に入社することになってしまった。
 それでも最初は社会人として会社で働くことに夢も希望も抱いていて、一社員として精一杯頑張るつもりで入社したのだ。

「ん~……」

 杏樹は片手にサンドイッチ、もう一方の手でパソコンのマウスを操りながらディスプレイを見つめていた。
 映し出されているのは求人情報で、杏樹は気になる求人を片っ端からお気に入りに放り込んでいく。

「……美味しい」

 求人情報をチェックする片手間に、三隅家のお手伝い・里枝さとえが作ってくれたBLTサンドを頬張る。別の容器には形よくかれたデザートのリンゴも添えられていた。
 入社当初は先輩たちに誘われてランチに出掛けていたのだが、社長の娘である杏樹に対して誰もが腫れ物に触るように気を遣っているのが伝わってきて、その雰囲気に居たたまれなくなり弁当を持参するようにした。ついでに昼時の電話番を引き受けたところ、先輩たちはホッとした顔をして昼食に出掛けていくようになった。
 それ以上無理に誘われることもなくなり、一人でのんびりランチタイムを過ごすことができるようになって内心ホッとしてしまった。いくら一般社員と同じように扱ってくれといっても、直属の上司である秘書室長や先輩秘書たちが自分に気を遣ってくれているのはひしひしと伝わってくるし、なんなら早く辞めてくれという空気すら感じる。
 しかも実際に給湯室で先輩たちが、話しているのを聞いてしまったのだ。

「気を遣うなって言われても……社長の娘なんて気を遣うに決まってるじゃない」
「そうよね。ちょっと注意して、いじめられた! なんて報告されたら困るから怒れないしさ」
「わかる~室長も早く寿退社しないかなって言ってたよ。どうせ結婚までふらふらさせておくよりはマシって感じで入社させたんでしょ」

 日々そんな空気を感じていたので、やっぱりそうかと納得してしまった。
 大学時代の友人からは就職後の愚痴として、先輩が厳しいとか上司に怒られたなんて話を聞かされていたが、杏樹の職場ではそんなことは一度もない。仕事を覚えるのが大変だという声もあったが、そもそも覚えるのが大変な仕事など任されたことがなかった。
 杏樹が電話番の他に任されることといったら郵便物の仕分けやお中元の送り先リストの整理、新規の名刺をデータベースに入力するとか、言い方は悪いが単調で誰にでもできる仕事だ。
 他に大きな仕事と言えば重役会議でのお茶出しだ。子どもの頃から見知った重役も多く、杏樹がお茶を出すとみんな相好を崩して「あの小さかった杏樹ちゃんが」と喜ぶかららしい。
 父や兄が秘書室長になにを言い付けているかまではわからないが、在籍させて当たり障りない仕事をさせておけばいいと思われているのは一目瞭然だった。きっと親の目の届くところで社会経験をさせて、適当なところで結婚させればいいと、今どき時代錯誤なことを考えているのだろう。
 親の要望を聞き入れる形でミスミ製薬に入社したのに、これでは飼い殺しのようなものだ。
 外で働くことに夢を抱いているわけではないが、どんなに大変でもお給料に見合った仕事をしたいと思うのは我儘ではないだろう。
 今のままでは親の影響下でそれも叶いそうにない。そこで最近は自力で転職先を見つけようと奮闘しているところだった。
 問題は入社半年で転職となるとなかなか条件が合わないことだった。転職といえば自身のスキルを活かせる職場を探すのがベストだが、秘書課といっても本来秘書がすべき仕事など任されたことはない。できることといえばちょっとパソコンに触るとか電話の受け答えができる程度で特筆すべきことがなにもなかった。
 とりあえず先日初めて転職エージェントの会社に登録をしたばかりで、今日の夜担当者と面談をすることになっている。これで少しはいい方向に動くかもしれないと期待しているところだった。
 今の杏樹の目標は、転職をして憧れの一人暮らしをすることだった。
 家族には家事もほとんどしたことがないのに一人暮らしなど無理だと言われているが、自分でちゃんと稼げるようになればあれこれ言われなくなるだろう。
 杏樹は大きな口を開けてサンドイッチを頬張りながら、転職後の自分の姿をあれこれ想像してみる。よくわからないけれどカッコよく仕事をして、一人暮らしをして親に門限などうるさく言われずに友達と夜遊びをするのもいい。
 実際にはお手伝いさんが用意した弁当を持参し、家に帰れば温かい食事が用意されている。本当は自立など全くできておらず、言っていることと行動が伴ってないことに、杏樹は全く気付いていなかった。


 転職エージェントとの約束がある杏樹は、定時になると汐留しおどめにあるオフィスを出た。
 といっても残業の必要がある仕事を抱えたことなどないので、一番下っ端だというのにほぼ毎日定時に会社を出るのが日課になっている。
 まっすぐ家に帰るときもあるが、徒歩圏内に銀座ぎんざ日比谷ひびやといった街があるので、大抵はファッションビルやデパートを覗くとか、文庫本片手にカフェに入るとか寄り道をすることが多い。
 今日は待ち合わせに銀座ぎんざのカフェを指定されていて、杏樹は大通りの交差点に立ち腕時計を見た。
 約束の時間まではあと一時間弱といったところで、電車やタクシーは使わずブラブラ歩いて行くことにする。ついでにデパートのパウダールームで化粧直しをしていけばちょうどいいだろう。
 エージェントや友人から連絡が入っていないか確認するためにバッグの中からスマホを取り出す。信号がそろそろ青に変わりそうだと思いながらディスプレイに視線を落とした。
 メッセージアプリには友人からのメッセージのみで、あとで返信しようと顔を上げたところで信号がちょうど青に変わる。杏樹が反射的に横断歩道に足を踏み出したときだった。
 突然アクセルを強く踏んだときに聞こえる、ふかすようなエンジン音がした。ドキリとした次の瞬間、杏樹は誰かに腕を引っ張られてその場に尻餅をついていた。

「きゃっ!」

 そう叫び声を上げたとたん、目の前を白い車が走り抜け、周りからも次々に悲鳴が上がった。
 なにが起きたのかわからず座り込んだまま辺りを見回すと、杏樹のように座り込んでいる女性が数人いる。中年女性の一人はどこかを痛めたのか道路にうずくまっていた。
 状況から見てどうやら信号無視の暴走車が走り抜けたらしいというのは理解できたが、突然の出来事にまだ頭がついていかない感じだ。
 他にもかばんを抱えて尻餅をついているサラリーマン、手を取り合っている若い女性のグループ、あちこちで間一髪で車を避けることができた人たちが驚いたり、暴走車に対しての怒りの言葉を口にしていた。

「怪我は?」

 力強い声に顔を上げると、スーツ姿の男性が眉間に皺を寄せながら杏樹を見下ろしている。男性は三十代前半ぐらいでなかなかのイケメンだ。
 杏樹はフレアスカートの裾が太股までめくれて上がっていることに気付き、赤くなってスカートを手で引き下ろす。

「だ、大丈夫です」

 真っ赤になった杏樹を見て男性がクスリと笑いを漏らし、眉間の皺が緩む。優しく緩んだ唇を見た瞬間、杏樹の心臓が大きく跳ねた。

「……っ!!」

 これ以上男性の顔を見ていられなくて目を伏せると、手が差し伸べられる。

「立てる?」

 男性は杏樹の返事を待たずに手首を掴むと、引っ張りあげるようにして立ち上がらせてくれた。

「あ、ありがとうございます……」
「痛いところはない?」

 顔を覗き込まれて、小さく首を横に振った。

「そう。今は突然のことにアドレナリンが出てて気付かなくて、あとから痛んでくることもあるから気を付けて」
「はい」

 杏樹がうなずくと、遠くから救急車やパトカーのサイレンが聞こえてくる。すでに近くの交番から駆けつけたと思われる警察官もいて、座り込んでいた人たちに声を掛けていた。

「そうだ。これ君の?」

 男性が手渡してくれたのは、ピンク色のシリコンカバーがついた杏樹のスマホだった。そういえば横断歩道を渡るとき手に持っていたけれど、転倒のタイミングで落としてしまったのだろう。

「私のです! ありがとうございます」
「どういたしまして」

 男性の笑顔に再びドキリとしてしまい、これはもしかして運命の出会いではないかという思いが杏樹の中に生まれる。
 とりあえずお礼を言って、連絡先ぐらい尋ねてもいいんじゃないだろうか。杏樹がそう考えたときだった。

「大丈夫ですか? 怪我はされてませんか?」

 一人の警官が駆け寄ってきて、杏樹の思考が遮られる。

「あ、はい」
「もし大丈夫であれば、少しお話を聞かせていただきたいのですが」

 杏樹は警官の言葉にうなずいた。事情聴取というやつだろう。
 自分に怪我はないが、暴走車の犯人はきちんと取り締まってほしい。助けてくれた男性の方が色々見ていたかもしれない。ついでに名前や連絡先をさり気なく交換できないだろうか。杏樹はそう思いながら男性を振り返った。

「……あ、れ?」

 ついさっきまで会話していたはずの男性の姿はそこにはなかった。

「どうされました?」
「今、ここにいた人……」
「え? お知り合いだったんですか? 私が来るときに立ち去られたので、てっきりお知り合いじゃないと」

 警官の言葉に杏樹は辺りを見回したが、やはり男性の姿はない。

「いえ、知り合いじゃなくて、たまたま助けてくださって……」
「あーなるほど。こういうとき、名前を明かしたり事情聴取にまでは関わりたくないって立ち去ってしまう方も多いんですよ。こちらとしては正確な状況を知りたいので是非ご協力いただきたいんですがね」

 警官の口調からすると、目撃者や救助者が立ち去ってしまうのはよくあることらしい。確かにあれこれ聞かれて時間を取られるのはわずらわしいかもしれない。
 でもせめて一声かけてから立ち去ってくれたら、名刺の一枚でも渡してちゃんとお礼を言うことができたのに。運命の出会いだと盛り上がってしまっていた分、落胆も大きかった。

「じゃ、すみませんが、あちらで詳しいお話を聞かせてください」
「はい」

 杏樹は警官の言葉にうなずくと、もう一度先ほどの男性が立っていたはずの場所を振り返った。



   1


「はぁ……」

 まだ出勤したばかりだというのに、杏樹はパソコンの画面を見つめながら盛大な溜息をついた。
 幸い昨夜の暴走事故での怪我人はほとんどいなくて、杏樹もかすり傷一つせずに済んだ。しかし話を聞きたいと警察に足止めをされ、事情聴取を受けているうちに転職エージェントとの約束の時間になり、泣く泣く面談をキャンセルすることになってしまった。
 事情を聞いた担当者が快く日程変更を提示してくれたのは幸いだったが、せっかくやる気になっていた出鼻をくじかれた感じだ。
 それにせっかく出会えたイケメンとそれっきりになってしまったのも残念でならなかった。
 これがマンガやドラマなら運命の出会いで恋が始まったりするものなのだが、現実にはそんなことはないらしい。
 そんなことをグズグズと考えていると朝礼が始まり、その最後に珍しく秘書室長に声を掛けられた。

「三隅さんはこの後社長室にお願いします」
「え? あ、はい」

 わざわざ社内で父に呼び出されることなどなかったので、杏樹は困惑しながら返事をした。今朝、家で会ったばかりなのに何事だろう。
 まさか転職活動をしていることがもうバレたとか、それとも早くも見合い話でも持ちかけられるのだろうか。でもそれならわざわざ会社で話さなくてもいいはずで、杏樹は首を傾げながら社長室に向かった。

「失礼します」

 一応誰か他の人がいるとまずいと思い声を掛けると、案の定先客がいた。
 父と応接セットに向かい合って座っている男性二人の後ろ姿に、杏樹は父のスケジュール表を見て来なかったことを後悔した。

「杏樹、来たか。こっちに来なさい」

 手招きされて父に向かって歩き出したとたん、手前のソファーに座っていた男性二人が立ち上がる。そしてこちらを振り返った片割れの男性を見て杏樹はその場で棒立ちになってしまった。

「……あっ!!」

 それは昨日杏樹を助けてくれた男性で、黒っぽいスーツにグレーのネクタイは一見地味だが、すっきりとしたスタイルの彼によく似合っている。向こうも杏樹に気付いているはずなのに、にこりともしないのが憎らしい。
 よく見ると隣の男性も同じ色味のスーツを身に着けていて、こちらは杏樹を目視すると唇に人好きのする笑顔を浮かべた。

「杏樹。どうした?」
「あ、うん」

 父の言葉に我に返った杏樹は、慌てて父のそばに歩み寄った。

「こちらSINエスアイエヌセキュリティーの椎名しいなくんと横井よこいくんだ」
「はじめまして。SINセキュリティー代表の椎名です」
「あ……お、恐れ入ります」

 差し出された名刺を両手で受け取る。自分も名刺を渡した方がいいかと思ったが、出番のない名刺入れはデスクの引き出しの中だ。
 名刺はSINセキュリティー代表取締役という肩書きで、昨日聞きそびれてしまった椎名はじめという彼の名前を知ることができた。

「横井です」

 先ほどから柔和な笑みを浮かべていた男性の名刺は警備部長という肩書きがついている。つまりSINセキュリティーというのは警備会社らしい。代表取締役の椎名からして若いのだから、まだ新しい会社なのだろう。
 だとするとミスミ製薬の取引相手としては想像できない。誰かの紹介で挨拶にでも来ていて、たまたま杏樹が遭遇してしまったというところだろうか。
 まさかこんなところで会えるとは思っていなかった人に再会できて、杏樹の中で消えかかっていた運命の出会い説が再び色濃く浮かび上がってきた。
 するとろくに挨拶もせずに黙り込んでいる杏樹に、父がいぶかるような眼差しを向けた。

「どうした、さっきからおかしいぞ」
「えっ……と」

 すると狼狽うろたえた杏樹の代わりに椎名が口を開く。

「実は、昨日偶然お嬢様をお助けする機会がありまして。そのことを思い出していらっしゃるんでしょう」
「どういうことだ?」

 父は椎名と杏樹の顔を交互に見比べたが、昨日のことを家族の誰にも話していなかったので困ってしまう。
 三隅家の人たちは杏樹に対してかなり心配性なところがあり、高校を卒業するまでは通学は車で送迎されていたし、友達と夜遊びをするなんてことは皆無だった。
 さすがに大学生になり少しずつ手綱が緩んで電車やバスに乗ることや一人でカフェに入る楽しみも覚えたが、未だに友達と食事に出掛けて遅くなるだけで大騒ぎをされてしまう。
 昨夜の事故は杏樹に非はないが、父が心配して送迎車を出すと言い出しかねない。いくら社長の娘とはいえ、新入社員が車で送迎されるなんてありえないだろう。

「杏樹、なにがあったんだ」

 痺れを切らしたような父の声に、どう説明すれば騒ぎ立てられないかと困り果てたときだった。

「私からご説明します。社長、まずはお座りになってください」

 一瞬救世主のように感じたが、よく考えれば椎名が昨日のことを黙っていてくれればよかったのだ。
 もちろん椎名に杏樹のそんな心の声が届くはずもなく、彼は昨日の経緯を説明し始めた。

「……つまり、杏樹はその車の暴走に巻き込まれそうになったということか?」
「うん。でも椎名さんが助けてくれたからなんともなかったの」
「本当に? どこか怪我をしたんじゃないのか?」

 案の定父が過剰に心配し始め、杏樹は椎名に恨めしげな眼差しを向けた。
 こうなるのが嫌だから昨日の事故のことは家族に伝えなかったのに。そもそも怪我もしていないし、偶然その場に居合わせた程度で被害者と呼んでもいいのか怪しいところだ。
 きっとこの後に、会社帰りに寄り道せず家にまっすぐ帰れとか、まるで小学生の子どもに注意するようなことを言われるのだろうとうんざりする。

「でも、そういうことがあったのなら、椎名くんたちに来てもらったのはちょうどよかったな」

 父はなぜかホッとしたように椎名たちに視線を向けた。

「実はしばらく彼らに杏樹のボディーガードを頼もうと思って、紹介をするために呼んだんだ」
「……ボディーガード?」
「まあそんな大袈裟なものでもないが、杏樹の送迎や外出のときの運転手のようなものだ」

 父はそう言ったが、いくら運転手だとしても一度でもボディーガードという言い方をしたことが問題だ。それに社長の父に運転手がつくのは理解できるが、運転手に送り迎えされる新入社員など聞いたことがない。
 そもそもどうして突然ボディーガードなどと言い出したのだろう。

「別に電車通勤で不便はないし、どうしても運転手が必要ならはらさんがいるじゃない」

 高校までは、毎朝父の運転手である原が杏樹を学校まで送ってくれていた。必要なら今まで通り原に頼めばいい。

「原くんは私の運転手だから毎日杏樹の送迎を頼むわけにいかないだろう。とにかくしばらくの間は彼らに送迎してもらいなさい」
「でもどうして突然ボディーガードなの?」
「それは……」

 門限こそあるものの今まで電車通勤に口を出してきたことなどなかったのに、はいそうですかと納得できるはずがない。
 それに父の言葉にはなにか含みがあるように思えてならなかった。

「ほら、昨日助けてもらって椎名くんに実力があることはわかってるんだから、杏樹だって安心だろう? いいじゃないか」
「だから! そういうことじゃなくて、ちゃんと理由を説明してって言ってるの!」

 杏樹がさらに詰め寄ると、父が負けじと怒鳴り返してきた。

「我儘を言うんじゃない! とにかくもう決めたことなんだから、おまえは私の言うことを聞いていればいいんだ!」

 ガツンと怒鳴りつけられて一瞬ひるんだが、父が思い通りにならないときに怒鳴るのは昔からだ。この手のやりとりを何度もしている杏樹が言い返そうと口を開いたときだった。

「まあまあ! 社長、落ち着いてください」

 杏樹よりも一瞬早く、椎名の言葉が割って入る。

「私が責任を持ってお嬢様を説得して、きちんとお守りいたしますので。さっそくこの後打ち合わせをさせていただきますので失礼します」

 椎名は早口でそう言うと、杏樹の手首を掴んでさっさと社長室を出てしまった。
 二人に続いて横井も出てきて、背後で扉が閉まる。次の瞬間、杏樹の中で途中で遮られてしまった父への怒りが膨れ上がった。

「もう! さっきからあなたなんなの!? どうしてあんな余計なこと言うのよ!!」

 思わず椎名を怒鳴りつけてしまう。あんな言い方で部屋を出てきてしまったら、杏樹がボディーガードを受け入れたことになってしまうのに。

「昨日助けてもらったことにはお礼を言うけど、どう考えても私にボディーガードなんて必要ないってわかるでしょ。父には私からあとで話しておくから帰って!!」
「こっちだってガキのお守りなんてしたくねーよ」
「なっ!」

 父に対するときとは違う口の悪さにムッとすると、椎名はさらにあおるようなことを口にした。

「おまえの親父さんがどうしても娘を頼みたいって頭を下げてきたからこっちだって引き受けたんだ。子どもはおとなしく大人の言うことを聞いておけばいいんだよ」
「し、失礼ね! もう二十三なんだから、れっきとした大人です‼」
「そうやってギャンギャン騒いでいるうちはガキなんだよ。それに、俺が契約をしたのは親父さんであっておまえじゃない。だから、おまえの言うことは聞かない」
「なんでそんな偉そうに言われなくちゃならないのよ!」
「椎名さーん、クライアントのお嬢様ですから」

 さして慌てた様子もなく、横井がおざなりに口を挟む。

「もうっ! あんたたちなんなのよ!」

 こんな失礼な人たちとは一秒だって一緒にいたくない。ましてや車で送迎なんてされたらキレてしまうだろう。

「とにかくこっちも仕事だから我儘言うな。とりあえず今日は横井に送らせるから勝手に帰るなよ。明日からのことはまた連絡するから。あ、おまえのスマホ出せ」

 杏樹がスマホを出すとサッと取り上げられ、椎名がなにかを打ち込む。

「ちょっと! 返しなさいよ‼」

 ピョンピョンと飛び跳ねて椎名の手からスマホを取り戻そうとしたが、見上げるほど背が高い椎名が自身の肩よりスマホを高く上げてしまっては無駄な努力だった。

「返してってば!」


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