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プロローグ 悪役令嬢の目覚め
ep3
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目を開けるといかにも上質そうな生地の張り巡らされた天井のようなものが見えた。視線を動かすと、ベッドの上に天井とは別に布地の天井があり、それが俗にいう天蓋というものだと思い出す。
(天蓋なんて初めて見たはずなのに、見慣れている。…そっか、私はアナスターシャで、ちゃんと探せばアナスターシャとしての記憶の中にあるんだ…)
急に湧き出てきた”前世の記憶”に引っ張られつつあるが、落ち着いていると『自分』というものが簡単に使い分けられる気がするから不思議なものだった。
そんな気持ちを面白おかしく心の中で転がしていると、すぐ傍で不安そうな声がした。
「目が覚めたのですか、お嬢様?」
顔をそちらに向けると、花を活けなおしていた初老の男が少しほっとしたような顔で佇んでいることに気が付いた。
「ええ、まぁ…」
曖昧な返事をしてしまったが、初老の男は優しい笑顔を浮かべる。
誰だろうと考え、その男の纏った黒い執事服と、いつものように真っ白な手袋、そして、磨き上げられた黒い革靴とモノクルを見て、アナスターシャとしての記憶が瞬時に弾ける。
「ウォルター、心配をかけてごめんなさい」
親の顔より素早く浮かんできたこの執事は、彼女が生まれた頃から執事として働いている人であり、また、本来は祖父に仕える執事であるはずなのだが、どういうわけか彼女が生まれた頃からずっと専属のように仕えてくれていることも思い出していた。
「ご無事で何よりですが、…お嬢様。床に倒れこんでいらっしゃいましたが、もしや、どこか具合の悪いところでもございますか? 至急、お医者様をお連れしますが?」
「いえ、結構よ」
はっきりとそう告げると、小さく欠伸を噛み殺し、足をベッドからおろした。
その直後、きゅるるっとか細い音でお腹が鳴き、彼女はハッとお腹を押さえ、耳まで赤くなって必死に顔を背ける。
「…っ」
ゆっくりとウォルターを振り返ると、老執事は恭しく頭を垂れた。
「では、お食事の用意をしてまいりますので、少々お待ちください。こちらにお持ちいたしますゆえ」
「ええ…」
なぜ、部屋でとっているのだろうとか、みんなと食べないのとか、そういう疑問が喉元まで出かかったが、静かにそれを飲み下す。
それは彼女自身が一番よくわかっていたのだから。
(そうだった。…お義母さまと折り合いが悪かったことを忘れていましたわ…)
そう考えて、心の中の言葉にまでお嬢様言葉が侵食していることに気が付き、内心で苦笑する。
(これはまあ、なるようにしかならない、ですわね。でも、悪役令嬢っぽくて面白いかも)
ウォルターが部屋を出て行くのを見送り、アナスターシャはそっとベッドの上に足を戻して膝を抱えた。
少女のアナスターシャとして散々に悩んだ継子関係だが、顔を合わせれば嫌味しか言われないので、もう記憶が戻った今では、永遠に顔も会わせないほうが平和だと思えるようになっていた。
(やっぱり前世の記憶があると、こう、器が人生経験分だけ成長したような気兼ねになるのね)
その瞬間、ふと、ある考えが弾けた。
「そうですわ…、あのモラハラクソ皇子と婚約を仲介したのはお義母さま。ということは、婚約破棄をしたら確実にお義母さまの顔に泥を塗ることができ、私もリスクが大きすぎるけれど、あの皇子との関係も綺麗さっぱり終焉を迎える…?」
彼女が嬉しそうに目を輝かせ、ベッドから足を下ろして靴を履き、そして机に座った。
引き出しから未使用のノートを取り出し、そこに鉛筆を取り出して書きつけていく。
その名も、『婚約破棄計画の手引書』という、いかにもそのままなタイトルをつけて。
そして、嬉々として楽しそうに婚約破棄のために何が必要なのか書きつけて行こうとした時、
コンコンコン…
ノックが聞こえ、慌てて彼女はノートを閉じた。
さすがに、婚約破棄をされるからと言って、その婚約破棄を助長するようなものを書いているとバレるのは瞬時に不味いと感じてしまったのだ。
後ろめたさと共に引き出しへしまい込んだ彼女は、素早くベッドに座って靴を脱ぎ、足をぶらつかせるような恰好で返事をした。
「はい」
執事のウォルターが少し困ったような顔で入ってきた。
「申し訳ございません、お嬢様。少し、奥様に引き留められてしまって遅れてしまいました」
「ウォルター?」
小首を傾げた彼女に、ウォルターは恭しく頭を下げた。
「お嬢様、奥様より言伝で、お嬢様とご一緒したいとのことでしたので、食堂でのお食事となります。お手数をおかけしますが、お嬢様…」
言いよどんだ老執事の顔を見ながら、アナスターシャはふわりと微笑んで見せた。
「よろしくてよ。あなたが気に病む必要は一切ないのですから。…まあ、心配してくれてありがとう」
ウォルターが驚いたように目を見開いたが、やがて穏やかに笑った。
「お嬢様」
靴を履いて立ち上がった彼女は肩をすくめた。
「さて、と。では、エスコート、よろしくお願いいたしますわ、ウォルター?」
悪戯っぽい声でそう尋ねると、老執事は恭しく頭を下げたのだった。
「お任せください」
老執事のエスコートで食堂へ向かいながら、彼女は空腹とラスボスに向かい合うような緊張を天秤にかけながら、グルグルと考え込んでいた。
(…と、ウォルターに言ったけれど、気が重いのも事実…ですわね)
アナスターシャは気づかれない程度に小さくため息を漏らしたのだった。
(天蓋なんて初めて見たはずなのに、見慣れている。…そっか、私はアナスターシャで、ちゃんと探せばアナスターシャとしての記憶の中にあるんだ…)
急に湧き出てきた”前世の記憶”に引っ張られつつあるが、落ち着いていると『自分』というものが簡単に使い分けられる気がするから不思議なものだった。
そんな気持ちを面白おかしく心の中で転がしていると、すぐ傍で不安そうな声がした。
「目が覚めたのですか、お嬢様?」
顔をそちらに向けると、花を活けなおしていた初老の男が少しほっとしたような顔で佇んでいることに気が付いた。
「ええ、まぁ…」
曖昧な返事をしてしまったが、初老の男は優しい笑顔を浮かべる。
誰だろうと考え、その男の纏った黒い執事服と、いつものように真っ白な手袋、そして、磨き上げられた黒い革靴とモノクルを見て、アナスターシャとしての記憶が瞬時に弾ける。
「ウォルター、心配をかけてごめんなさい」
親の顔より素早く浮かんできたこの執事は、彼女が生まれた頃から執事として働いている人であり、また、本来は祖父に仕える執事であるはずなのだが、どういうわけか彼女が生まれた頃からずっと専属のように仕えてくれていることも思い出していた。
「ご無事で何よりですが、…お嬢様。床に倒れこんでいらっしゃいましたが、もしや、どこか具合の悪いところでもございますか? 至急、お医者様をお連れしますが?」
「いえ、結構よ」
はっきりとそう告げると、小さく欠伸を噛み殺し、足をベッドからおろした。
その直後、きゅるるっとか細い音でお腹が鳴き、彼女はハッとお腹を押さえ、耳まで赤くなって必死に顔を背ける。
「…っ」
ゆっくりとウォルターを振り返ると、老執事は恭しく頭を垂れた。
「では、お食事の用意をしてまいりますので、少々お待ちください。こちらにお持ちいたしますゆえ」
「ええ…」
なぜ、部屋でとっているのだろうとか、みんなと食べないのとか、そういう疑問が喉元まで出かかったが、静かにそれを飲み下す。
それは彼女自身が一番よくわかっていたのだから。
(そうだった。…お義母さまと折り合いが悪かったことを忘れていましたわ…)
そう考えて、心の中の言葉にまでお嬢様言葉が侵食していることに気が付き、内心で苦笑する。
(これはまあ、なるようにしかならない、ですわね。でも、悪役令嬢っぽくて面白いかも)
ウォルターが部屋を出て行くのを見送り、アナスターシャはそっとベッドの上に足を戻して膝を抱えた。
少女のアナスターシャとして散々に悩んだ継子関係だが、顔を合わせれば嫌味しか言われないので、もう記憶が戻った今では、永遠に顔も会わせないほうが平和だと思えるようになっていた。
(やっぱり前世の記憶があると、こう、器が人生経験分だけ成長したような気兼ねになるのね)
その瞬間、ふと、ある考えが弾けた。
「そうですわ…、あのモラハラクソ皇子と婚約を仲介したのはお義母さま。ということは、婚約破棄をしたら確実にお義母さまの顔に泥を塗ることができ、私もリスクが大きすぎるけれど、あの皇子との関係も綺麗さっぱり終焉を迎える…?」
彼女が嬉しそうに目を輝かせ、ベッドから足を下ろして靴を履き、そして机に座った。
引き出しから未使用のノートを取り出し、そこに鉛筆を取り出して書きつけていく。
その名も、『婚約破棄計画の手引書』という、いかにもそのままなタイトルをつけて。
そして、嬉々として楽しそうに婚約破棄のために何が必要なのか書きつけて行こうとした時、
コンコンコン…
ノックが聞こえ、慌てて彼女はノートを閉じた。
さすがに、婚約破棄をされるからと言って、その婚約破棄を助長するようなものを書いているとバレるのは瞬時に不味いと感じてしまったのだ。
後ろめたさと共に引き出しへしまい込んだ彼女は、素早くベッドに座って靴を脱ぎ、足をぶらつかせるような恰好で返事をした。
「はい」
執事のウォルターが少し困ったような顔で入ってきた。
「申し訳ございません、お嬢様。少し、奥様に引き留められてしまって遅れてしまいました」
「ウォルター?」
小首を傾げた彼女に、ウォルターは恭しく頭を下げた。
「お嬢様、奥様より言伝で、お嬢様とご一緒したいとのことでしたので、食堂でのお食事となります。お手数をおかけしますが、お嬢様…」
言いよどんだ老執事の顔を見ながら、アナスターシャはふわりと微笑んで見せた。
「よろしくてよ。あなたが気に病む必要は一切ないのですから。…まあ、心配してくれてありがとう」
ウォルターが驚いたように目を見開いたが、やがて穏やかに笑った。
「お嬢様」
靴を履いて立ち上がった彼女は肩をすくめた。
「さて、と。では、エスコート、よろしくお願いいたしますわ、ウォルター?」
悪戯っぽい声でそう尋ねると、老執事は恭しく頭を下げたのだった。
「お任せください」
老執事のエスコートで食堂へ向かいながら、彼女は空腹とラスボスに向かい合うような緊張を天秤にかけながら、グルグルと考え込んでいた。
(…と、ウォルターに言ったけれど、気が重いのも事実…ですわね)
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