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 カミルは定時通りに帰路につこうとした時、受付にネームプレートを返却するために手渡すと、受付嬢が思い出したように何かのリストを差し出してきた。

 「お疲れ様です。あの、これをフェリシアさんにお渡しください」

 「これは?」

 「お薬のリストです。お店を開けるときに作っておいてほしいと頼んでいただければ、と。定期健診も忘れずに来るようにお伝えください」

 カミルが怪訝そうな顔をしながら受け取った。

 「…わかったが、薬を外注しているのか?」

 「フェリシアさんの作るお薬はよく効くんですよ。我が社でも重宝しています。ただ、そこまで大量に作れるものではないので、もちろん我が社でも作っているには作っていますけれど」

 「…そうか」

 リストを鞄にしまい込み、「お疲れ様」と呟くように告げて帰宅する。

 学生時代から仮加盟…つまり、アルバイトとして働いていた時の経路で家に帰る。でも、思い出せる道筋は一緒なのに、立ち並ぶ街並みは記憶にないが10年で変わってしまっていた。
 そして、両親の持ち家は学生時代まで出迎える人すらいなかったはずなのに、今は明かりが灯る。
 それが彼には不思議でならなかった。

 そして、何より『妻』なる人がいる。

 彼には結婚した記憶もなければ、愛した記憶も、そして、彼女に恋をした記憶もない。
 けれど、追い出すような理由もなく、離婚するにも身の回りの整理だけでなく、記憶の整理すら曖昧であるというのに、実行に移すだけの気力もなかった。

 店の方から入った方が正直に言うと早い。だが、裏口から入るのは、店に足を踏み入れると亡くなった両親のことを思い出して虚しくなる。――そんな気がするからであった。
 それをこの前、病院から帰ってきたときに思い出し、裏口から戻ってくるようになっていた。


 「おかえりなさい」


 明るい玄関、優しい笑顔を浮かべた彼女が待っていた。カミルはわずかに視線を揺らす。
 慣れていないとはいえ、面映ゆいのを示すことも何となく癪なような気がして、彼はぶっきらぼうに返すにとどめていた。

 「…ああ」

 でも、それでもフェリシアは優しく微笑む。

 「お風呂の支度はできていますけど、お風呂にします? それともご飯にします?」

 「…夕飯の方で…」

 カミルとしては風呂にも入ってしまいたいところだったが、クローゼットはすべて脱衣所に収められており、シャワーを浴びてすぐに着替えるということもできるようになっている。
 が、逆を言うと、そこ以外で着替えられないということなので、彼女に寝間着姿を見せないためには部屋に着替えをもっていかなければならないという手間が発生するのである。
 だが、夫婦の記憶も持たないのに堂々と寝間着姿を見せるのはなんとなく恥ずかしいということで、そうせざるを得ないのだが。

 「ご飯ですね」

 そう言って微笑む彼女と一緒にリビングへ向かう。そして、それぞれ席へと腰を下ろすのだが、特に話す要件が見当たらなくて、カミルは無言で食卓についていた。

 「お弁当の方はお口に合いましたか?」

 フェリシアがそう尋ねてきたので、カミルは顔を上げると、先ほどと同じように穏やかな笑みを浮かべながら彼女がこちらを見ていた。

 「え? あ、あぁ…」

 フェリシアははにかみながら小さく胸を撫で下ろした。

 「そうですか、よかった」

 「……」

 カミルはふと、あることに気が付いた。

 (? 彼女も怪我をしたんだよな? 自分で治したと言っていたが、俺を見舞いに来て休んでいないんじゃないか?)

 少し疲れているのか眠そうに目をこすった彼女の顔を見て目を細める。

 「あのさ」

 「はい?」

 食事の手を止めて顔を上げたフェリシアにカミルは言った。

 「明日から弁当、いらないから」

 カミルなりに気を遣ってそう言ったつもりだったのだが、フェリシアはハッとし、そして寂しそうに微笑んだのだった。

 「わかりました」

 その表情の意味が理解できなくてカミルは戸惑っていると、フェリシアの表情がいつもの穏やかな笑顔に戻っており、その不意に垣間見せる表情の意味を尋ねる暇さえも与えないようだった。
 だが、なんとなく胸の中でモヤモヤとしたものがこみ上げてくるのを感じていた。

 カミルがモヤモヤと悩みながら眉間に皺を寄せて考え込みつつ食事に戻ったとき、フェリシアがこちらに声をかけてきた。

 「あの、カミルさん。お店を開けてもいいでしょうか?」

 「店を? 好きにすればいいだろう?」

 そう尋ねる意味が分からなくてカミルはそう返すと、彼女はちょっとうれしそうに笑ったのだった。

 「ありがとうございます」

 ふと、受付で渡されたものを思い出してカミルはフェリシアに薬のリストを鞄から取り出して手渡した。

 「これ、薬のリスト。頼まれたんだが、引き受けてもらえるか?」

 「ありがとうございます、お受けしますね。――最近、お休みがちだったので頑張らなくてはいけませんし、それに、大切なお客様ですからね。カミルさんの会社さんも」

 「そうなのか」

 「ええ」

 フェリシアは他にも何か言いたさそうな顔をしていたが、カミルはそれ以上に話す話題も見つからなくてうつむき気味に食事へと戻ってしまい、気まずい雰囲気と沈黙がリビングを覆っていた。

 食事を進める音だけが静寂をより深め、カミルは息苦しさに耐えかねてさっさと食事を済ませると、皿を片付けて逃げるように風呂場へと向かったのだった。

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