薬師の旦那様は記憶喪失らしいです(旧題:旦那が記憶喪失になりまして)

夜風 りん

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 私の居場所はもう、ここにしかない。

 けれど、あなたが私を手放してどこへでも行けと言うのなら、もう二度と振り返ることはないでしょう。

 ――ううん、振り返っても、あなたが気が付かないように振り返るんです。あなたに気が付かれていないなら、それはきっと、気が付いていないってことだから。

 あなたは私を忘れて前だけを見て歩いていってほしい。

 ――そうやって、口先だけはきれいごとを吐き出すんです。本当は甘えん坊の私ができる、最後の奉仕なら、全力で私はあなたを送り出してみせるんです。
 どれだけ私が陰で泣いたって気にしないでください。あなたとお別れをしたら、ひっそりと生きて、ひっそりと死んでいくだけなんですから。


 でも、本当はちょっとだけ、そう、もうちょっとでいいから…覚えておいて欲しかったかな。



     ☆



 医師の静かな声が薄暗い個室の中でやけに大きく聞こえた。


 「今夜が峠となるでしょう。奥さん、後は彼の生命力に任せるほかはありません。どうか名前を呼んで呼び戻してあげてください。きっと、あなたの声を聞いたら戻ってきますよ」


 冗談交じりの優しい声に色濃く隈を浮かべた女性はまったりと優しい笑みを浮かべながら大きく頷いてそっとベッドで横たわる男性の手に自らの手を重ねてその手を持ち上げながら、その手に額を押し当てた。

 「はい、ありがとうございます、先生」

 ココア色の髪の毛に同じ色の瞳をした女性はそっと夫の手を握りしめながら静かに目を閉じた。
 そんな彼女の様子を見ながら医師は告げる。

 「もしものための施術の道具を用意してきますので、少しだけお待ちください」

 「はい」

 医師が出て行ったあと、彼女は優しく告げた。


 「大丈夫です、あなたのことは絶対に死なせませんからね、カミルさん」


 もう一度開いたその瞳が美しい緑色に染まっていたが、その瞳は辛そうな色を帯びていた。

 「カミルさん、どうか戻ってきてください」


 そう祈りながら彼女は再び目を閉じる。彼の無事だけを祈りながら。



 だが、どれくらい時間が経ったのだろう?

 医師が万が一のためにと器具を用意し、しかし、脈拍が安定してきているということで退室し、何かあったときに呼んでくださいと言い残して行ってしまったのを見送った彼女は朝の光でゆっくりと目を覚ました。

 「…ん…あ、私ってば寝て…」

 口元の涎を拭ってゴシゴシと両眼をこすった彼女はふと、目の前で眠っていたはずの彼が起きていることに気が付いてハッと息をのんだ。

 「目が覚めたのですか…?」

 彼はゆっくりと振り返っておぼろげな表情のまま尋ねた。

 「ここは、どこだ?」

 「病院です。大怪我をした私たちをギルドの方々が運んでくださって、それで何とか無事だったのです…」

 彼女の言葉にカミルは怪訝そうな顔をした。

 「大怪我…? って、痛っ!」

 ズキッと体が痛んだのか、顔をひきつらせた彼に彼女は優しく手を添えてゆっくりと横たわる手伝いをし、そして静かに声を掛けた。

 「急に動くとせっかく閉じた傷口が開いちゃいますから、まだ安静にしていなくちゃだめですよ」

 「…そう、か」

 まだ眠そうな顔でそう言った後、彼は少し戸惑った顔で尋ねた。

 「ところで、一つ聞いてもいいか?」

 「はい?」

 彼女がキョトンとしながら頷くと、カミルは眉間に皺を寄せ、目を細めながら枕もとを探り、眼鏡を手にして身に着ける。
 そして、何度か瞬いた後に彼はしばらく悩んだ顔をしていたが、切り出した。


 「お前は誰だ?」


 「…」

 「……」

 二人の間に沈黙が横たわり、彼女は思い切り小首を傾げた。

 「…あの、カミルさん? 何をおっしゃっているんですか?」

 「その、正直に言わせてもらうが、あんたのような人は知らない。…ん、いや、知っているような気もするが、特に親しかった記憶がないのだが、誰だ?」

 彼女は絞り出すように告げた。


 「…私は、あなたの妻のフェリシアと言います。結婚して6年経ちます」


 カミルは怪訝そうにフェリシアを見ていたが、難しそうに顔を歪めるだけで何も思い浮かんでいないようだった。

 「フェリシア……いや、知らない名前だ」

 フェリシアがココア色の瞳を見開いて驚愕の表情を浮かべたが、誤魔化すように慌てて曖昧に笑ってみせた。

 「先生をお呼びしてきますね」

 「…あ、あぁ…」

 カミルは戸惑って頷き、フェリシアの背を見送った。


 「…いや、やっぱり知らないな…」

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