薬師の旦那様は記憶喪失らしいです(旧題:旦那が記憶喪失になりまして)

夜風 りん

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過去編 フェリシアとカミル

#4

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 行きつけのカフェで勉強をしようと、休日にカミルは教科書を鞄に入れ、最低限のお金を懐にカフェを訪れていた。

 前の恋人と別れてから誰とも付き合っていないということで、まだ失恋のショックを引きずっているんじゃないかと笑われたこともあったが、そうではないので軽く流していた。
 だが、お目当てである彼女とは一ミリも距離を詰められないどころか、ここ一か月ほどは会うことも、見かけることさえできていないのでかなり落ち込んでいるのだが。

 「あ、マスター。いつものお願いします」

 そう言うと、カフェのマスターは優雅に頷いた。

 飲み物を持ってきてもらうまでの間、カミルは窓側の一番奥、角席に腰を下ろす。
 そこが彼の特等席だったし、マスターが気を利かせていつも角席をこの時間は空けておいてくれるのだ。とはいえ、この時間をある程度すぎてしまったり、混雑していたら確保は難しいので用意してもらわなくても仕方がないと諦められる、その程度のものだが。

 教科書を広げて視線を下ろし、ページをめくる。

 そうして紅茶が運ばれてきたことさえ気が付かないほど集中していたのだが、ふと、コンコンッと目の前をノックされ、彼は我に返った。
 顔を上げると幼馴染のベンがいた。

 「ベン」

 「よ、カミル。一人寂しく勉強か? お前が女を侍らせていないのは珍しい」

 「侍らせるとかいうなよ。まあ、…今、恋人がいないのは事実だけど」

 カミルは口を尖らせて紅茶を啜ると、ベンは楽しそうに笑った。

 「前、いいか?」

 「ああ、構わないが…お前も一人か?」

 「マーサはお友達とケーキバイキング。女子会だから野郎は来るなってさ。来るなら女装推奨らしいし、化粧までさせられそうになったから逃げてきたんだ」

 「ご愁傷様。というか、そういう扱いを受けてもまだ付き合い続けようと思うのか?」

 カミルは呆れ顔を浮かべると、ベンはマスターにアイスコーヒーと特製プリンを注文してからカミルの正面に腰を下ろす。

 「尻に敷かれていた方が楽だろ? 色々と、さ」

 「摩擦が少ないって?」

 「そうともいう。が、マーサだって可愛いところはあるんだぞ? 俺にしか見せない顔、みたいな」

 「可愛くないというか、可愛いところがないって言っているわけじゃないぞ? …さすがにそそられる程の何かを感じたことはないが…」

 カミルは紅茶を一口啜り、息を吐き出す。
 ベンはヘラリと惚気た。

 「まあ、おこちゃまにはまだ、この領域は早いって奴だよ」

 「…お前らは20年くらい連れ添った中年夫婦並みの関係だからな…」

 その言葉を聞き流したベンは楽しそうに笑う。

 「ところで、カミル。お前、最近は誰かと付き合っているって話を聞かないけど、大丈夫か? その若さで枯れたわけじゃないだろうな?」

 「人聞きの悪いことを言うな」

 嫌そうな顔をしたカミルに、ベンはニヤリと笑いながら小首を傾げる。

 「じゃあ、どうなんだよ?」

 「…気になっている人ならいるけど、その人と全然会えないから距離を一ミリも縮められない」

 カミルが小さな声でそう絞り出すと、ベンは呆れ顔を浮かべた。

 「ちなみに、どういう子? 答えによってはマーサが怒るだけじゃあ済まないけれど、カミルは親友だから相談くらいは乗るよ?」

 彼はベンを見据えて遠慮がちに言った。


 「薬学部の…フェリシアさん」


 その直後、ベンはギョッとして怪訝そうに首を傾げた。

 「カミル、頭でも打った? …君は美人でモテモテな感じのビッチ系が好きだと思っていたよ。付き合った人数的には断然、そっちの方が多かったと思うけど…?」

 「…そういうわけでもないんだが…」

 カミルは視線をそらして俯くと、ベンはやれやれと首を横に振った。

 「まあ、でも、…かなり勇気があるね? フェリシアちゃんはマーサの親友だし、マーサは野郎に冷たいけど、女の子には優しいし、特にフェリシアちゃんに対して過保護なオカンだよ?」

 「…それは…」

 「それに、フェリシアちゃん、男の人は苦手らしいよ?」

 「…え?」

 カミルは凍り付いたように身を強張らせた。
 ベンはアイスコーヒーとプリンを運んできてもらうと、それを受け取って嬉しそうに顔を綻ばせ、そしてプリンを一匙すくって頬張り、幸せそうに顔を綻ばせる。

 「仲良くしようと思ってフェリシアちゃんに近づいたら、物凄い勢いで逃げられちゃって、辛うじて堪えてくれていた時は、プルプルと震えていたし…」

 「そ、そんなに!?」

 絶望溢れる顔をしたカミルを見やり、ベンは小首を傾げた。

 「何とか仲良くなったけど、接近だけは気を付けなよ?」

 カミルは不安そうな顔をした。

 「何か辛いことでもあったのか?」

 「そこまでは…なんとも。でも、今までみたいにガンガン攻めたらダメだと思う。思いやりと誠意が大事だと思うよ。果てしなく遠い道のりだろうけどね」

 カミルは一瞬、現実逃避して何気なく外を見た時、マーサとフェリシアが会話をしながら通っていくのを見かけてハッと息をのんだ。
 顔を上げて入り口の方を見やると、マーサとフェリシアが楽しそうに会話をしながら店内に入ってくるのが見えた。

 カミルの視線の先を何気なく追ったベンは目を輝かせて大きく手を振る。

 「あ、マーサ!」

 マーサがニコッと笑ってフェリシアと共にやってきた。

 「ベンがカミルと一緒にカフェだなんて珍しいのね?」

 「コーヒーくらいは飲みに行くことだってあるよ」

 フェリシアはカミルと目が合うと、ペコッとお辞儀をしたので、カミルも内心で自然とドキドキしてしまいながらぺこりとお辞儀をした。
 ベンが奥に詰めたので、カミルもそれに倣うと、マーサはベンの隣に腰掛け、結果的にフェリシアが隣側へ腰を下ろすこととなったのだが、間に荷物が置かれてしまったため、距離がかなり開いた形となった。

 「何か飲みますか?」

 カミルはフェリシアに尋ねると、彼女はビクッと驚いたように身震いしたが、ふにゃりと力なく笑った。

 「あ、えっと…じゃあ、紅茶がいいのですけど…」

 「ブレンドはお任せでも?」

 「はい」

 ニコッと笑ったフェリシアの顔に見惚れていると、彼女が不思議そうな顔をした。

 「あの、何かついていますか?」

 「え? あ、いや…そういうわけでは…」

 饒舌に喋ることもできるはずなのに、頭に浮かんだ言葉は声にならずに飲み込まれた。

 いつになくガチガチに緊張しているカミルを物珍しそうに見ているマーサにベンは慌てたように尋ねる。

 「マーサは? 何か飲む?」

 「じゃあ、同じアイスコーヒーがいい」

 「わかったよ」

 頷いてからマスターに紅茶のお任せブレンドとアイスコーヒーを注文し、それから緊張していることが目に見えてわかるカミルを振り返る。

 『大丈夫か?』

 口パクでそう尋ねたベンに、カミルは気の抜けた満足そうな笑みを向けた。
 そんなカミルに追い打ちをかけるようにマーサが告げる。

 「あ、そういえば、ベンもカミルも予定、空いているかしら?」

 「どうしたのさ、急に?」

 「演劇のチケットが当たったんだけどね、男女ペアチケット二セットなの。でも、同じ劇に二回行っても面白くないし、四人で一緒にどうかなって」

 「四人ってマーサとフェリシアちゃんと、それにカミルと僕?」

 「そう」

 カミルはその瞬間、天にも昇りそうな心地になっていた。

 「フェリシアちゃんはいいの?」

 ベンの――カミルにとっては余計な、そしてフェリシアにとっては優しい――配慮にフェリシアがふわっと柔らかく嬉しそうな顔をした。

 「はい。とてもいい席らしいですし、楽しみです!」

 「それはよかった」

 マーサが顔を引きつらせながらカミルを見やった。

 「余計なことは考えないでよね、カミル?」

 「考えていません。本当にありがとうございます、マーサ様」

 「…はぁ」

 カミルの歓喜の表情を余所に、マーサはかなり呆れた顔をしたが、フェリシアがニッコリと笑いながら振り返ったのでカミルはもう、今すぐ死んでもいいような心地になっていた。

 「来週、よろしくお願いします」

 「はい、もちろんです」

 いや、むしろ死ねないと思ったようだが。
 紳士的な笑みを浮かべながら内心で喜びを爆発させているカミルを見やり、フェリシアは少しだけ寂し気にクスッと小さく笑った。


 「……全然違うのに、とそっくりなのです…」


 そう呟いてみて、フェリシアは緩々と首を横に振り、マーサに声を掛けられて我に返ったように笑みを浮かべた。

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