7 / 8
7話
しおりを挟む
***
(何時の間にか眠っていたのね……)
薄暗い部屋にカーテンの隙間から差し込む淡い光にアリシアはすうと目を細める。
自然と息を吐く。
静寂な空間。
誰もアリシアの事に関心を示す者等、いない。
今、仮に体調を崩し熱が出ていてもアリシアの事を心配する人など、誰一人、存在しない。
一人、ポツンといるだけ。
父親が再婚してからアリシアは家族の一員として存在しない。
へスペロス家の長女としてのアリシアは存在する。
だけどアリシアは父に認められた娘では無い。
嫌悪する女の胎から産まれた卑しい娘。
アリシアに一片の愛情すら持ち得ない。
父親にとってアリシアは政治的な駒でしか無い。
ふと、とアリシアは思う。
アリシアもイグニスと同じ。
イグニスと同じく孤独だ、と。
(ふふふ、似た者同士と言うのかしら、私とイグニスは。
いいえ、違う……)
決定的な違いが、ある。
イグニスには愛する存在がいた。
無償の愛を与えイグニスを愛しんだ母親が。
アリシアには決して手に入れる事が出来なかった母親の愛情をイグニスは注がれていた。
イグニスには母親に愛された記憶が存在している。
愛する者を喪った哀しみを知っている。
アリシアには、そんな感情すら、無い。
イグニスの純粋な感情にアリシアはほんの少し、心が揺れた。
自分には持ち得ない感情。
母親が自らの命を絶った時、アリシアは歪んだ執着に哀れを覚えた。
何かを強く望むと、母の様に哀れな最後を迎える。
だからイグニスとの関係にも何も望まなかった。
愛する意味を知らない女が、イグニスの愛を得る事など決して出来ないと、耳元で囁く己が存在して。
だから理不尽な最後に混乱と絶望と怒りを抱いた。
愛しても無い女に執着して離そうとしないイグニスの蛮行に、アリシアの精神は追い詰められた。
何故、何故、何故と頭の中で反芻される言葉。
狂乱して抵抗してイグニスから逃れようとしても、組み敷くイグニスの力は強固で。
女のアリシアの抵抗など物ともしないイグニスの圧倒的な力にアリシアは初めて、恐怖を感じた。
マルティナに注がれる視線とは違う。
初めて注がれた男の劣情。
アリシアの純潔を呆気なく奪った。
「い、いやっ!
思い出したくも無い!
悍ましい……」
ガクガクと身体に震えが走る。
あれは過去の遺物。
過去の幻影。
今の人生に必要の無い……。
「絶対に逃れてやる。
イグニスとの運命に絡まれ自らを破滅に導く事なんて、そんな愚かな人生など歩まない」
なのに、ずきり、と胸に痛みが走る。
何かが己に訴えていると、大切な何かを忘れて去っていると。
アリシアは無意識に呟いていた。
***
「……、一体、あの女は何だ!
俺は何を呟いていた……」
初めて会ったアリシアにイグニスは違和感を感じていた。
9歳の女の小賢しい淑女の礼に、イグニスは冷めた目でアリシアを見ていた。
へスペロス家の長女は母親の身分が低いにも関わらず、イグニスの婚約者として定められた事にイグニスは自虐的な笑みを浮かべていた。
噂では金にモノを言わせてアリシアの母親はへスペロス家の正妻に収まったと知り、イグニスはアリシアに嫌悪感しか抱く事が出来なかった。
欲に塗れた女の胎から産まれた卑しい娘。
イグニスを蔑すみ公爵はアリシアを婚約者として据えたのか。
(馬鹿にするにも程がある……)
所詮、イグニスにはそれだけの価値しか無いと、公爵は判断したのか。
互いの母親の身分が同列であると思いアリシアをイグニスの婚約者に据えたのかとイグニスはクッと口角を上げた。
どんな女が婚約者であってもイグニスの感情に愛など芽生える筈が無い。
母親であるルシアを喪ってイグニスの心は凍てついてしまった。
決して揺さぶられる事など無い。
なのにアリシアの無意識の涙に、イグニスの心に何かが宿った。
アリシアに近づき、そっと頬に触れて涙を拭っていた。
そして何かを呟いていた。
譫語の様に。
(俺は……)
大きくかぶりを振る。
普段のイグニスとは思えない仕草だ。
(アリシア・へスペロス)
9歳とは思えない静けさを称えた瞳にイグニスの感情が一瞬、揺れた。
その感情を己は知っている。
そう思った途端、強い痛みが胸に宿る。
(な、何だ、この胸の痛みは!
俺は一体……)
キリキリと胸の奥が熱を孕んでいる。
何かを忘れている。
俺は大切な何かを忘れている、とイグニスはそう、囁いていた……。
(何時の間にか眠っていたのね……)
薄暗い部屋にカーテンの隙間から差し込む淡い光にアリシアはすうと目を細める。
自然と息を吐く。
静寂な空間。
誰もアリシアの事に関心を示す者等、いない。
今、仮に体調を崩し熱が出ていてもアリシアの事を心配する人など、誰一人、存在しない。
一人、ポツンといるだけ。
父親が再婚してからアリシアは家族の一員として存在しない。
へスペロス家の長女としてのアリシアは存在する。
だけどアリシアは父に認められた娘では無い。
嫌悪する女の胎から産まれた卑しい娘。
アリシアに一片の愛情すら持ち得ない。
父親にとってアリシアは政治的な駒でしか無い。
ふと、とアリシアは思う。
アリシアもイグニスと同じ。
イグニスと同じく孤独だ、と。
(ふふふ、似た者同士と言うのかしら、私とイグニスは。
いいえ、違う……)
決定的な違いが、ある。
イグニスには愛する存在がいた。
無償の愛を与えイグニスを愛しんだ母親が。
アリシアには決して手に入れる事が出来なかった母親の愛情をイグニスは注がれていた。
イグニスには母親に愛された記憶が存在している。
愛する者を喪った哀しみを知っている。
アリシアには、そんな感情すら、無い。
イグニスの純粋な感情にアリシアはほんの少し、心が揺れた。
自分には持ち得ない感情。
母親が自らの命を絶った時、アリシアは歪んだ執着に哀れを覚えた。
何かを強く望むと、母の様に哀れな最後を迎える。
だからイグニスとの関係にも何も望まなかった。
愛する意味を知らない女が、イグニスの愛を得る事など決して出来ないと、耳元で囁く己が存在して。
だから理不尽な最後に混乱と絶望と怒りを抱いた。
愛しても無い女に執着して離そうとしないイグニスの蛮行に、アリシアの精神は追い詰められた。
何故、何故、何故と頭の中で反芻される言葉。
狂乱して抵抗してイグニスから逃れようとしても、組み敷くイグニスの力は強固で。
女のアリシアの抵抗など物ともしないイグニスの圧倒的な力にアリシアは初めて、恐怖を感じた。
マルティナに注がれる視線とは違う。
初めて注がれた男の劣情。
アリシアの純潔を呆気なく奪った。
「い、いやっ!
思い出したくも無い!
悍ましい……」
ガクガクと身体に震えが走る。
あれは過去の遺物。
過去の幻影。
今の人生に必要の無い……。
「絶対に逃れてやる。
イグニスとの運命に絡まれ自らを破滅に導く事なんて、そんな愚かな人生など歩まない」
なのに、ずきり、と胸に痛みが走る。
何かが己に訴えていると、大切な何かを忘れて去っていると。
アリシアは無意識に呟いていた。
***
「……、一体、あの女は何だ!
俺は何を呟いていた……」
初めて会ったアリシアにイグニスは違和感を感じていた。
9歳の女の小賢しい淑女の礼に、イグニスは冷めた目でアリシアを見ていた。
へスペロス家の長女は母親の身分が低いにも関わらず、イグニスの婚約者として定められた事にイグニスは自虐的な笑みを浮かべていた。
噂では金にモノを言わせてアリシアの母親はへスペロス家の正妻に収まったと知り、イグニスはアリシアに嫌悪感しか抱く事が出来なかった。
欲に塗れた女の胎から産まれた卑しい娘。
イグニスを蔑すみ公爵はアリシアを婚約者として据えたのか。
(馬鹿にするにも程がある……)
所詮、イグニスにはそれだけの価値しか無いと、公爵は判断したのか。
互いの母親の身分が同列であると思いアリシアをイグニスの婚約者に据えたのかとイグニスはクッと口角を上げた。
どんな女が婚約者であってもイグニスの感情に愛など芽生える筈が無い。
母親であるルシアを喪ってイグニスの心は凍てついてしまった。
決して揺さぶられる事など無い。
なのにアリシアの無意識の涙に、イグニスの心に何かが宿った。
アリシアに近づき、そっと頬に触れて涙を拭っていた。
そして何かを呟いていた。
譫語の様に。
(俺は……)
大きくかぶりを振る。
普段のイグニスとは思えない仕草だ。
(アリシア・へスペロス)
9歳とは思えない静けさを称えた瞳にイグニスの感情が一瞬、揺れた。
その感情を己は知っている。
そう思った途端、強い痛みが胸に宿る。
(な、何だ、この胸の痛みは!
俺は一体……)
キリキリと胸の奥が熱を孕んでいる。
何かを忘れている。
俺は大切な何かを忘れている、とイグニスはそう、囁いていた……。
13
お気に入りに追加
48
あなたにおすすめの小説

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。


婚約者の側室に嫌がらせされたので逃げてみました。
アトラス
恋愛
公爵令嬢のリリア・カーテノイドは婚約者である王太子殿下が側室を持ったことを知らされる。側室となったガーネット子爵令嬢は殿下の寵愛を盾にリリアに度重なる嫌がらせをしていた。
いやになったリリアは王城からの逃亡を決意する。
だがその途端に、王太子殿下の態度が豹変して・・・
「いつわたしが婚約破棄すると言った?」
私に飽きたんじゃなかったんですか!?
……………………………
たくさんの方々に読んで頂き、大変嬉しく思っています。お気に入り、しおりありがとうございます。とても励みになっています。今後ともどうぞよろしくお願いします!

勝手にしなさいよ
棗
恋愛
どうせ将来、婚約破棄されると分かりきってる相手と婚約するなんて真っ平ごめんです!でも、相手は王族なので公爵家から破棄は出来ないのです。なら、徹底的に避けるのみ。と思っていた悪役令嬢予定のヴァイオレットだが……
悪役令嬢のビフォーアフター
すけさん
恋愛
婚約者に断罪され修道院に行く途中に山賊に襲われた悪役令嬢だが、何故か死ぬことはなく、気がつくと断罪から3年前の自分に逆行していた。
腹黒ヒロインと戦う逆行の転生悪役令嬢カナ!
とりあえずダイエットしなきゃ!
そんな中、
あれ?婚約者も何か昔と態度が違う気がするんだけど・・・
そんな私に新たに出会いが!!
婚約者さん何気に嫉妬してない?

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

【完結】悪役令嬢の反撃の日々
くも
恋愛
「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。
「ええ、ありがとう。今日も大勢の方々がいらっしゃるわね。」ロゼリアは微笑みながら答える。その微笑みは氷のように冷たく見えたが、心の中では別の計画を巡らせていた。
お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。
「ロゼリア、君の美しさは今日も輝いているね。」レオンハルトは優雅に頭を下げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる