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第13話 永劫の楽園にて

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 無限に広がる真っ暗闇の中に、曜はいた。
 まるで全身が見えない何かに圧迫されているみたいで力が入らず、曜の意思では指先のひとつに至るまで動かすことが出来なかった。
 これはたぶん夢だ、と曜は思った。

 仰向けに横たわって浮かぶ曜の上に覆い被さるように、曜よりもひと回り大きな何かがもぞもぞと動いていた。編み込みを解いた長くて輝く黒髪が、まるで海藻みたいに美しく闇の中にたゆたっているのが分かった。来海だった。
 来海も曜も、何故か服を着ていなかった。

 曜の胸元や腕や首筋に、来海が口づけするとその部分が次々焼けるようにして熱を帯びた。来海が深く深く沈み込んでくる度、曜は彼女にひとくちずつ食べられていった。何かを咀嚼する様なねばつく音が、闇の中に響いては消えていった。

 来海が不意に動きを止めて、顔を上げる。来海の純白の素肌が、ルビーのように真っ赤な曜の血で鮮やかに染め上げられていた。来海は曜と見つめ合って、二ッと笑った。紅を塗りたくったような口元が吊り上がるのと裏腹に、その瞳はうるんでいた。来海は嬉しそうでありながら、同時にとても悲しそうでもあった。

 泣かないで、来海姉ちゃん。曜は心の中でそう願った。
 ぼくは来海姉ちゃんに、ずっと笑っていてほしいんだ。そのためだったら、ぼくなんて何もかも全部食べてしまって構わないから。

 けれども来海は今一度曜の胸に口づけしようとして、寸前で動きを止めていた。何かを訴えるようにアウアウと言葉にならない言葉が彼女の口から漏れ、その細いあごを伝ってポタポタと血の涙がしたたり落ちる。行先を目で追った曜はその時はじめて、自分の胸にポッカリ大きな穴が空いているのに気付いた。熱を帯びた他の部分と違って、そこだけが死んだみたいに冷たかった。

 曜の願いに反し、来海の涙はいつしか溢れて止まらないようになった。不思議なことに来海が涙を流せば流すほど、それらは曜の胸の空白に溜まっていって、やがて冷たかったその部分に温もりが蘇っていった。来海の涙はまるで魔法が宿ったみたいだった。曜には来海が一層愛おしいと感じられた。

 闇の中に涙が溶けていくのを見て、曜は自分たちが深い海の底にいるのだという事実に初めて気が付いた。あの神殿が闇の奥に横たわっているのが見える。音も光もない海底の楽園で、曜と来海は誰に邪魔されることなくふたりきりだった。この時間が永遠に続けばいいと曜は願った。曜は懸命に来海を抱きしめようとした。

 何の前触れもなくカッと閃光が走り、来海も含めた海底世界のすべてが一瞬にして目の前から消え去った。

「――おい、いつまで寝てんだよ。いい加減起きろよ」
 一方的に部屋に入った姉が、勝手に電気をつけていた。曜は布団を引き上げて不愉快な音をシャットアウトしようとするが、一度覚醒した意識はもう元には戻らない。

 あの騒動の日から既に一週間経っていた。曜はその間学校を休んで、二階にある自分の部屋へ籠って、ベッドからも殆んど出ようとはしなかった。閉め切ったカーテンの外から聞こえるのは雨の音だった。もうずっと雨しか降っていない気がした。

「お母さんが誰のために仕事休んでくれたと思ってんだよ。せっかく作ってくれたメシもお前ちっとも食わねーしさ」
「……出てってよ」
「……悪かったって言ってるだろ」

 姉は言葉とは裏腹に何とも不服そうだった。今だって大方、母から言われて渋々様子を見にきたとか、所詮そんなところなのだろう。

「あたしだって結構叱られたしさ……弟相手にやり過ぎだって。けどテスト期間で帰りが早くなかったら、お前ホントに危ないところだったんだからな」
 それでも何も言わない曜に、姉は露骨にため息をつくと、食事のおぼんをやや乱暴めに曜の机の上に載せた。母が部屋の前にでも置いていったのだろうか。

「……どうでもいいけど、臭せぇぞこの部屋。起きたらちゃんと掃除しろよ」

 相変わらず勝手ばかり言うと、姉はドアを閉めて一階へ降りて行ってしまった。
 だが曜にとってみれば、姉が今更心の底から謝ってきたとしても、そんなのは何もかも全てどうでもいいことだった。

 なぜならば、曜の魂はきっと今も来海と共にある。来海の母の言葉が正しいなら、曜と来海は離れているように見えても、この世の見えない領域ではずっとお互いの傍にいる。不完全に終わってしまったとはいえ、あの日以来、時々夢に現れてくる不思議な光景が、決して希望が絶えた訳ではないことを示唆している。

 警察の人の話によれば、母親の方はともかく来海については実質的には被害者みたいなものだから、少なくとも彼女自身がこの先、人殺しとかで裁かれる心配はないし、時間はかかってもいずれは警察から解放されるだろうということだった。
 ならば曜がすべきことは決まっている。

「…………絶対会いに行くからね、来海姉ちゃん」

 曜は雨が降り続ける窓の外に向かって、誰へともなく呟いた。
 曜はもう来海の一部なのだ。いつか戻ってきた来海と再会してみせる。その時こそ、

 食べられて、ひとつになる……。

(おわり)
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