夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ

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8.決着

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 窓際に置かれたベンチに二人で腰掛ける。部屋の隅にまだ片付け途中の荷物が見えた。明日の朝には出発するため準備をしていたのだろう。

「………」

 お互い俯いて沈黙が続く。私は月明かりが作った私達の影をぼんやりと眺めていた。すると彼の影が動いた。彼の方を見ると、私を真っ直ぐ見つめていた。

「怖いの?まるで宣告を受ける前の受刑者の様な顔ね」
「…正にそうだな」

 彼のすがるような目で満たされていく気持ちになる。それは愛なのか、復讐心なのか。

「触れてもいいわ。でも口付けはしないで。それ以外だったら許す」

 彼の目が驚きで開かれた後、またじっと私を見つめた。ゆっくりと彼の右手が私の頬を包む。びくりと体が震えた。そして指で私の瞼をなぞり、頭、耳、首を撫でていく。反対の手で前髪を優しく避けて、更に深く見つめられた。その瞬間、私の目から涙がぽたりと落ちた。

「…ティアナ」
「やめて」

 彼の肩を押して距離を置いた。私は立ち上がる。

「待ってくれ!」
「どうしてもっとそれを早く言ってくれなかったの!?」

 もう恥も何もかも全て捨てて、私はこの男にぶつける。二十数年の決着だ。

「私がいなくなってやっと決心がつくなんて本当に…最低よ!」
「…すまない」
「あなたはそればかり!触られて分かったわ。私はあなたが憎い…苛立ちしか生まれない」
「ティアナ」
「私の事なんて後継を産む存在としか思ってなかったくせに!」

 私の言葉に彼が傷付いた様な顔をした。

「…何よ。あなたが言ったのよ?結婚に夢見たあの頃の私に、俺は愛さない、そして君も俺を愛するなって。子どもさえ産めばいいって」
「…すまない」
「あなたが言ったのよ!?」
「すまない…ティアナ…」
「私はその言葉に何十年も傷つけられて、それでも我慢したの!あなたのこれまでの人生に同情して、こうなってしまうのも理解した!どうしてか分かる…?」

 彼は悲痛な表情で私を見つめるだけで何も言わなかった。

「あなたを…愛してたからよ」

 両手で顔を覆い、啜り泣く。私の泣き声が部屋に響く。

「…でも耐えられなくて…だから離れたのに。今更になって追いかけてきて、感謝を言いたいですって?あなたはまだ逃げるのね」

 私は彼の胸倉を掴んだ。

「卑怯者」

 彼の瞳からぽろりと涙が溢れた。

「この2ヶ月、私のために甲斐甲斐しく尽くすあなたを見て清々した。今のあなたの傷付いた顔を見てもっとすっきりしてる。あなたは私を随分と買い被っている様だけど、こんな風にあなたを罵倒して胸倉を掴むような女なの。でもそれもあなたのせいよ。追いかけて来なければ、こんな事をしなくて済んだのに」

 掴んでいた手を放す。彼は俯いていた。私は同じ空間にいる事も嫌になって、部屋を出ようと扉に向かって歩き出した。でも彼が私の手を掴んで止められてしまう。

「やめ…」

 振り払おうとしたけどできなかった。彼の手が震えている。しかも生きているのか疑う程冷たい。

「俺は…俺は…」

 紡ぐ言葉が震えている。怯えている。

「…そんなにも、怖いの?」

 私は彼と向き合った。カタカタと震える彼はまるで子供のようだった。

「何がそんなに怖いの?」
「…自分が怖いんだ」
「どうしてそう思うの?」
「…俺は君が欲しくてたまらない」
「それでいいじゃない」
「違う…違う」

 彼は私の肩を掴むとぐっと顔を寄せて、見た事ない様な恐ろしい目をしながら言った。

「誰にも見て欲しくない俺だけの君であってほしい君も誰も見るな俺だけを見ていればいいどこにも行かないでくれずっと俺から離れないでくれどこにも行かさない今この瞬間も」

 彼はそう言い切ると私の腕を掴んで荒々しくベッドに倒した。そして呆然とする私に覆い被さり、どこにも行かせまいと両手を繋いでベッドに縫い付ける。

(これが…彼の愛)

 まるで別人だった。刺す様な鋭い目で殺されそうだ。彼はこれを恐れていたのか。 

「…俺の母は別の人を愛していた。なのに父と結婚させられた」

 初めて彼から聞く、彼の家族の話。彼がこうなってしまった全ての元凶。

「母は努めていたけれど、父は分かっていた。この先絶対に母からは愛されない事を。母を愛してしまった父はどんどん狂っていって、母を屋敷に閉じ込めた。母は一層父の事が嫌いになって、最後はお互い憎み合って別れた」

 彼の手の力がふっと抜けた。私は掴まれていた手を解いて彼の頬を両手で優しく包む。

「俺はそんな人達の血を分けた人間だ。俺も同じ様に」
「違うわ」
「どうして」
「だって私はあなたを愛しているんだもの」

 驚いた彼の瞳からぽたぽたと涙が溢れ、私の頬を濡らす。

「あなたと、あなたの両親は違う。お2人は確かに愛を育む事はできなかった。でも私はあなたを愛してるの。だからあなたに求められれば求められる程嬉しいのよ」

 まだ義父が生きていた頃、ライアンを連れて背中を拭きに通っていた時期がある。義父は終始無言だったけど、一度だけ『あの子を愛しているかい?』と聞かれた事がある。私ははっきりと『はい』と答えて、その返事はなかったけどあの時義父はどんな表情を浮かべていたのだろう。でもきっと、安心させる事はできていたと思う。正直彼をこんな風にして憎いけれど、私はあの時はっきりと答える事が出来て良かったと思った。
 今度は私が彼の顔をこちらに近付ける。

「もっと見て。私だけを見て」
「ティアナ…」
「あなたは自分が狂ってしまうのが怖かったの?」
「君を傷つけたくなかった」
「だからって私を愛さない様にして私もあなたを愛するなと?変な話ね。結局私はその言葉に傷ついてあなたから離れたわ。あなたの恐れていた結果と同じよ?」

 何も言わない彼を優しく抱きしめた。彼がゆっくりと私に体を預けていくのが分かる。

「あなたは憎い父親と同じ様になりたくなかっただけ。愛なんて馬鹿馬鹿しくて、そんなものに振り回されたくなかっただけ。私に何も言わずに決めつけて、だから自分勝手と言うのよ。確かに一方的な想いは負の結果を招く事もある。でも私たちは違う。あなたは知らないの。想い合う事は大きな力を生むのよ。人生が台無しになったりしない、むしろ豊かになるの」

 彼は静かに聞いていた。冷えていた彼の体が私の体温で暖まっていく気がする。

「むしろ狂ってもいいの。私はあなたに狂う程愛してもらいたかった」
「ティアナ…」

 彼が起き上がった。先ほどとは違う熱のこもった瞳に私の心臓が高鳴る。

「愛してる」

 やっと言ってくれた。ずっと待ち侘びた、この言葉を。

「もっと言って」
「愛してる」
「もっと」
「愛してる」
「クリス…来て」

 私の言葉を飲み込むように彼は私に口付けた。私達はすぐに求め合う。どちらの唾液なのか分からないくらいに貪り合って、息をする事もままならないくらいに口付け合った。

「ねえ、ずっと聞きたい事があったの。どうやってあのネクタリンを手に入れたの?」

 彼がたった一つのネクタリンを届けてくれたあの日の話。母にまつわる話だっただけに、今日まで聞けずにいた。

「そういえば話していなかったな」

そう言うと、彼は私を抱きしめていた手を解いて上を向いた。私は彼に腕枕をしてもらいながら話を聞く。

「長くネクタリンを提供するために、工程を調整して収穫の時期をずらしてもらっているんだ。それで最後に収穫する農家にもしかしたら余っているのではないかと行ってみた。狙い通り、売り物に出せない粗悪品が少々残っていて、その中でもなるべく綺麗な物を何個か譲ってもらった」
「何個か?あなたが持って来たのは一つだけだったわ」

そう指摘すると、彼が気まずげな顔をした。

「…それが、途中で転倒してしまったんだ」
「え!?」

思わず飛び起きると、彼が薄く笑う。

「幸い、俺も馬も怪我はなかった。躓いたのはなんて事ない小さな石だったんだがな、夜通し走ったから馬も相当疲弊していただろう。だがほとんどのネクタリンが潰れてしまった。熟していたからね。柔らかかったから、しょうがなかった」

だからあんなに砂埃にまみれていたのね、とあの時の彼の状態を思い出す。本当に、怪我がなくて良かった。

「奇跡的に一つだけ助かったんだけど、そういう訳だから馬を休めなくちゃいけなかった。すごくやきもきしたよ。間に合うかどうか、正直自信はなかった」
「私もあなたが丸一日経っても帰ってこなかったから途中で倒れているのではないかと怖かったわ。でもあなたを信じてた。絶対に持って来てくれるって信じてたの」
「ありがとう、信じてくれて」

 私はもう一度横になって彼に抱きしめてもらう。言いようのない幸福感が2人を包んでいるのが分かる。

なぜ今までぶつからなかったのだろう。いや、私達にとってはこのタイミングだったのだ。傷付け合って、離れて、また向き合う。馬鹿みたいに遠回りしたけれど、私はもっと彼の事を好きになった。

「帰る準備をしなきゃな」
「もうある程度は終わったんじゃないの?」
「いや、君のだよ」
「どうして?」
「…え?」

 今度は彼が飛び起きる番だった。

「だって私達別れたじゃない」
「でも俺達は愛し合っているんだろう?」
「それとこれとは別よ」
「だめだ」

 懇願する彼の表情を見ると、体がぞくりと震えた。私は咳払いをして自分を落ち着かせる。素直な彼は心臓に悪い。

「私もやりたい事があるし」
「こっちでは出来ない事なのか?」
「今マリーを介して女の子達にマナー講師の真似事をしているの。結構好評みたいで希望者が殺到していてね。それに母の教えを私で終わらせるのは勿体ないと思って。もっと自主性を育てたいの。マリー達のような若い世代の子にね」
「そうか…」

 全然納得していない様子の彼に私は言い募る。

「言っとくけど私は何年も我慢したのよ?今度はあなたが私に尽くす番じゃなくて?」
「…分かってる」
「別に会わないとも言ってないじゃない」
「…うん」

 どうしよう、楽しくなってきた。すっかり落ち込んでしまった彼の頭を撫でる。

「あなたが借りてたあの屋敷を私が借りて住む事にしたの。そこで教室を開こうと思って」
「……」

 彼が目を見開いて私を見つめる。どうやら分かってくれたらしい。

「壁紙を貼り替えて待ってるわ。今度はちゃんと気付いてね」
「毎週末行くよ」
「ライアンが許してくれたらね」

 私達はもう一度口付けた。


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