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4.予想外の滞在
しおりを挟む大変な事になった。
別れた筈の夫が突然訪問してきて、母に水をかけられて更には近くの空き家でしばらく過ごすと言い出した。
しかも知らなかったのは私だけで、マルクもカーラも知っていたというのだから驚きだ。私は慌ててマルクの元へ行き問い詰めた。
「どうして言ってくれなかったの」
「どうしてって…姉上とはもう関係のない人だろ。無関係の人間が単にうちの領地で暮らしたいってだけだ。何でそんな事を一々姉上に報告するんだ」
「確かに離縁はしたけど…でも」
「まあ…姉上に教えなかったのはわざとだけど」
「え!?」
「そもそも俺じゃなく、あいつが姉上に言うべきだろ」
「あいつって…あなた!」
さっきからやけに棘のある言い方をするマルクに驚く。こんな事を言う様な子じゃないのにと動揺して上手く言葉が続かない。それをいい事にマルクはさらに言い募る。
「ちゃんと税金を払うって言うから仕方なく了承したんだ。毎日姉上の顔を見に来るつもりなんじゃないか?全く…今更何しに来たんだか。とにかく、嫌だったら素直にそう言って追い返しなよ。あいつに関してもう縛られる必要はないんだから」
もうこの話は終わり、と言わんばかりにマルクはさっさと街にある仕事場の屋敷に行ってしまった。ちなみにカーラもカーラでにこにこしながらも、知らない、無関係の人だからといった具合だ。
どうやら随分と前から彼に対して不信感を抱いていただろうに、私のために我慢をしていた様だ。そして私と離縁した今、もう遠慮はいらないとしたらしい。
(…みんな、彼が私を突き放している事に気付いていたのね)
それもそうか、と納得する。
誰にも彼の不満を言った事はなかったが、それでも察せるくらい私達夫婦の仲は冷え切っていたという事だし、正直納得である。それを寂しく思う反面、自分の事のように怒ってくれていた家族達に嬉しい気持ちもあった。
(追い返す…か)
彼が何のためにここに留まるのかなんて、私以外の理由なんてないだろう。マルクの言う通り、今更何なのだ。せっかく前に進もうとしているというのに。
この十数年間、どれだけ私が彼に歩み寄ろうとしたか、求めたか。どんどん目が合わなくなって、ちゃんと向き合いもせずにただ逃げられる事の辛さに、何度打ちひしがれた事か。失ってやっと気付いたとでもいうのだろうか?
「…馬鹿にしないでよ」
マルクの言う通り、彼は毎日うちの屋敷に訪れた。だけど私は頑なに会わなかった。メイドを使って追い返す。
彼は必ず花を持ってきた。夫婦であった頃は一度もくれなかったくせに、馬鹿の一つ覚えみたいに持ってくる。女はみんな喜ぶとでも思っているのだろうか。もう私達はそんな段階じゃないのに。
彼は忙しい人だ。1週間も経てばさすがに帰るだろうと思っていたが、それから1週間経っても、更に1週間経っても滞在し続け、私の屋敷にやってきた。
とっくに生ける花瓶はなくなって、彼に見つからない様にこそこそと出かけるのも煩わしくなり、ついに私は彼と対面する覚悟を決めた。
「ティアナ様、クリス様がお越しになられました」
「…行くわ。準備するから、待っててもらって」
いつも“帰ってもらって”と言っていたからか、少し間を空けてからメイドが「かしこまりました」と返事をした。
あえて身支度を整えてエントランスへと向かった。あなたがみすみす逃した女はこんなにも気品のある女だったのだと見せつけたかったから。
(私を見て後悔すればいい。どうか帰ってきてくれと泣いて縋ればいい。それを私ははっきりと断るのよ)
そこまで考えて、自分の浅はかさに気付いた。いい歳した女が、何をしているんだろう。
「馬鹿みたい…」
そう呟きながら彼の元へ向かうと、私は驚きで言葉を失った。3週間ぶりに会った彼はすっかり痩せこけて、見窄らしい姿になっていたのだ。
「…ティアナ」
「あなた…どうして」
私が声をかけた瞬間、彼の体がよろめいた。
「あなた!」
咄嗟に体を支え、近くにいるメイドにすぐに医者を連れて来る様に伝える。
「あなた!しっかりして!」
「…ティアナ…すまない…」
「クリス!!」
私は何度も彼の名前を呼び続けた。
「どうやら何日も食べておられない様ですね」
「……」
客間に彼を運んで母の主治医に駆けつけてもらった所、予想通りの診断だった。顔も見ずに追い返していたから、まさかこんな状態になっているとは思わなかった。
「恐らく夜も眠れていないのでしょう。今点滴を施しましたから、とりあえずは回復はするでしょうが、必ず栄養を摂る様に。食べ物はゆっくり柔らかいものから始めて下さい」
「分かりました」
「ベラ様の様子も診ていきます」
「はい、よろしくお願いします」
扉が閉まった音で彼が目覚めた。ほっと胸を撫で下ろす。
「…ここは」
「うちの屋敷よ。何か飲む?」
「…いや、まだ起き上がれそうにない…」
そう言って頭に腕を載せた彼に、私は思わず問うていた。
「…あなた、何も食べていなかったって本当?
使用人は?そもそも空き家ってどこなの?」
すると、彼はバツが悪そうに私から目を逸らした。相手が病人と分かっていながら、私は思わず椅子から立ち上がっていた。
「ま、まさか使用人も連れて来ないであなた1人で生活を?」
ややあった後堪忍した様に彼が小さく頷く。私はため息をつきながら頭を抱えた。
「ずっと使用人達に囲まれて育った人間がいきなり1人で生活だなんて…。食事はどうしてたの?まさか作れないからって食べなかったの?」
「…作ろうとしたんだけど、初日に火事になりかけて…」
「か、火事!?」
まさかの大事件に思わず大きな声が出る。
「それでどうしたの!?」
「炊事場が使えなくなったから、それからは近くの食堂とか利用していたんだが…胃の調子が悪くなって満足に食べれなくなって…その」
悲しいかな、もうすぐ40という年齢が足を引っ張ってしまったらしい。毎日外食していては胃の調子が悪くなるのは当たり前である。
「……っふ」
「…ティアナ?」
「いや…てっきり…私があなたを避けてたせいで食べれなくなったのかと思って…それが…い、胃もたれだったなんて…ふふふ…」
私は堪らなくなって失礼と分かりながらもクスクスと笑ってしまった。仕舞いにはこんな身綺麗にしてきた自分にも笑えてきたし、笑う私を見てあたふたする彼の姿も笑えてきて、私は随分と久しぶりに大笑いしたのだった。
「…もう、自分の体くらいちゃんと管理しなさいよ」
「…本当に情けない」
ひとしきり笑った後、ふう、と一息つくと、彼がじっと私を見ていたことに気付いた。
「なに?」
「…いや、君の砕けた喋り方を初めて聞いたな、と思って」
そう言われて気付いた。確かにずっと彼に対しては他人行儀な喋り方をしていた。
(何よ…実際他人だったじゃない。私達)
「…失礼しました」
「あ、いや。非難をした訳じゃないんだ。どうかそのままで」
「まだ起きあがっちゃだめよ!」
まだ十分に回復していないというのに、体を起こしてまで懇願する彼を止める。
「…分かったわ。これでいい?」
「ああ。ありがとう」
何の感謝よ、と思いながら満足げに目を瞑る彼を一瞥した後、立ち上がる。
「行くのか?」
「ええ、あなたも目覚めた事だし。さすがに今夜は泊まっていって。でも必ず明日の朝にはここを出てね」
「…また会ってくれるか?」
なんだその声色は。さっきの砕けた口調のままでいいと懇願した時といい、何て弱々しいのだ。
「…火事を起こしたと聞いて放置出来るわけないでしょう。明日は無理だけど、明後日あなたの家にメイドを連れて行くわ。だから明日は花なんか持って来なくていいから。お願いだから、ゆっくり休んで」
「分かった」
あえて振り向かずに言ったのに、声だけで嬉しそうにしているのが伝わった。
(…だから会いたくなかったのよ)
彼は私と向き合おうとしている。何度も言うが、今更になって。いくらでも引き留めるタイミングはあった筈だ。なんて自分勝手な人だろうか。もう私は前を向いているのに。
それから2日後、私は約束通り彼が滞在しているという屋敷に赴いた。
「…本当にここなの?」
この屋敷は、昔金融業で成功した一族が建てたもので、私がまだ20代の頃に首都へと拠点を移してからは、誰も住んでいなかった。幼い頃に遊びに来た事があったが、あの頃とは当たり前に劣化していて、庭園の木々や草花が伸び放題でもはや廃墟だ。あの根っからの貴族である彼が、最低でも3週間はここに住んでいる事が信じられない。
(連れてきたメイドは2人…もっと連れてくるべきだったかしら)
そう思いながらとりあえず扉を叩く。ややあってから、彼は出てきた。
「すまない、遅くなった」
もうこの時点で今までの彼と違う事が分かる。こんな風に言葉にする人じゃなかった。
(…余計な事を考えてはだめよ、ティアナ)
「まだ調子が悪いの?」
「ああ。でも大分回復した。本当に助かった」
相変わらず頬はこけているが、確かに顔色は昨日よりは大分良い。消化にいいものを持ち帰らせる様に頼んでおいて良かった。
「随分と素晴らしいお屋敷ね」
私がそう言うと、彼が驚いた様な表情でこちらを見ていた。
「何?」
「いや…君もそんな冗談を言うのだなと思って」
まさかそんな事を言われると思わず、なんだか恥ずかしくなって咄嗟に顔を背ける。
「…私だってそれくらい言うわよ。そうね、柄に合わない事を言いたくなるくらい、酷すぎるわ。よく1人で3週間も滞在出来たわね」
「君の屋敷に1番近い所がここしかなかったんだ。
寝る所さえ確保すればいいと思って」
うちの屋敷は中心街から離れた所にある。大きな庭園を作りたいからという理由で、何代か前の当主が現在の所に場所を移した。
(確かに1番近い空き家はここだけど、それにしたって…)
あんなに毎日精錬された装いで隙なんて一つもなかったあの人が、寝られればどこでもいいだなんて、意外にも無頓着な事を知る。もしかしたらどうでも良いから、されるがままだけだったのかもしれない。今一度彼を見ると、いつもより何だか歳をとって見えた。
「あなた…髭が生えてるわ。私が来る事を知っていたのだから、それくらい整えないと」
まずい、余りにも砕けすぎたと咄嗟に口を抑えたが、彼は気にする様子もなく「すまない」と言った。
「そこに座っていてくれるか。すぐに剃ってくる」
「…分かったわ」
(こんな遠慮のない事を言ったら怒る人なのかと思ってた)
再び彼の意外な一面に気付かされながら、私は言われた通り中に入った。屋敷と言ってもうちの様に大きなエントランスがある訳ではない。中に入ればすぐにリビングキッチンがあり、入って右側に置かれているソファに腰掛けた。
(意外と中は綺麗なのね)
ぐるりと見渡す。蜘蛛の巣と埃だらけなのではと思ったが、ちゃんと掃除しているのか想像していたよりは綺麗だった。しかしこちらから対面側にある壁付きのキッチンを見た瞬間、絶句した。窯の上の壁が真っ黒だ。一体何をしたらこんな事が起こるのか。後ろにいるメイドに問いかける。
「あれ、何とかなりそうかしら?」
「幸いにもタイルの様ですから、磨けば大丈夫でしょう。壁紙についた煤はほぼ不可能ですが…」
「そもそも全体的に壁紙はかなり劣化しているわね。所々剥がれているし、日に焼けてしまった箇所もあるわ」
当たり前だろう。10年以上は無人だったのだ。床板も今の所抜けていない様だが大分軋んでいる。
「待たせた」
髭を剃ってさっぱりした彼が戻ってきた。少し生えていた程度だけど、やはりこちらの方が見慣れている。
「思っていたよりも大惨事だったみたいね」
例の場所を指しながら言うと、彼はさらりと「ああ」と言った。
「何をしようとしたの?」
「ベーコンを焼こうと思って」
「たったそれだけ?」
「火力が強すぎたみたいだ。あと、かなり脂を含んでいたらしい」
こんなにも料理が不得意な人、初めて見た。本当に大事に至らなくて良かったと、実際の現場を見て胸を撫で下ろす。
「まあ壁が黒くなってしまっただけで、作れない事もないんだが」
「もうしない方がいいわね」
「ああ、俺もそう思う」
相変わらずの仏頂面で言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。
「君は…よく分からない所で笑う」
「そうかしら?」
「君から妊娠したと聞いて俺が呆けた時も、笑っていたじゃないか」
(…覚えてたんだ)
彼の人間らしい表情を初めて見た私の大事な思い出。彼にとってもそれは特別な瞬間だったのだと知る。
「やっぱりあの時呆けてたのね」
「当たり前だ」
「見た事ない顔をしてたから、私もよく覚えてる」
「そうなのか?」
「だってあなたは…」
“私を愛さないなんて言う人だったから”と言いそうになって飲み込む。
「ティアナ?」
「…何でもないわ。それよりもどうするの?ここは借りているだけなんでしょう?」
ちょっと強引だったかしらとも思ったけど、彼はそれ以上踏み込んでこなかった。
「そうだ」
「じゃあ綺麗にしないとね」
「出て行く時でいいさ」
「良くないわ。何だか不吉よ」
「そうか?」
(本当に無頓着なのね)
と同時に、彼がまだここに居座る気でいる事に気付いてしまう。
“じゃあもう出て行けばいいじゃない”
そんな言葉が頭に浮かんで彼を見た。
「…優秀なメイドを連れて来たの。磨けば何とかなるそうよ。でも壁紙はどうしようもないみたい」
また言えなかった。もう長年の癖なのだろうか。核心付いた事を言おうとすると、咄嗟に抑えてしまう。
「当たり前だけど、全体的に壁紙が劣化しているわね。この部屋だけでも全部貼り替えたらどう?」
「そうだな。業者を紹介してくれ」
「何を言ってるの。そんなの呼ばなくても壁紙くらい貼れるわ」
「…君、出来るのか?」
「ええ。屋敷の管理は妻の勤めですから」
これも母の教えだ。少しでも綻びがあれば直す。その綻びが家門の信頼を落としてしまう事もあるから。
リディア家に嫁いできた当初、随分と管理されていない事が一目で分かった。メイド達が何とか保っていたみたいだが、結局屋敷の主人側がどうするのか決めないと何も出来ない。
彼が話したがらないので詳しくは知らないが、彼の母は彼が小さい頃に出て行った。元から夫婦仲は良くなく、酒浸りだった彼の父は更に悪化し、早々に当主の座を彼に譲ると離れに引きこもっていた。
そして今回知った事だが、彼はこういった事に無頓着だ。通りで杜撰な状態だった訳だと、長年に渡ってやっと腑に落ちる。
「私がリディア家に嫁いで最初にした仕事は、壁紙の貼り替えだったのよ。知らなかったのね」
「…いや、何となく覚えている。君が修繕費を計上して欲しいと頼んできたからな。だがまさか自分でやっていたとは」
「さすがに業者の方達もお呼びしたわよ?でもこれからの為にもいい勉強になるかと思って教えてもらったの。ちなみにあなたの寝室の壁紙を貼り替えたのは私」
「!?…そうだったのか」
いつ気付いてもらえるかと胸を躍らせたあの頃が懐かしい。彼の事を理解していく度に、そんな日は来ないのだと諦めたけれど。
「それからも少し気になる箇所や模様替えしたい時は自分でしていたの。このくらいの広さなら1日もあれば出来るわ。とりあえず街に行って壁紙を調達してくる。あなた達、タイルの煤を綺麗にしておいてくれる?」
「かしこまりました」
「待ってくれ」
彼が私の腕を掴む。まさか、行くなんて言うんじゃ。
「俺も行く」
予想通りというか、予想通りになって欲しくなかった言葉が出てきて思わず固まる。
「駄目か?」
「あなた、まだ全快ではないでしょう。無理しない方がいいわ」
「いや、大丈夫だ。行こう。馬車で来たんだろ?」
彼はさっさと外に出てしまう。私は小さくため息を吐いて、彼の後を追う事にした。
「ティアナ様。私達のどちらかお供しなくてもよろしいですか?」
「ええ、クリスが来てくれるからいいわ。ここをよろしくね」
メイドに後の事を頼んで外に出る。彼が馬車の前で私をエスコートする為に待っていた。
分かっているのだろうか。あの人が積極的になればなる程に、私の心は冷えていく事に。
(もう遅いのよ、クリス。終わったの。私達は)
それでも断りきれない私は、どうしたいのだろう。
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