夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ

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1.離縁して下さい

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「今まで、お世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」

 彼はまるで、長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。

 いや、妻で“あった”私に。

 皮肉げに微笑みながら顔を上げると、やはり彼はこちらには目もくれず、黙々と書類に目を通していた。最後まで仕事一筋な人ね、とどこか他人事の様に思う。他人事?いや、私達は二十数年間夫婦だったけれど、最初から最後まで、正真正銘の他人だった。

 こんな私達に子どもが授かったのは奇跡だ。そしてその子、ライアンも可愛らしい花嫁を迎え、去年男児が誕生した。私は役目を終えたのだ。彼と約束した通り、私はここを去る。

(さようなら…あなた)

 私はもう一度頭を下げると、静かに扉を開けて、その部屋を後にした。各々の仕事に取り掛かっている使用人達が、私の姿を見ると手を止め、深々と頭を下げていく。今日はやけに廊下掃除を徹底しているらしい。およそ全員と思われる使用人達が、不自然な時期に大掃除している光景に微笑みながら、その間を通り抜ける。扉の前に着くと、ここに嫁いでからずっと世話をしてくれた執事のシアンが、優しく微笑みながら立っていた。

「この日が来てしまったのですね」
「ええ。
 シアン、本当にあなたには世話になったわ」
「いいえ、それが私の務めですから」

 そう言いながら深々と頭を下げるシアン。出会った頃はなかった白髪混じりの黒髪が、私がここにいた年数を感じる。

「私…結局あなたの期待に応えられなかったわ」
「そんな事はありません。あなたは十分、リディア家のために尽くして下さいました。あなたのおかげで、この屋敷は生まれ変わったのです」
「そうかしら。最後まであの人は、私に目もくれなかったわよ」

 そう言いながら自嘲すると、シアンは困ったように笑う。私がここに来た時から、シアンはずっと私を評価してくれていた。あなたならこの屋敷も、旦那様も変えられるかもしれない、そう言っていた。
 たしかに彼以外の人とは心を通わす事が出来たけれど、終ぞ彼とは夫婦になれなかった。

「奥様、今までにないくらい晴れ晴れとしたお顔ですね」
「…そう、ね。色々あったけれど、貴方達のおかげで楽しかった。でも、私はずっと何かを背負ってた。ようやく肩の荷が降りたって感じね。それより、もう私はあなたの主人ではないのよ。奥様なんてやめてちょうだい」
「お会いした時からそう呼んでいましたから、なかなか癖というものは抜けませんよ。
 それに、どんなご立場であろうとも私の主人である事には変わりません」
「もう、いつまでも甘いんだから…」

 半分呆れつつも、やっぱり嬉しい気持ちにさせてくれるシアンは、本当に立派な執事だ。

「シアン、ありがとう。どうか、元気でね」
「…奥様も」

 シアンが扉を開ける。眩しい光が私を包んだ。

 私がリディア家に嫁いだのは17歳の時。互いを見染めた訳ではなく、互いの利益を加味しての結婚、所謂政略結婚だった。

 名のある貴族の家に生まれたからには、こうなる事は私も覚悟していたし、当たり前とも思っていた。けれども、若さゆえに夢を見ていた私は、少し期待していたのだ。きっかけはどうであれ、うちの両親の様に、素敵な家庭が築けるのではないかと。そんな私に、夫のクリスは夫婦となった初めての夜に、こう言った。

『俺は君に何も求めない。この家を存続するための役目さえ全うしてくれれば、あとは好きにしてくれて構わない。
 だから君も、俺に何も求めないでくれ』

 最初、彼が何を言っているのか分からなかった。初夜という事もあり、緊張していた体の力がふっと抜けて、気付けば彼が私の上に覆っていた。集中しなきゃと思いつつも、先程の彼の言葉が頭を巡る。
 そしてあっという間に事が終わると、彼は何の余韻もなくすぐに自室へと戻って行った。呆然と彼の背中を見送った私は、そこでようやく理解した。

 ああ、この先あの人は私を愛する事はないし、私もあの人を愛してはいけないんだわ、と。

 結婚初日に希望を失った私は、彼の言うように役目を全うする事に集中した。あんな事を言っていても、いつかは彼が私を見てくれるようになるかもしれないと思ったからだ。

 やがて私はライアンを授かった。妊娠が分かった時言いようのない幸福感に包まれたけど、彼はどうなんだろうと疑問を抱いた。子どもを望んではいたけど私を愛する事はない、なんて言う人だ。きっと伝えたとしてもこっちを見向きもせずに“そうか”と言われるだろうと思って、医師に診断されたその足で彼の執務室に向かった。

 けれど私の予想とは少し違っていた。『どうした?』と聞かれたから『妊娠しました』と伝えた。するといつも書類と睨み合っている彼がこちらを向いて目を見開いたまま数秒固まった後、『そう、か…』と呟いたのだ。

 私はこの時初めて彼の人間らしい表情を見て驚いたと同時に、何だかおかしくて思わず吹き出してしまった。そのままクスクス笑っていると、『…何がそんなにおかしいんだ。いいからさっさと部屋に戻って休んでろ』と言いながら立ち上がり、私の腰に手を添えて部屋まで送ってくれた。喜びと照れが混じった表情で私をエスコートする彼を見て、もっと特別な時間を設けて伝えれば良かったかなと私は少しだけ後悔した。

 それからも彼が私を労わる空気を何度も感じた。そんな曖昧な表現にしたのは、相変わらず言葉数が少なかったから。けれど行動の端々に私を心配しているのが分かったし、どんどん膨らんでいくお腹を見つめる瞳が喜びに溢れているのが分かった。
 もうちょっと言葉や態度に表してくれればいいのにとも思ったけど、私もどちらかと言うとそんなに喋る方ではないし、不器用な人だなと思ったら可愛いらしく思えた。

 そうやって何となく彼の優しさを感じながら、想像していたよりも穏やかに妊娠期を過ごし、ライアンは生まれた。
 そしてまた私の予想は外れた。あんなに言葉にしない彼が、確かに慈愛に満ちた表情で『ティアナ…本当にありがとう』と私に言ったのだ。結婚初日に抱いた不安が嘘の様に消えた。ああ、私はこの人とこの子に出会うために生まれてきたんだな、とまで思えた。

 生まれてからは更に彼との時間が増えた。どんなに忙しくてもライアンと触れ合う時間を必ず設けてくれたし、毎晩3人で一緒に食事をして、旅行にも行った。私はその事に浮かれていたのだ。

 父親としては申し分ない彼。しかしライアンを授かって以降、彼は私の部屋には来なかった。最初は遠慮しているのかもしれないと思ったけれど、何年経っても私は広いベッドで一人で眠った。

 それにライアン抜きで2人きりになる事はなかった。眠くなったライアンを乳母が連れて行けば彼も出て行くし、ライアンがいなければ食事を一緒に取る事はない。
 出産した時に見せてくれた慈愛の表情はあれ一度きりで、ライアンと目が合うと優しく笑うのに、私と目が合うとすっと目を逸らす。しかもそれは年々酷くなり、目が合う事もなくなっていた。

 ふつふつと思い知る。彼は父になって私は母になった。けれど彼が私を愛する事はなく、女として求められる事もない。私に求めているのは夫婦関係ではなく、あくまでライアンを産み育てる存在なのだと。

 堪らなくなった私は1人彼の部屋を訪れた。蝋燭を片手に神妙な面持ちで佇む私を彼は訝しげに見つめると、『こんな夜中にどうしたんだ』と言った。察しているのか、本気でそう言っているのか分からないが、夜に訪れる理由はただ一つだ。

『…部屋に、入れて下さい』

 それが精一杯の言葉だった。恥を捨ててこちらから赴いたのだ。お願い、お願いだから私を受け入れて欲しいと願いながら彼の言葉を待つ。

『…もう遅い。自分の部屋でゆっくり休め』

 けれど返ってきた言葉はそれだった。その瞬間、何かが弾けた。

『…どうして避けるのですか。どうして触れてくれないのですか。
私は…私は!あなたを愛しているの!』

 そう言って彼の顔を見た瞬間、私は言葉を失った。“愛してる”と告げた私を、彼が軽蔑する様な目で見ていたから。

 ガラガラガラと音を立てて心が崩れて行くのが分かった。やっぱりだめなんだ。彼が私を愛する事はないし、私も彼を愛してはいけないんだ。

 彼の言葉を待たずに足早に自分の部屋に戻り、翌日、私は彼の執務室に向かった。

『覚えていますか。役目を果たせば、好きにして構わない、とおっしゃった事』
『…覚えているが。どうした、昨日から様子が』
『離縁して下さい』

 流石に彼の手が止まり、ゆっくりとこちらを見た。眉間の皺が、いつもより深い。

『もちろん、今すぐにという訳ではありません。
 今の私には、ライアンをリディア家の次期当主として育てる役目がございますから。あの子がいつか所帯を持って、私はもう必要ないと判断した時に、私と離縁して下さいませんか』

 シン、と部屋が静まり返る。彼は先程と変わらぬ表情で私を見つめていた。私もそんな彼を見つめ返す。こんなに長い時間目が合ったのは、後にも先にも、この時だけだろう。

『…君の希望は、それだけか』

 先に沈黙を破ったのは彼だった。

『はい』

 私がはっきりと返事をすると、彼はようやく目を離し、小さく息を吐いた。

『分かった。好きにしても構わない、そう言ったのは俺だ。何か、書類にでも記しておくか』
『どちらでも構いません。ただ、あなたが約束を破る様な人ではない事も、私との仲を覆されない事も、分かっていますから』
『…そうか』

 昨日散々泣いておきながら、そして自分から別れを告げておりながら、いざ潔く了承する彼の言葉を聞くと胸が痛んだ。ツン、とする鼻を必死に抑えて部屋を後にする。

 扉を閉めた瞬間、枯れていたはずの涙がまた溢れた。彼に聞かれまいと、嗚咽を押し殺しながら自室へと戻る。それから今日に至るまで、私は役目を果たす事に全力を注いだ。

「奥様、もうすぐですよ」

 御者の声で、我に返る。

 窓の外を見ると、見慣れた景色が広がっていた。父が3年前に病気で亡くなり、葬式等で訪れた以来だろうか。久々の故郷の風景に胸が躍る。やがて馬車が止まった。

「ギルベルト、ありがとう。もう私は屋敷の人間じゃないのにこんな所まで送ってもらっちゃって。
 本当に助かったわ」
「いえ、むしろ役得ですよ。
 こうして最後まで奥様に仕える事が出来ますから」
「もう、あなたまでそんな事を言うのね。
 ありがとう、元気でね」
「…はい。今までありがとうございました。
 どうか奥様も、お元気で」

 どんどん馬車が小さくなってゆくのを、私はただじっと見つめる。やがて見えなくなった時、心にぽっかりと穴が空いた感覚に襲われた。本当に全てが終わったんだという達成感からなのか、単純に人生の半分以上を過ごしたリディア領への郷愁か。

「ティアナ様!」

 そんな感傷的な心を吹き飛ばす様に、私の名を呼ぶ大きな声が響いた。

「ジル!久しぶりね!」
「なぜ帰る日を連絡してくださらないのですか!
 馬車が止まっていると聞いて、何事かと思ったら…」

 うちの屋敷のメイド長、さらに私の乳母であるジルが慌てた様にやってきた。

「ふふ、ごめんなさい」
「いくつになってもあなたという人は…。
 ちょっと!荷物はこれだけですか!?」
「私ももう来年で40よ?そんな着飾る必要もないし、リディア家の使用人達に譲ったり教会に寄付したりしてきたの」

 私の言葉に、ジルは頭を抱えてよろめいた。相変わらずオーバーなんだから。

「まさかその様な年で出戻りだなんて…それにあの格式高いリディア家に嫁いだというのに、荷物はこれっぽち…最初聞いた時ジルはもう、気を失いかけましたよ」
「いいじゃない、しっかりと役目は果たしてきたのだし、クリスも快く了承してくれたわ。私はこれからの人生を楽しみたいのよ」

 それでもぶつぶつと言い続けるジル。こうなった時のジルの耳にはもう何も届かない事を知っているので、半分聞き流しながら屋敷へと入る。いつもなら煩わしく思うそれも、今だけは助かった。

「お義姉様!」

 屋敷に入るなり、軽快に階段を下りながら走ってくる一人の女性。この家の現当主である私の弟の妻、カーラだ。

「もう、連絡して下さればお迎えにあがりましたのに!相変わらずお義姉様は、思い立ったらすぐに行動されるのですから」

 少し口を尖らせながら私を窘める義妹に、思わず笑みが溢れる。彼女がこんな風にとても気さくな性格をしているおかげで、私もこの屋敷に帰って来られるのだ。

「クリスが私を送る様に言ってくださったのよ。
 こっちに手紙を送っていたら、出発までにぐずぐずして、リディア家の人達に迷惑かけるんじゃないかと思ったの。突然ごめんなさい。それと、のこのこと帰ってきてしまった事も…」

 まるでばつの悪い子どもの様におずおずと謝る私に、カーラは目を丸くした後口に手を当てふふふ、と笑う。

「何度も言いますけど、お義姉様の家はここなのですから。何も気にしないで下さいね」
「ありがとう、カーラ。これからは私が母の身の回りの世話をするわ。出戻っておいた身で、何もしない訳にもいかないし」
「まあ、お義母様もきっと喜ばれるでしょう。ですが、私だってお義母様との時間を大切にしたいですからね。半分半分ですよ?」

 カーラは10歳でうちの弟と婚約を結んだため、もううちにとっては、娘同然だ。小さな頃から私と弟とカーラ3人でよく遊び、私も彼女を本当の妹の様に可愛がった。私が嫁ぐ日、どの家族以上に、カーラが一番わんわんと泣いたっけな。

「それで、母の具合は?」

 私が過ごす客間に案内してくれているカーラの背中に問うと、彼女がぴたりと止まった。その様子に、何か嫌な予感がする。

「最近…さらに食が細くなられましたの。
 前までなら少しは散歩も出来たのですが、今はもうほとんどベッドで生活しておられます。先生からも、この状態が続くと危険ですと言われました」
「そう…」

 私の母、ベラは昔から心臓が弱い人で、度々寝込む事が多かった。それでも元気に生きていたのも、全て私の父のおかげだった。父と母は、それはそれは愛し合っていた。

 そんな父が、突然の病で呆気なくこの世を去ってしまい、母は魂の半分を失ったかの様に意気消沈。どんどん弱っていった。そして今ではほぼ寝たきり状態の様だ。

「…大変失礼を承知で言いますが、お義姉様が帰ってきてくれて、正直ほっとしました。お義母様も喜ばれますし、私とマルクだけじゃ、こんな現実…耐え難くて…」

 やがてカーラは静かに涙を流す。カーラは幼い頃に母を亡くしていたため、私の母が代わりに彼女を気にかけた。その事もあって、彼女は大変母に感謝している。思わず小さく震えるその体を、そっと抱きしめる。

 弟のマルクの話を聞く限り、使用人がいるにも関わらずカーラは母に付きっきりだそうだ。自分の母が亡くなった時とフラッシュバックしているのだろうか。出戻りとなってしまったが、カーラの言う通り帰ってきて良かったと思った。

「ありがとう、カーラ。あなたも少し痩せた気がするわ。これからは私もいるから。一緒に、その時を待ちましょう」

 彼女が腕の中で小さく頷いた。

 “その時” 

 自分で言いながら、冷たく、暗い所に落とされた様な気持ちになった。

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