25 / 36
6章 失踪
25
しおりを挟む
Side ロレンツォ
「ロレンツォ!お前宛にだ」
「手紙?」
いつも俺の何でも屋の仕事を斡旋してくれる宿屋に一通の手紙が届いた。今までこの街にいる人かここに観光に来た人の依頼しか受けた事がなかったので、手紙なんて初めてだった。その時ハッとした。そういえばこの間ウィリアムズ領に酒を届けた際、何かあればここに連絡して下さいと言ったのを思い出した。きっとそうだと思い、俺は何も考えずにその場で開封した。
「!?」
「どうした?」
「知り合いからだった!いつもありがとな!」
俺は慌てて宿屋から飛び出す。心臓がバクバクと跳ね暑くもないのにこめかみから汗が流れた。手紙の中には依頼内容が書かれた紙と、とんでもない額の小切手が入っていた。
人気のない路地に入り、震える手で依頼内容を読む。そこには誰にも見つからない様に屋敷から抜け出す手伝いをして欲しい事、人を探している事、最終的にその人の所へ連れて行って欲しい事が書かれていた。その差出人は
「…ミラ・イヴァンチスカ」
知り合ったばかりなのに、すっかり大好きになってしまった夫婦の奥様からの依頼だった。
自宅に戻り、妻のクララにもこの小切手を見せたらしばらく固まっていた。確かにこれさえあればもう出稼ぎなんていかなくて済むようになる。
だがクララもこの夫婦のことは勿論知っていて、二人で素敵なご縁が出来たねと喜んでいたので、こんな依頼がきて困惑していた。手紙には俺が返信をするとばれてしまう可能性があるので、この話を受けるとしてもだめだとしても、とにかくこの日のこの時間に来て欲しいと書いてあった。またもし断ったとしても小切手はあなたに差し上げますとあったが、易々とはい分かりましたとは言えない額なのだ。引き受けるか、否か。結局答えは定まらず、あなたの判断に任せる、と言われて俺は当日を迎えてしまった。
「……はあ」
一体何度目のため息を吐いただろう。俺は今依頼主であるミラ・イヴァンチスカの所へ向かっている。誰にも見つからない様に、また誰にも言わない様にと書いてあったので途中まで荷馬車に乗せてもらい、村まで一時間の距離から歩いて向かっていた。
俺が極悪人だったらどれだけ良かったかと妙な事を考えてしまう。そうしたらこうやって行きもせずに、喜んで失敬していただろうに。
「…俺、警官に世話になる事以外ならって言ったよな…?」
思わず一人で呟く。どう見ても二人は相思相愛だった。一体何が起きたのか分からないが、俺は今奥様の家出を手伝わされそうになっている。急に失踪したとなれば絶対に捜索がなされ、最悪俺は誘拐したとして捕まってしまうのではないか?そうでなくとも、とりあえずウィリアムズ卿に恨まれる事は間違いない。
そうと決まればやっぱり答えはノーだ。俺は絶対にこの依頼を断らせてもらう。ここまで来た往復分の旅費だけ頂いて、あとはごめんなさいして最愛の妻と子供の所に帰る。そう決めていた。
さすがに場所の指定までは書いていなかったので、屋敷近くの茂みに隠れて待機した。そもそも何でも屋といえど、こんな事をするのは初めてだ。どうか早く来てくれ、そして断らせてくれと願っていたら、誰かが屋敷から出てきた。
「…奥様だ!」
見覚えのあるミルクティの髪色を見つけ、俺は茂みから大きく手を振った。彼女は俺を探していたのだろう、出てきてすぐ辺りを見回していたのですぐに俺に気付いてくれた。
「奥様!あの!」
「…早くここを離れましょう」
そう言って奥様は俺と目を合わす事もせずそそくさと茂みの奥へと進む。二人に何があったのかは分からない。けれど一瞬顔を合わせただけでも分かる程、奥様は泣いていた。
歩く事数十分。ようやく奥様は止まった。待ち合わせは夜中だったため、もうどっぷりと夜は更けている。
「ごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって」
辺りは暗く、背中を向けられているのに奥様が今もぼろぼろと泣いているのが分かった。
「…一体何があったんです?」
その言葉しか出なかった。初めて会った時から仲睦まじい二人だなと思っていた。案の定こんなに涙を流してまで、どうしてここから出て行こうとしているのか。
「耐えられなくなったのよ、色々と…勿論彼の事が嫌になったんじゃないわ」
俺は奥様の言う耐えられなくなった事が分かった気がした。ミラ・イヴァンチスカ。俺でも知っている噂の悪女。俺は少し喋っただけでも奥様が優しい人間なんだと分かったが、実際に関わったことのない人間からしたら、奥様は噂通りに見えるだろう。
「…俺は協力出来ません。旦那様を裏切りたくはありません」
奥様は黙って聞いていた。俺は続ける。
「旦那様なら絶対に奥様を守ってくれます。俺は…お二人に離れ離れになってほしくありません…」
本当の理由はそれだった。警官に捕まる様な事に加担したくないというより、大好きな二人が別れてしまう事の方が嫌だった。それも歪みあっている訳でもないのに。
「今ならまだ誰にも気付かれていません。さあ、戻りましょう」
「…なら私一人で行くわ。約束通り、お金はそのままあなたに差し上げます」
「奥様!」
俺は思わず腕を掴んでいた。そこでようやく見る事が出来た奥様の瞳は、揺るぎない強い意思が宿っていた。けれどそこから止めどなく涙が溢れている。ズキン、と胸が痛む。
奥様も葛藤しているんだ。でも絶対にここを出ていくと決めているんだ。俺の言葉なんかじゃ、奥様の強い意思を変えることは出来ないんだ。
「…何でだよ」
思わず口から出ていた。絶望にも似た感情で俺まで涙が出そうになる。俺は覚悟を決めざるを得なかった。
「分かりました…」
旦那様ごめんなさい。
「あなたを一人で行かせるわけにはいきません」
裏切ってごめんなさい。
「協力、します」
でもあなたの大切な人を安全に、必ず目的地まで送り届けます。
「ありがとう…本当にごめんなさい」
奥様は両手で顔を覆い、しばらく泣いていた。こうして俺と奥様の不思議な旅が始まった。
ウィリアムズ領から出る頃には朝になっていた。次の領地に入ったところで丁度朝仕事をしていた農家の荷馬車が通り、代金を支払って途中まで乗せてもらう事になった。
「向かう方角はこっちでいいんですよね?」
「ええ」
「その、探し人というのは」
「私の母よ。ちなみに首都にいるのは私の継母。探しているのは私を産んだ本当の母親よ」
俺の雰囲気から察したのか、奥様は淡々と言った。そして一通の手紙が渡される。そこにはとある領地の消印が押されていた。
「ここに私の母親がいるから一緒に探して欲しいの」
「バルツァー領ですか…広いですね」
バルツァー領は地方の中で一番大きな面積を誇る領地だ。辺境に近い事もあって移民が多く、様々な集落が村や街として点在している。
「いつも父親に手紙を送ってもらっていたから詳しい住所は知らないの。私宛の手紙にも母親の名前しか書いてなかったから、情報はこの消印だけ。ごめんなさい、大変な事をお願いして」
「いえ…」
と言いつつも内心危機感を感じていた。そしていつ帰れるのかという不安が襲う。俺とクララは同じ街出身同士で夫婦になったため、お互いの家族が近くにいる。そのおかげで今まで出稼ぎが出来ていたのだが、限度というものがある。どうか早く見つかります様にと、とりあえずバルツァー領へ向かった。
奥様の資金のおかげで旅費に関しては心配はなかった。その代わり誰かに気付かれたら襲われる可能性があるので、なるべく人の多い所や奥様の高貴な雰囲気と顔立ちが見えない様に隠した。それでも勘づく輩はいるので、やっぱり俺が着いてきて良かったと思った。
その日の内にバルツァー領に到着し、いよいよ本格的な捜索が始まった。情報はヨハナ・アルタウスという名前と、年齢は四十代、髪は赤みがかかった茶色に奥様と同じ翠の瞳をしているというだけだった。とりあえず最初に到着した街で調査をしてみたが何の手がかりも得られず、次、そして次へと順に回っていった。
場所を転々として捜索三日目。ついにある村で同じ風貌の女性を見た事があるという人に出会えた。早速その人の言われた街へ向かい、見かけたと言う店に向かう。確かに同じ髪色と瞳の色ではあったが、別人だった。振り出しに戻ってしまった。
確信して向かっただけに、期待からどん底に落とされた気になって奥様も俺も一気に意気消沈した。それにそろそろ家族が心配だ。今日もし何の手がかりも掴めない様なら、もう奥様をウィリアムズ卿の所へ何がなんでも連れ帰るしかないと覚悟を決めた。
そしてその日も結局手がかりはゼロ。新しい街に到着してとりあえず腹ごしらえしようと入った食堂ではついに無言になってしまった。料理が到着してもお互い何を言うわけでもなく食べ始め、沈黙は続く。呆然としながら俺はいつ帰りを切り出そうかと思っていたら、奥様が頼んだ料理を一口食べて固まっていた。
「どうしたんです?」
「このローストポーク…食べた事がある」
「え?」
ローストポークは確かに奥様が住んでおられた首都圏周辺の定番料理だ。だがここは真反対に位置する様な所であり、ましてや移民が多い場所だ。なぜ奥様が食べた事があるのだろうと思っていたら、奥様がハッとして呟いた。
「このソース…マスタードと蜂蜜だわ…」
そして隣のテーブルを片付けている店の人に声をかけた。
「すみません、これを作った方にお会いしたいんですが」
「何か問題ありましたか?」
「い、いえ…何だか懐かしい味がしたので、一体どんな方が作られたのかと」
「…分かりました。お待ち下さい」
首を傾げながら店の人が厨房の方へ行く。奥様はその人が向かった方向をずっと見つめていて、どうしたんだろうと思っていたら、次第に奥様の目と口が大きく開かれた。
「ミラ…?」
震えた声で奥様の名前を呼ぶ声が聞こえた。まさかと思い声がした方へ向くと、赤みがかった茶色に奥様と同じ翠の瞳をした女性が驚いた表情で立っていた。
「お母様!」
奥様の声で確信した。ああ、この方がずっと俺達が探していた人だ。奥様は涙ぐみながら立ち上がって女性に抱きつく。
「…会いたかった」
「ミラ…」
最初放心状態だった女性も次第に涙を流し、優しく抱きしめ返してもう一度奥様の名前を呼んだ。たまたま入った食堂にて、奥様の母親、ヨハナ・アルタウスとついに再会を果たしたのだった。
「ロレンツォ…ありがとう…あなたには感謝してもしきれない。本当にあなたのおかげよ!」
急遽早退を許してもらえた奥様の母親を待つ間、奥様は泣きながらずっと俺に礼を言ってくれた。
「あなたを巻き込んでしまって申し訳なかったけれど、私一人じゃ今頃路頭に迷っていたわ。本当につくづく私は世間知らずなのだと思い知らされた…ここまで無事に来れたのはあなたのおかげよ。本当に本当にありがとう」
俺は奥様の感謝の言葉をただ黙って聞いていた。念願だった母親と再会できた事は大変喜ばしく、心から良かったと思っている。だがこれで奥様がウィリアムズ領に帰る理由が無くなってしまった。
「…これからどうされるのですか?」
俺がそう聞くと、奥様はやや俯いた後答えてくれた。
「とりあえず母とは話したい事が沢山あるから、しばらくここに滞在しようと思う。その後のことは…まだ考えていない。けど母にも家庭があるから、ずっとここにはいないつもり」
「…ほ」
本当にもうウィリアムズ卿の事はいいんですか?と言いそうになって飲み込んだ。やっと母親と再会するという夢を叶え、生きていく希望を持てた人にこんなことを言うのは残酷な気がしたからだ。
「…奥様、どうかお元気で」
「もう行ってしまうのね」
「妻と子供が待っていますので」
「身重の体の奥様がおられるのに、本当にごめんなさい…お渡しした小切手では足りないくらいよ」
「妻も理解してくれていますし、そんな事はありません。十分です」
「本当にありがとう…無事産まれてきてくれる事をここでお祈りしています」
「…ありがとうございます」
そして俺は踵を返し、奥様と別れた。これも受け取って欲しいと帰りの旅費を渡され、帰りは俺が住む街まで馬車に揺られて帰った。
到着すると、一目散に家へと向かう。
「ロレンツォ!?」
勢いよく扉を開けると、妻が驚いた様子で俺に駆け寄った。
「ああ良かった…結局依頼を受けたのよね?無事探し人と会う事は出来た?」
「…クララ」
「どうしたの….?」
妻の顔を見た瞬間涙が溢れた。妻が優しく俺を抱きしめてくれる。
「…これで良かったのかな…俺、旦那様に申し訳ないよ…俺はあの二人に…別々じゃなく二人で幸せになって欲しいんだよ…」
道中奥様から沢山話を聞いた。ずっと孤独だった事、大切な人達が出来た事、恩を返したくて頑張った事、やっと自分の居場所を手に入れたと思ったのに、過去の自分が邪魔をしてくる事。奥様が逃げ出したくなる理由がよく分かった。でもいざ奥様が前を進もうとしているのを見ると、罪悪感で胸がいっぱいになって苦しい。
どうしてあげるのが正解だったのだろう。これで良かったのかと何度も自分に問いかける。もう本当に、二人が一緒になる世界は来ないのだろうか。そう思うと、とめどなく涙が溢れてくるのだった。
「ロレンツォ!お前宛にだ」
「手紙?」
いつも俺の何でも屋の仕事を斡旋してくれる宿屋に一通の手紙が届いた。今までこの街にいる人かここに観光に来た人の依頼しか受けた事がなかったので、手紙なんて初めてだった。その時ハッとした。そういえばこの間ウィリアムズ領に酒を届けた際、何かあればここに連絡して下さいと言ったのを思い出した。きっとそうだと思い、俺は何も考えずにその場で開封した。
「!?」
「どうした?」
「知り合いからだった!いつもありがとな!」
俺は慌てて宿屋から飛び出す。心臓がバクバクと跳ね暑くもないのにこめかみから汗が流れた。手紙の中には依頼内容が書かれた紙と、とんでもない額の小切手が入っていた。
人気のない路地に入り、震える手で依頼内容を読む。そこには誰にも見つからない様に屋敷から抜け出す手伝いをして欲しい事、人を探している事、最終的にその人の所へ連れて行って欲しい事が書かれていた。その差出人は
「…ミラ・イヴァンチスカ」
知り合ったばかりなのに、すっかり大好きになってしまった夫婦の奥様からの依頼だった。
自宅に戻り、妻のクララにもこの小切手を見せたらしばらく固まっていた。確かにこれさえあればもう出稼ぎなんていかなくて済むようになる。
だがクララもこの夫婦のことは勿論知っていて、二人で素敵なご縁が出来たねと喜んでいたので、こんな依頼がきて困惑していた。手紙には俺が返信をするとばれてしまう可能性があるので、この話を受けるとしてもだめだとしても、とにかくこの日のこの時間に来て欲しいと書いてあった。またもし断ったとしても小切手はあなたに差し上げますとあったが、易々とはい分かりましたとは言えない額なのだ。引き受けるか、否か。結局答えは定まらず、あなたの判断に任せる、と言われて俺は当日を迎えてしまった。
「……はあ」
一体何度目のため息を吐いただろう。俺は今依頼主であるミラ・イヴァンチスカの所へ向かっている。誰にも見つからない様に、また誰にも言わない様にと書いてあったので途中まで荷馬車に乗せてもらい、村まで一時間の距離から歩いて向かっていた。
俺が極悪人だったらどれだけ良かったかと妙な事を考えてしまう。そうしたらこうやって行きもせずに、喜んで失敬していただろうに。
「…俺、警官に世話になる事以外ならって言ったよな…?」
思わず一人で呟く。どう見ても二人は相思相愛だった。一体何が起きたのか分からないが、俺は今奥様の家出を手伝わされそうになっている。急に失踪したとなれば絶対に捜索がなされ、最悪俺は誘拐したとして捕まってしまうのではないか?そうでなくとも、とりあえずウィリアムズ卿に恨まれる事は間違いない。
そうと決まればやっぱり答えはノーだ。俺は絶対にこの依頼を断らせてもらう。ここまで来た往復分の旅費だけ頂いて、あとはごめんなさいして最愛の妻と子供の所に帰る。そう決めていた。
さすがに場所の指定までは書いていなかったので、屋敷近くの茂みに隠れて待機した。そもそも何でも屋といえど、こんな事をするのは初めてだ。どうか早く来てくれ、そして断らせてくれと願っていたら、誰かが屋敷から出てきた。
「…奥様だ!」
見覚えのあるミルクティの髪色を見つけ、俺は茂みから大きく手を振った。彼女は俺を探していたのだろう、出てきてすぐ辺りを見回していたのですぐに俺に気付いてくれた。
「奥様!あの!」
「…早くここを離れましょう」
そう言って奥様は俺と目を合わす事もせずそそくさと茂みの奥へと進む。二人に何があったのかは分からない。けれど一瞬顔を合わせただけでも分かる程、奥様は泣いていた。
歩く事数十分。ようやく奥様は止まった。待ち合わせは夜中だったため、もうどっぷりと夜は更けている。
「ごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって」
辺りは暗く、背中を向けられているのに奥様が今もぼろぼろと泣いているのが分かった。
「…一体何があったんです?」
その言葉しか出なかった。初めて会った時から仲睦まじい二人だなと思っていた。案の定こんなに涙を流してまで、どうしてここから出て行こうとしているのか。
「耐えられなくなったのよ、色々と…勿論彼の事が嫌になったんじゃないわ」
俺は奥様の言う耐えられなくなった事が分かった気がした。ミラ・イヴァンチスカ。俺でも知っている噂の悪女。俺は少し喋っただけでも奥様が優しい人間なんだと分かったが、実際に関わったことのない人間からしたら、奥様は噂通りに見えるだろう。
「…俺は協力出来ません。旦那様を裏切りたくはありません」
奥様は黙って聞いていた。俺は続ける。
「旦那様なら絶対に奥様を守ってくれます。俺は…お二人に離れ離れになってほしくありません…」
本当の理由はそれだった。警官に捕まる様な事に加担したくないというより、大好きな二人が別れてしまう事の方が嫌だった。それも歪みあっている訳でもないのに。
「今ならまだ誰にも気付かれていません。さあ、戻りましょう」
「…なら私一人で行くわ。約束通り、お金はそのままあなたに差し上げます」
「奥様!」
俺は思わず腕を掴んでいた。そこでようやく見る事が出来た奥様の瞳は、揺るぎない強い意思が宿っていた。けれどそこから止めどなく涙が溢れている。ズキン、と胸が痛む。
奥様も葛藤しているんだ。でも絶対にここを出ていくと決めているんだ。俺の言葉なんかじゃ、奥様の強い意思を変えることは出来ないんだ。
「…何でだよ」
思わず口から出ていた。絶望にも似た感情で俺まで涙が出そうになる。俺は覚悟を決めざるを得なかった。
「分かりました…」
旦那様ごめんなさい。
「あなたを一人で行かせるわけにはいきません」
裏切ってごめんなさい。
「協力、します」
でもあなたの大切な人を安全に、必ず目的地まで送り届けます。
「ありがとう…本当にごめんなさい」
奥様は両手で顔を覆い、しばらく泣いていた。こうして俺と奥様の不思議な旅が始まった。
ウィリアムズ領から出る頃には朝になっていた。次の領地に入ったところで丁度朝仕事をしていた農家の荷馬車が通り、代金を支払って途中まで乗せてもらう事になった。
「向かう方角はこっちでいいんですよね?」
「ええ」
「その、探し人というのは」
「私の母よ。ちなみに首都にいるのは私の継母。探しているのは私を産んだ本当の母親よ」
俺の雰囲気から察したのか、奥様は淡々と言った。そして一通の手紙が渡される。そこにはとある領地の消印が押されていた。
「ここに私の母親がいるから一緒に探して欲しいの」
「バルツァー領ですか…広いですね」
バルツァー領は地方の中で一番大きな面積を誇る領地だ。辺境に近い事もあって移民が多く、様々な集落が村や街として点在している。
「いつも父親に手紙を送ってもらっていたから詳しい住所は知らないの。私宛の手紙にも母親の名前しか書いてなかったから、情報はこの消印だけ。ごめんなさい、大変な事をお願いして」
「いえ…」
と言いつつも内心危機感を感じていた。そしていつ帰れるのかという不安が襲う。俺とクララは同じ街出身同士で夫婦になったため、お互いの家族が近くにいる。そのおかげで今まで出稼ぎが出来ていたのだが、限度というものがある。どうか早く見つかります様にと、とりあえずバルツァー領へ向かった。
奥様の資金のおかげで旅費に関しては心配はなかった。その代わり誰かに気付かれたら襲われる可能性があるので、なるべく人の多い所や奥様の高貴な雰囲気と顔立ちが見えない様に隠した。それでも勘づく輩はいるので、やっぱり俺が着いてきて良かったと思った。
その日の内にバルツァー領に到着し、いよいよ本格的な捜索が始まった。情報はヨハナ・アルタウスという名前と、年齢は四十代、髪は赤みがかかった茶色に奥様と同じ翠の瞳をしているというだけだった。とりあえず最初に到着した街で調査をしてみたが何の手がかりも得られず、次、そして次へと順に回っていった。
場所を転々として捜索三日目。ついにある村で同じ風貌の女性を見た事があるという人に出会えた。早速その人の言われた街へ向かい、見かけたと言う店に向かう。確かに同じ髪色と瞳の色ではあったが、別人だった。振り出しに戻ってしまった。
確信して向かっただけに、期待からどん底に落とされた気になって奥様も俺も一気に意気消沈した。それにそろそろ家族が心配だ。今日もし何の手がかりも掴めない様なら、もう奥様をウィリアムズ卿の所へ何がなんでも連れ帰るしかないと覚悟を決めた。
そしてその日も結局手がかりはゼロ。新しい街に到着してとりあえず腹ごしらえしようと入った食堂ではついに無言になってしまった。料理が到着してもお互い何を言うわけでもなく食べ始め、沈黙は続く。呆然としながら俺はいつ帰りを切り出そうかと思っていたら、奥様が頼んだ料理を一口食べて固まっていた。
「どうしたんです?」
「このローストポーク…食べた事がある」
「え?」
ローストポークは確かに奥様が住んでおられた首都圏周辺の定番料理だ。だがここは真反対に位置する様な所であり、ましてや移民が多い場所だ。なぜ奥様が食べた事があるのだろうと思っていたら、奥様がハッとして呟いた。
「このソース…マスタードと蜂蜜だわ…」
そして隣のテーブルを片付けている店の人に声をかけた。
「すみません、これを作った方にお会いしたいんですが」
「何か問題ありましたか?」
「い、いえ…何だか懐かしい味がしたので、一体どんな方が作られたのかと」
「…分かりました。お待ち下さい」
首を傾げながら店の人が厨房の方へ行く。奥様はその人が向かった方向をずっと見つめていて、どうしたんだろうと思っていたら、次第に奥様の目と口が大きく開かれた。
「ミラ…?」
震えた声で奥様の名前を呼ぶ声が聞こえた。まさかと思い声がした方へ向くと、赤みがかった茶色に奥様と同じ翠の瞳をした女性が驚いた表情で立っていた。
「お母様!」
奥様の声で確信した。ああ、この方がずっと俺達が探していた人だ。奥様は涙ぐみながら立ち上がって女性に抱きつく。
「…会いたかった」
「ミラ…」
最初放心状態だった女性も次第に涙を流し、優しく抱きしめ返してもう一度奥様の名前を呼んだ。たまたま入った食堂にて、奥様の母親、ヨハナ・アルタウスとついに再会を果たしたのだった。
「ロレンツォ…ありがとう…あなたには感謝してもしきれない。本当にあなたのおかげよ!」
急遽早退を許してもらえた奥様の母親を待つ間、奥様は泣きながらずっと俺に礼を言ってくれた。
「あなたを巻き込んでしまって申し訳なかったけれど、私一人じゃ今頃路頭に迷っていたわ。本当につくづく私は世間知らずなのだと思い知らされた…ここまで無事に来れたのはあなたのおかげよ。本当に本当にありがとう」
俺は奥様の感謝の言葉をただ黙って聞いていた。念願だった母親と再会できた事は大変喜ばしく、心から良かったと思っている。だがこれで奥様がウィリアムズ領に帰る理由が無くなってしまった。
「…これからどうされるのですか?」
俺がそう聞くと、奥様はやや俯いた後答えてくれた。
「とりあえず母とは話したい事が沢山あるから、しばらくここに滞在しようと思う。その後のことは…まだ考えていない。けど母にも家庭があるから、ずっとここにはいないつもり」
「…ほ」
本当にもうウィリアムズ卿の事はいいんですか?と言いそうになって飲み込んだ。やっと母親と再会するという夢を叶え、生きていく希望を持てた人にこんなことを言うのは残酷な気がしたからだ。
「…奥様、どうかお元気で」
「もう行ってしまうのね」
「妻と子供が待っていますので」
「身重の体の奥様がおられるのに、本当にごめんなさい…お渡しした小切手では足りないくらいよ」
「妻も理解してくれていますし、そんな事はありません。十分です」
「本当にありがとう…無事産まれてきてくれる事をここでお祈りしています」
「…ありがとうございます」
そして俺は踵を返し、奥様と別れた。これも受け取って欲しいと帰りの旅費を渡され、帰りは俺が住む街まで馬車に揺られて帰った。
到着すると、一目散に家へと向かう。
「ロレンツォ!?」
勢いよく扉を開けると、妻が驚いた様子で俺に駆け寄った。
「ああ良かった…結局依頼を受けたのよね?無事探し人と会う事は出来た?」
「…クララ」
「どうしたの….?」
妻の顔を見た瞬間涙が溢れた。妻が優しく俺を抱きしめてくれる。
「…これで良かったのかな…俺、旦那様に申し訳ないよ…俺はあの二人に…別々じゃなく二人で幸せになって欲しいんだよ…」
道中奥様から沢山話を聞いた。ずっと孤独だった事、大切な人達が出来た事、恩を返したくて頑張った事、やっと自分の居場所を手に入れたと思ったのに、過去の自分が邪魔をしてくる事。奥様が逃げ出したくなる理由がよく分かった。でもいざ奥様が前を進もうとしているのを見ると、罪悪感で胸がいっぱいになって苦しい。
どうしてあげるのが正解だったのだろう。これで良かったのかと何度も自分に問いかける。もう本当に、二人が一緒になる世界は来ないのだろうか。そう思うと、とめどなく涙が溢れてくるのだった。
564
お気に入りに追加
1,621
あなたにおすすめの小説
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
【完結】初恋相手に失恋したので社交から距離を置いて、慎ましく観察眼を磨いていたのですが
藍生蕗
恋愛
子供の頃、一目惚れした相手から素気無い態度で振られてしまったリエラは、異性に好意を寄せる自信を無くしてしまっていた。
しかし貴族令嬢として十八歳は適齢期。
いつまでも家でくすぶっている妹へと、兄が持ち込んだお見合いに応じる事にした。しかしその相手には既に非公式ながらも恋人がいたようで、リエラは衆目の場で醜聞に巻き込まれてしまう。
※ 本編は4万字くらいのお話です
※ 他のサイトでも公開してます
※ 女性の立場が弱い世界観です。苦手な方はご注意下さい。
※ ご都合主義
※ 性格の悪い腹黒王子が出ます(不快注意!)
※ 6/19 HOTランキング7位! 10位以内初めてなので嬉しいです、ありがとうございます。゚(゚´ω`゚)゚。
→同日2位! 書いてて良かった! ありがとうございます(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
妹と寝たんですか?エセ聖女ですよ?~妃の座を奪われかけた令嬢の反撃~
岡暁舟
恋愛
100年に一度の確率で、令嬢に宿るとされる、聖なる魂。これを授かった令嬢は聖女と認定され、無条件で時の皇帝と婚約することになる。そして、その魂を引き当てたのが、この私、エミリー・バレットである。
本来ならば、私が皇帝と婚約することになるのだが、どういうわけだか、偽物の聖女を名乗る不届き者がいるようだ。その名はジューン・バレット。私の妹である。
別にどうしても皇帝と婚約したかったわけではない。でも、妹に裏切られたと思うと、少し癪だった。そして、既に二人は一夜を過ごしてしまったそう!ジューンの笑顔と言ったら……ああ、憎たらしい!
そんなこんなで、いよいよ私に名誉挽回のチャンスが回ってきた。ここで私が聖女であることを証明すれば……。
[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・
青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。
婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。
「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」
妹の言葉を肯定する家族達。
そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。
※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。
【完結】長い眠りのその後で
maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。
でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。
いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう?
このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!!
どうして旦那様はずっと眠ってるの?
唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。
しょうがないアディル頑張りまーす!!
複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です
全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む)
※他サイトでも投稿しております
ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです
殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね
さこの
恋愛
恋がしたい。
ウィルフレッド殿下が言った…
それではどうぞ、美しい恋をしてください。
婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました!
話の視点が回毎に変わることがあります。
緩い設定です。二十話程です。
本編+番外編の別視点
悪役令嬢ですが、当て馬なんて奉仕活動はいたしませんので、どうぞあしからず!
たぬきち25番
恋愛
気が付くと私は、ゲームの中の悪役令嬢フォルトナに転生していた。自分は、婚約者のルジェク王子殿下と、ヒロインのクレアを邪魔する悪役令嬢。そして、ふと気が付いた。私は今、強大な権力と、惚れ惚れするほどの美貌と身体、そして、かなり出来の良い頭を持っていた。王子も確かにカッコイイけど、この世界には他にもカッコイイ男性はいる、王子はヒロインにお任せします。え? 当て馬がいないと物語が進まない? ごめんなさい、王子殿下、私、自分のことを優先させて頂きまぁ~す♡
※マルチエンディングです!!
コルネリウス(兄)&ルジェク(王子)好きなエンディングをお迎えください m(_ _)m
2024.11.14アイク(誰?)ルートをスタートいたしました。
楽しんで頂けると幸いです。
初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―
望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。
そして、それに返したオリービアの一言は、
「あらあら、まぁ」
の六文字だった。
屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。
ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて……
※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる