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5章 新事業開始
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しおりを挟むもう少し落ち着いてからプロポーズしよう。そう思っていたらあっという間に一ヶ月が過ぎた。
ほぼ子供服の手直しの依頼ばかりだが、少しずつ大人の方も増えてきている。何より首都圏で話題になった事により、それ以外の所からも依頼が舞い込んでくる様になった。それはまたあの新聞社が俺達の事業を取り上げて絶賛してくれたおかげだった。まさに順調、といった感じだ。
「おはよう、坊ちゃん」
「…おはよう」
いつもならもう工房に篭っている筈の彼女が洗濯をしていた。ぽかんとした俺を見て気付いたのか彼女が笑った。
「もう、忘れたの?週二回は休みにしようって決めたじゃない」
「そ、そうだったな」
当初はほぼ休みなしでフル稼働していたが、さすがに限界だったのと、かなり知名度が増えた事で余裕が出来た為休みを設けようという事になった。今日がその日だったらしい。
「俺もやる」
「他に仕事は?」
「あるけどやる」
「別にいいのに」
俺は彼女を無視して洗濯を干していく。彼女は困った様に笑いながら、叩いた洗濯物を俺に渡していく。すっかり手慣れたものだ。
「今頃楽しんでいるかしら」
「二人が夫婦になって初めてだろうからな。もっと早くに行かせてあげられたら良かったんだけど…」
実は今ウィンターとマリアは旅行中だ。実は彼らには長らく給金を払えていなかった。最初払えないとなった時、断腸の思いで解雇を言い渡した事がある。それでも彼らはお金はいらないからここに居させて欲しいと言ってくれて、ずっと尽くし続けてくれていた。
そして今回新事業がうまく行ったことで彼らに給金を渡す事が出来て、序でに二人で旅行にいっておいでと旅費も渡した。とても遠慮していた二人だったが、両親も説得して受け取ってくれた。そして二人は嬉しそうに今朝出発して行った。
「あなたってすぐそうやって責任を覆うとするわよね」
「いや、でも…」
「ねえ、坊ちゃん」
「ん?」
「私達もデートしましょう」
不意打ちだった。初めての彼女の誘いに俺は固まってしまい、「どうなの?」という返事に無言で何度も頷く事しかできなかった。
今日は俺も仕事を休みにした。というより父がやっておくから行っておいでと言ってくれた。母は弁当を作って持たせてくれて、それを持って乗馬する事になった。
「君が馬に乗れるなんて知らなかったな」
「だって言ってないもの」
そう言って彼女は手慣れた様に馬に乗る。
「踏み台なしで乗れるのか」
「10歳の時から父に叩き込まれたからね」
久しぶりに聞いた彼女の過去の話に一瞬胸を打つ。悟られない様にすぐに「行こう」と言って出発した。
「やっぱり気持ちいいわね!」
彼女が嬉しそうに空を見上げる。
「見て、この乗馬服も手直しなのよ。あなたのスラックスを私サイズに直したの」
「へえ…って通りで見た事あると思った!」
「あら、知らなかったの?だってマリアがいいって言うから」
「…まあ別に良いんだけど」
みんな相当彼女に甘くなっている。けれど彼女はずっと誰にも甘えてこれなかったのだ。みんなが無作為に彼女にいいよと言いたくなる気持ちはよく分かるし、俺もこうしてすぐに許してしまっている。
「ねえ坊ちゃん。目的地はまだよね?」
「ああ」
「なら少しだけ競争しない?」
「受けてたとう」
彼女の元気なスタートの合図で俺達は駆け出した。
目的地は隣の領地にある、野外広場だ。広大な平地で、草は短く刈り取られ小さな小川も流れていて、憩いの場としてこの辺りでは有名だ。
「わあ!素敵ね!」
「今日は人が少ないな」
日によっては賑わう場所だが、今日はぽつぽつと家族連れがピクニックをしているのが見える。俺達もちょうど良さそうな木陰を見つけて敷物を敷いてそこに座った。
「ああ、気持ちいい。まさかこうやって地べたに足を投げ出して座る様になるなんて、昔の私なら考えられないでしょうね」
「ここに来たばかりの頃は困惑していたな」
彼女と出会って半年が過ぎた。たったそれくらいしか経過していないのかと思う程、毎日が充実していた。俺の人生史上もっとも変化が訪れた半年と言えよう。
「ああ、やっぱりローラさんのピクルスは最高ね」
「通りで多いと思ったら君の好物か」
自分の母親が当たり前に彼女の好物を知っていて、彼女も母親の作るピクルスはやっぱり美味しいと言ってくれる。それだけで彼女がここでどう過ごしてきたのかが分かる。そしてこれからも、彼女はここで朗らかに生きていくのだ。
言うのは今日しかないと思い、カバンに指輪を入れて来た。このランチが終わったら、俺は彼女にプロポーズをする。
「ここは本当に素敵なところね」
「実はここもうちの領地だったんだ」
「…そうなの?」
度重なる不作と事業の失敗で領地を一部手放した事、そんな状況でもついてきてくれた村の人達の話をする。彼女は真剣な顔をして聞いてくれていた。
「…そんな事があったのね」
「君のおかげで新しく始めた事業が軌道に乗って大分楽にはなったけど…恐らく君が以前暮らしていた様な暮らしには一生届かないだろうな」
「ふふ…どこと比べているのよ。うちは一応上位貴族なのよ?」
そう言って微笑む彼女を見ていたら、自然とタイミングは今なんだなと分かった。
「ミラ」
「何?」
「ずっとこの先も裕福な暮らしは出来ないと思う。俺は君より随分と歳上で、君が死ぬまで一緒にはいられないと思うが」
しかし、言い募るたびに彼女の表情が強張っていく。俺は話を止めた。
「どうした?」
「…何が?」
「いや、何か様子が」
「ねえ、私から話してもいい?」
彼女の雰囲気からだめだとは言えなかった。何か唯ならぬ空気を彼女から感じている。
「坊ちゃん、私ね」
その時ふと気付いた。彼女はいつからまた俺を名前ではなく坊ちゃんと呼ぶ様になったんだろう。
「ここを出ようと思う」
ざあっと風が俺達の間を抜けていく。全てがスローモーションに見えた。これは現実だろうか。何かが喉に張り付いて言葉が出ない。色んな気持ちがせめぎ合う中、やっと出てきた言葉は
「…だめだ」
それだけだった。
「坊ちゃん…」
「だめだ」
「あのね」
「君を愛してるんだ」
彼女の瞳が切なく揺れる。俺は震える手で鞄から指輪が入った箱を取り出し彼女に差し出す。
「結婚して欲しい」
こんな風に伝えるつもりはなかったのに。もっとスマートに、彼女がどれだけ大切で愛しい存在なのか伝えてから言いたかったのに。彼女は何も言わず、受け取る事もせず俯いていた。
「本気なのか…?」
「ここに来た時から考えていた事よ」
「確かに君は結婚をしないと言った!だけど」
「ここの生活は私を変えてくれた。今までずっと孤独で、どん底だった私の人生がまるっきり反転した。それはウィリアムズ領の人達、ひいてはあなたのおかげよ」
「じゃあどうして!」
どんどん語気が強くなってしまう。絶対に離したくない。彼女のいない世界なんて考えられない。
「….でも私はミラ・イヴァンチスカなの。例えあなたやその周りの人が私を信じてくれていても、公の場にいけば必ず囁かれる。噂の悪女だと」
やはり彼女はそれがずっと燻っていたのだ。俺はその事に気付いていたはずなのに。
「私はあなたさえ分かってくれていればいいと思っていた。でも現実はそうはいかない。何より大好きなあなた達の足を引っ張りたくないの…」
俺は彼女を抱きしめた。
「確かに未だに君を勘違いしている人間の方が多いかもしれない。でも実際に君と関わって考え方を変えて何度もリピートしてくれている客もいるじゃないか。君のイメージを払拭しようと奔走している記者もいる。それに君は足を引っ張ってなんかいない。誰もそんな事…何でだよ…どうしてそんな考えになるんだ!」
気づいたら涙が出ていた。彼女の肩を濡らしてしまう。こんないい歳した大の男がどこにも行くなと泣いて縋る。ああ、こんな筈じゃなかったのに。
「坊ちゃん…苦しいわ」
「…嫌だ。離したくない。それにそんな呼び方はやめてくれ。前みたいに名前で呼んで欲しいんだ…そして、ずっと側に…」
どこにも行かせまいと強く抱きしめていたら、彼女が俺の背中に手を回したのが分かった。
「…分かった。少し考える時間をくれる?」
すぐに体を離し、彼女の顔をじっと見る。
「少しって…?」
「分からないけど…でもここを出ようと思っているなんて余りにも突然すぎたわ。ごめんなさい」
「…分かった」
強制する事は出来ない。でもやれる事はある。俺は彼女の手を掴んでそこに指輪の箱を置いた。
「…君を愛してる。ずっと側にいたい。結婚してくれ」
そして持たせた反対の彼女の手を持ち上げて口付け、その手を俺の頬に当ててじっと見つめた。彼女は頬を赤くして目をそらす。
「逸らさないで」
顔を寄せてこめかみに口付ける。また優しく抱き寄せて、俺の想いがどうか彼女に伝わる様にと、強く、強く抱きしめた。
それから俺は毎日手に口付けながら愛してると伝えた。その度に彼女は顔を真っ赤にさせて狼狽えていたけれど、俺とちゃんと向き合おうとしてくれているのか逃げる事もなく受け止めてくれていた。
でもそれ以外は避けられていた様に思う。俺と対峙すればちゃんと向き合ってくれるが、なるべく俺と出くわさない様にしている様だった。分かっているけど、俺には毎日彼女に愛を伝える事しか出来ない。結局特に彼女から返事は貰えぬまま、二週間が過ぎた。
彼女の部屋の扉を叩く。今日はお互い忙しくて顔を合わせれなかったので、嫌がるかもしれないとは思いつつも寝る前の挨拶という体で会いに来た。
「ミラ、俺だ」
ややあった後に、扉が開かれる。
「…どうしたの?」
「お休みって言いに。それと」
扉のノブを持っていた彼女の手を引いて部屋から出し、その勢いのまま抱きしめた。
「愛してるよ」
彼女は何も言わずじっとしていた。それをいい事に頭に口付け、体を離す。
「じゃあお休み」
彼女の部屋の扉を開けて誘導し、無言で入っていく彼女を見送って扉を閉めようとした時だった。
「ローガン」
珍しく彼女が俺の名を呼んだ。まさかと思って思わず身を乗り出す。
「どうした?」
「…何でもない。お休み」
結局彼女はそう言って曖昧に微笑むと、扉を閉めた。何か進展がありそうな気がしたのにと、頭を掻く。でも問い詰める訳にはいかないので後ろ髪を引かれながら自室に戻る。でもあの時俺は扉を開けるべきだった。彼女の変化に勘づいていたくせに、行動を起こせなかったのは怖気付いていたからだ。
その翌日、彼女は手紙と俺が渡した指輪を置いて、忽然と姿を消した。
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