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第一章 満州事変〜町田忠治内閣総辞職
第十話 第二次ロンドン海軍軍縮会議の決裂
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第二次ロンドン海軍軍縮会議は、1930年10月に発効されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としてイギリスの首都ロンドンで行われた国際会議のことである。
まず、1934年6月に米英は第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉をロンドンで行った。
予備交渉において、アメリカはワシントン・ロンドン両軍縮条約の維持を大前提とした上で、各国の現有戦力を二割削減することを主張、さらに一次対戦後から生じた米英の国力差の拡大から兵力比を従来までの10:10から10:8に落とすことを提案したのである。
当然、この主張にイギリスは猛烈に反発した。英国政府は、戦艦の主砲口径の制限や重巡洋艦の将来的な廃艦自体は考えていたが、本土・植民地間の通商路防衛や地中海での伊・仏海軍、軍備を拡大しつつあるドイツ海軍への対抗の為に、軽巡洋艦の七十隻増強を真剣に考えていたのだ。
さらに、英国側としてはヨーロッパをめぐる情勢への対応の為に急激に戦力を削減する必要はなく、ドイツの暴走などに対応するエスカレータ条項の追加も考えていた。それなのにも関わらず、かつてイギリスの植民地であったアメリカに国力差を理由に兵力比を落とされることも屈辱的であった。
アメリカ側としては、日英同盟の復活とも囁かれる状況で極東方面にあまり戦力を回す必要などないだろうし、現有戦力の二割削減や兵力比の変更など問題ないという比較的論理的な判断だったのだが、あのプライドの高いイギリス人にとってそれは禁句であった。
これ以降の米英会談では、両者の主張は完全に平行線を辿った。悪化しつつあった欧州情勢への対策として、漫然と軍縮を進めることは出来ないと訴える英・マクドナルド首相と、イギリス側が多少の妥協のためにと要請した欧州で有事が起きた際の介入を完全に否定し、壊れた機械のように頑なに軍備削減を訴える米・ハル国務長官、合意などできるはずがなかった。
同時に行われていた米英海軍での専門家協議でも双方の意見は対立し、結局米交渉団は一時的に帰国し予備交渉再開は10月へと持ち越された。
そして、10月8日になると英・サイモン外相と松平恒雄駐英日本大使の間での予備交渉が開始された。日英間の交渉は、米英間のものとは比べ物にならないほど順調に進行した。
町田内閣とそれを支持する昭和天皇の意向によって、独自行動を完全に封じられていた帝国海軍は、金剛型戦艦や天龍型軽巡洋艦を始めとする旧式艦の代替建造の全面認可とそれに伴う質・量的制限の緩和、大筋ではワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の維持を訴えたのである。
奇跡的に英国側と意見が一致したことにより、日英両国は共同で第二次ロンドン海軍軍縮会議へと臨むことを決意、協力してアメリカ交渉団の説得にあたることとなった。
しかし、24日・29日の日米・米英間の交渉はどちらも上手くいかず、結局日英両国は予備交渉が不調のまま本会議へと臨むこととなる。
そして、1936年1月に第二次ロンドン海軍軍縮会議が始まることとなる。エチオピア侵略の為にイタリアが脱退した為、参加国は日本・アメリカ・イギリス・フランスの四カ国のみであった。
本会議における各国の主張は、予備交渉の時から全く変化していなかった。
日英両国は、双方の要求を盛り込みワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の基本的維持と、旧式艦の代替建造における質量的制限の一部緩和、特例としてイギリスの軽巡洋艦建造の承認とその代償として重巡洋艦数隻の練習艦化を主張した。
フランスは、事前の予備交渉には参加していなかったものの、元々量的制限や潜水艦廃止に反対の姿勢であった為、現在の欧州情勢の悪化を念頭に日英の主張に大筋で賛意を示した上で、イギリスが建造予定の軽巡洋艦や代替建造艦には艦型・備砲の面で質的制限を加えることを主張した。
そして問題のアメリカだが、予備交渉での主張を一つも取り下げず、逆に潜水艦の全廃や全ての艦種の質的制限の強化を追加で訴えるという、交渉を成功させる意志を感じさせないような対応を行ってきたのである。
アメリカの暴挙に日英仏は当然激昂したのだが、一応アメリカ側にも理由があった。
まず、表向きの理由としては、日英関係の改善に伴い日英海軍の戦力が低下しても問題がないだろうという判断があった。
それに加えてルーズベルト政権が、満州事変以後の東アジア情勢にアメリカ政府が殆ど介入することが出来ず、ルーズベルト大統領が推進したニューディール計画は行き詰まりを見せるという政権の失点を何とか取り戻そうと、軍縮条約において主導権を取ろうと試みたことが原因であった。
そして、裏の理由としては、ルーズベルト大統領が行き詰まっていたアメリカ経済を刺激する策として陸海軍の増強を画策、国際平和の名の下に各国に無理のある条約内容を押し付けることで、日英仏を暴発させ自分がさも被害者のようにワシントン体制を破壊することを目論んでいたのである。
だが、アメリカの思惑とは異なり日英仏は協力して冷静に軍縮条約継続を訴え続け、国際的な世論も徐々にアメリカへ否定的となり始めた。そもそも、国際連盟に加盟していないアメリカなんかに従う義理があるかという欧州各国人特有のプライドも影響し、欧州に関しては反米的姿勢が強まっていた。
この予想外の動きに、ルーズベルト政権は当然慌てた。このままでは、正義の国家であるアメリカ合衆国が非道な国家という不当な評価を受けてしまうのだ。
この情勢の変化を受け、ルーズベルトは急遽第二次ロンドン海軍軍縮会議に対する演説を行い、その中で「条約締結はもはや困難であり、軍備増強を企てる各国に対抗する為にも、ワシントン・ロンドン条約を破棄し正義のアメリカとしての責務を全うする」と宣言、堂々と本会議からの脱退を世界に知らしめたのである。
軍縮提唱国であったアメリカによるワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の破棄は、第二次ロンドン海軍軍縮会議を決裂させWW1以降続いていた軍縮を完全に終わらせたのである。
まず、1934年6月に米英は第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉をロンドンで行った。
予備交渉において、アメリカはワシントン・ロンドン両軍縮条約の維持を大前提とした上で、各国の現有戦力を二割削減することを主張、さらに一次対戦後から生じた米英の国力差の拡大から兵力比を従来までの10:10から10:8に落とすことを提案したのである。
当然、この主張にイギリスは猛烈に反発した。英国政府は、戦艦の主砲口径の制限や重巡洋艦の将来的な廃艦自体は考えていたが、本土・植民地間の通商路防衛や地中海での伊・仏海軍、軍備を拡大しつつあるドイツ海軍への対抗の為に、軽巡洋艦の七十隻増強を真剣に考えていたのだ。
さらに、英国側としてはヨーロッパをめぐる情勢への対応の為に急激に戦力を削減する必要はなく、ドイツの暴走などに対応するエスカレータ条項の追加も考えていた。それなのにも関わらず、かつてイギリスの植民地であったアメリカに国力差を理由に兵力比を落とされることも屈辱的であった。
アメリカ側としては、日英同盟の復活とも囁かれる状況で極東方面にあまり戦力を回す必要などないだろうし、現有戦力の二割削減や兵力比の変更など問題ないという比較的論理的な判断だったのだが、あのプライドの高いイギリス人にとってそれは禁句であった。
これ以降の米英会談では、両者の主張は完全に平行線を辿った。悪化しつつあった欧州情勢への対策として、漫然と軍縮を進めることは出来ないと訴える英・マクドナルド首相と、イギリス側が多少の妥協のためにと要請した欧州で有事が起きた際の介入を完全に否定し、壊れた機械のように頑なに軍備削減を訴える米・ハル国務長官、合意などできるはずがなかった。
同時に行われていた米英海軍での専門家協議でも双方の意見は対立し、結局米交渉団は一時的に帰国し予備交渉再開は10月へと持ち越された。
そして、10月8日になると英・サイモン外相と松平恒雄駐英日本大使の間での予備交渉が開始された。日英間の交渉は、米英間のものとは比べ物にならないほど順調に進行した。
町田内閣とそれを支持する昭和天皇の意向によって、独自行動を完全に封じられていた帝国海軍は、金剛型戦艦や天龍型軽巡洋艦を始めとする旧式艦の代替建造の全面認可とそれに伴う質・量的制限の緩和、大筋ではワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の維持を訴えたのである。
奇跡的に英国側と意見が一致したことにより、日英両国は共同で第二次ロンドン海軍軍縮会議へと臨むことを決意、協力してアメリカ交渉団の説得にあたることとなった。
しかし、24日・29日の日米・米英間の交渉はどちらも上手くいかず、結局日英両国は予備交渉が不調のまま本会議へと臨むこととなる。
そして、1936年1月に第二次ロンドン海軍軍縮会議が始まることとなる。エチオピア侵略の為にイタリアが脱退した為、参加国は日本・アメリカ・イギリス・フランスの四カ国のみであった。
本会議における各国の主張は、予備交渉の時から全く変化していなかった。
日英両国は、双方の要求を盛り込みワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の基本的維持と、旧式艦の代替建造における質量的制限の一部緩和、特例としてイギリスの軽巡洋艦建造の承認とその代償として重巡洋艦数隻の練習艦化を主張した。
フランスは、事前の予備交渉には参加していなかったものの、元々量的制限や潜水艦廃止に反対の姿勢であった為、現在の欧州情勢の悪化を念頭に日英の主張に大筋で賛意を示した上で、イギリスが建造予定の軽巡洋艦や代替建造艦には艦型・備砲の面で質的制限を加えることを主張した。
そして問題のアメリカだが、予備交渉での主張を一つも取り下げず、逆に潜水艦の全廃や全ての艦種の質的制限の強化を追加で訴えるという、交渉を成功させる意志を感じさせないような対応を行ってきたのである。
アメリカの暴挙に日英仏は当然激昂したのだが、一応アメリカ側にも理由があった。
まず、表向きの理由としては、日英関係の改善に伴い日英海軍の戦力が低下しても問題がないだろうという判断があった。
それに加えてルーズベルト政権が、満州事変以後の東アジア情勢にアメリカ政府が殆ど介入することが出来ず、ルーズベルト大統領が推進したニューディール計画は行き詰まりを見せるという政権の失点を何とか取り戻そうと、軍縮条約において主導権を取ろうと試みたことが原因であった。
そして、裏の理由としては、ルーズベルト大統領が行き詰まっていたアメリカ経済を刺激する策として陸海軍の増強を画策、国際平和の名の下に各国に無理のある条約内容を押し付けることで、日英仏を暴発させ自分がさも被害者のようにワシントン体制を破壊することを目論んでいたのである。
だが、アメリカの思惑とは異なり日英仏は協力して冷静に軍縮条約継続を訴え続け、国際的な世論も徐々にアメリカへ否定的となり始めた。そもそも、国際連盟に加盟していないアメリカなんかに従う義理があるかという欧州各国人特有のプライドも影響し、欧州に関しては反米的姿勢が強まっていた。
この予想外の動きに、ルーズベルト政権は当然慌てた。このままでは、正義の国家であるアメリカ合衆国が非道な国家という不当な評価を受けてしまうのだ。
この情勢の変化を受け、ルーズベルトは急遽第二次ロンドン海軍軍縮会議に対する演説を行い、その中で「条約締結はもはや困難であり、軍備増強を企てる各国に対抗する為にも、ワシントン・ロンドン条約を破棄し正義のアメリカとしての責務を全うする」と宣言、堂々と本会議からの脱退を世界に知らしめたのである。
軍縮提唱国であったアメリカによるワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の破棄は、第二次ロンドン海軍軍縮会議を決裂させWW1以降続いていた軍縮を完全に終わらせたのである。
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