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リヒト
灰色熊の襲撃
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あ、これ死んだな。
生まれて初めて、間違いなく死ぬ……ここで確実に人生が終わるだろうことを予感した。
ヒトは人生の終わる直前、走馬灯を視るというけど。
やたら時間が遅く流れているように感じるくらいで。
特に思い出すことは無かった。
わりと裕福な家に生まれたと思う。
この年になって就職もせず、大学院生としてのんきに植物採集なんかしていられるのも、親の稼ぎがあってこそだ。
末っ子で、特に何の期待もされずにぬくぬくと育ったというのもあるかもしれない。
そんなぬるま湯人生が。
今、終わろうとしているのだった。
†‡†‡†
目の前には、巨大な灰色熊。
ヒグマの亜種であり、グリズリーともいう。クマ科の中でも特に大型のクマである。
学名はUrsus arctos horribilis。ウルスはクマ。
ホーリビリスとはラテン語で恐ろしい、という意味だ。
確かに目の当たりにしたら恐怖せずにはいられない恐ろしさである。
今、まさに恐怖している。
体長4メートルはありそうな巨躯。
容易く肉を食い破るだろう尖った牙。ヒトの皮膚など軽く引き裂きそうな鋭い爪。
武器も携帯せず、こんな大きなクマを目の前にしては、もはや生きるのを諦めるしか残された術はないだろう。
いや、下手な武器だと仕留めきれず逆上させて更なる大惨事を招きかねない。手負いの獣は恐ろしいものだ。
何故、このような事態になったのかはわからない。
山を散策中、眩暈がして。
気が付いたら、すぐ目の前にいたのだ。
この、巨大な灰色熊が。
灰色熊は主に北アメリカに生息するクマなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
本州にいるのはツキノワグマくらいだろうに。
僕は確か、日本アルプスの植物を調査しに来ていたはずだが。
いつの間にか、アメリカにでもワープしたのか?
考えられる可能性としては、動物園や移動動物園から逃げ出したか、誰かが飼っていたのが逃げた、というほうが現実的だろう。
野生にしては、見た目が綺麗すぎるのだ。
手や口元は血でどす黒く汚れた様子が無く、毛並みは良さそうなので、ヒトに飼われていた可能性が高い。
しかし、育ててもらった馴れた飼育員すら、弾みで殺してしまうこともある危険な生物である。
向こうは軽くじゃれたつもりでも、ひと掻きで皮膚を引っ剥がされるくらいの力があるのだ。
ペットだとしても、少しも安心できない。
†‡†‡†
逃げようにも、さきほど驚いて転んで足をくじいてしまったし。
転んだ時に眼鏡を落とした。
裸眼では、ほとんど見えない。
そもそも、時速50キロ以上で走る上に、木登りも泳ぎも得意なクマから脆弱な人間が逃げられるわけがない。
ヒグマというのは特に獲物に対して執念深く、一度目をつけた獲物はどこまでも追いかけてくる。
荷物をあさっていた場合は、惜しくとも荷物を置いていかないと、取り返すまでいつまでもついてくる、という厄介な習性の生き物なのである。
一度、人間本体に目をつけられたらもう、詰みである。
殺るか殺られるかの二択しかない。
つまり。
どう考えても僕は、死ぬ。
今、ここで。
通りすがりに伝説のマタギでも現れない限り。
「っ、」
灰色熊の濡れた鼻先が、頬に触れた。
獲物の匂いを嗅いでいるのだ。さすがにこの距離だと、獣くさい……。
フンフンと、熱心に匂いをかいでいる。
大きな舌でべろり、と舐められて。その感触にぞわっとする。
肉食獣の舌がざらざらするのは、骨から肉をこそげ落とすためだ。
生きたままこそげ落とされてはたまらない。
どうせ食べるなら、ひと思いにやっちゃって欲しいが。
クマはよほどお腹が空いてない限り、獲物の息の根を止めたりせず、半殺しにして土に埋めて、非常食にする性質があるのだ。
腹が減っていても、味が落ちるのか知らないが。やはり獲物の息の根を止めたりせず、じわじわと足から食うという。
最初に急所を狙う犬やライオンがいっそ優しく感じるほどである。
熊害の話を見ると、内臓を食われながらいっそ殺して欲しいと願っている人の話もあり、とても恐ろしい。
失神しても、痛みで覚醒してしまうのだろうか。
しかし僕は小柄なほうだし、運が良ければひと噛みで死ねるかもしれない。
それか失血死で。
生殺しは御免だ。
やるならとっととしてくれ。
†‡†‡†
観念し、目を閉じて。
その時を待っていたが。
「C'est une erreur」
すぐ近くで、人の声がした。
今のは。
外国語……?
おそるおそる目を開けて、様子を窺えば。
僕にのしかかっていたはずの灰色熊は消えていて。
ヒゲで顔を覆われた見知らぬ大男が、クマの代わりに僕にのしかかっていたのだった。
「あ、あの……?」
あまりの恐ろしさに気絶とかしてる間に、この人が助けてくれたのだろうか。
と思ったが。
「い、痛、」
男は、何を考えたか、僕の首筋に噛み付いてきたのだ。
……あれ?
男の人に見えたのは幻覚で、本当は、クマに齧られているのだろうか?
どういった幻覚だ?
痛い。
物凄く痛い。尋常じゃなく痛い。
首だけじゃなく、頭がぐらぐらする。
まるで、大量の酒でも飲まされたような酩酊感。
こんなになるまで飲んだことなどないので、わからないが。
細胞が。
身体が、悲鳴を上げている。全身、ばらばらになったようだ。
いったい、何がどうして、こんなことになったんだ?
生まれて初めて、間違いなく死ぬ……ここで確実に人生が終わるだろうことを予感した。
ヒトは人生の終わる直前、走馬灯を視るというけど。
やたら時間が遅く流れているように感じるくらいで。
特に思い出すことは無かった。
わりと裕福な家に生まれたと思う。
この年になって就職もせず、大学院生としてのんきに植物採集なんかしていられるのも、親の稼ぎがあってこそだ。
末っ子で、特に何の期待もされずにぬくぬくと育ったというのもあるかもしれない。
そんなぬるま湯人生が。
今、終わろうとしているのだった。
†‡†‡†
目の前には、巨大な灰色熊。
ヒグマの亜種であり、グリズリーともいう。クマ科の中でも特に大型のクマである。
学名はUrsus arctos horribilis。ウルスはクマ。
ホーリビリスとはラテン語で恐ろしい、という意味だ。
確かに目の当たりにしたら恐怖せずにはいられない恐ろしさである。
今、まさに恐怖している。
体長4メートルはありそうな巨躯。
容易く肉を食い破るだろう尖った牙。ヒトの皮膚など軽く引き裂きそうな鋭い爪。
武器も携帯せず、こんな大きなクマを目の前にしては、もはや生きるのを諦めるしか残された術はないだろう。
いや、下手な武器だと仕留めきれず逆上させて更なる大惨事を招きかねない。手負いの獣は恐ろしいものだ。
何故、このような事態になったのかはわからない。
山を散策中、眩暈がして。
気が付いたら、すぐ目の前にいたのだ。
この、巨大な灰色熊が。
灰色熊は主に北アメリカに生息するクマなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。
本州にいるのはツキノワグマくらいだろうに。
僕は確か、日本アルプスの植物を調査しに来ていたはずだが。
いつの間にか、アメリカにでもワープしたのか?
考えられる可能性としては、動物園や移動動物園から逃げ出したか、誰かが飼っていたのが逃げた、というほうが現実的だろう。
野生にしては、見た目が綺麗すぎるのだ。
手や口元は血でどす黒く汚れた様子が無く、毛並みは良さそうなので、ヒトに飼われていた可能性が高い。
しかし、育ててもらった馴れた飼育員すら、弾みで殺してしまうこともある危険な生物である。
向こうは軽くじゃれたつもりでも、ひと掻きで皮膚を引っ剥がされるくらいの力があるのだ。
ペットだとしても、少しも安心できない。
†‡†‡†
逃げようにも、さきほど驚いて転んで足をくじいてしまったし。
転んだ時に眼鏡を落とした。
裸眼では、ほとんど見えない。
そもそも、時速50キロ以上で走る上に、木登りも泳ぎも得意なクマから脆弱な人間が逃げられるわけがない。
ヒグマというのは特に獲物に対して執念深く、一度目をつけた獲物はどこまでも追いかけてくる。
荷物をあさっていた場合は、惜しくとも荷物を置いていかないと、取り返すまでいつまでもついてくる、という厄介な習性の生き物なのである。
一度、人間本体に目をつけられたらもう、詰みである。
殺るか殺られるかの二択しかない。
つまり。
どう考えても僕は、死ぬ。
今、ここで。
通りすがりに伝説のマタギでも現れない限り。
「っ、」
灰色熊の濡れた鼻先が、頬に触れた。
獲物の匂いを嗅いでいるのだ。さすがにこの距離だと、獣くさい……。
フンフンと、熱心に匂いをかいでいる。
大きな舌でべろり、と舐められて。その感触にぞわっとする。
肉食獣の舌がざらざらするのは、骨から肉をこそげ落とすためだ。
生きたままこそげ落とされてはたまらない。
どうせ食べるなら、ひと思いにやっちゃって欲しいが。
クマはよほどお腹が空いてない限り、獲物の息の根を止めたりせず、半殺しにして土に埋めて、非常食にする性質があるのだ。
腹が減っていても、味が落ちるのか知らないが。やはり獲物の息の根を止めたりせず、じわじわと足から食うという。
最初に急所を狙う犬やライオンがいっそ優しく感じるほどである。
熊害の話を見ると、内臓を食われながらいっそ殺して欲しいと願っている人の話もあり、とても恐ろしい。
失神しても、痛みで覚醒してしまうのだろうか。
しかし僕は小柄なほうだし、運が良ければひと噛みで死ねるかもしれない。
それか失血死で。
生殺しは御免だ。
やるならとっととしてくれ。
†‡†‡†
観念し、目を閉じて。
その時を待っていたが。
「C'est une erreur」
すぐ近くで、人の声がした。
今のは。
外国語……?
おそるおそる目を開けて、様子を窺えば。
僕にのしかかっていたはずの灰色熊は消えていて。
ヒゲで顔を覆われた見知らぬ大男が、クマの代わりに僕にのしかかっていたのだった。
「あ、あの……?」
あまりの恐ろしさに気絶とかしてる間に、この人が助けてくれたのだろうか。
と思ったが。
「い、痛、」
男は、何を考えたか、僕の首筋に噛み付いてきたのだ。
……あれ?
男の人に見えたのは幻覚で、本当は、クマに齧られているのだろうか?
どういった幻覚だ?
痛い。
物凄く痛い。尋常じゃなく痛い。
首だけじゃなく、頭がぐらぐらする。
まるで、大量の酒でも飲まされたような酩酊感。
こんなになるまで飲んだことなどないので、わからないが。
細胞が。
身体が、悲鳴を上げている。全身、ばらばらになったようだ。
いったい、何がどうして、こんなことになったんだ?
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