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番外編
ホーリィとエド4
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シーズン最後の夜会が終わると、まもなく本格的な夏を迎える。
夏になれば、王都はその風の通りにくい構造上の問題もあり、非常に暑くなる。故に、貴族は避暑を兼ねて領地に戻ることが多い。政府や軍で要職についている者でない限りは、シーズンオフの間はずっと領地にいる、という者も珍しくない。
そんなわけで、本日開かれている茶会は、シーズンの間の交流を感謝する意味合いのある、大変規模の大きな物だった。
この茶会を最後に領地に戻る者も多く、庭園で開かれたガーデンパーティのあちらこちらで、夏の間の息災を願い合う会話が交わされている。
「なぁ、ホーリィ。領地に戻る前に、遠乗りに出かけないか? うちの別荘、庭に大きな池があるんだよ。二人で、水遊びでもして……さ」
扇子を広げて庭園の端で佇むホーリィに、そう声をかけたのは、今までに何度か遊んだことのあるさる侯爵家の令息だった。貴族令嬢の間では、スタッグランドで五本の指には入ると謳われる貴公子である。
確かに見目が良い。身長もすらりと高くて、身体つきも引き締まっている。この男にダンスに誘われたいと願う令嬢は、たくさんいることだろう。
だが如何せん、ホーリィはこの男の誘いに応えなければならないほど、相手に不自由していない。彼が含みを持たせて告げた最後の「水遊びでもして……さ」に、背中が痒くなる思いをしながら、ばさりと扇子を振った。
「結構よ」
「なんだよ。最近付き合い悪いぞ、ホーリィ」
小さく舌打ちをしながら、彼は立ち去っていった。
しつこく言い寄って来なかったことは評価に値するが、何せ下心が見え透いている。舌打ちをしたいのはこちらの方だ。
水遊びの後、どうなるのか。それが想像できないほど、ホーリィはうぶではない。
「なぁに、ホーリィ。断っちゃったの?」
「マルガレーテ」
ブレンダ伯爵家の令嬢マルガレーテだった。
マルガレーテは手にレモネードのグラスを二つ持って、ホーリィの隣に並んだ。一つをホーリィに差し出すと、自分のグラスに唇を寄せながらふっと笑う。
「最近、全然殿方の誘いに乗らないのね。噂になっているわよ? 『社交界の華』にもとうとう身を収める先ができたんじゃないかって」
それはつまり、婚約間近なのではないか、ということだ。
貴族は噂が大好きだ。世間は、ホーリィが婚約を前にして、身辺整理をしている……とでも思っているのだろう。
その手の話には、尾ひれに背びれ、胸びれまでつけて流布するのが貴族の常で、どこかでちゃんと噂を断ち切っておかないと、最終的にとんでもない話になっていたりする。
「そんなわけないでしょ。婚約の『こ』の字もないわよ」
ホーリィは小さくため息をついて、グラスのレモネードに口をつけた。甘さよりも酸味の方が強い冷たい液体が、喉から身体を冷やしていく。
レモネードを飲みきってから、ホーリィは扇子の先でマルガレーテを差した。
「ちゃんとみんなに言っておいてちょうだい。ホーリィ・ラローザはしばらく婚約するつもりはない、って。どうせ誰かに聞いてきてって言われたんでしょ?」
「はいはい。賜りました」
マルガレーテは、親友の気安さで、真剣味に欠ける返事をすると、視線を庭園へと巡らせた。
本日の茶会はブレンダ伯爵家主催の物だ。庭園の真ん中ではブレンダ伯爵とその夫人が、訪れた招待客一人一人と、シーズンの間の労をねぎらい合っている。
本来なら公爵家か侯爵家の茶会をシーズンの最後にすることが多い中で、これだけの規模の茶会を開けるというのは、ブレンダ伯爵家が相応の力を持っていることを示している。
特に今年は、主に政府派の貴族が、当主の交代を余儀なくされたり、謹慎の処分に処せられたり……と何かと慌ただしかったために、茶会にまで手が回らないらしく、夏前のこの時期にしては、招待状が例年の半分ほどだった。
次のシーズンが始まる頃には、貴族の勢力図も変わっていることだろう。
老獪な貴族たちが作り出す深く歪んだ海の中を、ほとんど身一つで泳ぐホーリィは、今まで築いてきた交友関係を、また一から築き直すことになる。
次のシーズンが始まる前に下調べが必要だな、などと、庭園をぼんやりと眺めながら考え込んでいると、一緒に庭園を眺めていたマルガレーテがちらりと、横目でホーリィを見た。
「お姉様はお元気?」
「どちらの姉かしら?」
「そうね。麗しいエメリア様のお加減も、とても気になるけれど。今はレリッサ様の方よ」
なるほど、とホーリィは納得する。
(本当に聞きたかったのは、こっちね)
ホーリィの噂なんて、大した用事ではなかったのだ。
ちらりとマルガレーテの肩越しに、向こうのテーブルで集まって談笑している令嬢たちの方を見る。何人かが、こちらを、ちらちらと気にしているのが見えた。
「本当に……貴族って嫌ね。本当の友人関係も築けないんだから」
吐き出したため息には、苛立ちが混じった。
聞きたいことがあるなら、自分で聞きに来れば良いのだ。
マルガレーテが肩をすくめて見せた。
「あら心外。私は、ホーリィの親友だと思っていたわ。違って?」
「違わないわ。でも、だとしたらご愁傷様。貴女に伝書鳩代わりをさせるなんて、私ったらなんてひどいお友達なのかしら?」
「ふふ。だったらご褒美をもらわなくちゃ、ね?」
マルガレーテは口元を扇子で隠しながら、小さく頭を傾けた。
ねだるようなその仕草に、結局聞きたいのは彼女も一緒か、と嘆息する。
ホーリィは近くを通ったボーイに空になったグラスを渡すと、扇子をゆったりと振って自分に風を送りながら、横目でマルガレーテを見た。
「それで? お姉様の何が聞きたいの?」
「そうね……。例えば、あの噂は本当かしら? レリッサ様が、新しい国王陛下との婚約間近……というお話」
例えば、どころか、それが本命だろう。
貴族とはつくづく面倒くさい言い回ししかできないものだ。
ホーリィは庭園に視線を巡らせる。
ここに集まった貴族たちの口に登る話題の、おそらく大半が、今年は新しい国王に関するもので占められている。
やれ、第二王子であった陛下は、どこへ行かれていたのか。
やれ、陛下に取り入るには、何を献上するのが良いか。
やれ、陛下の趣味嗜好はどんなものか。
新しい国王は国を一新するつもりでいる。
となれば、その動きに取り残されないよう、賄賂でもなんでも使って、国王の特別の配慮を得たい。と思うのは、悲しいかな貴族のサガだ。何せ家の繁栄が何よりも大事なのは、どこも同じなので。
そして同じくらい、新しい国王が誰を婚約者とするのか、というのは貴族にとっては家の繁栄に直結する重大な議題だった。
もちろん、今現在、唯一名前が挙がっているのはレリッサである。
シーズン最後の夜会で、あれほど派手なことをやらかしたのである。国王が『リオネル・カーライル』と名乗っていた頃からの二人を見ていれば、その寵愛ぶりがうかがい知れるというものだ。
「そうね……皆様にはこうお返事してちょうだい」
ホーリィは扇子で風を送るのをやめて、その扇子を畳んだ。
そしてにこりと笑う。
「見ていたらわかるでしょう? って」
マルガレーテは目を丸くして、それから可笑しそうに、ふふふと笑った。
ホーリィは素直じゃない。それは自分でも分かっている。
もともとそういう性格だったのに、貴族同士の裏を探り合う会話を覚えてからは、それに拍車がかかった。
だから、そう。
そのせいで、余計な遠回りをした。
「私ね、よく分かったの。貴方とかお姉様みたいな、そういう人種の人たちには、いくら裏から攻めてもダメなんだって」
「……待って、なんの話? なんで俺、ホーリィに胸ぐら掴まれてんの?」
エドが両手を上げながら、何事かと目を見開いている。
王宮の一室である。
エドがリオネルの従者として王宮に住まうようになってからは、青いスカーフで互いに連絡を取り合う方法は使えなくなった。
何せ、エドがリオネルに貼り付いていて離れる暇がないのだ。
新たな国王となったリオネルは多忙で、必然的に従者であるエドも今まで以上に、リオネルの手足、耳目となって動き回っている。
エドが情報を集めていたのは、リオネルを『王』にするためだった。
その目的が達成されたなら、情報を集める必要がなくなる。
それはつまり、ホーリィとエドが交わした、口約束の契約もなかったことになる、ということだ。
(冗談じゃないわ)
キッとホーリィはエドを睨み上げる。
エドがびくりと肩を震わせた。
「ホ、ホーリィさん……? なんか、怒って……る?」
「当然でしょ」
きっぱりと言い切ると、エドが視線を彷徨わせ始めた。
「え、俺、なんかした? あれかな? 前にラローザ邸でホーリィの気に入ってる鏡を割っちゃったこと? それともホーリィが大切にとっておいた、パティスリー・バルマンのチョコレートボンボン、一個勝手に食べたから……」
「ちょっと!」
胸ぐらを握る手に力を込めれば、「ぐぇ」とエドが呻いた。
「私のチョコレートボンボン食べたの!? あれ、大切に大切に、取っておいたのに!」
「えー! だってさ、厨房の棚の中にポンって置いてあったんだもん! 食べて良いと思うじゃん!?」
「思わないわよ! っていうか、人ん家の厨房に勝手に入るんじゃないわよ!」
そうじゃない。
全てがそうじゃなかったが、ホーリィの頭が一瞬、屋敷の厨房に大切に管理されているはずの、お気に入りのチョコレートに占有される。
(すぐに帰って、残りの数を確かめなくちゃ)
チョコレートの管理を、料理長に任せきりにしておいたのが悪かった。
そんなことを思っていると、胸ぐらを掴まれているエドが、しゅんと肩を落とした。
「ごめんって、ホーリィ。今度、同じの買ってくるから……」
「……もう良いわ」
はぁ、とため息をつく。
せっかく勢いをつけて来たというのに、すっかり気がそがれてしまった。
エドに話があるからと、リオネルに頼んでエドの手を空けてもらい、確保した休憩時間は十五分。その十五分がこんなくだらないことのために終わるなんて、何のために来たのか分からない。
(こっちは、結構いろいろ気合いを入れて来てるんだから)
髪には普段よりも香り良いの香油を撫で付けて。
ドレスは下品でない程度に露出のある、上質なもの。
化粧も濃くなりすぎないように、唇に潤いを持たせた紅をさした。
いつも、彼と会うときは気合いを入れる。
気づいて欲しいから。
ちょっとでも、『女』だと思って欲しいから。
出会った時、ホーリィは十四で、彼は二十六だった。
彼からすると、ホーリィはいつまでも子供かもしれない。
それでも目一杯の背伸びをした。彼の視界に入りたかった。
(私は、もう十分『女』なのよ)
出会った時みたいに、男と女の事情に赤面するホーリィは、もういない。
彼に欲があるのなら、いくらでも受け止められる。
だから、『そういう対象』になり得るのだと気づいて欲しい。
胸ぐらを掴んでいると、自然とホーリィとエドの顔は近くなる。
エドは戸惑った表情でホーリィを見ていて、困っているように見えた。
こんなに近くにいても、顔を赤らめもしない。
それが腹立たしくて、悲しい。
これでは、完全にホーリィがエドの『対象外』なのだと、まざまざと見せつけられただけだ。
胸の中に、苛立ちが沸き起こる。
この鈍感。無神経男。デリカシーがなくて、歩幅を人に合わせることもできないくせに。
何で。
何でこんなに好きなんだろう。
きっと、出会った最初から。
「……悔しいわ」
「え? なんて?」
ホーリィばかりが好きで。彼はそのことに気づきもしていない。
それなら、とホーリィは胸ぐらを掴む手を引き寄せた。
「ホー……――!」
名前を呼ぼうとしたエドの、その唇を塞ぐ。
これ以上ないくらい近づいたエドの目が、見開かれる。
ホーリィは顔を離すと同時に、掴んでいた胸ぐらから手を離した。
どさりとエドが尻餅をつく。
何が起きたのか分からない。
そんな顔をしているのも、また腹立たしい。
「言ったでしょ。分かったって。貴方やお姉様みたいに鈍感な人たちには、これくらい分かりやすくしないと伝わらないのよ」
そう言うと、ホーリィは部屋の扉に手をかけた。
「帰るわ。お義兄様の仕事の邪魔をしたいわけじゃないから」
「え…? ホーリィ? え? 今の……なに?」
頭の上にたくさんの疑問符を浮かべて、エドが情けなく尻餅をついたまま、ホーリィを見上げている。
ホーリィは、べっと小さく舌を出した。
「しーらないっ。自分で考えたら? 鈍感男さん」
じゃあね、とホーリィは部屋から出た。
そこは執務室にほど近い、従者が仕事をするための部屋だ。限られた者しか立ち入ることの許されない王宮の最上階。リオネルに事情を話して、特別に十五分だけと言う許可を取り付けた。
執務室の前に立っている近衛が、ホーリィに敬礼で挨拶をする。
一瞬、リオネルに挨拶をしていこうか、と思ったけれど、忙しい義兄の手を止めるのも申し訳なくなって、ホーリィは近衛に小さく頭を下げて、その前を素通りした。
階段を降りていけば、レリッサが待っていた。
「お姉様」
「ホーリィ、用事は終わったの?」
レリッサは胸元に本を抱えている。
彼女は現在、王妃教育の真っ最中だ。こうして数日に一度王宮に来て、大臣やその道の専門家の講義を受けている。
ホーリィは、そのレリッサに便乗する形で王宮にやって来たのだった。
「なぁに? また新しい本なの?」
「ええ。外交には、他国の情報が必要でしょう? スタッグランドと他の国ではいろいろと違うこともあるから、とても勉強になるわ」
そう言って本を抱きしめるレリッサは、生き生きとしている。
ホーリィは今自分が降りてきた階段を振り返った。
「お義兄様にご挨拶しなくて良いの?」
レリッサは少し困った顔で眉を下げた。
「リオン様はお忙しいから。今日はやめておくわ」
「お姉様が良いなら、私は良いけど……」
ちらりと、レリッサに向けて優しい笑みを落とす義兄を思う。
おそらくリオネルは、レリッサが顔を見せないことを残念がるだろう。
そうは思ったが、ホーリィの一番の優先順位はいつだってレリッサだ。
ホーリィはレリッサの腕に腕を絡ませた。
「じゃあ帰りましょ。この時間なら、まだサマンサとライアンが帰ってないから、二人で庭園でお茶をするのはどう?」
「良いわね。ホーリィの好きな料理長のマドレーヌ、用意してもらいましょうか」
仲良く腕を組みながら王宮を出る。
馬車に乗り込むと、対面に座ったレリッサがくすりと笑った。
「ホーリィ、今日は機嫌が良いみたい」
「そう?」
ホーリィは馬車の窓枠に肘をかけて、外を眺めた。
覆い茂る並木道が去っていく。
頭の中に、尻餅をついてこちらを見上げる、エドが思い浮かぶ。
ホーリィはそっと口角を持ち上げた。
(悩めば良いわ)
悩んで悩んで、いっぱい考えれば良い。
そうしてホーリィで頭をいっぱいにしておけば良いのだ。
**********
リオネルはペンを置いて、時計を見上げた。小さく息を吐いて、立ち上がる。
執務室を出れば、護衛の近衛がついて来ようとしたのを、手で制して、執務室から数部屋離れた一室へと向かう。
エドに用事がある、と訪れたホーリィは少し前に帰って行った。
扉の前を通り過ぎたのを気配で感じたから分かる。
だがエドの方は、それから一向に帰ってこなかった。
エドとホーリィが話をしていたはずの部屋の扉をノックする。
返事はない。
だが、中に確かにエドの気配はあって、リオネルはためらわず扉を押し開いた。
「おい、エド……」
扉の向こうに、エドが尻餅をついて座り込んでいた。
口元を手で押さえる、その顔は。
「真っ赤だぞ」
どうした、なんて聞いてやるつもりはない。
エドと話したいと、そう言ってきたホーリィの真剣かつ思いつめた表情を見れば、何があったのかは大体察せられた。
リオネルはエドの前に座り込んで、その額を小突いた。
「だから言っただろ。自分で気付けって」
「いや……だって、ホーリィが……。……いや、は……?」
エドは混乱している様子で、しどろもどろになりながら、なんとか言葉を口に出そうとしている。
まさかホーリィが自分を、だなんて思いもしなかったのだろう。
そう思うと、ホーリィが可哀想になってくる。
リオネルは完全にホーリィ側の立ち位置だ。
『お義兄様を見習うことにしたわ』
エドと話したいと言ってやって来たホーリィは、強い瞳でリオネルを見て言った。
なるほど、と思う。
彼女らしいやり方だった。
リオネルはふっと笑って、いまだに顔を赤くしてるエドを見た。
「分からないなら、分かるまで考えれば良いんじゃないか? それが、彼女に対する誠意だと俺は思うけど?」
「え……えぇ……?」
彼女は、エドのことを想い、悩んで惑って、時には間違った道を通りながら、ここまでやって来た。
それに応えるなら、エドもやすやすと答えを得てはいけないのだ。
「ま、頑張れ」
リオネルは笑って、エドの肩を叩いた。
エドが彼女の気持ちに気づくまで、あともう少し。
夏になれば、王都はその風の通りにくい構造上の問題もあり、非常に暑くなる。故に、貴族は避暑を兼ねて領地に戻ることが多い。政府や軍で要職についている者でない限りは、シーズンオフの間はずっと領地にいる、という者も珍しくない。
そんなわけで、本日開かれている茶会は、シーズンの間の交流を感謝する意味合いのある、大変規模の大きな物だった。
この茶会を最後に領地に戻る者も多く、庭園で開かれたガーデンパーティのあちらこちらで、夏の間の息災を願い合う会話が交わされている。
「なぁ、ホーリィ。領地に戻る前に、遠乗りに出かけないか? うちの別荘、庭に大きな池があるんだよ。二人で、水遊びでもして……さ」
扇子を広げて庭園の端で佇むホーリィに、そう声をかけたのは、今までに何度か遊んだことのあるさる侯爵家の令息だった。貴族令嬢の間では、スタッグランドで五本の指には入ると謳われる貴公子である。
確かに見目が良い。身長もすらりと高くて、身体つきも引き締まっている。この男にダンスに誘われたいと願う令嬢は、たくさんいることだろう。
だが如何せん、ホーリィはこの男の誘いに応えなければならないほど、相手に不自由していない。彼が含みを持たせて告げた最後の「水遊びでもして……さ」に、背中が痒くなる思いをしながら、ばさりと扇子を振った。
「結構よ」
「なんだよ。最近付き合い悪いぞ、ホーリィ」
小さく舌打ちをしながら、彼は立ち去っていった。
しつこく言い寄って来なかったことは評価に値するが、何せ下心が見え透いている。舌打ちをしたいのはこちらの方だ。
水遊びの後、どうなるのか。それが想像できないほど、ホーリィはうぶではない。
「なぁに、ホーリィ。断っちゃったの?」
「マルガレーテ」
ブレンダ伯爵家の令嬢マルガレーテだった。
マルガレーテは手にレモネードのグラスを二つ持って、ホーリィの隣に並んだ。一つをホーリィに差し出すと、自分のグラスに唇を寄せながらふっと笑う。
「最近、全然殿方の誘いに乗らないのね。噂になっているわよ? 『社交界の華』にもとうとう身を収める先ができたんじゃないかって」
それはつまり、婚約間近なのではないか、ということだ。
貴族は噂が大好きだ。世間は、ホーリィが婚約を前にして、身辺整理をしている……とでも思っているのだろう。
その手の話には、尾ひれに背びれ、胸びれまでつけて流布するのが貴族の常で、どこかでちゃんと噂を断ち切っておかないと、最終的にとんでもない話になっていたりする。
「そんなわけないでしょ。婚約の『こ』の字もないわよ」
ホーリィは小さくため息をついて、グラスのレモネードに口をつけた。甘さよりも酸味の方が強い冷たい液体が、喉から身体を冷やしていく。
レモネードを飲みきってから、ホーリィは扇子の先でマルガレーテを差した。
「ちゃんとみんなに言っておいてちょうだい。ホーリィ・ラローザはしばらく婚約するつもりはない、って。どうせ誰かに聞いてきてって言われたんでしょ?」
「はいはい。賜りました」
マルガレーテは、親友の気安さで、真剣味に欠ける返事をすると、視線を庭園へと巡らせた。
本日の茶会はブレンダ伯爵家主催の物だ。庭園の真ん中ではブレンダ伯爵とその夫人が、訪れた招待客一人一人と、シーズンの間の労をねぎらい合っている。
本来なら公爵家か侯爵家の茶会をシーズンの最後にすることが多い中で、これだけの規模の茶会を開けるというのは、ブレンダ伯爵家が相応の力を持っていることを示している。
特に今年は、主に政府派の貴族が、当主の交代を余儀なくされたり、謹慎の処分に処せられたり……と何かと慌ただしかったために、茶会にまで手が回らないらしく、夏前のこの時期にしては、招待状が例年の半分ほどだった。
次のシーズンが始まる頃には、貴族の勢力図も変わっていることだろう。
老獪な貴族たちが作り出す深く歪んだ海の中を、ほとんど身一つで泳ぐホーリィは、今まで築いてきた交友関係を、また一から築き直すことになる。
次のシーズンが始まる前に下調べが必要だな、などと、庭園をぼんやりと眺めながら考え込んでいると、一緒に庭園を眺めていたマルガレーテがちらりと、横目でホーリィを見た。
「お姉様はお元気?」
「どちらの姉かしら?」
「そうね。麗しいエメリア様のお加減も、とても気になるけれど。今はレリッサ様の方よ」
なるほど、とホーリィは納得する。
(本当に聞きたかったのは、こっちね)
ホーリィの噂なんて、大した用事ではなかったのだ。
ちらりとマルガレーテの肩越しに、向こうのテーブルで集まって談笑している令嬢たちの方を見る。何人かが、こちらを、ちらちらと気にしているのが見えた。
「本当に……貴族って嫌ね。本当の友人関係も築けないんだから」
吐き出したため息には、苛立ちが混じった。
聞きたいことがあるなら、自分で聞きに来れば良いのだ。
マルガレーテが肩をすくめて見せた。
「あら心外。私は、ホーリィの親友だと思っていたわ。違って?」
「違わないわ。でも、だとしたらご愁傷様。貴女に伝書鳩代わりをさせるなんて、私ったらなんてひどいお友達なのかしら?」
「ふふ。だったらご褒美をもらわなくちゃ、ね?」
マルガレーテは口元を扇子で隠しながら、小さく頭を傾けた。
ねだるようなその仕草に、結局聞きたいのは彼女も一緒か、と嘆息する。
ホーリィは近くを通ったボーイに空になったグラスを渡すと、扇子をゆったりと振って自分に風を送りながら、横目でマルガレーテを見た。
「それで? お姉様の何が聞きたいの?」
「そうね……。例えば、あの噂は本当かしら? レリッサ様が、新しい国王陛下との婚約間近……というお話」
例えば、どころか、それが本命だろう。
貴族とはつくづく面倒くさい言い回ししかできないものだ。
ホーリィは庭園に視線を巡らせる。
ここに集まった貴族たちの口に登る話題の、おそらく大半が、今年は新しい国王に関するもので占められている。
やれ、第二王子であった陛下は、どこへ行かれていたのか。
やれ、陛下に取り入るには、何を献上するのが良いか。
やれ、陛下の趣味嗜好はどんなものか。
新しい国王は国を一新するつもりでいる。
となれば、その動きに取り残されないよう、賄賂でもなんでも使って、国王の特別の配慮を得たい。と思うのは、悲しいかな貴族のサガだ。何せ家の繁栄が何よりも大事なのは、どこも同じなので。
そして同じくらい、新しい国王が誰を婚約者とするのか、というのは貴族にとっては家の繁栄に直結する重大な議題だった。
もちろん、今現在、唯一名前が挙がっているのはレリッサである。
シーズン最後の夜会で、あれほど派手なことをやらかしたのである。国王が『リオネル・カーライル』と名乗っていた頃からの二人を見ていれば、その寵愛ぶりがうかがい知れるというものだ。
「そうね……皆様にはこうお返事してちょうだい」
ホーリィは扇子で風を送るのをやめて、その扇子を畳んだ。
そしてにこりと笑う。
「見ていたらわかるでしょう? って」
マルガレーテは目を丸くして、それから可笑しそうに、ふふふと笑った。
ホーリィは素直じゃない。それは自分でも分かっている。
もともとそういう性格だったのに、貴族同士の裏を探り合う会話を覚えてからは、それに拍車がかかった。
だから、そう。
そのせいで、余計な遠回りをした。
「私ね、よく分かったの。貴方とかお姉様みたいな、そういう人種の人たちには、いくら裏から攻めてもダメなんだって」
「……待って、なんの話? なんで俺、ホーリィに胸ぐら掴まれてんの?」
エドが両手を上げながら、何事かと目を見開いている。
王宮の一室である。
エドがリオネルの従者として王宮に住まうようになってからは、青いスカーフで互いに連絡を取り合う方法は使えなくなった。
何せ、エドがリオネルに貼り付いていて離れる暇がないのだ。
新たな国王となったリオネルは多忙で、必然的に従者であるエドも今まで以上に、リオネルの手足、耳目となって動き回っている。
エドが情報を集めていたのは、リオネルを『王』にするためだった。
その目的が達成されたなら、情報を集める必要がなくなる。
それはつまり、ホーリィとエドが交わした、口約束の契約もなかったことになる、ということだ。
(冗談じゃないわ)
キッとホーリィはエドを睨み上げる。
エドがびくりと肩を震わせた。
「ホ、ホーリィさん……? なんか、怒って……る?」
「当然でしょ」
きっぱりと言い切ると、エドが視線を彷徨わせ始めた。
「え、俺、なんかした? あれかな? 前にラローザ邸でホーリィの気に入ってる鏡を割っちゃったこと? それともホーリィが大切にとっておいた、パティスリー・バルマンのチョコレートボンボン、一個勝手に食べたから……」
「ちょっと!」
胸ぐらを握る手に力を込めれば、「ぐぇ」とエドが呻いた。
「私のチョコレートボンボン食べたの!? あれ、大切に大切に、取っておいたのに!」
「えー! だってさ、厨房の棚の中にポンって置いてあったんだもん! 食べて良いと思うじゃん!?」
「思わないわよ! っていうか、人ん家の厨房に勝手に入るんじゃないわよ!」
そうじゃない。
全てがそうじゃなかったが、ホーリィの頭が一瞬、屋敷の厨房に大切に管理されているはずの、お気に入りのチョコレートに占有される。
(すぐに帰って、残りの数を確かめなくちゃ)
チョコレートの管理を、料理長に任せきりにしておいたのが悪かった。
そんなことを思っていると、胸ぐらを掴まれているエドが、しゅんと肩を落とした。
「ごめんって、ホーリィ。今度、同じの買ってくるから……」
「……もう良いわ」
はぁ、とため息をつく。
せっかく勢いをつけて来たというのに、すっかり気がそがれてしまった。
エドに話があるからと、リオネルに頼んでエドの手を空けてもらい、確保した休憩時間は十五分。その十五分がこんなくだらないことのために終わるなんて、何のために来たのか分からない。
(こっちは、結構いろいろ気合いを入れて来てるんだから)
髪には普段よりも香り良いの香油を撫で付けて。
ドレスは下品でない程度に露出のある、上質なもの。
化粧も濃くなりすぎないように、唇に潤いを持たせた紅をさした。
いつも、彼と会うときは気合いを入れる。
気づいて欲しいから。
ちょっとでも、『女』だと思って欲しいから。
出会った時、ホーリィは十四で、彼は二十六だった。
彼からすると、ホーリィはいつまでも子供かもしれない。
それでも目一杯の背伸びをした。彼の視界に入りたかった。
(私は、もう十分『女』なのよ)
出会った時みたいに、男と女の事情に赤面するホーリィは、もういない。
彼に欲があるのなら、いくらでも受け止められる。
だから、『そういう対象』になり得るのだと気づいて欲しい。
胸ぐらを掴んでいると、自然とホーリィとエドの顔は近くなる。
エドは戸惑った表情でホーリィを見ていて、困っているように見えた。
こんなに近くにいても、顔を赤らめもしない。
それが腹立たしくて、悲しい。
これでは、完全にホーリィがエドの『対象外』なのだと、まざまざと見せつけられただけだ。
胸の中に、苛立ちが沸き起こる。
この鈍感。無神経男。デリカシーがなくて、歩幅を人に合わせることもできないくせに。
何で。
何でこんなに好きなんだろう。
きっと、出会った最初から。
「……悔しいわ」
「え? なんて?」
ホーリィばかりが好きで。彼はそのことに気づきもしていない。
それなら、とホーリィは胸ぐらを掴む手を引き寄せた。
「ホー……――!」
名前を呼ぼうとしたエドの、その唇を塞ぐ。
これ以上ないくらい近づいたエドの目が、見開かれる。
ホーリィは顔を離すと同時に、掴んでいた胸ぐらから手を離した。
どさりとエドが尻餅をつく。
何が起きたのか分からない。
そんな顔をしているのも、また腹立たしい。
「言ったでしょ。分かったって。貴方やお姉様みたいに鈍感な人たちには、これくらい分かりやすくしないと伝わらないのよ」
そう言うと、ホーリィは部屋の扉に手をかけた。
「帰るわ。お義兄様の仕事の邪魔をしたいわけじゃないから」
「え…? ホーリィ? え? 今の……なに?」
頭の上にたくさんの疑問符を浮かべて、エドが情けなく尻餅をついたまま、ホーリィを見上げている。
ホーリィは、べっと小さく舌を出した。
「しーらないっ。自分で考えたら? 鈍感男さん」
じゃあね、とホーリィは部屋から出た。
そこは執務室にほど近い、従者が仕事をするための部屋だ。限られた者しか立ち入ることの許されない王宮の最上階。リオネルに事情を話して、特別に十五分だけと言う許可を取り付けた。
執務室の前に立っている近衛が、ホーリィに敬礼で挨拶をする。
一瞬、リオネルに挨拶をしていこうか、と思ったけれど、忙しい義兄の手を止めるのも申し訳なくなって、ホーリィは近衛に小さく頭を下げて、その前を素通りした。
階段を降りていけば、レリッサが待っていた。
「お姉様」
「ホーリィ、用事は終わったの?」
レリッサは胸元に本を抱えている。
彼女は現在、王妃教育の真っ最中だ。こうして数日に一度王宮に来て、大臣やその道の専門家の講義を受けている。
ホーリィは、そのレリッサに便乗する形で王宮にやって来たのだった。
「なぁに? また新しい本なの?」
「ええ。外交には、他国の情報が必要でしょう? スタッグランドと他の国ではいろいろと違うこともあるから、とても勉強になるわ」
そう言って本を抱きしめるレリッサは、生き生きとしている。
ホーリィは今自分が降りてきた階段を振り返った。
「お義兄様にご挨拶しなくて良いの?」
レリッサは少し困った顔で眉を下げた。
「リオン様はお忙しいから。今日はやめておくわ」
「お姉様が良いなら、私は良いけど……」
ちらりと、レリッサに向けて優しい笑みを落とす義兄を思う。
おそらくリオネルは、レリッサが顔を見せないことを残念がるだろう。
そうは思ったが、ホーリィの一番の優先順位はいつだってレリッサだ。
ホーリィはレリッサの腕に腕を絡ませた。
「じゃあ帰りましょ。この時間なら、まだサマンサとライアンが帰ってないから、二人で庭園でお茶をするのはどう?」
「良いわね。ホーリィの好きな料理長のマドレーヌ、用意してもらいましょうか」
仲良く腕を組みながら王宮を出る。
馬車に乗り込むと、対面に座ったレリッサがくすりと笑った。
「ホーリィ、今日は機嫌が良いみたい」
「そう?」
ホーリィは馬車の窓枠に肘をかけて、外を眺めた。
覆い茂る並木道が去っていく。
頭の中に、尻餅をついてこちらを見上げる、エドが思い浮かぶ。
ホーリィはそっと口角を持ち上げた。
(悩めば良いわ)
悩んで悩んで、いっぱい考えれば良い。
そうしてホーリィで頭をいっぱいにしておけば良いのだ。
**********
リオネルはペンを置いて、時計を見上げた。小さく息を吐いて、立ち上がる。
執務室を出れば、護衛の近衛がついて来ようとしたのを、手で制して、執務室から数部屋離れた一室へと向かう。
エドに用事がある、と訪れたホーリィは少し前に帰って行った。
扉の前を通り過ぎたのを気配で感じたから分かる。
だがエドの方は、それから一向に帰ってこなかった。
エドとホーリィが話をしていたはずの部屋の扉をノックする。
返事はない。
だが、中に確かにエドの気配はあって、リオネルはためらわず扉を押し開いた。
「おい、エド……」
扉の向こうに、エドが尻餅をついて座り込んでいた。
口元を手で押さえる、その顔は。
「真っ赤だぞ」
どうした、なんて聞いてやるつもりはない。
エドと話したいと、そう言ってきたホーリィの真剣かつ思いつめた表情を見れば、何があったのかは大体察せられた。
リオネルはエドの前に座り込んで、その額を小突いた。
「だから言っただろ。自分で気付けって」
「いや……だって、ホーリィが……。……いや、は……?」
エドは混乱している様子で、しどろもどろになりながら、なんとか言葉を口に出そうとしている。
まさかホーリィが自分を、だなんて思いもしなかったのだろう。
そう思うと、ホーリィが可哀想になってくる。
リオネルは完全にホーリィ側の立ち位置だ。
『お義兄様を見習うことにしたわ』
エドと話したいと言ってやって来たホーリィは、強い瞳でリオネルを見て言った。
なるほど、と思う。
彼女らしいやり方だった。
リオネルはふっと笑って、いまだに顔を赤くしてるエドを見た。
「分からないなら、分かるまで考えれば良いんじゃないか? それが、彼女に対する誠意だと俺は思うけど?」
「え……えぇ……?」
彼女は、エドのことを想い、悩んで惑って、時には間違った道を通りながら、ここまでやって来た。
それに応えるなら、エドもやすやすと答えを得てはいけないのだ。
「ま、頑張れ」
リオネルは笑って、エドの肩を叩いた。
エドが彼女の気持ちに気づくまで、あともう少し。
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