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しおりを挟む夏休みになるからと言って教師まで休みになるわけじゃない。
終業式だろうが仕事は山積みで、生徒が下校した放課後を忙しなく過ごす。
カリカリとボールペンを動かしながらため息を吐く。
七海のことをどうするべきか。
確かにちゃんと話をせずに一方的に避けるのは良くなかったかもしれない。
だが話をするにしても時間がほしい。
顔を見ただけで心臓がおかしいほど早鐘を打ち気が動転するのに、今アイツと落ち着いて話なんか出来るわけがない。
なんて厄介な感情なんだ。
どうせ放っておいても夜通し電気がついていれば、見回りの警備員に捕まって説教されるだけだ。
アイツがずっと数学準備室で待ち続けるなんてことが出来ないのは、大人の観点から分かっている。
ただそうなると担任に報告が行くだろうし、そうなればやはりアイツの評価が下がることに繋がるだろう。
神谷は常軌を逸した行動は許さないと言っていた。
「……」
なんて卑怯なんだ。
完全に逃げ道を塞がれている気がしてならない。
受験を控える生徒に対して俺が非情になりきれないことを、アイツは分かっている。
最終下校時刻を告げるチャイムが鳴る。
あっという間に外は夕闇が掛かり、職員室へ入ってきた教師がパチリと電気を付ける。
部活をやっている生徒も、残って勉強をしている生徒ももう帰る時間だ。
まだアイツは残っているのだろうか。
これ以降も残っているのであればさすがに帰宅させないといけない。
遅い時間に学校を出てきたところを見られれば、それこそ問題になる。
なんとか仕事を一段落させると、席を立ち上がる。
どちらにせよ校舎に残っている生徒がいないか巡回しなければならない。
蛍光灯が付きはじめた廊下を歩いて教室を回り、実習棟へと歩いていく。
終業式ということもあって残っている生徒はほとんどいなかった。
どこか重い足取りで階段を昇り、実習棟の一番奥にある数学準備室へと歩く。
たどり着いた扉の前で、一つ大きく深呼吸をする。
もう帰ったかもしれない。
だったら何も問題はない。
そもそもなぜここが待ち合わせ場所になるんだ。
いくら俺しか使っていない場所とはいえ、生徒の出入りを許可した覚えはない。
必死に正論を考えて頭を冷やそうとしているのに、心音はさっきから忙しない。
数学準備室に入るのになぜこんな緊張しないといけない。
扉に手を掛けたが、そのまま立ち尽くしてしまう。
開けられない。
心臓がいつまで経っても鳴り止まない。
やはりこんな状態で七海に会うわけにはいかない。
「…おい七海。まだいるのか」
扉を開けぬまま、声を掛ける。
ガタッと中で音がして、扉に駆け寄る音がした。
反射的に扉を押さえる。
「います――ってあれ、押さえてます?なんで扉開けてくれないんすかっ。超絶拒否じゃないっすかっ」
「う、うるさいっ。いいからさっさと帰れっ」
「意味わかんないっすよ。開けてくれなきゃ帰るに帰れないじゃないっすかっ」
確かに。
だが開けるわけにはいかず、七海とガタガタと扉を巡って争う。
「みーちゃん開けて下さいっ。ちゃんと話をしましょう」
「無理だっ。もう諦めてくれ。俺はお前とこれ以上関わる気はないっ」
「なんですかそれ。納得出来ませんよ。この間まで普通に勉強教えてくれてたじゃないですかっ」
「ダメなんだ。俺はもうお前に指導などする資格はない」
頭が混乱する。
もう頼むから俺を追いかけないでくれ。
これ以上おかしな自分になどなりたくない。
扉を必死に閉めていたが、やはりコイツの力には勝てる気がしない。
このままじゃ力負けして開けられてしまうと思うと、気持ちが動揺して思考がまとまらない。
「開けてくださいよっ。扉ぶち壊しますよ」
「そんなことをしたら二度とお前の話は聞かないっ」
「――元々そのつもりだったじゃないですかっ」
鋭く言われた言葉にビクリと身体が竦む。
七海が怒っているのかと思ったら、どうしようもなく胸が苦しくなる。
自分で決めた事なのに、扉を抑えていた手が震える。
もう開けられてしまうかと思ったが、向こう側から扉を開けようとしていた力が止んだ。
「…分かりました。ならもうそこでいいんで話をしましょう。みーちゃんがなんで俺を避けるのか知りたいです」
扉一枚隔てたすぐ近くから、声音を落とした七海の声が聞こえてくる。
アイツは怒っているのか。
それとも落ち込んでいるのか。
少なくともあの無邪気な笑顔ではないだろう。
「…なんで俺の事避けるんですか。俺何かしましたか」
何かしたかと聞かれればそれはもう、数え切れないほどに色々している。
だがそんな事は今更だ。
決定的な原因は俺の心境の変化だ。
「引退試合誘ったのが良くなかったですか?別に試合なんてどうでもいいです。みーちゃんの機嫌のほうが俺は大事です」
なんでそんな事を言うんだ。
あれだけの人に注目されて、観客全員を魅了するようなプレーをしていたというのに、どうでもいいなんて言い方をするな。
あれほどまで上達するにはきっと高校生活で、いやきっとそれより前からたくさんの努力を積み重ねてきたはずだ。
その大事な最後の一日だったはずだ。
「それとも高瀬先輩に運命の人だって言ったことですか?好きな人を大事な友達に紹介したいのはいけないことですか」
扉越しに必死に俺に訴える七海の声が聞こえる。
バクバクと鳴る心臓は全く治まらない。
「た、高瀬とお前は付き合っていたんじゃないのか。元恋人の前でその発言はおかしいだろう」
「えっ?」
驚いた声が返ってきた。
七海からの返事が止まる。
無言になるということは、やっぱりそういうことなんだろう。
フツフツとどうしようもなく苛立った感情が沸いてくる。
「高瀬先輩とは付き合ってないです」
だが間を置いて、どこか落ち着いた七海の声が聞こえてきた。
その言葉に一気に力が抜ける。
なんだ、俺の勘違いだったのか。
自分でもあっという間に苛立ちが消えていることに驚いたが、不意にカタンと音が聞こえて七海が扉に触れたことを知る。
開かれたわけではないが、すぐ側にいることを感じてハッと顔をあげた。
「…高瀬先輩は俺の…、俺の片思いだっただけです」
そっと聞こえてきた言葉に、胸に鋭い痛みが走った。
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