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しおりを挟む「――なっ、なんですかその顔は…っ」
七海を帰宅させて職員室へ戻ると、人の顔を目にした神谷に開口一番言われた。
別に俺は今変な顔をしていないが、一体なんだ。
「ま、まるで明日誰かのためにお弁当を作るのをとても楽しみにしているような顔に見えます…っ」
なぜ分かる。
いや別に楽しみにしているわけではないが、七海が卵焼きと唐揚げが食べたいと言っていたのでスーパーに寄って帰るかと考えていただけだ。
「…俺はそんな具体的なまでに考えている事が顔に出ているのか?」
「え、正解でしたか?紺野先生にしてはどこか浮かれているように見えたもので」
「それだけでどうしてそんな具体性のある回答が出てくる」
ストーカーとは人の表情を分析して相手のスケジュールまで分かるようになるものなのか。
それほどまでに分析能力があるのなら、いっそ数学の研究を共にしたいくらいだ。
もう呆れを通り越しつつ逆に感心しながらコーヒーを淹れるため給湯室へ向かう。
七海に時間を取られていたせいでまだ仕事は山積みだし、テスト前ということもあって職員室も忙しない。
「ちょ、ちょっと待ってください。紺野先生、さっきのお話本当なんですか?」
何かと思えば神谷は給湯室まで追ってきて、まださっきの話がしたいらしい。
コーヒーを淹れている俺の横で焦ったように聞いてくるが、いい加減にしろと眉をひそめる。
他の教員も近くにいるのに私情を挟んだ話などするつもりはない。
苛立つ俺の態度に神谷も気付いたようで、どこか苦い顔で口を開く。
「…あ、いえ。すみません。実は5限の授業に行く途中で七海が弁当を食べ損ねたと嘆いていたので。ひょっとしたらと言ってみただけです」
「――は?ち、違う。アイツは何も関係ないっ」
コイツまだ七海と俺を疑っているのか。
変に声がひっくり返ってしまったが、誤魔化すように手元のコーヒーに視線を落とす。
隣で小さく息を吐き出す声が聞こえた。
「とても追求したいところですが、今それをしたらあなたに嫌われてしまうのでしょうか」
「なぜ俺がお前に追求されねばならない。仮にも俺はお前の上司であって今は勤務中だ。くだらない話をするな」
「…すみません」
ぴしゃりとそう言い放つと神谷はどこか気落ちしたような表情をしたが、別に俺は当たり前の事を言っただけだ。
コイツは生徒ではなく社会人で、同じ職場の同僚であるのだから子供のようなフザけた態度をしてもらっては困る。
「…難しいですね。俺のほうがあなたに近いはずなのに――」
神谷はぽつりと呟くようにそう言うと俺に頭を下げた。
肩を落として戻ろうとしたから、少し待てとその腕を引く。
「…なんでしょう」
「ほら、お前の分だ。これから部活の顧問に行くのだろう。試合も近いと聞いたし、あまり無理をするなよ」
そう言って自分の分と一緒に淹れてやったコーヒーを神谷に渡してやる。
神谷は少し驚いたように瞬きをしてから、クスリと綺麗に微笑んだ。
「貴方という人は…本当に人の気持ちを揺さぶるのがお上手ですね」
「…は?何を言っている。自分の分のついでに淹れてやっただけだろう」
「ふふ、そうですね」
神谷はすっかり気を取り直したようで、俺の渡したコーヒーを一度軽く上げてから先立って給湯室を出ていく。
が、出際にふと顔を振り向かせた。
「ああそうだ、ちなみに俺はミートボールが好きです」
お前の弁当を作ってやる予定はない。
「みーちゃんっ。来ましたっ」
翌日の昼休み。
扉を蹴破る勢いで入ってきた威勢のいい七海の声が数学準備室に響く。
随分早かったが、コイツまさか廊下を走ってきたんじゃないだろうな。
だが相変わらずの無邪気な笑顔を視界に入れて、自然と表情が緩む。
「あれ、みーちゃんご機嫌さんですか?ニコニコしてて可愛いーです」
「は?そんな顔をしていない。弁当持ってきてやったからさっさと食え」
そう言って七海に弁当を差し出してやる。
昨日は渡せなかったが、今日は無事渡すことが出来てよかった。
「超絶楽しみにしてましたっ。でもその前に――」
言いながら七海の手が弁当を差し出している俺の腕を掴む。
ハッとする間もなく引き寄せられると、触れるだけのキスをされた。
「――っと、危ない」
驚きについ離してしまった弁当を、七海がキャッチする。
なんなんだ。
いきなりコイツは何をしてくるんだ。
「あ、良かった。ちゃんと今日も俺の事意識してくれてますね。夢じゃなくてよかったー」
七海はわけの分からないことを言いながら俺の顔を嬉しそうに覗き込んでくる。
顔に血が昇って何も言えず固まったままでいたら、七海は丁寧に弁当を机の上に置いてから無遠慮に人の身体を押す。
あっという間に壁に追い詰められて、どこか色の変わった瞳に見下ろされた。
「ちょ、おい…っ」
「そんな物欲しそうな顔されたら応えないわけにいかないですよ。今日は元気なんでいっぱい気持ちよくさせてあげますね」
「待てっ、お前何を――」
「待ちません」
そう言って再び近づいてきた唇に身体を強張らせた、その時。
「失礼しまーっす」
ガラッという扉を開ける音とともに結城の声が室内に響く。
このパターン最近多いな。
「あれ、またイチャイチャしてるんすか?眼鏡センセー顔真っ赤じゃないっすか。絶対七海先輩のこと好きでしょ」
「――は?」
「あー良かった。カミヤンの片思いならまだ俺にもチャンスがあるしぃ」
何か割り切ったように言いながら、何時も通り結城はパイプ椅子を俺の机の横へと広げる。
今世紀最大にガッカリした顔をしている七海を慌てて押し返して、自分の椅子へと戻る。
「俺は七海を好きじゃない。生徒は恋愛対象に入らないと言っているだろう」
「はいはい。ていうかカミヤンの片思いは否定しないんすね。…まあストーカーだしさすがに気付くか」
「――えっ」
今コイツはなんと言ったんだ。
なぜそれを知っている。
というかそれを知っていても神谷が好きなのか。
「眼鏡センセーと七海先輩がくっつけばカミヤンも諦めるかなーって思ってたけど、眼鏡センセーにはバレちゃったんで作戦変更します」
「は?」
「眼鏡センセー、俺に協力してくださいよ。カミヤンが俺を好きになれば眼鏡センセーへのストーカーも治るかもしれないでしょ?」
そう言って結城は両手の指を組むと、少し小首を傾げて上目遣いに俺を見上げる。
ついこの間まで敵意むき出しだったはずだが、一体どんな心境の変化だ。
俺はコイツに嫌われていたわけじゃなかったのか。
確かに結城の言う通り、神谷のストーカーが治ってくれるのは俺としても有難いことではある。
だが。
「教師と生徒の恋愛は禁止だ。余計なことを言っていないでテスト勉強をしろ」
「もちろん勉強しますよ。眼鏡センセーを落とすにはまず勉強だって七海先輩も言ってましたし。だから、期末テストの成績があがったら協力してくださいね」
なんだその覚えのある交換条件は。
さすが七海の後輩と言うか、どいつもこいつもなぜ勉強の交換条件を俺に提示してくる。
勉強と色恋を一緒にするなとは思うが、テスト前のこの時期にせっかく結城が勉強に対してやる気を出しているのに、下手に水を差していいのかとも思う。
「ちょ、あーちゃん。何言ってんのか分かんないけど勝手にみーちゃんと約束するの禁止だからっ。バスケ部の規則だからっ」
「あーもー七海先輩うるさいっす。眼鏡センセー、よろしくお願いしまーっす」
そう言って結城はあっさりと七海をあしらうと、少し高めの声で花開くような笑顔を俺に向ける。
生徒の純粋な笑顔というのは、いつ見ても心暖まるものだ。
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