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10・かつての婚約者の計算違い

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「あ、あなたは──ヴィーラント殿下っ!」

 ゼレギア帝国、第一王子ヴィーラントのご登場に、レナルドは言葉に詰まっている。
 さすがのレナルドも、ゼレギア帝国第一王子を前にして今までの態度を貫くのは難しいのか、不遜さは一旦なりを潜めていた。

 しかしすぐに隣にいる私を見つけて、顔を怒りに染めた。

「エルナ! こんなところにいたのか! 貴様、自分がなにをやったのか分かっているのか? すぐにフーロラに帰って……」

 とレナルドが手を伸ばし、私に触れようかとする瞬間であった。

 ヴィーラントが遮るように彼の前に立ち、声に怒気を含ませてこう言った。

「フーロラの第一王子は礼儀も知らないのか? エルナは俺の大事な婚約者だぞ。それなのに勝手に触ろうとするのは、どういうつもりだ」
「なっ……」

 ヴィーラントにすごまれて、レナルドは二の句を継げない。

「な、なにを言っているんだ。そこの男も訳の分からないことを言っていたが、エルナがあなたの婚約者だって? 信じられない」
「本当だ。元々、貴様と婚約をしていたそうだが、今は破棄されているんだったな」
「だからそれは誤解だ。まさかあんな紙切れを根拠にしているのか?」
「紙切れ……か」

 と言って、ヴィーラントがレナルドを見下す。

「どうやら、レナルド第一王子は誓約の意味も知らなかったようだな。誓約とはすなわち、契約。しかも最も効力が強い、血判が押されている。もし誓約書や契約書の類が必要ないというなら、現在フーロラとの国で結ばれている関税も払わなくていいのか?」
「そ、そんなのは横暴だ。関税については契約書があって……あっ」
「ようやく気付いたか。契約というのはそれほど、強い意味を持つんだ。一度、判が押されてしまえば後戻りは出来ない」

 ヴィーラントの言うことは正しい。

 そんな当たり前のことは貴族や王族ではなく、庶民の方々も知っている。だからみんな、契約に判を押す際は慎重になるのだ。

 社会を知らない子どもならともかく、高度な教育を受けてきたレナルドが知らないなんて……。
 いや、まだ精神的には子どもだから、そんなことを言い出すといったところなんだろうか。

「国と国の大事な取り決めに、男女の恋愛も適用するなんて大袈裟すぎる。ヴィーラント殿下は男女が付き合う前、契約書が必要になるというのか?」
「なるほど。一般論に落とし込む気か」

 だが──とヴィーラントは怯まずに続ける。

「貴族と貴族の結婚は、一般的な恋愛とは違う。貴族の結婚とは、時に未来の行く末を左右するものなのだ。ましてや俺と貴様は王族。恋愛や結婚には、さらに慎重にならなければならない立場だ」
「…………」

 レナルドはなにも言い返せないのか、口を閉じる。

「現に俺はエルナと婚約する時、契約書にお互いの署名を交わした」
「は? たかが婚約にか?」
「婚約だからこそ──だ。そしてこれは、婚約している限り、エルナを守り抜くという俺の意志も含まれている」

 ……役立たずと見なせば、捨てるって言ってたくせに。

 と思わないでもなかったが、これもレナルドを説き伏せるためだろう。
 それも分かっていたので、唇を尖らせて文句の意思表示をするだけで、私も口を挟まなかった。

「守り抜く……か。はっ! その女のどこがいいんだ? 実はその婚約にも裏があるんじゃないか?」
「なにを言う」

 えっ?

 そう思うのも束の間、ヴィーラントはレナルドに見せつけるように、私を抱きしめた。

「彼女ほど、美しい女性はいない。政治的な意味もないとは言い切れない。しかし俺は彼女にのだ。愛する女性を守りたいと思うのは、当然の話だろう?」

 ────っ!

 ヴィーラントは涼しげな顔をして、情熱的なことを言ってのける。

 もちろん、これもレナルドを諦めさせるための手段だ。
 ヴィーラントの目的は、私の『棘の魔法』であって、愛など存在しない。

 しかし、たとえ一時凌ぎの嘘であっても、こんな風に抱きしめられることは久しぶりだったから──。
 赤くなっているであろう顔を隠すため、私はヴィーラントに体を委ねることしか出来なかった。

「あ、愛する女性……だとお?」

 まさかこんな光景を見させられるとは思っていなかったのか、レナルドがたじろぐ。

「分かったら、お前の方こそ去れ。これ以上ごちゃごちゃ言うようだったら……タダで帰すわけにはいかないな」

 ヴィーラントが目配せをすると、グレンが剣を抜いた。

 刃の煌めきを前にして、レナルドは「ひっ」と短い悲鳴を上げてから。

「きょ、今日のところは勘弁してやる。覚えていろよ!」

 捨て台詞を吐いてから、そそくさとその場を後にするのであった。




「はっはっは! ヤツの顔を見たか? 呆気に取られたような顔をしていた。久しぶりに面白いものが見れたよ」

 レナルドがいなくなってから。
 私とヴィーラントは執務室に戻って、先ほどのことについて話し合っていた。

「それにグレンが剣を抜いただけで、ビビって逃げていった。最後の台詞を思い出したら、また笑いがぶり返してくる」
「レナルド殿下は温室育ちでしたからね。剣を向けられた経験など、なかったからでしょう」
「うむ。しかしエルナとは大違いだな。君はグレンと決闘をすることになっても、逃げなかった。覚悟が違う」

 まあ、そりゃ一度……殺されているからね。

 あれから、私はヴィーラントだけではなく、他の人に自分が死に戻ったことを伝えようとしたが、上手くいかなかった。
 何故か。そのことを口にしようとすると、頭にがかかって苦しくなるのだ。

 言っても簡単に信じてもらえるとも思えないが、死に戻りのことを言えないのは、大きなデメリットな気がする。
 しかし今のところ、この原因不明の苦しみも分からないので、なすすべがない。

「そういえば」

 ヴィーラントは椅子の背もたれに体を預けて、私にこう質問する。

「ちゃんと聞いてこなかったが……どうして、レナルドと婚約破棄することになったのだ? ヤツの不貞が原因と、例の誓約書には書かれていたが……」
「はい、実は……」

 私はレナルドが私のことを軽んじ、アイリスと浮気していたことを彼に伝えた。

 するとヴィーラントは真剣な顔をして。

「なるほど。どおりでヤツが誓約書に血判を押したのに、君を連れ戻そうとするわけだ。そのアイリスだとかいう令嬢は平民。いくら愛し合っても、王子と結婚出来るとは思えないからな」
「ヴィーラント殿下のおっしゃる通りです。他の令嬢を探そうにも、なかなか見つからないでしょう」
「だろうな。不貞が原因で婚約破棄した王子に、大事な娘を嫁がせようとする親もいないだろう。いくら相手が王子だとしても……な」

 と納得するヴィーラント。

「ならば、ヤツはお前を簡単に諦めないだろう。またなにかバカなことを仕掛けてくる可能性がある」
「すみません……」
「どうして、謝る必要がある? お前は俺の大事な婚約者なんだぞ。婚約者を見捨てるほど、俺も落ちぶれていない」

 ヴィーラントはそう言って、口角を吊り上げる。
 彼の顔を見ていたら、先ほどの抱擁された記憶が蘇ってきて、頬に熱が帯びた。

「あ、あの、殿下。愛する女性を守るというのは……」
「ん?」

 ヴィーラントが首をひねる。

 ……ダメだ、言い出せない。
『殿下は私のことを愛しているんですか』──って。

 そう問いかけて、「違う」と返ってくるだけだろうし、そんな質問にはなんの意味もないからだ。

 私はレナルドの圧を跳ね除けるため。
 ヴィーラントは私の『棘の魔法』が目的。

 この婚約はそういった種類の
 なのに愛されているんじゃないかと勘違いするなんて、烏滸おこがましい。

「な、なんでもありません」
「変なヤツだな。まあいいが」

 ヴィーラントはその言葉通りどうでもよかったのか、それ以上追及することはなかった。



 ──今回の一件で分かった。



 やはり、ヴィーラントの婚約者というステータスは大きい。レナルドごときなら、すぐに突っ返すことが出来る。
 ヴィーラントに捨てられないように、私も早く『棘の魔法』に覚醒──そうじゃなくても、ここにいることのメリットを示さなければ……。


 ──と思っていたが、意外にもその機会は早くも訪れることになった。
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