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第七章〈救国の少女〉編
7.8 神との契約(3)
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「やさしい王太子さま……、王位を継ぐことを引け目に感じる必要なんてこれっぽっちもないんですよ」
私の沈黙を迷いと思ったのか、ジャンヌは励ますように言葉を紡いだ。
「あたしのお父さんはただの羊飼いだったけど、最近小さなお城を買いました。領主さまが亡くなって何年も放ったらかしにされてたお城です。領主さまには子供がいなかったから『もらっちゃえば?』っていう人もいたけど、お父さんは亡き領主さまの姪っ子さんを探して『お嬢さんが相続人ですよ』って教えてあげました」
ジャンヌの故郷にある城は、相続人である姪が遠方に住んでいたために管理しきれず、手放すことにしたようだ。
戦火の絶えない時代に、領主不在となった城はあちこちにあった。
本来の相続人が気づかないうちに、無法者が侵入して所有権を既成事実化することも多く、ひどい場合は、山賊や逃亡兵の隠れ家になり、周辺の街道や村を略奪して荒らし回った。
ジャンヌの父は、故郷ドンレミ村の平和と戦争の不安について考えた末に、大枚をはたいて相続人の姪から城を買い取った。緊急時の避難場所にするために。
「ジャンヌの父君は、真っ正直な羊飼いなのだね」
「はい!」
自慢の父親をほめられて、ジャンヌは溌剌とうなずいた。
「あたしたちみたいな田舎者は、学がなくとも道理はわかります。ズルをしちゃあいけません」
「うんうん」
「イングランドも同じですよ」
ジャンヌはまたあの無垢な瞳で私を見つめ、口を尖らせながら「あたしは怒ってるんです」と続けた。
「今、フランスで起きている問題はそれと同じじゃないですか。王様の相続人は王太子さまだってみんな知ってます。だって、何百年もそういう決まりだったじゃないですか! それなのに、イングランドはズルをして、王太子さまの財産を自分のものにしようとしてる! 道理のわかる真っ正直な人間なら貴族でも司祭でも平民でも誰だって『そんなのおかしい』って思いますよ」
無垢な瞳にはいつしか炎がともり、口調が甲高くなっていく。
素朴な言葉遣いだが、それでも精いっぱい丁寧に話そうとしている姿はいじらしくもあった。
「騎士さまは軍馬が財産だから、馬ドロボーを現行犯で捕まえたら処刑するそうじゃないですか。あたしたち羊飼いは家畜ドロボーをつかまえたら半殺しにします。じゃあ、王様は国が盗まれたらどうします……?」
いじらしいと思ったのも束の間、今度はぐいぐい迫ってきた。
「……せ・ん・そ・う! やるしかないじゃないですか!!」
ジャンヌ・ラ・ピュセルについて「神の使い」を名乗る少女だと聞いていた。
本物の聖人であれ、悪魔の使いまたは詐欺師であれ、想像していた人物像とはずいぶん違う。ほとばしる熱意に、私はただ圧倒されていた。
「イングランドにとっては侵略戦争ですが、フランスにとっては聖戦です。だって、神様は王太子さまの味方ですからね!」
鼻息荒く、私を鼓舞している。
とても聖女の振る舞いとは思えない。
「神様は戦えって言ってます。自信を持ってください!」
「……だから戦争しているじゃないか。もう何年も」
「違う!!」
怒られてしまった。
「肝心の王太子さまが! やる気ないじゃないですか!!」
「そんなことは……」
「王太子さまは優しいから戦うことをためらってる!」
「そんなことはない。オルレアンでは今も……」
戦っているじゃないか、と断言することはできなかった。
近日中に降伏を考えているのは事実なのだから。
「私はね、ジャンヌが言うほど優しい人間ではないよ」
優しさゆえに、戦意に欠けているのではない。
本当に優しい人間は、敵方の総司令官を隠れて狙撃などしない。
「……親友がオルレアンで戦っている。つい先日、死にかけた」
私の陰気な声とは正反対に、ジャンヌの表情は明るく輝いた。
「やっぱり神様がついてるじゃないですか! その人は勇者です」
「だが、次は死ぬかもしれない」
ニシンの戦い以来、私はデュノワを死なせたくない一心だった。
「やさしい王太子さまがそれほど惜しむ友達なら、絶対にいい人ですね!」
「ああ、デュノワのことを悪く言う人間はいない」
「その人は『死にたくないから戦うのをやめよう』と言ってるんですか?」
「いや……」
私と違って、デュノワは好戦的な性格だ。
ジャンヌとも気が合うかもしれない。
「王太子さまが友達を守りたいと思ってるのと同じように、その人も王太子さまを守りたいと思うから戦ってるんですよ。……ああ、でも、そのお友達はもうひとつ、戦う理由がある」
ジャンヌは、私とデュノワの戦う理由は等価ではないと見抜いた。
「その人が命をかけて戦うのは、王太子さまとの友情もあるけど……、それ以上に、イングランドのズルさに怒っているからですよ! そう、あたしと同じ!」
一旦落ち着いたかと思えば、ジャンヌはまたぷんすかしている。
確かに、デュノワの性格から考えて、まだ余力があるのに降伏したらがっかりさせるだろう。
「ジャンヌから見て、イングランドはそんなにズルいことをしている?」
ジャンヌは「はい!」と明言し、首を大きく縦に振った。
実際に謁見するまであれほど警戒していたのに、ジャンヌの素直すぎる言動に、私はほだされかけていた。
「さっきも言いましたけど、この世界にあるものはすべて神様のものです。王国は王様のものではなく神様に任されているんです。だから、他の王国を盗むのは、神様のものを盗むのと同じです。王様が人のものを盗んで、それが許されてしまったら、あたしたちは安心して暮らせなくなります。だから、王太子さまは何がなんでも戦わなくちゃいけないし、絶対に勝たなくちゃいけない」
ジャンヌの力説に心を動かされていたが、それでもまだ私は意地を張っていた。
「理屈はわかるよ。だが、私は親友を死なせたくないし、すでに多くの犠牲者が出ている」
理想を語るだけなら簡単だ。
実害のない見物人は、高みから盤面の駒を見るかのように「ああしろこうしろ」と囃し立てるが、その駒は血の通った人間だ。私はもうこのゲームから降りたいのだ。
「アジャンクール、ヴェルヌイユ、パリ……、死んでほしくなかった人が何百人、何千人、何万人もいる。あの人たちはもう帰ってこない」
親友の訃報を聞かされることに比べたら、親友に失望される方がまだいい。
自分が中傷されることにはもう慣れたから。
「悪いが、私は期待に応えられない。王の権力は万能ではない。私がどれほど祈っても奇跡は起きなかった。親友を犠牲にするくらいなら、ぐちゃぐちゃの亡骸と対面するくらいなら……、いっそのこと次は私が……っ!」
突然、手が伸びてきて、ぱふっと私の口をふさいだ。
「それ以上、言ったらだめです。悲しくなってしまうから」
私が口を閉じると、ジャンヌはゆっくりと手を離し、今度は自分の胸を叩いた。
「安心してください。王太子さまも、王太子さまの友達も死にませんよ」
「なぜそう言い切れる?」
「あたしが奇跡を起こすから」
ジャンヌを聖女だと崇める者が聞いたら、歓喜するだろう。
しかし、私はそうではない。
「勇気あるお嬢さんに敬意を表して、私も正直にすべてを話そう」
少女に恥をかかせるのは本意ではない。
このことを伝えるか迷ったが、私たち二人きりのこの場ならば、話してもいいだろう。
「謁見を許可した時点で、私は異端審問官の調査団をジャンヌ・ラ・ピュセルの故郷ドン・レミへ送った。生い立ちや家族のこと、日ごろの言動について厳正に調査した」
ニシンの戦いの直後、最初に「謁見許可」を求められた時のことだ。
ジャンヌは、いわゆる信者を急速に増やしていたが、聖書に書かれているような「奇跡」を起こした実績はなかった。
「残念だが、お嬢さんは聖人として認められる基準を満たしていない」
「あたしは、自分を聖人と思ったことはないです」
「そのようだね」
ようするに、周囲の人間に祭り上げられてしまったのだろう。
事前調査とこの夜の対話で、私はジャンヌについて「聖人ではないが悪人でもない」と判断していた。期待に応えようとして、引っ込みがつかなくなり、ついにシノンまで来てしまった——というのが真相だろう。
私の沈黙を迷いと思ったのか、ジャンヌは励ますように言葉を紡いだ。
「あたしのお父さんはただの羊飼いだったけど、最近小さなお城を買いました。領主さまが亡くなって何年も放ったらかしにされてたお城です。領主さまには子供がいなかったから『もらっちゃえば?』っていう人もいたけど、お父さんは亡き領主さまの姪っ子さんを探して『お嬢さんが相続人ですよ』って教えてあげました」
ジャンヌの故郷にある城は、相続人である姪が遠方に住んでいたために管理しきれず、手放すことにしたようだ。
戦火の絶えない時代に、領主不在となった城はあちこちにあった。
本来の相続人が気づかないうちに、無法者が侵入して所有権を既成事実化することも多く、ひどい場合は、山賊や逃亡兵の隠れ家になり、周辺の街道や村を略奪して荒らし回った。
ジャンヌの父は、故郷ドンレミ村の平和と戦争の不安について考えた末に、大枚をはたいて相続人の姪から城を買い取った。緊急時の避難場所にするために。
「ジャンヌの父君は、真っ正直な羊飼いなのだね」
「はい!」
自慢の父親をほめられて、ジャンヌは溌剌とうなずいた。
「あたしたちみたいな田舎者は、学がなくとも道理はわかります。ズルをしちゃあいけません」
「うんうん」
「イングランドも同じですよ」
ジャンヌはまたあの無垢な瞳で私を見つめ、口を尖らせながら「あたしは怒ってるんです」と続けた。
「今、フランスで起きている問題はそれと同じじゃないですか。王様の相続人は王太子さまだってみんな知ってます。だって、何百年もそういう決まりだったじゃないですか! それなのに、イングランドはズルをして、王太子さまの財産を自分のものにしようとしてる! 道理のわかる真っ正直な人間なら貴族でも司祭でも平民でも誰だって『そんなのおかしい』って思いますよ」
無垢な瞳にはいつしか炎がともり、口調が甲高くなっていく。
素朴な言葉遣いだが、それでも精いっぱい丁寧に話そうとしている姿はいじらしくもあった。
「騎士さまは軍馬が財産だから、馬ドロボーを現行犯で捕まえたら処刑するそうじゃないですか。あたしたち羊飼いは家畜ドロボーをつかまえたら半殺しにします。じゃあ、王様は国が盗まれたらどうします……?」
いじらしいと思ったのも束の間、今度はぐいぐい迫ってきた。
「……せ・ん・そ・う! やるしかないじゃないですか!!」
ジャンヌ・ラ・ピュセルについて「神の使い」を名乗る少女だと聞いていた。
本物の聖人であれ、悪魔の使いまたは詐欺師であれ、想像していた人物像とはずいぶん違う。ほとばしる熱意に、私はただ圧倒されていた。
「イングランドにとっては侵略戦争ですが、フランスにとっては聖戦です。だって、神様は王太子さまの味方ですからね!」
鼻息荒く、私を鼓舞している。
とても聖女の振る舞いとは思えない。
「神様は戦えって言ってます。自信を持ってください!」
「……だから戦争しているじゃないか。もう何年も」
「違う!!」
怒られてしまった。
「肝心の王太子さまが! やる気ないじゃないですか!!」
「そんなことは……」
「王太子さまは優しいから戦うことをためらってる!」
「そんなことはない。オルレアンでは今も……」
戦っているじゃないか、と断言することはできなかった。
近日中に降伏を考えているのは事実なのだから。
「私はね、ジャンヌが言うほど優しい人間ではないよ」
優しさゆえに、戦意に欠けているのではない。
本当に優しい人間は、敵方の総司令官を隠れて狙撃などしない。
「……親友がオルレアンで戦っている。つい先日、死にかけた」
私の陰気な声とは正反対に、ジャンヌの表情は明るく輝いた。
「やっぱり神様がついてるじゃないですか! その人は勇者です」
「だが、次は死ぬかもしれない」
ニシンの戦い以来、私はデュノワを死なせたくない一心だった。
「やさしい王太子さまがそれほど惜しむ友達なら、絶対にいい人ですね!」
「ああ、デュノワのことを悪く言う人間はいない」
「その人は『死にたくないから戦うのをやめよう』と言ってるんですか?」
「いや……」
私と違って、デュノワは好戦的な性格だ。
ジャンヌとも気が合うかもしれない。
「王太子さまが友達を守りたいと思ってるのと同じように、その人も王太子さまを守りたいと思うから戦ってるんですよ。……ああ、でも、そのお友達はもうひとつ、戦う理由がある」
ジャンヌは、私とデュノワの戦う理由は等価ではないと見抜いた。
「その人が命をかけて戦うのは、王太子さまとの友情もあるけど……、それ以上に、イングランドのズルさに怒っているからですよ! そう、あたしと同じ!」
一旦落ち着いたかと思えば、ジャンヌはまたぷんすかしている。
確かに、デュノワの性格から考えて、まだ余力があるのに降伏したらがっかりさせるだろう。
「ジャンヌから見て、イングランドはそんなにズルいことをしている?」
ジャンヌは「はい!」と明言し、首を大きく縦に振った。
実際に謁見するまであれほど警戒していたのに、ジャンヌの素直すぎる言動に、私はほだされかけていた。
「さっきも言いましたけど、この世界にあるものはすべて神様のものです。王国は王様のものではなく神様に任されているんです。だから、他の王国を盗むのは、神様のものを盗むのと同じです。王様が人のものを盗んで、それが許されてしまったら、あたしたちは安心して暮らせなくなります。だから、王太子さまは何がなんでも戦わなくちゃいけないし、絶対に勝たなくちゃいけない」
ジャンヌの力説に心を動かされていたが、それでもまだ私は意地を張っていた。
「理屈はわかるよ。だが、私は親友を死なせたくないし、すでに多くの犠牲者が出ている」
理想を語るだけなら簡単だ。
実害のない見物人は、高みから盤面の駒を見るかのように「ああしろこうしろ」と囃し立てるが、その駒は血の通った人間だ。私はもうこのゲームから降りたいのだ。
「アジャンクール、ヴェルヌイユ、パリ……、死んでほしくなかった人が何百人、何千人、何万人もいる。あの人たちはもう帰ってこない」
親友の訃報を聞かされることに比べたら、親友に失望される方がまだいい。
自分が中傷されることにはもう慣れたから。
「悪いが、私は期待に応えられない。王の権力は万能ではない。私がどれほど祈っても奇跡は起きなかった。親友を犠牲にするくらいなら、ぐちゃぐちゃの亡骸と対面するくらいなら……、いっそのこと次は私が……っ!」
突然、手が伸びてきて、ぱふっと私の口をふさいだ。
「それ以上、言ったらだめです。悲しくなってしまうから」
私が口を閉じると、ジャンヌはゆっくりと手を離し、今度は自分の胸を叩いた。
「安心してください。王太子さまも、王太子さまの友達も死にませんよ」
「なぜそう言い切れる?」
「あたしが奇跡を起こすから」
ジャンヌを聖女だと崇める者が聞いたら、歓喜するだろう。
しかし、私はそうではない。
「勇気あるお嬢さんに敬意を表して、私も正直にすべてを話そう」
少女に恥をかかせるのは本意ではない。
このことを伝えるか迷ったが、私たち二人きりのこの場ならば、話してもいいだろう。
「謁見を許可した時点で、私は異端審問官の調査団をジャンヌ・ラ・ピュセルの故郷ドン・レミへ送った。生い立ちや家族のこと、日ごろの言動について厳正に調査した」
ニシンの戦いの直後、最初に「謁見許可」を求められた時のことだ。
ジャンヌは、いわゆる信者を急速に増やしていたが、聖書に書かれているような「奇跡」を起こした実績はなかった。
「残念だが、お嬢さんは聖人として認められる基準を満たしていない」
「あたしは、自分を聖人と思ったことはないです」
「そのようだね」
ようするに、周囲の人間に祭り上げられてしまったのだろう。
事前調査とこの夜の対話で、私はジャンヌについて「聖人ではないが悪人でもない」と判断していた。期待に応えようとして、引っ込みがつかなくなり、ついにシノンまで来てしまった——というのが真相だろう。
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