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第五章〈謎の狙撃手〉編
5.12 別れ際の約束(3)残り香と赤い痕
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居城のシノン城へ帰還する前にブロワ城に立ち寄った。
シノンとオルレアンの中間地点に位置し、今はヨランド・ダラゴンが管理している。あの賢夫人のことだから、王のお忍び行動を知ったら大いに呆れて、軽率な行動をたしなめるだろうが、それでも話を聞いてくれるだろうし、私の隠密行動をごまかす手伝いをしてくれると思う。
あと、兵站基地の管理者を見込んで、今後の戦略について頼んでおきたいこともあった。
「陛下!」
ブロワ城には、予想外の先客がいた。
「どうしてここに?」
「それはわたくしのセリフですわ!」
振り返ると、大侍従ラ・トレモイユとその妻カトリーヌ・ド・トレーヌに付き添われた王妃マリー・ダンジューがいた。
「今は大事な時期なんだから、遠出を控えないと!」
今、マリーは身ごもっている。
「陛下こそ、一体どちらに……? ああっ!」
そう言いかけて、何かに気づいてはっとする。
両手で口を塞ぎ、両目を見開いてこちらを見つめた。
「まさか、怪我をなさっているの?」
「えっ?」
「腕が……、なんてこと……!」
利き腕を吊っている私の姿を見て、マリーは「あぁ……」と魂が抜けたようなため息をついて卒倒してしまった。全部、大袈裟な手当てをしたリッシュモンのせいだ。
*
「うぅ……」
「よかった、気が付いたか」
「あ、陛下……!」
マリーはがばりと起きあがろうとしたが、ふっくらとせり出したお腹に阻まれて、苦しそうな表情を浮かべた。
「さあ、ゆっくり起きて。苦しかったら横になっていてもいい」
「そういう訳にはまいりません」
「いいから。今はひとりの体ではないのだから安静第一だ」
「ええ。それではお言葉に甘えて……」
マリーは重ねたクッションに寄りかかり、半身だけ起こした。
「ふう」
人心地ついたようで、私も安堵した。
マリーはほっとした表情で、しげしげと私を見つめた。
「夢を見ていたのかもしれません」
「どんな夢?」
「陛下がひどい怪我をして帰ってくる夢……。でも、あれは本当に夢だったのかしら」
卒倒する前に見た「腕を吊っている私の姿」と混ざっているのだろうか。
だとしたら、やっぱりリッシュモンのせいだ。
「確かに見たと思ったけれど、気のせいだったみたい」
マリーが気絶して介抱されている間に、私は侍医の診察を受けた。
今は大袈裟な手当てから解放されて、利き手の患部は薬剤を塗っているだけだ。負傷してすぐに適切かつ十分な応急処置をしたおかげで、軽症で済んだともいえるが。
「陛下がどこにもいなくて、なんだかとても不安になってしまって……。大侍従に無理を言って、お母様に助言を求めに参りましたの」
妊娠中から出産後にかけて、母体は不安定になり命を落とすこともある。
もしかしたら、肉体だけでなく精神的にも不安を感じやすくなるのかもしれない。
「気のせいかしら。部屋の中なのにバラの香りが……」
「そうか?」
「陛下の匂い? バラの香油かしら?」
「ああ、そういえば」
リッシュモンお手製の薬には、バラの香油が含まれていた。
「ええと、手を少し火傷してしまってね」
ごまかして、変な疑いをかけられたくないので正直に話した。
「卵白とバラの香油とあともうひとつ、何だったかな……で作った薬だ。たぶんその残り香だろう」
「まぁ、パン焼き釜にでも触れてしまったの?」
マリーはくすくすと笑い、私は苦笑いした。
「ははは、当たらずとも遠からずってところかな。マリーも熱いものを食べるときにはくれぐれも気をつけて」
「ええ、そうね……」
不安な心をなだめるように額を優しくなでると、マリーは気持ちよさそうに私にもたれかかってきた。
「王太子を身ごもっていた時よりお腹が大きいんですって」
「じゃあ、双子かな?」
「1年経たずに死んでしまった次男、お腹の中で流れてしまった3人目……。あの子たちが帰ってきたのかしら」
しばらく、他愛もないことを話した。
不安の原因は、妊娠による心身の変化だけではないだろう。
オルレアン包囲戦で敗北を喫すれば、私たちの未来も危うくなり、ロワール流域から南フランスへ退くことになるかもしれない。
「ねえ、陛下。言いづらいのですが……」
「遠慮はいらない。何でも聞いていい」
「首筋の赤いあざは誰がつけたのかしら?」
「えっ……」
不意を突かれて絶句した。
マリーはドレスを握りしめ、瞳に涙をためながら私に尋ねた。
「ゆうべは、一体どなたとお楽しみだったの?」
マリーが想像しているであろう光景とは少し違うが、思い当たることがひとつある。
詰まった立て襟の下、よほど近づかないと見えないような場所——、右の首筋辺りに手を触れたが自分ではよくわからない。見下ろしても、角度が悪くて赤いあざは見えなかった。
「もしかして、アニエスかしら?」
「馬鹿なことを」
「あの子はとても綺麗だから……」
「そんな訳ないだろう」
前夜、私の首筋に顔をうずめて、どさくさに紛れて吸っていた奴がいる。
ああもう、やっぱりリッシュモンが全面的に悪い!
だが、昨夜の一部始終を話すことはできない。
「考えすぎだよ、マリー」
「そうかしら……」
「後ろめたいことは何もない。ほら、虫刺されだってこんな風になるし」
「そうね……」
マリーはうつむいて目を閉じ、それ以上詮索しなかった。
この年、マリー・ダンジューはシノン城で双子の女児を出産した。
母子ともに健康で、私は、明るい金髪の長女をラドゴンド、褐色の髪色の次女をカトリーヌと名付けた。
シノンとオルレアンの中間地点に位置し、今はヨランド・ダラゴンが管理している。あの賢夫人のことだから、王のお忍び行動を知ったら大いに呆れて、軽率な行動をたしなめるだろうが、それでも話を聞いてくれるだろうし、私の隠密行動をごまかす手伝いをしてくれると思う。
あと、兵站基地の管理者を見込んで、今後の戦略について頼んでおきたいこともあった。
「陛下!」
ブロワ城には、予想外の先客がいた。
「どうしてここに?」
「それはわたくしのセリフですわ!」
振り返ると、大侍従ラ・トレモイユとその妻カトリーヌ・ド・トレーヌに付き添われた王妃マリー・ダンジューがいた。
「今は大事な時期なんだから、遠出を控えないと!」
今、マリーは身ごもっている。
「陛下こそ、一体どちらに……? ああっ!」
そう言いかけて、何かに気づいてはっとする。
両手で口を塞ぎ、両目を見開いてこちらを見つめた。
「まさか、怪我をなさっているの?」
「えっ?」
「腕が……、なんてこと……!」
利き腕を吊っている私の姿を見て、マリーは「あぁ……」と魂が抜けたようなため息をついて卒倒してしまった。全部、大袈裟な手当てをしたリッシュモンのせいだ。
*
「うぅ……」
「よかった、気が付いたか」
「あ、陛下……!」
マリーはがばりと起きあがろうとしたが、ふっくらとせり出したお腹に阻まれて、苦しそうな表情を浮かべた。
「さあ、ゆっくり起きて。苦しかったら横になっていてもいい」
「そういう訳にはまいりません」
「いいから。今はひとりの体ではないのだから安静第一だ」
「ええ。それではお言葉に甘えて……」
マリーは重ねたクッションに寄りかかり、半身だけ起こした。
「ふう」
人心地ついたようで、私も安堵した。
マリーはほっとした表情で、しげしげと私を見つめた。
「夢を見ていたのかもしれません」
「どんな夢?」
「陛下がひどい怪我をして帰ってくる夢……。でも、あれは本当に夢だったのかしら」
卒倒する前に見た「腕を吊っている私の姿」と混ざっているのだろうか。
だとしたら、やっぱりリッシュモンのせいだ。
「確かに見たと思ったけれど、気のせいだったみたい」
マリーが気絶して介抱されている間に、私は侍医の診察を受けた。
今は大袈裟な手当てから解放されて、利き手の患部は薬剤を塗っているだけだ。負傷してすぐに適切かつ十分な応急処置をしたおかげで、軽症で済んだともいえるが。
「陛下がどこにもいなくて、なんだかとても不安になってしまって……。大侍従に無理を言って、お母様に助言を求めに参りましたの」
妊娠中から出産後にかけて、母体は不安定になり命を落とすこともある。
もしかしたら、肉体だけでなく精神的にも不安を感じやすくなるのかもしれない。
「気のせいかしら。部屋の中なのにバラの香りが……」
「そうか?」
「陛下の匂い? バラの香油かしら?」
「ああ、そういえば」
リッシュモンお手製の薬には、バラの香油が含まれていた。
「ええと、手を少し火傷してしまってね」
ごまかして、変な疑いをかけられたくないので正直に話した。
「卵白とバラの香油とあともうひとつ、何だったかな……で作った薬だ。たぶんその残り香だろう」
「まぁ、パン焼き釜にでも触れてしまったの?」
マリーはくすくすと笑い、私は苦笑いした。
「ははは、当たらずとも遠からずってところかな。マリーも熱いものを食べるときにはくれぐれも気をつけて」
「ええ、そうね……」
不安な心をなだめるように額を優しくなでると、マリーは気持ちよさそうに私にもたれかかってきた。
「王太子を身ごもっていた時よりお腹が大きいんですって」
「じゃあ、双子かな?」
「1年経たずに死んでしまった次男、お腹の中で流れてしまった3人目……。あの子たちが帰ってきたのかしら」
しばらく、他愛もないことを話した。
不安の原因は、妊娠による心身の変化だけではないだろう。
オルレアン包囲戦で敗北を喫すれば、私たちの未来も危うくなり、ロワール流域から南フランスへ退くことになるかもしれない。
「ねえ、陛下。言いづらいのですが……」
「遠慮はいらない。何でも聞いていい」
「首筋の赤いあざは誰がつけたのかしら?」
「えっ……」
不意を突かれて絶句した。
マリーはドレスを握りしめ、瞳に涙をためながら私に尋ねた。
「ゆうべは、一体どなたとお楽しみだったの?」
マリーが想像しているであろう光景とは少し違うが、思い当たることがひとつある。
詰まった立て襟の下、よほど近づかないと見えないような場所——、右の首筋辺りに手を触れたが自分ではよくわからない。見下ろしても、角度が悪くて赤いあざは見えなかった。
「もしかして、アニエスかしら?」
「馬鹿なことを」
「あの子はとても綺麗だから……」
「そんな訳ないだろう」
前夜、私の首筋に顔をうずめて、どさくさに紛れて吸っていた奴がいる。
ああもう、やっぱりリッシュモンが全面的に悪い!
だが、昨夜の一部始終を話すことはできない。
「考えすぎだよ、マリー」
「そうかしら……」
「後ろめたいことは何もない。ほら、虫刺されだってこんな風になるし」
「そうね……」
マリーはうつむいて目を閉じ、それ以上詮索しなかった。
この年、マリー・ダンジューはシノン城で双子の女児を出産した。
母子ともに健康で、私は、明るい金髪の長女をラドゴンド、褐色の髪色の次女をカトリーヌと名付けた。
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