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第五章〈謎の狙撃手〉編
5.2 大元帥は塩対応(2)薬のレシピ
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これでも一応は貴賓室なのだろう。
城の暖炉とは比べものにならないが、パン屋にしては大きな暖炉があった。
すでに火がくべられて、部屋は暖かく、お湯も水もたっぷり用意されていた。
普通の手桶のほかに、二人くらいどぼんと入浴できそうな風呂桶まである。
「ここって……」
パン屋はかまどを常時稼働しているため、熱源の二次利用をかねて風呂を提供することも多い。オルレアンは川沿いにある町だから水も豊富だ。入浴はもてなしの一種だが、暗黙の風俗営業でもあり、状況次第では取り締まる対象でもあった。
「人目につきにくいと言う意味で、今は好都合です」
確かにそうかもしれないが、非常に気まずい。
特に、今のような戦時下では行きずりの傭兵が多数出入りしているから、そういう仕事が繁盛しているに違いない。パン屋のおやじが言った「詮索しない」もそういう意味だろう。
心外だが、こちらも身分を偽っているので誤解を解くのは難しい。
室内の備品といえば、食事や書き物をするテーブルが1台。その上に、薄く水を張った手桶と乾いた手桶、大容量の水差しが置かれている。あと、リッシュモンが依頼した卵もあった。それから、おやじのサービスなのだろう、焼きたてパンと果物が入ったボウルがふたつ。
椅子が2脚あるが、ひとつは背もたれ付きで、もうひとつはただの丸椅子だ。
「どうぞこちらへ」
背もたれ付きの椅子が引かれ、大人しく腰掛ける。
手桶に新鮮な水が注がれ、テーブルクロスから解かれた手を浸した。
手のひらの腹と、指先が赤く腫れているが、幸い、水ぶくれにはなっていない。しばらくそのまま、水の中で手をゆらゆらと泳がせた。
かたわらで、リッシュモンは卵を割っている。
卵黄と卵白をどうやって分けるのだろうと思っていたら。
「器用だな」
中身をわきによけて空にしたボウルの上で、片方の殻に卵黄が入るようにそっと殻を割る。次に、卵黄をもう片方の殻に移し替えながら、卵白をボウルに落とす。それを何度か繰り返すと、ボウルの中に卵白だけがたまる。
ブルターニュ公の弟は「公国の王子」だが、リッシュモンは幼くして遠方かつ格上のブルゴーニュ公のもとで養育され、イングランドでは虜囚生活を経験している。血筋も身分も、腕力も体格も恵まれているが、苦労人ゆえの器用さなのかもしれない。
卵白を集めたボウルに、リッシュモンが自前で持っていたバラの香油とテレピン油をまぜる。
修道院や城にバラ園があるのは、鑑賞目的のためだけではない。
バラは美しいが、昔から薬草として使われていた。ローズウォーターは目薬に最適だったし、バラの香油は高価だが冷暗所で保存すれば日持ちするから万能薬だった。
松脂を蒸留したテレピン油は、虫除けに効果がある。
「卵白は何のために?」
「種類の違う薬をまんべんなく混ぜたいときに使います」
「へえ。今度試してみよう」
もっとも、私が興味あるのは薬のレシピではなく火薬のレシピだったが。
「できました。手を貸してください」
素直に従う。
「貴公の応急処置が良かったのだろうな。それほど痛くない……」
しかし、手を取るなり、リッシュモンの眉間が険しくなった。
赤く腫れているだけで水ぶくれになっていないので、自分では大したことないと思うのだが、患部の状態がよくないのだろうかと気になった。各地・各陣営で従軍経験のあるリッシュモンは負傷を見極める能力が高いだろうから。
「良くないのか?」
「いえ、軽症だと思います」
「それなら良かった」
「ですが、患部はデリケートな状態です。薬を塗って安静にしてください」
リッシュモンお手製、できたての薬を塗っていく。
患部にすり込むというより、薬剤でたっぷり覆うように塗る。
「安静にしないとどうなる?」
「刺激を受けると、患部の皮下に水がたまります」
次に、包帯を巻いていく。
処置が大袈裟だと思っているのを見抜いたのか、こんなことを言われた。
「水ぶくれが破れずに自然になくなればいいのですが、破れた場合、指同士がくっついてミトンの手袋になってしまう予後不良を見たことがあります」
ミトンとは、親指を別にして,残りの四本の指が一つに入る手袋のことだ。
「人の手指がミトンに……?」
「はい」
「それは嫌だな」
「せめて一晩は患部を安静にしてください」
火傷した手がミトン状になってしまうのは、手の全体——指と指の間まで重度の熱傷を負った場合に限る。そこまで重症ではなくても、水ぶくれが破れて皮膚と包帯が癒着したら、無理やり剥がさなければならない。想像するだけで痛そうだ。
「終わりました」
「うむ、大義であった」
気のせいか、いつも怖いほど強面なリッシュモンの表情が和らいだ気がした。
軽症で済みそうだから安堵したのかもしれない。
「今は……」
リッシュモンが何か言いかけて口を閉ざした。
気になるので先を促すと、かすかに口元をほころばせて、
「……今は、王ではないのでしょう?」
「そうだったな」
治療が終わり、包帯が巻かれた手を取られながら、しばらく沈黙が流れた。
(※)火傷の治療薬のレシピは近世~近代のフランス軍の話が元ネタです。ちょっと時代が合いませんが、あまり深く考えないでください。
(※)ちなみにこの時代の火傷・銃槍治療は、煮えたぎるニワトコ油を患部に注ぐそうで、どう考えても治癒するどころか悪化しそう。
城の暖炉とは比べものにならないが、パン屋にしては大きな暖炉があった。
すでに火がくべられて、部屋は暖かく、お湯も水もたっぷり用意されていた。
普通の手桶のほかに、二人くらいどぼんと入浴できそうな風呂桶まである。
「ここって……」
パン屋はかまどを常時稼働しているため、熱源の二次利用をかねて風呂を提供することも多い。オルレアンは川沿いにある町だから水も豊富だ。入浴はもてなしの一種だが、暗黙の風俗営業でもあり、状況次第では取り締まる対象でもあった。
「人目につきにくいと言う意味で、今は好都合です」
確かにそうかもしれないが、非常に気まずい。
特に、今のような戦時下では行きずりの傭兵が多数出入りしているから、そういう仕事が繁盛しているに違いない。パン屋のおやじが言った「詮索しない」もそういう意味だろう。
心外だが、こちらも身分を偽っているので誤解を解くのは難しい。
室内の備品といえば、食事や書き物をするテーブルが1台。その上に、薄く水を張った手桶と乾いた手桶、大容量の水差しが置かれている。あと、リッシュモンが依頼した卵もあった。それから、おやじのサービスなのだろう、焼きたてパンと果物が入ったボウルがふたつ。
椅子が2脚あるが、ひとつは背もたれ付きで、もうひとつはただの丸椅子だ。
「どうぞこちらへ」
背もたれ付きの椅子が引かれ、大人しく腰掛ける。
手桶に新鮮な水が注がれ、テーブルクロスから解かれた手を浸した。
手のひらの腹と、指先が赤く腫れているが、幸い、水ぶくれにはなっていない。しばらくそのまま、水の中で手をゆらゆらと泳がせた。
かたわらで、リッシュモンは卵を割っている。
卵黄と卵白をどうやって分けるのだろうと思っていたら。
「器用だな」
中身をわきによけて空にしたボウルの上で、片方の殻に卵黄が入るようにそっと殻を割る。次に、卵黄をもう片方の殻に移し替えながら、卵白をボウルに落とす。それを何度か繰り返すと、ボウルの中に卵白だけがたまる。
ブルターニュ公の弟は「公国の王子」だが、リッシュモンは幼くして遠方かつ格上のブルゴーニュ公のもとで養育され、イングランドでは虜囚生活を経験している。血筋も身分も、腕力も体格も恵まれているが、苦労人ゆえの器用さなのかもしれない。
卵白を集めたボウルに、リッシュモンが自前で持っていたバラの香油とテレピン油をまぜる。
修道院や城にバラ園があるのは、鑑賞目的のためだけではない。
バラは美しいが、昔から薬草として使われていた。ローズウォーターは目薬に最適だったし、バラの香油は高価だが冷暗所で保存すれば日持ちするから万能薬だった。
松脂を蒸留したテレピン油は、虫除けに効果がある。
「卵白は何のために?」
「種類の違う薬をまんべんなく混ぜたいときに使います」
「へえ。今度試してみよう」
もっとも、私が興味あるのは薬のレシピではなく火薬のレシピだったが。
「できました。手を貸してください」
素直に従う。
「貴公の応急処置が良かったのだろうな。それほど痛くない……」
しかし、手を取るなり、リッシュモンの眉間が険しくなった。
赤く腫れているだけで水ぶくれになっていないので、自分では大したことないと思うのだが、患部の状態がよくないのだろうかと気になった。各地・各陣営で従軍経験のあるリッシュモンは負傷を見極める能力が高いだろうから。
「良くないのか?」
「いえ、軽症だと思います」
「それなら良かった」
「ですが、患部はデリケートな状態です。薬を塗って安静にしてください」
リッシュモンお手製、できたての薬を塗っていく。
患部にすり込むというより、薬剤でたっぷり覆うように塗る。
「安静にしないとどうなる?」
「刺激を受けると、患部の皮下に水がたまります」
次に、包帯を巻いていく。
処置が大袈裟だと思っているのを見抜いたのか、こんなことを言われた。
「水ぶくれが破れずに自然になくなればいいのですが、破れた場合、指同士がくっついてミトンの手袋になってしまう予後不良を見たことがあります」
ミトンとは、親指を別にして,残りの四本の指が一つに入る手袋のことだ。
「人の手指がミトンに……?」
「はい」
「それは嫌だな」
「せめて一晩は患部を安静にしてください」
火傷した手がミトン状になってしまうのは、手の全体——指と指の間まで重度の熱傷を負った場合に限る。そこまで重症ではなくても、水ぶくれが破れて皮膚と包帯が癒着したら、無理やり剥がさなければならない。想像するだけで痛そうだ。
「終わりました」
「うむ、大義であった」
気のせいか、いつも怖いほど強面なリッシュモンの表情が和らいだ気がした。
軽症で済みそうだから安堵したのかもしれない。
「今は……」
リッシュモンが何か言いかけて口を閉ざした。
気になるので先を促すと、かすかに口元をほころばせて、
「……今は、王ではないのでしょう?」
「そうだったな」
治療が終わり、包帯が巻かれた手を取られながら、しばらく沈黙が流れた。
(※)火傷の治療薬のレシピは近世~近代のフランス軍の話が元ネタです。ちょっと時代が合いませんが、あまり深く考えないでください。
(※)ちなみにこの時代の火傷・銃槍治療は、煮えたぎるニワトコ油を患部に注ぐそうで、どう考えても治癒するどころか悪化しそう。
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