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第三章〈大元帥と大侍従〉編
3.5 リッシュモンの妻(1)
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「リッシュモン伯爵夫人……と呼ぶのは失礼ですかね?」
貴婦人は何も言わず、わずかに顎を上げた。
ジル・ド・レはこれ以上ないほど眉尻を下げて目を細め、笑っているようにも困ったようにも見える奇妙な表情を作った。
ジルの方がわずかに上背があるが、顎を上げて目線の角度を高めに固定しながら相手を見ると、貴婦人がジルを威圧的に見下ろす格好になる。
「自分が公爵夫人であったことを忘れない。見上げた自尊心だと思いますよ?」
ジルも負けじと挑発的なそぶりを見せた。
「ジル様、失礼ですよ」
貴婦人の背後にいる侍女がいさめた。
「本来、この方は公爵夫人以上の存在、この国の王妃として君臨するはずだったのですから」
リッシュモンの妻の名を、マルグリット・ド・ブルゴーニュという。
私の亡き兄ギュイエンヌ公ルイの妻だった女性——ようするに元・王太子妃だ。
この物語を読んでいる読者諸氏の時代において、最近流行りの小説ジャンルに「没落令嬢」というテンプレ設定があるが、彼女の境遇はまさにそれだ。
(無怖公の長女で、現・ブルゴーニュ公フィリップの姉……)
兄の妻——私にとって義理の姉だ。
だが、彼女からすれば私は父の仇敵でもある。
16歳だったあの夏の日、護衛隊長が振り上げた手斧がブルゴーニュ無怖公の脳天に突き刺さった光景はいまだに忘れられない。モントロー橋上で、王国を二分する派閥を和解させるはずだったのに、ささいなことで揉め事になり、私の家臣が無怖公を殺害した。
計画的な殺人ではないし、私が直接手を下したのではない。無怖公は王弟殺しを断罪されるどころか何度も陰謀を企て、アルマニャック伯を拷問の末に虐殺し、多くの人から恨まれていた。
だが、どんな背景があろうと、私がどう言い繕っても、犠牲者の遺族からすれば「殺された」事実に変わりない。事件のいきさつを直接見ていた人間は少なく、ブルゴーニュ派では「王太子(シャルル七世)の計画的な犯行」と信じている者が多いと聞く。
「くっくっく、予定は未定であって決定ではないんですよ」
侍女に諌められて、ジルは態度を改めるどころか、おかしそうに笑い出した。
「現在の、本物の、国王陛下の御前ですよ? 無怖公の血筋は怖いもの知らずですよねぇ」
マルグリット・ド・ブルゴーニュが、私のことをどう思っているかはわからない。
父の仇敵か、あるいは、彼女と兄が得るはずだった王位を横取りされたと考えていても不思議ではない。
恨みを抱かれこそすれ、好かれている可能性はほぼない。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく恐悦至極に存じます」
ジルの嫌味に反論するかのように、マルグリットは喪服のような黒衣のドレスをつまんで頭を下げ、形式的な口上を述べた。
頭を深々と垂れているのは謙虚さの証だが、直接対面したくなくて、あえて顔を伏せているようにも見える。
(表情を悟られないように、だろうか)
小心からくる疑心暗鬼は、私の悪い癖だ。
だが、こんな時にどういう顔をすればいいのか、どんな言葉をかければいいのか。
「夫・フランス大元帥アルテュール・ド・リッシュモン伯は長らく不在でございます。夫に代わり、妻のわたくしが城代としてご挨拶を申し上げます」
国王らしく「面を上げよ」と返礼すべきだが、私はためらった。
目は口ほどに物を言う。王妃になるはずだった義姉からの軽蔑や見下し、あるいは父の仇敵への恨みや憎しみがこもった感情を向けられるかもしれない。
兄が今も生きていればマルグリットはフランス王妃になっていたはずで、私は王子といえど称号はポンティユ伯にすぎない。
未亡人から伯爵夫人へ没落したとはいえ、今もフランス王妃の矜持を保っているなら、内心では私を格下の家臣と蔑んでいるだろう。彼女は生まれながらの王太子妃で、無怖公の手で王妃なるために育てられた。気位の高さは折り紙付きだ。
「今さら遅いですよ」
ジルはつかつかと無遠慮に近づくと、やや腰を落として、下からマルグリットをねめつけた。
「気分が悪いなぁ。せっかく陛下とお話していたのに邪魔しないでくださいよ。それに、許可なく部屋を出るなと命じたはずですが?」
マルグリットは顔を上げて居住まいを正し、ジルを見た。
「ジル様、ここはどうか穏便に。わたくしが公爵夫人を連れてきたのです」
「しょうがないですねぇ」
侍女がしゃしゃり出てくると、ジルは不遜な態度をいくらか和らげた。
ところが、貴婦人マルグリットが冷淡な口ぶりできっぱりと断言した。
「ここはわたくしの城。あなたたちの指図は受けません」
マルグリットを挟んで、ジルと侍女が顔を見合わせた。
「公爵夫人、今の立場をよく考えた方がよろしいですよ」
「この城は陛下が大元帥に預けたものであって、あなたの所有物ではない。さらに言うと……」
ジルは、舌なめずりをした。
「あなたは夫に見捨てられた人質で、何の権限も持っていないのですから」
貴婦人は何も言わず、わずかに顎を上げた。
ジル・ド・レはこれ以上ないほど眉尻を下げて目を細め、笑っているようにも困ったようにも見える奇妙な表情を作った。
ジルの方がわずかに上背があるが、顎を上げて目線の角度を高めに固定しながら相手を見ると、貴婦人がジルを威圧的に見下ろす格好になる。
「自分が公爵夫人であったことを忘れない。見上げた自尊心だと思いますよ?」
ジルも負けじと挑発的なそぶりを見せた。
「ジル様、失礼ですよ」
貴婦人の背後にいる侍女がいさめた。
「本来、この方は公爵夫人以上の存在、この国の王妃として君臨するはずだったのですから」
リッシュモンの妻の名を、マルグリット・ド・ブルゴーニュという。
私の亡き兄ギュイエンヌ公ルイの妻だった女性——ようするに元・王太子妃だ。
この物語を読んでいる読者諸氏の時代において、最近流行りの小説ジャンルに「没落令嬢」というテンプレ設定があるが、彼女の境遇はまさにそれだ。
(無怖公の長女で、現・ブルゴーニュ公フィリップの姉……)
兄の妻——私にとって義理の姉だ。
だが、彼女からすれば私は父の仇敵でもある。
16歳だったあの夏の日、護衛隊長が振り上げた手斧がブルゴーニュ無怖公の脳天に突き刺さった光景はいまだに忘れられない。モントロー橋上で、王国を二分する派閥を和解させるはずだったのに、ささいなことで揉め事になり、私の家臣が無怖公を殺害した。
計画的な殺人ではないし、私が直接手を下したのではない。無怖公は王弟殺しを断罪されるどころか何度も陰謀を企て、アルマニャック伯を拷問の末に虐殺し、多くの人から恨まれていた。
だが、どんな背景があろうと、私がどう言い繕っても、犠牲者の遺族からすれば「殺された」事実に変わりない。事件のいきさつを直接見ていた人間は少なく、ブルゴーニュ派では「王太子(シャルル七世)の計画的な犯行」と信じている者が多いと聞く。
「くっくっく、予定は未定であって決定ではないんですよ」
侍女に諌められて、ジルは態度を改めるどころか、おかしそうに笑い出した。
「現在の、本物の、国王陛下の御前ですよ? 無怖公の血筋は怖いもの知らずですよねぇ」
マルグリット・ド・ブルゴーニュが、私のことをどう思っているかはわからない。
父の仇敵か、あるいは、彼女と兄が得るはずだった王位を横取りされたと考えていても不思議ではない。
恨みを抱かれこそすれ、好かれている可能性はほぼない。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく恐悦至極に存じます」
ジルの嫌味に反論するかのように、マルグリットは喪服のような黒衣のドレスをつまんで頭を下げ、形式的な口上を述べた。
頭を深々と垂れているのは謙虚さの証だが、直接対面したくなくて、あえて顔を伏せているようにも見える。
(表情を悟られないように、だろうか)
小心からくる疑心暗鬼は、私の悪い癖だ。
だが、こんな時にどういう顔をすればいいのか、どんな言葉をかければいいのか。
「夫・フランス大元帥アルテュール・ド・リッシュモン伯は長らく不在でございます。夫に代わり、妻のわたくしが城代としてご挨拶を申し上げます」
国王らしく「面を上げよ」と返礼すべきだが、私はためらった。
目は口ほどに物を言う。王妃になるはずだった義姉からの軽蔑や見下し、あるいは父の仇敵への恨みや憎しみがこもった感情を向けられるかもしれない。
兄が今も生きていればマルグリットはフランス王妃になっていたはずで、私は王子といえど称号はポンティユ伯にすぎない。
未亡人から伯爵夫人へ没落したとはいえ、今もフランス王妃の矜持を保っているなら、内心では私を格下の家臣と蔑んでいるだろう。彼女は生まれながらの王太子妃で、無怖公の手で王妃なるために育てられた。気位の高さは折り紙付きだ。
「今さら遅いですよ」
ジルはつかつかと無遠慮に近づくと、やや腰を落として、下からマルグリットをねめつけた。
「気分が悪いなぁ。せっかく陛下とお話していたのに邪魔しないでくださいよ。それに、許可なく部屋を出るなと命じたはずですが?」
マルグリットは顔を上げて居住まいを正し、ジルを見た。
「ジル様、ここはどうか穏便に。わたくしが公爵夫人を連れてきたのです」
「しょうがないですねぇ」
侍女がしゃしゃり出てくると、ジルは不遜な態度をいくらか和らげた。
ところが、貴婦人マルグリットが冷淡な口ぶりできっぱりと断言した。
「ここはわたくしの城。あなたたちの指図は受けません」
マルグリットを挟んで、ジルと侍女が顔を見合わせた。
「公爵夫人、今の立場をよく考えた方がよろしいですよ」
「この城は陛下が大元帥に預けたものであって、あなたの所有物ではない。さらに言うと……」
ジルは、舌なめずりをした。
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