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第三章〈大元帥と大侍従〉編
3.1 ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの妻
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ラ・トレモイユが、私とリッシュモンの不仲を察して気を利かせているのか、近ごろは宮廷の内外を問わず、大元帥と顔を合わせる機会がめっきり減った。
フランス王の次に権威ある役職といえば大元帥だが、非公式ながら絶大な権力を持っているのが大侍従だ。
王が身につける下着から儀式用マント、髪の長さから靴に至るまで服飾全般を管理し、着替えを手伝い、王の寝所の番人として「寝室の鍵」を肌身離さず持ち歩く。しかも、王の寝室に許可なく自由に出入りができる。
王のプライベートな時間に面会するには大侍従の許可がいる。
ある意味、家政夫と護衛官を兼ね備えた立場かもしれない。軍事的・政治的な力はそれほどないが、王の素顔や宮廷の裏側を知る機会が多いため、必然的に重役とみなされる。
歴史を紐解くと、公務に関心のない王は、大侍従に公文書の署名を代筆させていたという話も……。そういうのは偽造・不正・腐敗の温床になるから本来やってはいけないのだがね。
「おはようございます、陛下」
当時——ジャンヌが表舞台に現れる前後——の大侍従は、ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユだった。
ジアックとボーリューが失脚・処刑されたころから頭角を表してきた。
宮廷では、大元帥を恐れるあまり大侍従にすがる者もいるようだ。
「本日のお召し物です」
夏は新鮮な水で、冬はぬるま湯で顔を洗うと、大侍従のされるがままに夜着を脱いで下着を身につけていく。
一人でも着替えくらいできるが、読者諸氏の時代と違って伸縮自在のゴム素材がないため、服がずり落ちないようにきちんと着るのは手間がかかる。ボタンの数も、紐で結びつける部位もたくさんある。パンツだって全部紐パンツだ。
私は、大侍従が着付け作業しやすいように、適宜手をあげたり足をあげたりしている。
「最近、リッシュモンを見かけないな」
着替えをしながら、ちょっとした雑談をする。
「ご多忙なのでしょう」
「ふーん」
モン・サン=ミシェルの戦いが沈静化してから、イングランドは軍資金が尽きたのか、最近フランス侵攻から手を引いている。本当に、大元帥は宮廷に顔を出せないほど多忙なのだろうか。
「大元帥の行方が気になりますか?」
「どうかな……」
少し前まではうっとうしいと思っていたのに、しばらく見かけないと気になってしまう。
この場にいない人間を話題にするのは陰口みたいで気が引ける。
「今日は確か、ベリー公夫人の命日だったな」
話題を変えた。ラ・トレモイユの妻のことだ。
「覚えておいででしたか」
「もちろんだ。彼女とは浅からぬ縁がある」
元はと言えば、私の祖父シャルル五世の弟ベリー公の二番目の妻だった女性だ。
私が生まれる前、父王シャルル六世が「燃える人の舞踏会」事件であわや炎上しかけたときに、ベリー公夫人は王に燃え移った炎をドレスのトレーン(引き裾)で包んで消しとめた。もし、父がこの火災で亡くなっていたら私は生まれていなかっただろう。
のちに、私が王太子になってパリに連れ戻された時には、亡きベリー公の相続の件で便宜を図ったりもした。
さらにその後、未亡人はラ・トレモイユと再婚した。
「ベリー公夫人の墓前に追悼文と品物を送りたい」
ベリー公夫人——つまり王族の妻だったのだから、私は現在のフランス王として弔意を示したかった。
「御意。すぐに使者を用意します」
「ラ・トレモイユ自身が行ってくるといい。王の命令なら、今の奥方に気を使わずに堂々と墓参りができるだろう?」
すぐに返事はなく、着替えの衣擦れの音がやけに大きく耳に残る。
(ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ……、けちな金貸し貴族にすぎなかった貴公が今の地位につけたのは、ベリー公夫人の後ろ盾があったからだろう?)
言いかけた言葉を飲み込んだ。
読者諸氏のなじみの言葉でいえば、まだ三回忌なのだ。
再婚したからといって、恩のある前妻を忘れるには早すぎる。
だが、後妻に配慮する気持ちもわからなくもない。
「陛下の心遣いに感謝を申し上げます」
しばしの沈黙は、何を意味するのだろう。
大侍従は、着替える前にすべての服を検査する。
毒や針が仕込まれていないかを。
「すぐに戻ります」
「私のことはいいからゆっくりしておいで」
「そういう訳には……」
「ベルトラン・ド・ボーヴォーを同行させる。異論はあるか?」
「何もございません」
下着とシャツを身につけて、王の素肌と身体の深いところにじかに触れる可能性がなくなると、大侍従配下の侍従・侍女が入室して残りの着替えを手伝う。
大侍従を遠ざけて、個人的に調べたいことがあった。
ラ・トレモイユがいなくなると、私は拍車付きのブーツに履き替えた。
軽装の上にマントを羽織ると颯爽と馬にまたがり、幼なじみで親友のデュノワ伯ジャンを連れてこっそり外出した。
(※)ラ・トレモイユの前妻・ベリー公夫人とシャルル七世のエピソードは、少年期編の番外編で触れています。
▼番外編・ベリー公夫人のいとも数奇なる遍歴(1)
https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/595255779/episode/4417364
▼番外編・ベリー公夫人のいとも数奇なる遍歴(2)
https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/595255779/episode/4508784
▼番外編・怒りの王太子と悪党アルマニャック伯
https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/595255779/episode/4518418
フランス王の次に権威ある役職といえば大元帥だが、非公式ながら絶大な権力を持っているのが大侍従だ。
王が身につける下着から儀式用マント、髪の長さから靴に至るまで服飾全般を管理し、着替えを手伝い、王の寝所の番人として「寝室の鍵」を肌身離さず持ち歩く。しかも、王の寝室に許可なく自由に出入りができる。
王のプライベートな時間に面会するには大侍従の許可がいる。
ある意味、家政夫と護衛官を兼ね備えた立場かもしれない。軍事的・政治的な力はそれほどないが、王の素顔や宮廷の裏側を知る機会が多いため、必然的に重役とみなされる。
歴史を紐解くと、公務に関心のない王は、大侍従に公文書の署名を代筆させていたという話も……。そういうのは偽造・不正・腐敗の温床になるから本来やってはいけないのだがね。
「おはようございます、陛下」
当時——ジャンヌが表舞台に現れる前後——の大侍従は、ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユだった。
ジアックとボーリューが失脚・処刑されたころから頭角を表してきた。
宮廷では、大元帥を恐れるあまり大侍従にすがる者もいるようだ。
「本日のお召し物です」
夏は新鮮な水で、冬はぬるま湯で顔を洗うと、大侍従のされるがままに夜着を脱いで下着を身につけていく。
一人でも着替えくらいできるが、読者諸氏の時代と違って伸縮自在のゴム素材がないため、服がずり落ちないようにきちんと着るのは手間がかかる。ボタンの数も、紐で結びつける部位もたくさんある。パンツだって全部紐パンツだ。
私は、大侍従が着付け作業しやすいように、適宜手をあげたり足をあげたりしている。
「最近、リッシュモンを見かけないな」
着替えをしながら、ちょっとした雑談をする。
「ご多忙なのでしょう」
「ふーん」
モン・サン=ミシェルの戦いが沈静化してから、イングランドは軍資金が尽きたのか、最近フランス侵攻から手を引いている。本当に、大元帥は宮廷に顔を出せないほど多忙なのだろうか。
「大元帥の行方が気になりますか?」
「どうかな……」
少し前まではうっとうしいと思っていたのに、しばらく見かけないと気になってしまう。
この場にいない人間を話題にするのは陰口みたいで気が引ける。
「今日は確か、ベリー公夫人の命日だったな」
話題を変えた。ラ・トレモイユの妻のことだ。
「覚えておいででしたか」
「もちろんだ。彼女とは浅からぬ縁がある」
元はと言えば、私の祖父シャルル五世の弟ベリー公の二番目の妻だった女性だ。
私が生まれる前、父王シャルル六世が「燃える人の舞踏会」事件であわや炎上しかけたときに、ベリー公夫人は王に燃え移った炎をドレスのトレーン(引き裾)で包んで消しとめた。もし、父がこの火災で亡くなっていたら私は生まれていなかっただろう。
のちに、私が王太子になってパリに連れ戻された時には、亡きベリー公の相続の件で便宜を図ったりもした。
さらにその後、未亡人はラ・トレモイユと再婚した。
「ベリー公夫人の墓前に追悼文と品物を送りたい」
ベリー公夫人——つまり王族の妻だったのだから、私は現在のフランス王として弔意を示したかった。
「御意。すぐに使者を用意します」
「ラ・トレモイユ自身が行ってくるといい。王の命令なら、今の奥方に気を使わずに堂々と墓参りができるだろう?」
すぐに返事はなく、着替えの衣擦れの音がやけに大きく耳に残る。
(ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ……、けちな金貸し貴族にすぎなかった貴公が今の地位につけたのは、ベリー公夫人の後ろ盾があったからだろう?)
言いかけた言葉を飲み込んだ。
読者諸氏のなじみの言葉でいえば、まだ三回忌なのだ。
再婚したからといって、恩のある前妻を忘れるには早すぎる。
だが、後妻に配慮する気持ちもわからなくもない。
「陛下の心遣いに感謝を申し上げます」
しばしの沈黙は、何を意味するのだろう。
大侍従は、着替える前にすべての服を検査する。
毒や針が仕込まれていないかを。
「すぐに戻ります」
「私のことはいいからゆっくりしておいで」
「そういう訳には……」
「ベルトラン・ド・ボーヴォーを同行させる。異論はあるか?」
「何もございません」
下着とシャツを身につけて、王の素肌と身体の深いところにじかに触れる可能性がなくなると、大侍従配下の侍従・侍女が入室して残りの着替えを手伝う。
大侍従を遠ざけて、個人的に調べたいことがあった。
ラ・トレモイユがいなくなると、私は拍車付きのブーツに履き替えた。
軽装の上にマントを羽織ると颯爽と馬にまたがり、幼なじみで親友のデュノワ伯ジャンを連れてこっそり外出した。
(※)ラ・トレモイユの前妻・ベリー公夫人とシャルル七世のエピソードは、少年期編の番外編で触れています。
▼番外編・ベリー公夫人のいとも数奇なる遍歴(1)
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https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/595255779/episode/4508784
▼番外編・怒りの王太子と悪党アルマニャック伯
https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/595255779/episode/4518418
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