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第0章〈正義の目覚め〉編・改
0.22 ラ・ロシェル落下事件(2)事故現場
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人が多過ぎるのか、大広間の床はみしみしと音を立てていた。
ぴしりと大きな亀裂が走り、大河の支流のように細いひびが部屋中に広がった。危険を察知したときにはもう遅かった。
足元が崩れて轟音とともに奈落へ落ちながら、私は死を覚悟した。
一瞬の後、静けさの中で私は起き上がった。白い煙がもうもうと立ち込めていて、あまりにも静かだったから、私はすでに天国に来たのかと思った。
死ぬことは怖くなかった。ここが天国なら亡き兄に会えるかもしれない。物心がついた時から、ずっとそれが望みだったから。
「うぅ……」
うめき声が聞こえてはっとした。瓦礫の下に人がいる。
自力で這い出てくる者もいたが、血だらけで動かない者もいる。
「誰かいないか!」
私は正気を取り戻すと助けを呼んだ。
「王太子殿下!」
「私は無事だ。人が埋まっているから気をつけて……ごほごほ」
呼ぶまでもなく、外で待機していた護衛と、ラ・ロシェルに常駐する守備隊が事故現場に駆けつけた。石材がくだけた土煙を吸い込んだのか、のどがカラカラで咳き込んだ。身体中が軋んだが動けないほどではなかった。
一時は、「王太子死す」と訃報が流れたが、私は奇跡的に生き残った。
玉座から投げ出されて階下に落ち、全身をしたたかに打ち付けたが、天蓋の梁のおかげで頭上に降ってくる瓦礫から守られたのだ
王太子の本拠地であるブールジュやポワティエを中心に、ラ・ロシェル周辺から救援の軍が派遣され、教会からも聖職者がやってきた。負傷者を手当てする軍医であると同時に、死者を弔うミサを執り行うためだ。
私は手当てを受けると、よろめきながら立ち上がった。
もはや議会どころではなかったが、根拠のない訃報や中傷が広まる前に、王太子が健在であることを示さなければならない。
「事故現場へ連れて行ってくれ」
打撲と擦過傷で傷だらけだが、幸い骨は折れていなかった。
教養として医学を学んでいたから、自分の状態はなんとなくわかる。
ひどく痛むが、時間が経過すれば治る傷ばかりだ。
「ひどいな……」
一歩踏み出すごとに、こまかい粉塵が舞い上がる。
体の傷を隠すために、聖職者が着る分厚いマントを羽織ってきたが、粉塵から身を守る役目も果たしてくれた。
「え、殿下……?」
私は口の前に人差し指を立ててジェスチャーを送ると、小声で「大義である」と労いの言葉をかけた。負傷者を収容する教会を訪れて、ざっと見渡してみたが、ほとんどの人は訪問者が何者かを気にするほど余裕がない。
多少医学をかじったくらいでは本職の医師には及ばない。
緊急時の現場に、王太子がのこのこ顔を出したらかえって邪魔になるだけだと察して、私はその場から離れた。
次に、事故現場の片隅に設けられた死体安置所へ向かった。
結婚する前に、律修司祭の資格を得ていてよかったと思う。
自分の判断でミサをおこなうことができるからだ。
子供の頃、私は王位継承と無縁だったから、生涯ずっと修道院で暮らすのだろうと思っていた。静かな生活が好きだったから全然構わなかった。次期フランス王になってもなれなくても、司祭になる道を残しておきたかった。一度でも結婚したらその道は閉ざされる。それに、司祭の資格と、教会とのつながりは何かと役に立った。
死者のもとで膝をつき、血がこびりついた手を取り上げる。
私は、最期のミサを——死の秘跡を執り行う。本来なら意識のあるうちにやる儀式だが、死後にやってはいけない決まりはない。打ちどころが悪くて即死した者は、自分が死んだことさえ気づいてないかもしれない。
一人、二人、三人と看取っていき、次に向かう途中、足場が悪くて大きくよろめいた。自分も負傷していることを忘れて、普通に動こうとしたのがいけなかった。
「失礼」
近くにいた兵士がとっさに手を伸ばして、ぶざまに転ぶ前に支えてくれた。
「ありがとう」
マントを目深にかぶりながら礼を言った。
「見たところ、あなたも負傷しているようですが」
「ああ、大したことは……」
手当てが済んでいると伝えたら、介助すると言ってついてこようとする。
「大丈夫だ」
「いけません。事故か暗殺未遂かもわからないのに」
そのとき、マントがめくれて白地のサーコートが見えた。
(ブルターニュの紋章……?)
マントのフードを下ろしているので顔は見えないが、救助のために駆けつけたブルターニュ軍の指揮官のようだ。ラ・ロシェルにくる途中、行きがかりで戦ったことを思い出して、少し申し訳ない気がした。
「あなたが無事でよかった」
「私を知っているのか?」
ふと興味が湧いて、顔を覗き込もうとしたが相手はすばやく顔を伏せた。
フードの影に隠れてはっきりしない。
「見ないでください」
私が王太子だと気づいているならフードや帽子を取るのが筋だが、敵対者なら顔を見られたくないだろう。ブルターニュの兵ならどちらもあり得た。
「……アジャンクールで負った傷跡があるので」
「それは、申し訳なかった」
傷跡は口実だと直感したが、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
素性に関係なく、ラ・ロシェル救援に来てくれたならありがたいと思ったからだ。
ぴしりと大きな亀裂が走り、大河の支流のように細いひびが部屋中に広がった。危険を察知したときにはもう遅かった。
足元が崩れて轟音とともに奈落へ落ちながら、私は死を覚悟した。
一瞬の後、静けさの中で私は起き上がった。白い煙がもうもうと立ち込めていて、あまりにも静かだったから、私はすでに天国に来たのかと思った。
死ぬことは怖くなかった。ここが天国なら亡き兄に会えるかもしれない。物心がついた時から、ずっとそれが望みだったから。
「うぅ……」
うめき声が聞こえてはっとした。瓦礫の下に人がいる。
自力で這い出てくる者もいたが、血だらけで動かない者もいる。
「誰かいないか!」
私は正気を取り戻すと助けを呼んだ。
「王太子殿下!」
「私は無事だ。人が埋まっているから気をつけて……ごほごほ」
呼ぶまでもなく、外で待機していた護衛と、ラ・ロシェルに常駐する守備隊が事故現場に駆けつけた。石材がくだけた土煙を吸い込んだのか、のどがカラカラで咳き込んだ。身体中が軋んだが動けないほどではなかった。
一時は、「王太子死す」と訃報が流れたが、私は奇跡的に生き残った。
玉座から投げ出されて階下に落ち、全身をしたたかに打ち付けたが、天蓋の梁のおかげで頭上に降ってくる瓦礫から守られたのだ
王太子の本拠地であるブールジュやポワティエを中心に、ラ・ロシェル周辺から救援の軍が派遣され、教会からも聖職者がやってきた。負傷者を手当てする軍医であると同時に、死者を弔うミサを執り行うためだ。
私は手当てを受けると、よろめきながら立ち上がった。
もはや議会どころではなかったが、根拠のない訃報や中傷が広まる前に、王太子が健在であることを示さなければならない。
「事故現場へ連れて行ってくれ」
打撲と擦過傷で傷だらけだが、幸い骨は折れていなかった。
教養として医学を学んでいたから、自分の状態はなんとなくわかる。
ひどく痛むが、時間が経過すれば治る傷ばかりだ。
「ひどいな……」
一歩踏み出すごとに、こまかい粉塵が舞い上がる。
体の傷を隠すために、聖職者が着る分厚いマントを羽織ってきたが、粉塵から身を守る役目も果たしてくれた。
「え、殿下……?」
私は口の前に人差し指を立ててジェスチャーを送ると、小声で「大義である」と労いの言葉をかけた。負傷者を収容する教会を訪れて、ざっと見渡してみたが、ほとんどの人は訪問者が何者かを気にするほど余裕がない。
多少医学をかじったくらいでは本職の医師には及ばない。
緊急時の現場に、王太子がのこのこ顔を出したらかえって邪魔になるだけだと察して、私はその場から離れた。
次に、事故現場の片隅に設けられた死体安置所へ向かった。
結婚する前に、律修司祭の資格を得ていてよかったと思う。
自分の判断でミサをおこなうことができるからだ。
子供の頃、私は王位継承と無縁だったから、生涯ずっと修道院で暮らすのだろうと思っていた。静かな生活が好きだったから全然構わなかった。次期フランス王になってもなれなくても、司祭になる道を残しておきたかった。一度でも結婚したらその道は閉ざされる。それに、司祭の資格と、教会とのつながりは何かと役に立った。
死者のもとで膝をつき、血がこびりついた手を取り上げる。
私は、最期のミサを——死の秘跡を執り行う。本来なら意識のあるうちにやる儀式だが、死後にやってはいけない決まりはない。打ちどころが悪くて即死した者は、自分が死んだことさえ気づいてないかもしれない。
一人、二人、三人と看取っていき、次に向かう途中、足場が悪くて大きくよろめいた。自分も負傷していることを忘れて、普通に動こうとしたのがいけなかった。
「失礼」
近くにいた兵士がとっさに手を伸ばして、ぶざまに転ぶ前に支えてくれた。
「ありがとう」
マントを目深にかぶりながら礼を言った。
「見たところ、あなたも負傷しているようですが」
「ああ、大したことは……」
手当てが済んでいると伝えたら、介助すると言ってついてこようとする。
「大丈夫だ」
「いけません。事故か暗殺未遂かもわからないのに」
そのとき、マントがめくれて白地のサーコートが見えた。
(ブルターニュの紋章……?)
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「あなたが無事でよかった」
「私を知っているのか?」
ふと興味が湧いて、顔を覗き込もうとしたが相手はすばやく顔を伏せた。
フードの影に隠れてはっきりしない。
「見ないでください」
私が王太子だと気づいているならフードや帽子を取るのが筋だが、敵対者なら顔を見られたくないだろう。ブルターニュの兵ならどちらもあり得た。
「……アジャンクールで負った傷跡があるので」
「それは、申し訳なかった」
傷跡は口実だと直感したが、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
素性に関係なく、ラ・ロシェル救援に来てくれたならありがたいと思ったからだ。
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