7番目のシャルル、聖女と亡霊の声

しんの(C.Clarté)

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第0章〈正義の目覚め〉編・改

0.16 ヘンリー五世崩御(1)

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 1422年5月10日、モー陥落。
 王太子が派遣した傭兵は、イングランド・ブルゴーニュ連合軍と交戦しながら包囲網を脱出、その中にライルとザントライユもいた。
 逃げきれずに捕われた者は、身分に関係なく全員処刑された。

 イングランド王ヘンリー五世は戦後処理を見届けると、ようやく帰路についた。

「早くロンドンへ帰って、息子を抱いてやらねばな」

 イングランド王太子——のちのヘンリー六世——が生まれて半年近く経っているというのに、ヘンリーは初めての我が子を抱くどころか、まだ一目たりとも見ていない。
 気持ちばかりが先走り、帰還の行軍はなかなか進まなかった。

「陛下!」
「おお、我が弟よ。待っていたぞ」

 ヘンリー五世の弟ベッドフォード公が駆けつけたとき、ヘンリーは自力で馬に乗ることさえできなくなっていた。

「体調を崩したと聞きましたが……」
「少々腹を下していてな。見苦しくてすまん」

 ヘンリー五世の侍医は優れた医師で、昔、戦場でヘンリーの頬に貫通した矢をきれいに抜き取って以来、絶大な信頼を置かれていた。
 その侍医の見立てによると、ヘンリーは赤痢を発症していた。

「くっくっく、どうやら私にはフランスの水が合わないようだ」

 赤痢とは、黒死病とともに恐れられた伝染病である。
 重症化すると、四十度近い高熱が出て、激しい腹痛と出血性の下痢に苦しみ、さまざまな合併症を引き起こしながら死に至る。

「来てくれて助かる。けいれんが止まらなくてな、文書に署名もできないありさまだ」

 いつもヘンリーのご機嫌を窺っていた悪友の側近たちは姿を消していた。

「これは傑作な病だぞ。腹がねじれるように痛んでな、ときどき意識が飛ぶ……」
「なぜ、こんなに悪くなるまで放っておいたのですか!」
「こんなに悪くなるとは思わなかったのだ」
「養生するように進言する者はいなかったのですか? 取り巻き連中は何をしていたんだ……!」
「モー陥落を見届けるまで帰らないと私が駄々をこねたのだよ。あまり怒らないでやってくれ」

 多量の膿と下血を垂れ流しているせいでひどい貧血状態だったが、かろうじて意識を保っていた。

「すぐにイングランドへ帰りましょう。キャサリン妃と王太子が待っています」
「キャサリン……?」
「カトリーヌ王女ですよ。カトリーヌ・ド・ヴァロワ」
「ああ、そうだった。王妃と息子のことはおまえに任せる」
「任せる? 笑えない冗談はやめてください」
「時間がない。意識があるうちに手短に話す」

 ヘンリー五世には年子の弟が三人いた。
 上から、クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリー。
 男ばかりの四兄弟だが、クラレンス公は一年前にボージェの戦いで戦死している。

「イングランドでもフランスでも我ら兄弟を『王位簒奪者だ』とののしるが、おまえは兄弟の中で一番まじめだった。腹心と呼べるのはおまえだけだ、ジョン」
「あぁ、陛下……兄上……何を言ってるんですか……」
「息子が成長するまで守ってやってくれ。この父の代わりに支えてやってほしい」

 ヘンリーの死後、ベッドフォード公ジョンは摂政としてフランスに残り、グロスター公ハンフリーは護国卿としてイングランド安定に努めることが定められた。

「フランスは広い。全土征服は簡単ではないだろうが、ジョンならば……」
「はっ、御意のままに」

 ヘンリーは腹心の弟に遺言を託すと、弟を遠ざけようとした。

「もう良い。行け……」

 感染を避けるため、医師と看護人以外の者が付き添うことはできない。
 遺言を託された身内ならなおさらそうだ。
 しかし、理屈では分かっていても、情に絆されてしまうのが人間というものだ。

「兄上……」

 今生の別れになるかもしれないのに、おいそれと離れることは難しい。

「兄上から見て、私はまじめでしたか?」
「何の話だ……」
「確かに、兄上は王太子時代から遊び人でした。軽薄と言っていいくらい明るくて、いつも前向きで、人生を謳歌しているように見えました。ですが本当は……」
「よく聞こえない。何を、言っているんだ……」

 侍医から「これ以上は病人の負担になるから」と促され、ベッドフォード公は後ろ髪を引かれる思いで退席した。入れ替わりで、司祭とすれ違った。

「冗談でしょう?」

 キリスト教徒は死ぬ前に「死の秘蹟」を受けなければならない。生前の罪を告白・贖罪し、司祭から赦しを得て、ようやく神の元へ召されるのだ。
 司祭が病室へ呼ばれた。それはすなわち、ヘンリーの臨終が近いことを意味する。

「だって、兄上の栄光はこれからではありませんか。去年クラレンス公が戦死したばかりで、二年続けて兄を二人も失くすなんて嫌ですよ……」

 ベッドフォード公は、司祭の背中を絶望的な気分で見送った。

「兄弟の中で一番自分勝手で、それなのに一番まじめだったのは兄上じゃないですか。簒奪者の息子とののしられながら王位を継承して、理不尽な嫌がらせがたくさんあったのにいつも自信たっぷりで……それに、いまだにイザベル王女の面影を追い求めている……」


***


 私の姉でシャルル六世の長女イザベルは、休戦協定の証しとしてイングランド国王リチャード二世と政略結婚した。リチャードは30歳、王妃となったイザベル王女は7歳である。

 当時のヘンリー五世は「リチャード二世のいとこの息子」という立場で10歳の少年だった。
 ヘンリーたち四兄弟はイザベル王女と歳が近かったため、遊び相手、話し相手を務める日もあった。
 この時、ヘンリーは幼い恋心を抱いていたと言われる。

 結婚から二年後、ヘンリーの父——ヘンリー四世がクーデターを起こして、リチャード二世を廃位・餓死させ、イングランド王位を簒奪した。

 ヘンリー四世は当初、未亡人となったイザベル王女をフランスへ帰さずに、長男ヘンリーと結婚させようと考えていたらしい。
 二人の年齢を考慮するならば、リチャードとの政略結婚よりよほど人道的だ。
 だが、イザベル王女は——

「夫を裏切った王位簒奪者の言いなりにはなりません。ましてや、簒奪者の息子と結婚なんて絶対に嫌です」

 幼いながらも、毅然と拒否したと伝わっている。
 初恋は実らないといわれるが、ヘンリーはどのような思いでこの政変を見ていたのだろう。
 このときの傷心と、屈折した恋心が、フランス侵攻の原動力だったのだろうか。

 王太子時代のヘンリーは享楽的な遊び人で、父王ヘンリー四世をずいぶん悩ませていたらしい。
 イングランド王に即位した後も、あらゆる縁談を断り続け、「ヴァロワ家の王女を妃にしたい」と執着して三十路過ぎまで独身だったのは事実だ。


***


 1422年8月31日。
 イングランド王国ランカスター王朝第二代国王ヘンリー五世は、モー包囲戦から帰還する途中、パリ郊外のヴァンセンヌの森で息を引き取った。享年34歳であった。


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