7番目のシャルル、聖女と亡霊の声

しんの(C.Clarté)

文字の大きさ
上 下
10 / 126
第0章〈正義の目覚め〉編・改

0.9 強制された臣従礼(2)

しおりを挟む
 ロンドン塔の虜囚アルテュール・ド・リッシュモンを解放する条件は二つ。
 ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
 もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。

「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」

 私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。

 だが、選択肢はあって無いようなものだ。
 この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。

「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」

 ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
 実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。

「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」

 ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。

「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」

 ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
 イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——

「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」

 リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。


***


 この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼オマージュに馴染みがなくとも結婚式マリアージュは知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
 臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
 
 臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
 契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。

「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」

 主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
 この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
 臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。

「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」

 誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
 臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。

「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」

 主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
 これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
 なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。

 誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
 中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。

 繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
 本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。

 仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
 だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。

 このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。


***


 臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
 しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
 兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。

フランス風のキスフレンチ・キスの方が良かったのではないか」

 儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
 イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
 この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。

「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」

 半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
 ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。

 すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。

(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)

 頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉レイブンクロウが飛び交っていた。
 もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
 しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。 ⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。 ⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。 ⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/ 備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。 →本編は完結、関連の話題を適宜更新。

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

のほほん異世界暮らし

みなと劉
ファンタジー
異世界に転生するなんて、夢の中の話だと思っていた。 それが、目を覚ましたら見知らぬ森の中、しかも手元にはなぜかしっかりとした地図と、ちょっとした冒険に必要な道具が揃っていたのだ。

Millennium226 【軍神マルスの娘と呼ばれた女 6】 ― 皇帝のいない如月 ―

kei
歴史・時代
周囲の外敵をことごとく鎮定し、向かうところ敵なし! 盤石に見えた帝国の政(まつりごと)。 しかし、その政体を覆す計画が密かに進行していた。 帝国の生きた守り神「軍神マルスの娘」に厳命が下る。 帝都を襲うクーデター計画を粉砕せよ!

佐々木小次郎と名乗った男は四度死んだふりをした

迷熊井 泥(Make my day)
歴史・時代
巌流島で武蔵と戦ったあの佐々木小次郎は剣聖伊藤一刀斎に剣を学び、徳川家のため幕府を脅かす海賊を粛清し、たった一人で島津と戦い、豊臣秀頼の捜索に人生を捧げた公儀隠密だった。孤独に生きた宮本武蔵を理解し最も慕ったのもじつはこの佐々木小次郎を名乗った男だった。任務のために巌流島での決闘を演じ通算四度も死んだふりをした実在した超人剣士の物語である。

処理中です...