上 下
8 / 126
第0章〈正義の目覚め〉編・改

0.7 リッシュモンとイングランド:ヘンリー五世の宣戦布告

しおりを挟む
 ブルゴーニュ無怖公の横暴がまかり通ったのは、狂王の赦免と王妃の寵愛、宮廷の足並みの揃わなさが一因だが、その背景にはイングランドの支援があった。

 1415年、イングランド王国ランカスター王朝の第二代国王ヘンリー五世は、フランス王位を要求して再び侵略を開始した。

 英仏・百年戦争は長らく休戦状態で、イングランドの目下の敵はスコットランドだった。
 両国は長年の宿敵だったが、その一方で、フランスとスコットランドはずっと友好国だった。

「余はフランスを愛しているが、スコットランドの背景にはいつもフランスがいる。スコットランドに手を掛けるには、フランスを手に入れなければ始まらない。フランスを攻撃せよ! フランスを占領すれば、スコットランドは戦わずして征服できる!」

 ひどい理屈だが、迫真の演説にロンドン宮廷は酔いしれた。

「スコットランドは宿敵だが、北の荒地を征服したところで何の旨味もない。だが、フランスを見よ。温暖な気候と肥沃な大地、海も川も山も平野もある。素朴な村人、洗練された市民、太っている司祭、自己犠牲を顧みない忠実な騎士、美しくて淫らな王妃と王女、老い先の短い国王と繊細な王子……、これほど征服しがいのある美味しそうな王国が他にあるだろうか!」

 10月25日、アジャンクールの戦いでイングランド軍は数的不利を覆して圧勝した。
 ヘンリー五世があるひとりの騎士に追い詰められる一幕もあったが、自信家の若い王にとって「戦場の危機」とはスパイスみたいなものだった。

 この戦いで、フランス軍騎士の多くが捕虜となった。
 多すぎる捕虜は行軍の足手まといになるため、ヘンリーは身代金を見込める金持ち騎士を残し、貧乏な騎士を近隣の村の納屋に閉じ込めて焼き殺してしまった。
 リッシュモンは負傷したが生き残り、他の虜囚とともにロンドン塔に幽閉された。



***



 リッシュモンは、イングランド王太后となった実母と16年ぶりに再会した。
 母子が生き別れたとき、家族の中で次男アルテュール・ド・リッシュモンがもっとも悲しんでいたと伝わっている。

「母上、私のことを忘れないでください。大人になったら絶対に会いに行くから、それまで忘れないで……」

 母は、子供よりも王妃の座を選んだが、愛情がなかったわけではないのだろう。
 念願のイングランド王妃になったものの、ヘンリー四世との間に子を授からなかった。
 継子ともうまくいかず、ヘンリー五世が即位するとますます冷遇されるようになった。
 リッシュモンが虜囚となって渡英すると、王太后はブルターニュ公妃時代を懐かしんだのか、あるいは贖罪の気持ちからか、実子アルテュールをイングランド宮廷に招き入れて側近にしようと画策した。

 ある日、王太后が主催する舞踏会にリッシュモンを招待した。
 王太后はお気に入りの侍女・侍従・客人に祝福されながら感動的な母子再会を期待していたのだが、リッシュモンは王太后の存在を無視し続けた。
 主催者に挨拶すらしないのに、下っ端の女中に声をかけている光景を見ると、王太后はついにぶち切れた。
 王太后が怒りの形相で玉座を離れると、ただならぬ気配を感じて人波がさっと引いた。
 舞踏会の客人たちが固唾をのんで見守る中、王太后は震える足取りでリッシュモンに近づくと、「ひどい子ね! この母を忘れたというの?」と叫び、渾身の力でひっぱたいた。

「約束したでしょう、わたくしは片時もあなたのことを忘れなかったのに!」

 リッシュモンは母にされるがまま、ぼかすかと叩かれていた。
 結局、舞踏会がおひらきになるまで一言も口をきかなかったらしい。

 リッシュモン母子とは少し違うが、私も歪んだ母子関係に生涯悩まされた。
 思うに、幼いころはただ母が恋しかったのだろう。
 だが、成長して「大人の事情」を察するようになると——ヘンリー四世のイングランド王位簒奪、母の不貞、父の謀殺疑惑、兄が相続するブルターニュ公位の簒奪容疑など——母への思慕の念は、愛憎の入り混じった複雑な心境へと変わるものだ。
 まじめで潔癖な人間ならなおさらそうだろう。

 王太后は、息子の心の機微を知ってか知らずか、過去のヨリを戻そうとした。
 継子であるヘンリー五世に「息子をフランスへ返さないように」と頼んだ。
 ヘンリーもまた、王太后とは別の思惑で、血の繋がらない義弟リッシュモンをイングランドに残して臣従させたいと考えていた。
 ブルターニュ公兄弟を味方につければ、フランス征服はさらに有利になる。

 ヘンリーはリッシュモンを懐柔しようと口説き続けたが、リッシュモンは心を閉ざし、かたくなな態度を崩さなかった。
 金銭、領地、称号、仕官の誘いや高価な贈り物もことごとく拒絶した。
 無理やり金品を与えれば、さっさとロンドン塔の虜囚仲間や門番にあげてしまう。

「フランスへの忠誠心か、それとも仲間意識か?」

 イングランド王家とリッシュモンとの深い縁を強調して、それとなくフランス陣営で孤立するように仕向けても、なかなかイングランドになびかなかった。

「やれやれ、きょうも手応えなしか」

 ロンドン塔へ帰るリッシュモンを見送りながら、ヘンリー五世は腹心の実弟ベッドフォード公と次善策を話し合っていた。

「まるで心が読めない。何があいつをそうまでさせる?」
「女が使えないなら男で試してみましょうか」
「また良からぬ策を考えているな?」

 ヘンリーは半ば呆れたように、策謀に長ける弟の腹を探った。
 ベッドフォード公は、詳細について明かさず、「イングランドのため、そして兄上……いえ陛下の大望のためならば、あらゆる策を献上いたします」と頭を下げた。

「おもしろい。あの鉄面皮が崩れるさまを見てみたい」
「御意のままに」

 ベッドフォード公ジョンは、英仏間を往来しながら権謀術数を駆使して兄の治世と野望を支えた。私からすれば忌々しい相手だが、イングランド宮廷の第一人者である。

 1420年は大きな戦いこそ起きていないが、水面下はいつになくかまびすしい。

 ヘンリー五世とシャルル六世の五女カトリーヌ王女の結婚にともなうフランス王位継承、そして唯一の王太子シャルルを廃嫡する陰謀と並行して、ブルターニュでもうひとつの謀略が進行していた。





(※)ヘンリー五世の宣戦布告は、1414年5月にレスターの議会でおこなわれたエクセター公(ヘンリー五世の叔父)の演説を元にアレンジしています。原文ではスコットランドをディスりながらフランスの豊かさを説き、他のヨーロッパ諸国にも言及していて非常に興味深いです。演説原文の翻訳もどこかで紹介したい。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

落日の千年王国 〜最後のフランス王・ルイ16世の遺言〜

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
建国から1300年。永遠に続くかと思われた王国が滅亡した。王族最初の犠牲者は、最後の王となったルイ十六世。王は処刑台にのぼると、集まった人々に向かって最後の演説をおこなった。 (※)他サイトの重複投稿です。

追放された王太子のひとりごと 〜7番目のシャルル étude〜

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
救国の英雄ジャンヌ・ダルクが現れる数年前。百年戦争は休戦中だったが、フランス王シャルル六世の発狂で王国は内乱状態となり、イングランド王ヘンリー五世は再び野心を抱く。 兄王子たちの連続死で、末っ子で第五王子のシャルルは14歳で王太子となり王都パリへ連れ戻された。父王に統治能力がないため、王太子は摂政(国王代理)である。重責を背負いながら宮廷で奮闘していたが、母妃イザボーと愛人ブルゴーニュ公に命を狙われ、パリを脱出した。王太子は、逃亡先のシノン城で星空に問いかける。 ※「7番目のシャルル」シリーズの原型となった習作です。 ※小説家になろうとカクヨムで重複投稿しています。 ※表紙と挿絵画像はPicrew「キミの世界メーカー」で作成したイラストを加工し、イメージとして使わせていただいてます。

暗愚か名君か、ジャンヌ・ダルクではなく勝利王シャルル七世を主人公にした理由

しんの(C.Clarté)
エッセイ・ノンフィクション
勝利王シャルル七世といえば「ジャンヌ・ダルクのおかげで王になった」と「恩人を見捨てた非情な暗愚」という印象がつきまとう、地味なフランス王です。 ですが、その生い立ちは「設定盛りすぎ」としか言いようがない。 これほど波乱の多い生涯を送った実在の人物はいないのでは…と思うほど、魅力的なキャラクターでした。 百年戦争はジャンヌだけじゃない。 知られざるキャラクターとエピソードを掘り起こしたくて……いや、私が読みたいから! ついに自給自足で小説を書き始めました。 ※表紙絵はPaul de Semantによるパブリックドメインの画像を使用しています。

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

小説家になろうの「歴史〔文芸〕」ジャンルが私が考える歴史小説のイメージとだいぶ違うので歴史小説を再定義してみた

しんの(C.Clarté)
エッセイ・ノンフィクション
【小説家になろうから転載。もとは1話完結の短編エッセイですが後日談を追加します】 アカウントを取得して3週間。手探りで執筆を始め、システムに少し慣れてきたと同時にいくつかの疑問が浮かんだ。 たとえば、そのひとつ。 「歴史〔文芸〕」ジャンルが、私が考える歴史小説のイメージとだいぶ違うことに気づいた。 違和感の原因を探るため、自分なりに「歴史小説」を再定義してみた。 40万以上の作品数を誇る巨大サイトで、現在の運営システム(ランキングやジャンル検索)では作家/作品と読者のニーズを満たしていないのでは、という話。

レジェンド賞最終選考で短評をいただいたのでセルフ公開処刑する

しんの(C.Clarté)
エッセイ・ノンフィクション
拙作「7番目のシャルル 〜狂った王国にうまれて〜」が講談社の第一回レジェンド賞最終選考に残り、惜しくも受賞は逃しましたが短評をいただく運びとなりました。 選考過程の評価になるため批判的なコメントもありますが、とても勉強になりました(皮肉ではなく)。 このページは作者自身の後学のための備忘録です。同時に、小説家志望者の参考になるかもしれません。 ※このエッセイおよび「7番目のシャルル 〜狂った王国にうまれて〜」は小説家になろうで重複投稿しています。 ※表紙絵はPaul de Sémant作による著作権切れのイラストを使用しています。

嵐大好き☆ALSお母さんの闘病と終活

しんの(C.Clarté)
エッセイ・ノンフィクション
アイドル大好き♡ミーハーお母さんが治療法のない難病ALSに侵された! ファンブログは闘病記になり、母は心残りがあると叫んだ。 「死ぬ前に聖地に行きたい」 モネの生地フランス・ノルマンディー、嵐のロケ地・美瑛町。 車椅子に酸素ボンベをくくりつけて聖地巡礼へ旅立った直後、北海道胆振東部大地震に巻き込まれるアクシデント発生!! 進行する病、近づく死。無茶すぎるALSお母さんの闘病は三年目の冬を迎えていた。 ※NOVELDAYSで重複投稿しています。 https://novel.daysneo.com/works/cf7d818ce5ae218ad362772c4a33c6c6.html

ローマ教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
ノーベル文学賞作家アナトール・フランスの著書「ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc, 1908)」全文翻訳プロジェクトです。原著は1922年にローマ教皇庁の禁書目録に指定されましたが、現在は制度自体が廃止になっています。

処理中です...