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第0章〈正義の目覚め〉編・改

0.2 不名誉よりも死を(1)ブルターニュ継承戦争

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 子供が泣いていた。

「母上、私のことを忘れないで」

 年頃は、少年というより幼児に近い。
 体はまだ小さいが、将来を予感させるしっかりした骨格と、意志の強そうな瞳をしていたが、その目からは滂沱ぼうだの涙があふれ、血色のいい頬をびっしょり濡らしていた。

「大人になったら絶対に会いに行くから、それまで私のことを忘れないでください」

 涙の洪水は、両目だけでは処理しきれず、鼻からもあふれている。
 年相応に泣きじゃくっているのに、口から出る言葉はずいぶん大人びていた。

 ほとばしる感情を、それ以上に強い意志の力で押さえつけている姿は、見るものの心を揺さぶる。
 幼い子供ならなおさらそうだ。

 何か事情があるのだろうが、胸が締め付けられるような光景だった。
 放っておけなくて、リッシュモンは哀れな子供に手を差し伸べようとした。
 騎士の十戒に「弱き者に手を差し伸べ、ともに生き、助け、守る慈悲心」という一文がある。
 騎士は強き者で、子供は弱き者だ。守ってあげなければならない。

「ぼうや、どうしたんだ?」

 母親はどこにいる?
 泣きじゃくる子供に触れる寸前、これは悪夢だと気づいた。

 ひどい寝汗をかき、うなされながら目覚めた。
 アルテュール・ド・リッシュモンは、イングランド王にして血の繋がらない義兄ヘンリー五世に命じられてフランス遠征に連れてこられていた。
 懐かしくも忌まわしい原体験を夢に見たのは、故郷に帰ってきたせいかもしれない。


***


 のちに、私ことシャルル七世に仕えてとなるアルテュール・ド・リッシュモン伯は、大諸侯のひとりブルターニュ公ジャンの弟である。

 代々ブルターニュ公だったが、祖父が公爵位を継承するときに親戚のパンティエーヴル家と揉めて戦争になった。リッシュモンの一族はモンフォール家である。
 当時、百年戦争は休戦中だったが、両家の背後では英仏が影響力を行使していた。
 言葉は悪いが、代理戦争みたいなものだ。



 フランスはパンティエーヴル家を、イングランドはモンフォール家を支援して、最終的にモンフォール家がブルターニュ継承戦争に勝った。リッシュモンの父の時代である。

 ブルターニュ公一家はイングランド王家と家族ぐるみで付き合っていた。
 イングランド王リチャード二世といとこのヘンリー・ボリングブルックが仲違いした時は、ヘンリーを客人としてブルターニュで保護した。衣食住を保証されて、ヘンリーはブルターニュ公に感謝し、子供たちを可愛がった。
 中でも、ブルターニュ公夫人ことリッシュモンの母とは格別に親しかったようだ。

 数年後、ヘンリーはひそかにイングランドに帰国し、主戦派の仲間とともにクーデターを起こした。リチャード二世をロンドン塔に監禁して餓死させると、みずからヘンリー四世としてイングランド王に即位した。

 同じ頃、ブルターニュ公が急死した。

 ヘンリー四世は、亡きブルターニュ公を悼み、これまでの恩に報いるためにブルターニュ公未亡人と結婚してイングランド王妃にすると宣言。母子ともに渡英することになった。

「さあ、父上にお別れを言いましょうね」

 幼い日、リッシュモンは母に手を取られて追悼の祈りを捧げた。
 父の亡骸は、生前の姿をかたどった白い棺に納められていた。
 当時6歳のリッシュモンが「人の死」を理解していたか分からないが、幼い遺児が亡父のために祈る姿は参列者の涙を誘った。

 厳粛な葬儀が営まれている最中、突如、招かれていない客が乱入した。

「邪魔をする」
「誰かと思えば、オリヴィエ・ド・クリッソン……」

 オリヴィエ・ド・クリッソンは、百年戦争におけるフランス三大名将のひとりである。
 優しげな名前とは裏腹に、戦場での容赦のない振る舞いから、二つ名「屠殺者」と呼ばれた。
 クリッソンとリッシュモンの父は昔なじみで、共に戦ったこともある旧友だったが、クリッソンの娘が敵対するパンティエーヴル家に嫁いだのをきっかけに仲違いし、何度も殺し合いを重ねていた。

「本当に死んだのか? 殺しても死なないあの男が?」

 クリッソンは人目を気にせず、ずかずかと棺に近づいた。
 参列者たちは「屠殺者」を恐れて遠巻きに見守っていたが、未亡人は棺の前で立ちふさがった。

「このならず者め、故人を冒涜しに来たのですか!」
「冒涜だと?」

 クリッソンは蔑むような視線で未亡人を見下ろした。

「………」

 唇が動いたが、声は聞こえなかった。
 未亡人は真っ赤な顔で怒りの形相をあらわにした。

「無礼な屠殺者! わたくしを誰だと思って……」
「すでに王妃になったつもりか。だが、あいにく私はフランス王家に臣従している。イングランド王妃に媚を売るいわれはない」

 未亡人は金切り声で喚いたが、クリッソンは振り返ることなく辺りを見渡した。
 定まった焦点の先には、10歳の兄と6歳の弟がいた。

「まだこんなに小さかったのか」

 屠殺者が近づいてきた。
 兄は弟を守るように前に出たが、その目は潤み、手が震えていた。
 弟は兄にかばわれながらも、その男をじっと見つめていた。

「新しいブルターニュ公……と、弟か」

 クリッソンはひざまずいて礼をすると、「亡き父君から、後見人に指名されました」と告げた。

「子どもたちに触らないで!」

 未亡人が叫ぶと、クリッソンは立ち上がって一瞥した。
 用意していた書簡を広げると、固唾をのんで見守る参列者たちの前で読み上げた。
 亡きブルターニュ公は、その死の直前に旧友にして好敵手のクリッソンに手紙を送っていた。
 息子たちが成人するまで後見人として守って欲しいという内容の遺言だった。

「後見人なんて聞いてないわ。わたくしはこの子たちの母ですよ!」
「それについて異論はない。未亡人の再婚相手にも興味はない。だが、兄弟をイングランドに連れて行くことは許さない」
「なんですって!」

 父が没したため、リッシュモンの兄がブルターニュ公を継承する。当時10歳である。
 未亡人が幼い相続人を連れて渡英し、イングランド王の継子になった場合、ブルターニュ公の称号と莫大な遺産がイングランド王家のものになりかねない。

 後見人に指名されたクリッソンの動きは早かった。
 葬儀に乗り込むと、息子たちを保護した。
 場合によっては、亡きブルターニュ公が埋葬される前に検死をしようと考えたかもしれない。

 イングランドのクーデターとブルターニュ公の急死がほぼ同時期に起き、つづけて王位簒奪者ヘンリー四世とブルターニュ公未亡人の再婚、さらに子どもの連れ去り計画。

「ヘンリー四世はイングランド王位簒奪では飽き足らず、未亡人と共謀してブルターニュ公の遺産も奪おうとしているのではないか?」

 そのような疑惑が生じるのも無理はない。

 英仏間で、「ブルターニュ公未亡人と子どもの処遇」について交渉の場が持たれた。
 未亡人は子供を連れていくことを強く主張したが、後見人クリッソンは子供の渡英を認めず、ヘンリー四世は譲歩した。
 クーデターが成功したとはいえ、イングランド国内は不安定だ。
 フランスと揉めることは得策ではないと判断したのだろう。

 最終的に、未亡人だけが渡英することで合意した。
 リッシュモンの母は、イングランド王妃の座を選んだのである。

 母子が引き離される日、一家の中でもっとも悲しんだのが弟のアルテュールことリッシュモン伯爵だった。

「母上、私のことを忘れないでください。大人になったら絶対に会いに行くから、それまで忘れないで……」

 父と死別したばかりか、母とも生き別れる。
 過酷な運命を受け入れながらも、そう言って泣いていたそうだ。






(※)実際は、リッシュモンには兄以外にも姉妹と弟がいましたが、作中では人間関係が複雑になるため省略しています。母と兄弟姉妹の中で、生き別れになることを一番嘆き悲しんでいたのが、次男のアルテュール・ド・リッシュモンだったと伝わっています。

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