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第一章〈逆臣だらけの宮廷〉編

1.8 さまよう王と北極星(3)

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 アルテュール・ド・リッシュモン伯は、ロンドン塔幽閉中にイングランド王ヘンリー五世に臣従を誓った。
 故郷ブルターニュの危機と兄の失踪事件が背景にあったという。
 リッシュモン自身は「本意ではなかった」と言うが、誓約は神聖なもので簡単に覆すことはできない。

 臣従の儀オマージュは、婚姻の儀マリアージュを模した儀式だ。

 ヘンリー五世とリッシュモンが臣従関係にあると知りながら、私と臣従を誓うということは——婚姻関係に例えると、私が人妻を寝とったと言える。
 ゆえに、当初、私はリッシュモンを受け入れることをためらった。

「問題ありません。ヘンリーは死に、誓いは無効となりました」

 リッシュモンはそう主張した。
 しかし、婚姻と違って、普通は次の王位継承者にあらためて臣従するものだ。

(何が目的だ?)

 リッシュモンは清廉潔白で優れた人物だ。
 そんな男が、慣例に反することをやらかす理由は何だろう。

「いっそ、気が済むまで疑ってください。私は何も隠しませんし、殿下の信頼を得られる自信があります。側近としてそばに置きながら、私の声を聞き、私をよく見て、すべてを知っていただきたい。そして、私も……」

 リッシュモンの本心はともかく。
 ブルターニュ公の親族を味方にするのは、こちらにも利益が大きい。



 私の代理として義母ヨランド・ダラゴンと、リッシュモンの兄ブルターニュ公が、密かに交渉をおこなった。

「弟がシャルル王に臣従したいと望んでいる」
「僥倖です。わたくしもシャルル陛下も、心から弟君を歓迎いたします」
「私も弟の希望を叶えてやりたいのだが……」

 ヨランドはアンジュー公未亡人であり、ブルターニュとアンジューは東西で隣り合っている。

「ブルターニュ公の立場から言うとリスクが大きい。イングランドは弟を裏切り者と見なすだろう。最悪、一戦交えることになるかもしれない」

 ブルターニュの北東、アンジューの北側に、イングランドが支配するノルマンディーがある。
 アンジューはイングランドと敵対しているが、ブルターニュは中立を保っていた。
 リッシュモンの動向は、ブルターニュの対英政策の火種になる可能性があった。

「弟のために、ブルターニュ領と民衆を戦火に巻き込むわけにいかない」

 ブルターニュ公は賢明公と呼ばれるだけあって、巧妙な交渉術に長けていた。
 しかし、ヨランド・ダラゴンもまた賢夫人として名高い。

「元はといえば、ブルターニュ公はブリタニア王であり、ブリテン島の君主となる血筋の御方。父祖の地を取り戻すことが悲願と心得ておりましたが、イングランドと戦う勇気を持ち合わせていないとでも……?」

 ヨランドはアラゴン王女らしく、生まれながらに女王の資質を兼ね備えていた。

「アンジュー公未亡人は勇ましいですな。しかし、肝心のシャルル王はどうかな?」
「陛下は優しい気性の御方です。軽率な戦いを良しとしませんが、降りかかる火の粉を払う気概をお持ちです。ラ・ロシェル、ボージェ、モー、それからモンタルジスでの交戦をお忘れではないでしょう?」

 読者諸氏の時代では、シャルル七世時代のフランス軍はジャンヌ・ダルク参戦まで負けてばかりと思われているがそうでもない。
 第二次ラ・ロシェル海戦ではイングランド海軍を壊滅させ、ボージェではイングランド王弟を討ち取り、モー包囲戦は敗北したものの敵方2万4000人を相手にわずか1000人で7ヶ月持ち堪えている。
 また、ラ・ロシェルへ向かう途中のモンタルジスで、ブルターニュ軍と交戦して打ち破っている。

「あれは本気で仕掛けた戦いではない」
「ええ、そうでしょうとも。公爵閣下はモンタルジスで若い王の器量を試した。その上で『シャルル王に見込みがある』と考えているはず。そうでなければ、この交渉の席においでになるとは思えませんもの」

 交渉は、終始なムードで進展した。

「公爵閣下は、リッシュモン伯と引き換えに何をお望みかしら」
「こちらは実弟を差し出すのだ。シャルル王にも相応の覚悟をしていただきたい」

 ブルターニュ公は、実弟リッシュモンと引き換えに「人質」を要求した。



***



 のどかな牧草地に一陣の風が吹いた。

「ジャンを人質に……?」
「まさか、ご存知ではなかったのですか」

 ブルターニュ公の実弟と同じ価値のある人質を求められても、私には交渉材料になる身内がいなかった。兄たちは全員死去し、姉たちは全員既婚で、どちらかといえば母妃イザボーの手中にある。異母妹マルグリットは、生母オデットとともに行方不明のままだ。

 長男ルイは一歳になったばかりで、親元から手放すには早すぎる。
 また、ヨランドの孫でもあるから、すぐに候補から外された。

 そこで、従兄で幼なじみのデュノワ伯ジャンに白羽の矢が立った。
 正式にはまだデュノワ伯になっていない。しかも、父王の弟オルレアン公の庶子だ。
 ブルターニュ公の「実弟」リッシュモンと比べたら、「庶子の従兄」では身分が釣り合わない。

「だから、この話はなくなったとばかり……」
「ええ、まったく釣り合っていません。兄が『不釣り合いな人質』で妥協したのは、陛下を評価しているからこそ——」

 私は最後まで聞かずに、リッシュモンを置き去りにして走り出した。
 ジャンは、ヨランドの拠点プロヴァンス地方の役人の娘と結婚している。ヨランドから命じられ、舅から頼まれたら断れないだろう。止められるのは「国王」の私だけだ。

「わっ……!」

 牧草地の窪みに足を取られて、前のめりで転んだ。
 周りが言うには、幼少期の発育が悪かったために、私の足はほんの少し内股で足元が不安定らしい。
 泥にまみれながら起き上がろうとしたら、追いついたリッシュモンが私に手を差し出した。

「今朝早いうちに出発しました。今から追いかけても間に合いません」
「私は、聞いてないぞ!」
「陛下を気遣って、デュノワが言わなかったのでしょう」

 まるで、ジャンが何も言わずに旅立ったことが悪いかのように聞こえて、私はかっとしてリッシュモンを睨みつけた。

「貴公は……! 大元帥コネタブルは知っていたのだな。ジャンが人質に決まったことも、出発する日程と時刻も!」

 差し伸べられた手を無視して、私は立ち上がった。
 王家の政略のためにジャンを犠牲にするのは、これで何度目だろう。
 私は、冷徹で鉄面皮なリッシュモンの態度に強い怒りを覚えた。
 そして、それ以上に、無力で能天気な自分自身に腹を立てていた。

「助けは無用だ。それとも、私が泣くとでも思ったか?」
「……不遇な生い立ちには同情しますが、寂しいからといって友人に執着するのは感心しません」
「不遇? 執着? ははっ、貴公が私をそんな風に見ていたとはな」

 少し前に、この堅物に親しみを感じたのが馬鹿みたいだった。

「何も知らないくせに!」

 わずかな時間でも一緒にいたくなくて、私はリッシュモンを引き離すために老愛馬ポレールにまたがった。
 軍馬から退役したといっても、人を乗せて早駆けする体力はまだ十分にある。

「貴公とは友人になれそうもないな」

 騎乗すると、体格に恵まれたリッシュモンを見下ろす格好になる。
 去り際に捨て台詞を吐くと、リッシュモンは表情ひとつ変えずに、「結構です。私は、陛下の友人になるためにここへ来たのではありませんから」と答えて、私を見送った。
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