165 / 203
第九章〈正義の目覚め〉編
9.22 ラ・ロシェル落下事件(2)事故現場
しおりを挟む
人が多過ぎるのか、大広間の床はみしみしと音を立てていた。
ぴしりと大きな亀裂が走り、大河の支流のように細いひびが部屋中に広がった。危険を察知したときにはもう遅かった。
足元が崩れて轟音とともに奈落へ落ちながら、私は死を覚悟した。
一瞬の後、静けさの中で私は起き上がった。白い煙がもうもうと立ち込めていて、あまりにも静かだったから、私はすでに天国に来たのかと思った。
死ぬことは怖くなかった。ここが天国なら亡き兄に会えるかもしれない。物心がついた時から、ずっとそれが望みだったから。
「うぅ……」
うめき声が聞こえてはっとした。瓦礫の下に人がいる。
自力で這い出てくる者もいたが、血だらけで動かない者もいる。
「誰かいないか!」
私は正気を取り戻すと助けを呼んだ。
「王太子殿下!」
「私は無事だ。人が埋まっているから気をつけて……ごほごほ」
呼ぶまでもなく、外で待機していた護衛と、ラ・ロシェルに常駐する守備隊が事故現場に駆けつけた。石材がくだけた土煙を吸い込んだのか、のどがカラカラで咳き込んだ。身体中が軋んだが動けないほどではなかった。
一時は、「王太子死す」と訃報が流れたが、私は奇跡的に生き残った。
玉座から投げ出されて階下に落ち、全身をしたたかに打ち付けたが、天蓋の梁のおかげで頭上に降ってくる瓦礫から守られたのだ
王太子の本拠地であるブールジュやポワティエを中心に、ラ・ロシェル周辺から救援の軍が派遣され、教会からも聖職者がやってきた。負傷者を手当てする軍医であると同時に、死者を弔うミサを執り行うためだ。
私は手当てを受けると、よろめきながら立ち上がった。
もはや議会どころではなかったが、根拠のない訃報や中傷が広まる前に、王太子が健在であることを示さなければならない。
「事故現場へ連れて行ってくれ」
打撲と擦過傷で傷だらけだが、幸い骨は折れていなかった。
教養として医学を学んでいたから、自分の状態はなんとなくわかる。
ひどく痛むが、時間が経過すれば治る傷ばかりだ。
「ひどいな……」
一歩踏み出すごとに、こまかい粉塵が舞い上がる。
体の傷を隠すために、聖職者が着る分厚いマントを羽織ってきたが、粉塵から身を守る役目も果たしてくれた。
「え、殿下……?」
私は口の前に人差し指を立ててジェスチャーを送ると、小声で「大義である」と労いの言葉をかけた。負傷者を収容する教会を訪れて、ざっと見渡してみたが、ほとんどの人は訪問者が何者かを気にするほど余裕がない。
多少医学をかじったくらいでは本職の医師には及ばない。
緊急時の現場に、王太子がのこのこ顔を出したらかえって邪魔になるだけだと察して、私はその場から離れた。
次に、事故現場の片隅に設けられた死体安置所へ向かった。
結婚する前に、律修司祭の資格を得ていてよかったと思う。
自分の判断でミサをおこなうことができるからだ。
子供の頃、私は王位継承と無縁だったから、生涯ずっと修道院で暮らすのだろうと思っていた。静かな生活が好きだったから全然構わなかった。次期フランス王になってもなれなくても、司祭になる道を残しておきたかった。一度でも結婚したらその道は閉ざされる。それに、司祭の資格と、教会とのつながりは何かと役に立った。
死者のもとで膝をつき、血がこびりついた手を取り上げる。
私は、最期のミサを——死の秘跡を執り行う。本来なら意識のあるうちにやる儀式だが、死後にやってはいけない決まりはない。打ちどころが悪くて即死した者は、自分が死んだことさえ気づいてないかもしれない。
一人、二人、三人と看取っていき、次に向かう途中、足場が悪くて大きくよろめいた。自分も負傷していることを忘れて、普通に動こうとしたのがいけなかった。
「失礼」
近くにいた兵士がとっさに手を伸ばして、ぶざまに転ぶ前に支えてくれた。
「ありがとう」
マントを目深にかぶりながら礼を言った。
「見たところ、あなたも負傷しているようですが」
「ああ、大したことは……」
手当てが済んでいると伝えたら、介助すると言ってついてこようとする。
「大丈夫だ」
「いけません。事故か暗殺未遂かもわからないのに」
そのとき、マントがめくれて白地のサーコートが見えた。
(ブルターニュの紋章……?)
マントのフードを下ろしているので顔は見えないが、救助のために駆けつけたブルターニュ軍の指揮官のようだ。ラ・ロシェルにくる途中、行きがかりで戦ったことを思い出して、少し申し訳ない気がした。
「あなたが無事でよかった」
「私を知っているのか?」
ふと興味が湧いて、顔を覗き込もうとしたが相手はすばやく顔を伏せた。
フードの影に隠れてはっきりしない。
「見ないでください」
私が王太子だと気づいているならフードや帽子を取るのが筋だが、敵対者なら顔を見られたくないだろう。ブルターニュの兵ならどちらもあり得た。
「……アジャンクールで負った傷跡があるので」
「それは、申し訳なかった」
傷跡は口実だと直感したが、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
素性に関係なく、ラ・ロシェル救援に来てくれたならありがたいと思ったからだ。
ぴしりと大きな亀裂が走り、大河の支流のように細いひびが部屋中に広がった。危険を察知したときにはもう遅かった。
足元が崩れて轟音とともに奈落へ落ちながら、私は死を覚悟した。
一瞬の後、静けさの中で私は起き上がった。白い煙がもうもうと立ち込めていて、あまりにも静かだったから、私はすでに天国に来たのかと思った。
死ぬことは怖くなかった。ここが天国なら亡き兄に会えるかもしれない。物心がついた時から、ずっとそれが望みだったから。
「うぅ……」
うめき声が聞こえてはっとした。瓦礫の下に人がいる。
自力で這い出てくる者もいたが、血だらけで動かない者もいる。
「誰かいないか!」
私は正気を取り戻すと助けを呼んだ。
「王太子殿下!」
「私は無事だ。人が埋まっているから気をつけて……ごほごほ」
呼ぶまでもなく、外で待機していた護衛と、ラ・ロシェルに常駐する守備隊が事故現場に駆けつけた。石材がくだけた土煙を吸い込んだのか、のどがカラカラで咳き込んだ。身体中が軋んだが動けないほどではなかった。
一時は、「王太子死す」と訃報が流れたが、私は奇跡的に生き残った。
玉座から投げ出されて階下に落ち、全身をしたたかに打ち付けたが、天蓋の梁のおかげで頭上に降ってくる瓦礫から守られたのだ
王太子の本拠地であるブールジュやポワティエを中心に、ラ・ロシェル周辺から救援の軍が派遣され、教会からも聖職者がやってきた。負傷者を手当てする軍医であると同時に、死者を弔うミサを執り行うためだ。
私は手当てを受けると、よろめきながら立ち上がった。
もはや議会どころではなかったが、根拠のない訃報や中傷が広まる前に、王太子が健在であることを示さなければならない。
「事故現場へ連れて行ってくれ」
打撲と擦過傷で傷だらけだが、幸い骨は折れていなかった。
教養として医学を学んでいたから、自分の状態はなんとなくわかる。
ひどく痛むが、時間が経過すれば治る傷ばかりだ。
「ひどいな……」
一歩踏み出すごとに、こまかい粉塵が舞い上がる。
体の傷を隠すために、聖職者が着る分厚いマントを羽織ってきたが、粉塵から身を守る役目も果たしてくれた。
「え、殿下……?」
私は口の前に人差し指を立ててジェスチャーを送ると、小声で「大義である」と労いの言葉をかけた。負傷者を収容する教会を訪れて、ざっと見渡してみたが、ほとんどの人は訪問者が何者かを気にするほど余裕がない。
多少医学をかじったくらいでは本職の医師には及ばない。
緊急時の現場に、王太子がのこのこ顔を出したらかえって邪魔になるだけだと察して、私はその場から離れた。
次に、事故現場の片隅に設けられた死体安置所へ向かった。
結婚する前に、律修司祭の資格を得ていてよかったと思う。
自分の判断でミサをおこなうことができるからだ。
子供の頃、私は王位継承と無縁だったから、生涯ずっと修道院で暮らすのだろうと思っていた。静かな生活が好きだったから全然構わなかった。次期フランス王になってもなれなくても、司祭になる道を残しておきたかった。一度でも結婚したらその道は閉ざされる。それに、司祭の資格と、教会とのつながりは何かと役に立った。
死者のもとで膝をつき、血がこびりついた手を取り上げる。
私は、最期のミサを——死の秘跡を執り行う。本来なら意識のあるうちにやる儀式だが、死後にやってはいけない決まりはない。打ちどころが悪くて即死した者は、自分が死んだことさえ気づいてないかもしれない。
一人、二人、三人と看取っていき、次に向かう途中、足場が悪くて大きくよろめいた。自分も負傷していることを忘れて、普通に動こうとしたのがいけなかった。
「失礼」
近くにいた兵士がとっさに手を伸ばして、ぶざまに転ぶ前に支えてくれた。
「ありがとう」
マントを目深にかぶりながら礼を言った。
「見たところ、あなたも負傷しているようですが」
「ああ、大したことは……」
手当てが済んでいると伝えたら、介助すると言ってついてこようとする。
「大丈夫だ」
「いけません。事故か暗殺未遂かもわからないのに」
そのとき、マントがめくれて白地のサーコートが見えた。
(ブルターニュの紋章……?)
マントのフードを下ろしているので顔は見えないが、救助のために駆けつけたブルターニュ軍の指揮官のようだ。ラ・ロシェルにくる途中、行きがかりで戦ったことを思い出して、少し申し訳ない気がした。
「あなたが無事でよかった」
「私を知っているのか?」
ふと興味が湧いて、顔を覗き込もうとしたが相手はすばやく顔を伏せた。
フードの影に隠れてはっきりしない。
「見ないでください」
私が王太子だと気づいているならフードや帽子を取るのが筋だが、敵対者なら顔を見られたくないだろう。ブルターニュの兵ならどちらもあり得た。
「……アジャンクールで負った傷跡があるので」
「それは、申し訳なかった」
傷跡は口実だと直感したが、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
素性に関係なく、ラ・ロシェル救援に来てくれたならありがたいと思ったからだ。
10
お気に入りに追加
193
あなたにおすすめの小説
追放された王太子のひとりごと 〜7番目のシャルル étude〜
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
救国の英雄ジャンヌ・ダルクが現れる数年前。百年戦争は休戦中だったが、フランス王シャルル六世の発狂で王国は内乱状態となり、イングランド王ヘンリー五世は再び野心を抱く。
兄王子たちの連続死で、末っ子で第五王子のシャルルは14歳で王太子となり王都パリへ連れ戻された。父王に統治能力がないため、王太子は摂政(国王代理)である。重責を背負いながら宮廷で奮闘していたが、母妃イザボーと愛人ブルゴーニュ公に命を狙われ、パリを脱出した。王太子は、逃亡先のシノン城で星空に問いかける。
※「7番目のシャルル」シリーズの原型となった習作です。
※小説家になろうとカクヨムで重複投稿しています。
※表紙と挿絵画像はPicrew「キミの世界メーカー」で作成したイラストを加工し、イメージとして使わせていただいてます。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~
恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。
一体、これまで成してきたことは何だったのか。
医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。
SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。
伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。
そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。
さて、この先の少年の運命やいかに?
剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます!
*この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから!
*この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。
白雉の微睡
葛西秋
歴史・時代
中大兄皇子と中臣鎌足による古代律令制度への政治改革、大化の改新。乙巳の変前夜から近江大津宮遷都までを辿る古代飛鳥の物語。
――馬が足りない。兵が足りない。なにもかも、戦のためのものが全て足りない。
飛鳥の宮廷で中臣鎌子が受け取った葛城王の木簡にはただそれだけが書かれていた。唐と新羅の連合軍によって滅亡が目前に迫る百済。その百済からの援軍要請を満たすための数千騎が揃わない。百済が完全に滅亡すれば唐は一気に倭国に攻めてくるだろう。だがその唐の軍勢を迎え撃つだけの戦力を倭国は未だ備えていなかった。古代に起きた国家存亡の危機がどのように回避されたのか、中大兄皇子と中臣鎌足の視点から描く古代飛鳥の歴史物語。
主要な登場人物:
葛城王(かつらぎおう)……中大兄皇子。のちの天智天皇、中臣鎌子(なかとみ かまこ)……中臣鎌足。藤原氏の始祖。王族の祭祀を司る中臣連を出自とする
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜
皐月なおみ
歴史・時代
わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!?
冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。
あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。
でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変!
『これおかみ、わしに気安くさわるでない』
なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者?
もしかして、晃之進の…?
心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。
『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』
そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…?
近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。
亭主との関係
子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り
友人への複雑な思い
たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…?
※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です!
※歴史・時代小説コンテストエントリー作品です。もしよろしければ応援よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる