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第八章〈殺人者シャルル〉編

8.17 黒衣の使者(4)二重婚約

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 マリーは悪くない。強いていえば誰も悪くない。
 だが、婚約破棄を選択したのは私だ。
 責められても仕方がないと思う。

 マリーは、私が世話になったアンジュー家の長女だ。
 結婚するしないに関係なく、妹みたいな存在だ。
 傷つけたくないし泣かれるのはつらい。
 怒られる方がまだマシかもしれない。
 頬をひっぱたかれても甘んじて受け入れようと思った。

 しばし沈黙の後、マリー・ダンジューは口をひらいた。

「理由をお聞きしても?」

 私は一通の手紙を取り出した。

「ブルゴーニュ公から密書が届いたんだ」

 小型の刃物や毒など、危険な仕掛けがあるかもしれず、慎重に開封した。
 問題ないことがわかると中身をあらためた。
 恐ろしい恫喝の言葉が散りばめられているかと思いきや、意外にも和睦の申し入れだった。

 ブルゴーニュ公とアルマニャック伯は政敵であったが、王太子ドーファンと敵対する意志はない。
 不幸な行き違いを正し、フランスを統一して総力を挙げてイングランドを打倒しよう。
 拍子抜けするほど、もっともらしい内容が書かれていた。

「殿下はその話を信じるのですか」
「筋は通っていると思う。でも、ブルゴーニュ公が今までにしてきたことを思えば白々しい詭弁だと思う」

 隙あらば人の領地をかすめ取ろうとするイングランド王と組むより、未熟な王太子の方が制御しやすい。
 ブルゴーニュ公の本音はそんなところだろう。

「ひとつの王国にふたつの政府があることは好ましくない。王太子は王都パリに戻ること。両親と仲直りすること。ブルゴーニュ公が仲裁するから何も心配はいらないってさ」
「仲裁ですって……?」
「うん。私が勝手に家出したみたいな言い方なんだ」

 私は淡々と話したが、マリーは少し怒っている様子だった。

「それで、和睦の申し入れと婚約破棄にどのような関係が?」
「和睦の証として結婚を申し込まれた」
「ブルゴーニュ公に?」
「うん。……あっ、相手はブルゴーニュ公のご令嬢だけど」

 相手のご令嬢の名は、アニエス・ド・ブルゴーニュ。
 正確にいうと、私はマリー・ダンジューと婚約するよりも前にアニエス嬢と婚約していた。
 母妃イザボー・ド・バヴィエールと、母の愛人ブルゴーニュ公の間で結婚の約束が取り交わされていたのだという。

「私は、知らない間に重婚していたらしい」
「重婚……」
「知らなかったでは済まされないけど、本当に知らなかったんだ」

 婚約したとき、私はわずか4歳。アニエス嬢は0歳だった。
 その後、私が10歳のときに、当時の王太子だった兄はブルゴーニュ公を追放。
 アンジュー公妃ヨランド・ダラゴンの申し入れで私とマリーの婚約が成立し、私の身柄はアンジュー公夫妻に預けられた。

「ブルゴーニュ公は、和睦の証として婚約の履行を求めているんだ」

 馬鹿げた話だが笑いごとでは済まない。
 王侯貴族の結婚は、平和にも戦争にもつながるのだから。

 ブルゴーニュ公の言い分は、「殿下はまだ幼く、何も知らなかったのだから二重婚約の罪は不問にする。現在まで正式に結婚していないのだから先約を優先するのが筋である」と。

 この密書を読んだからには、今後は「知らなかった」では済まされない。
 二重婚約を知り得ながら、マリー・ダンジューとの結婚を強行すれば道義的に問題が出てくる。

 ブルゴーニュ公は黙っていないだろう。
 おそらく宗教裁判になり、王家とブルゴーニュ公とアンジュー公を巻き込んだ一大スキャンダルになる。
 マリーは王太子妃の座を奪った悪女のそしりを受けるだろう。
 アンジュー家の名誉にも傷がつく。
 そもそも結婚の誓いを取り仕切る聖職者がいないかもしれない。
 私とマリーの間に生まれた子は、嫡子として認められないかもしれない。
 ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立は激化し、イングランドの侵略も激しさを増すだろう。

 だが、見方を変えてみれば——

「フランスの内乱を終わらせる好機チャンスなんだ」

 ずっと考えていた。私の武器はなんだろうと。
 私を守るために数えきれない人が死んだ。
 犠牲者と遺族に報いるために、私に何ができるだろうかと。
 無力な王太子がたった一度だけ使える切り札、それが政略結婚だった。

「殿下は本当にそれでよろしいのですか」
「うん。それに今ならまだ間に合う。マリーの名誉にも傷がつかない」
「わたくしは殿下の身を案じているのですよ。だって、殿下の兄君たちはみんな……」

 マリーは言い淀んだが、何を言おうとしているのかわかった。
 母とブルゴーニュ公に抵抗した兄たちはみんな不審死を遂げていたから。

「大丈夫だよ。いま、王位継承者は私しかいない。簡単に殺されたりしない」
「やっぱり、危険だとわかっているのに!」

 責められても仕方がないと思っていたのに、マリーは私の予想とは違った意味で怒りをあらわにした。

「マリー、ごめん。私が悪いんだ、どうか泣かないでほしい」
「泣いてなんか……」
「怒ってる?」
「殿下のせいですからね……」
「うん、ごめん」
「昔から、いつもいつも謝ってばかりなんだから……」

 私の腕の中で、マリーは怒りに震えていた。本当は泣いていたのだと思う。
 貴婦人は感情を見せてはいけないから、私はマリーの小さな頭を抱きしめながら、顔を見ないように視線を上向きにそらした。

「お母様がここにいたらきっと叱られてしまうわね。貴婦人として失格だわ……」
「誰にも言わないよ。それに、出会った時からマリーは貴婦人だった」
「わたくしは殿下のお役に立ちたかったのです……」
「うん、知ってる。何度も救われた」
「うそつき。わたくしは何もしてないのに」

 うそじゃない。
 私が王太子になる前から、慣れないアンジューで不自由しないように気にかけてくれていた。
 都落ちしてアンジェ城に戻ったときも、きっとマリーは私を心配して何日も眠れない夜を過ごしたのだろう。
 ヨランドの前で取り乱して泣く姿を見られて、気まずい思いをした。
 感情を抑えようと努力しても耐えられない時もあるし、見られて恥じる気持ちもよくわかる。
 マリーの感情を受け止めることが、いま私にできる唯一の償いだった。

「わたくしが身を引くことで、殿下のお役に立てるなら」

 しばらくして、マリーは落ち着きを取り戻すと「仰せのままに」と一礼した。
 私もマリーももう子供ではない。
 王侯貴族の結婚は、個人の気持ちで決められないと知っている。
 私たちは王国のために最善を選ばなければいけない立場だった。
 
「無怖公はおそろしい方だと聞いています。くれぐれも用心してくださいね」
「うん、ありがとう」
「それから、わたくしたちが結婚しなくても……」

 ずっとシャルルお兄様でいてくれる?
 そう問われて、私はうなずいた。
 当たり前だ。ルネもシャルロットも兄弟同然だと思っている。
 アンジュー公と公妃は、本当の両親よりも親しみを感じている。
 大好きなアンジュー公一家に、私のせいで傷がつくことだけは避けたかった。



***



 マリー・ダンジューを乗せた馬車は、母と弟たちが待つ南仏プロヴァンスへ旅立った。

「行かせてしまってよろしいのですか」
「何が?」

 詩人アラン・シャルティエに問われて、私はしらばっくれた。
 きっと、婚約者を泣かせた冷酷非道な王太子だと思っているのだろう。

「私がすることに不満があるなら、マリーと一緒にプロヴァンスへ行けばよかったのに」
「滅相もございません。私の本命は王太子殿下ですから」
「ふーん。あっ、そういえば、シャルティエの詩集を読んだよ」
「なんと! ありがたき幸せ」

 アラン・シャルティエの代表作のひとつ、「四人の女性たちの物語(Le Livre des quatre dames)」は、アジャンクールの戦いに参戦した四人の騎士と恋人たちの物語をうたった詩集だ。

 戦死した騎士の恋人。
 捕虜になった騎士の恋人。
 行方不明になった騎士の恋人。
 逃亡兵となった騎士の恋人。

 四者四様、この時代のフランス王国には数えきれない悲劇があふれている。

 私は王太子として内乱と戦争を止めなければならない。
 悲劇を止めるために、自分の婚約者を泣かせた。
 いや、私にはもうマリーを婚約者と呼ぶ資格はないだろう。
 マリーにも、真の婚約者アニエス嬢にも失礼だ。

 数年内にきっとマリーも結婚するだろう。私の知らない名家の貴公子と。
 そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。手放した今になって惜しくなったのだろうか。
 自分の身勝手さに呆れながら、元婚約者の幸福を祈らずにいられなかった。

「大丈夫だよ。いま、王位継承者は私しかいない。簡単に殺されたりしない」

 マリーをなだめるためにとっさに出た言葉だったが、我ながら詭弁だと思った。
 少なくとも、私とアニエス・ド・ブルゴーニュが正式に結婚して男児が生まれるまで、私は王家の種馬として安全が保障されていると思う。その後のことはわからない。
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