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第七章〈王太子の都落ち〉編

7.13 宿屋の女将(4)平べったいパン

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 女将マダムの手には、シャロレー伯フィリップの署名つき通行証がある。

「通すようにって言われてもねぇ」
「やべぇよ、やべぇよ」

 主人は弱気で、女将は強気だった。
 私も弱気な小心者だ。立場があるため、なんとか心を奮い立たせているが、内心ではずっと「やべぇよ、やべぇよ」と焦っている。いまも緊張の連続だ。

(さっき、宿屋ギルドに所属していると言っていた……)

 宮廷の派閥争いは貴族だけの問題ではない。
 商売や生活の便宜を図ってもらうため、貴族の手足となって働く者もいる。
 たとえば五年前、兄が王太子ドーファンだったころ。王都パリで、ブルゴーニュ派を支持する食肉ギルドが暴動を起こした。

「いい機会だ、訴えがあるならばすべて聞こう。他に何かあるか」

 兄は一晩中民衆と語り合って暴動を鎮めたと聞く。
 さらに、証拠を集めて陰謀を暴き、首謀者のブルゴーニュ公は宮廷から逃げ出した。
 二つ名・怖いもの知らずの無怖公としては屈辱だったに違いない。

(このときの兄上は16歳。いまの私は15歳。ひとつしか違わないのに)

 兄は聡明だが短命だった。
 私は14歳で王太子の身分を継承し、わずか一年でこのありさまである。

(母上とも仲違いしたままだ)

 無怖公は母と結託し、この隙に宮廷復帰を狙っている。
 陰謀は着々と進行しているのに、私は逃げるだけで精いっぱいだ。
 この逃亡劇も破綻寸前だが、いまできる最善を尽くすしかない。策を考えなければ。

(もし、この宿屋がブルゴーニュ派に近いならば)

 シャロレー伯フィリップはブルゴーニュ公の嫡男だ。
 この書簡に従って、私たちに便宜を図ってくれるはずだ。
 ただし、王太子だと知れれば状況は一変する。
 私は捕らわれて無怖公に引き渡されるだろう。

(アルマニャック派に近いならば……)

 私たちはここで足止めされるだろう。
 ギルドの責任者に引き渡され、身分と素性を調べられる。
 ブルゴーニュ派の関係者ではないと証明しなければならない。

(女将はどうする)

 女将は真顔でなにかを考えていた。
 矛先がこちらに向かないように、私はうつむいた。

(さっき凝視されたとき、何もかも暴かれてしまいそうな気分だった)

 やましいことがないのに居たたまれなかった。
 目が合わないように視線を落としながら、視界の端では女将たちの様子をうかがっていた。
 妙案はなかなか思いつきそうにない。
 しばし沈黙のあと、視界の端で影が動いた。

「その書簡はどうでもいい」
「ちょっと! 動くんじゃないよ」

 女将が包丁を突き出したが、シャステルは構わずに進み出た。

「よく手入れされている。さぞ、切れ味の良い包丁だろうな」
「ふふん、ビビってるのかい?」
「切れ味がすばらしくとも、間合いが届かなければ無意味だ」

 女将と主人。私とシャステル。
 ちょうど、テーブルを挟んで対峙する格好になった。
 暖炉から乱入したライルもいる。

「ここまで届いたとしても、刃先をかわして制圧する自信もある」

 シャステルは私の横並びに、いや、半歩だけ前に立った。「本当にビビっているのは誰であろうな」と牽制しながら、乱雑に並べられた荷物を手に取った。

「あっ、勝手に触るんじゃないよ!」
「なにを言う。これは私のものだ」

 シャステルの声は多少緊張をはらんでいたが、感情的ではなかった。

「これ以上の詮索は無用だ。私たちのこともその書簡のことも忘れるんだ」
「無茶を言うんじゃないよ。一度知ってしまったら、もう知らなかったコトにはできないんだ。時間は巻き戻せないんだからね!」

 シャステルは臆することなく、荷物を漁り始めた。
 女将はぎゃあぎゃあと騒ぐばかりで、実力行使に出る気配はない。

「女将よ、何もただで見過ごせとは言っていない」
「当たり前だろ! もらうモンもらわないとこっちの生活が」
「通貨の件はこちらの調査不足だ。あいにく、この地域で使える銅貨を持っていないがその代わりに」

 シャステルは、乱雑に置かれた荷物の中から、保存食を詰め込んだ袋を取り上げた。
 干し肉、木の実、硬いパンなど品目ごとに分けて無造作に放り込んである。

「この木の実が宝石だったら良かったのにねぇ」
「宝石は持っていないが、秘蔵のパンがある」

 シャステルは灰色がかったパンを差し出した。
 平べったくて、布のように折り畳まれている。

「私の故郷は土地が痩せていて小麦もライ麦も育ちにくい。代わりに、十字軍遠征で持ち帰った蕎麦を収穫している。税は麦で、地元では蕎麦を食べる」

 蕎麦と言っても、読者諸氏になじみのあるツルツルした蕎麦ではない。
 蕎麦の実を粥にしたポリッジか、小麦の代わりに蕎麦粉をパン種にして焼いて食べる。

「パン種を捏ねて、薄く伸ばした生地を焼いたものだ」
「なんだい、お国自慢かい!」
「とんでもない。食感はぼそぼそしていて、見た目も地味な灰色でちっとも食欲をそそらない」

 シャステルは折り畳んだパンを広げた。

「平べったいから皿の代わりになる。縁を折り曲げればスープも注げる」
「ああ、そうかい!」

 女将は呆れているが、私は見たことのないパンに興味津々だった。
 シャステルはブルターニュ出身のブルトン人だ。
 かの地は、古ケルトから受け継いだ一風変わった郷土料理が多いと聞く。

「クランプーズと言います。食卓ですぐに食べるときは、生地を焼くときに卵を割り入れて一緒に焼きます」

 私が覗きこむと、シャステルが説明してくれた。

「素朴すぎて宮廷料理には似つかわしくない。ですが、平たいパンに具材をくるめば携帯食にもなる」

 シャステルが取り出したパンは何もくるんでいなかった。

「このままでは大して美味くもない。不細工なパンですが、故郷の食に助けられることもしばしば……」

 平たいが硬そうなパンを、折ったり広げたりしたせいか少し柔らかくなったのだろう。
 シャステルは頃合いを見て、パンをミシミシと引き裂いた。
 中からごろりと黄色の具がこぼれ落ちた。
 卵の黄身だけを取り出して固めたようにも見える。

「こ、これは……!」
「王国の貨幣が使えなくても金の価値は同じだろう?」

 女将の目の色が変わった。私はあることを思い出していた。

(これが金色のパン!)

 パリを脱出するとき、シャステルは金のパンと銀のパンを取引の材料にしていた。
 私は馬車の中にいたから実物を見ていない。
 金貨を揶揄しているのだろうと想像していたが、本当にパンだとは思わなかった。
 正確には、パンの中に金貨を隠していたのだが。

「本物かい?!」
「食べてみればいい」

 シャステルは給仕の口調をまねて「さぁ、召し上がれ」と金のパンを差し出した。
 女将はひったくると、恐る恐る口に含んだ。

「……毒でも盛ってないだろうね」
「私は剣一筋でな。毒物は専門外だ」

 女将はパンの具——金貨をひと噛みすると、すぐに吐き出した。
 金は柔らかいから傷がつきやすい。強く噛めば歯型がついてしまう。

「あたしは騙されないよ……」

 女将は息を止めて歯型を凝視していたが、ふんっと鼻から息を吐いた。

「あたしは騙されない!」
「はじめから騙すつもりはない」

 メッキで細工したニセ金貨は、凹ませると地金が露出してすぐにバレるという。
 女将が噛んだ歯型は、深くえぐれた部分も表面と同じ金色だった。

「しょうがない。コレと引き換えに見逃してやるわ」
「かたじけない」

 商談は成立した。

「おい、本物だったんだろ!」

 なぜか、傍観者だったライルが怒っていた。

「ああ、間違いない。あたしの目はごまかせない」
「さんざん足止めしておいてなんでそんなに偉そうなんだよ!」
「貧乏人に用はないよ。おととい来やがれ!」
「二度と来るか!」

 私もライルに同意する。
 身分を隠した逃亡劇がそう何度もあってはかなわない。二度目はごめんだ。






(※)シャステルおじさん秘蔵のパン「クランプーズ」はブルターニュ風ガレットのことです。
(※)ガレット=丸くて薄いものという意味。
(※)クランプーズはブルトン語、ガレットはフランス語。
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