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第三章〈アジャンクールの戦い〉編

3.10 捕虜たちの分岐点

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 短くも激しい戦いが終わった。
 前線で戦ったイングランド兵たちは傷を癒しながら論功行賞を待ちわびているが、王と司令官たちは戦後処理をしなければならない。

「おめでとうございます陛下!」
「三倍ものフランス軍を完膚なきまでに叩きのめしての大勝利とは……!」
「帰国後の凱旋が楽しみですな!」

 イングランド国王ヘンリー五世を取り巻く側近たちは、競うように王を称賛し、祝意を伝えた。

「敗軍の将はどうなった?」
「シャルル・ドルレアンでしたら、間もなく陛下の足元に連れて来られるでしょう」

 少し前に、退却中のシャルル・ドルレアン一行を捕らえたと急使が来たばかりだった。
 側近たちは沸き立ったが、ヘンリーの表情は変わらなかった。

「つまらん。シャルル・ドルレアンごときに何の価値もない」
「将として無能であることは間違いありませんが、あの者は狂人王の甥。王族ですぞ」
「傍系に用はない」

 そう言い放つと立ち上がった。

「もういい。称賛は聞き飽きた」
「お待ちください。捕縛したシャルル・ドルレアンはどこへ……」
「カレーで合流すればいい」

 この戦いはイングランドの大勝利に違いない。だが、ヘンリーは不満だった。
 百年戦争の前半、ポワティエの戦いでイングランド軍を率いたエドワード黒太子はフランス王ジャン二世本人を捕虜にしていた。
 傍系王族のシャルル・ドルレアンでは見劣りがする。

「つまらぬ、些事さじで騒ぐな」

 側近たちが「賞罰は……捕虜の処遇は……」などと言いながら追いかけてきたが、ヘンリーの気を引くことはできなかった。

(王の務めも、この戦いも、何もかもつまらないことばかり)

 イングランド国王ヘンリー五世は、このとき28歳。
 若い王は頭が切れる上に、精力的に行動する君主だった。そして父親譲りの強烈な野心を持っていた。

(余は、誰もが認める素晴らしい王になりたい。いや、なろうではないか。史上最高の王に! エドワード黒太子がフランス王を捕らえたならば、余はフランス王位を捕らえてみせよう)

 私にとってはなはだ迷惑な話だが、ヘンリーには大望があった。



***



(ここは……どこだ)

 リッシュモンが目覚めると辺りは暗かった。
 背中の感触は硬く、全身がきしむように痛い。
 起きぬけに立ち上がることは控えたが、すみやかに状況を把握しなければならない。

 しばらくすると目が慣れてきたので、ゆっくり顔を横に向けた。ひどいむち打ち症で首を曲げるのに苦労した。
 周囲を観察すると、寝床代わりの藁束が見えた。室内は乱雑な石組みで、リッシュモンは石造りの床に転がっていた。
 ここが牢獄ならばかなりひどい待遇だ。

(窓のない小部屋のようだ)

 意識を失う直前まで、ヘンリーを目前に護衛の近衛騎兵たちと乱闘していた。
 今は見知らぬ室内にいる。ゆっくりと上体を起こそうとして、側頭部に激痛が走った。視界が揺れる。

 脳しんとうを起こして意識を失ったらしい。
 渾身の一撃を食らい、兜が脱げて吹き飛んだことを覚えている。
 おかげで頭部に受けるダメージが和らいだのだろう。首の骨が折れなかったことが奇跡だった。

 身につけていた武具はなくなっていた。
 重騎士はアーマーの下に胴衣プールポワンを着用している。
 プレートアーマー——金属の当たりとダメージを和らげるために、綿を詰めてキルティング加工した分厚い「布の服」だ。
 騎士といっても、日ごろから甲冑を着ているわけではなく、普段は軽装だ。
 ポケットには食事用と雑用のナイフを二本ほど忍ばせているが、どちらも消えていた。

(どうやら、私はイングランドに捕われたようだ)

 味方に救出されたなら、小さな刃物まで取り上げることはない。
 それが無くなっていることは、敵に捕らわれて虜囚となったことを意味する。

 足音が聞こえて、入口の扉が乱暴に開かれた。
 武器を構えたイングランド兵が緊張した様子で入ってきた。

「名と身分と出身を言え」
「ブルターニュ公ジャンの弟、アルテュール・ド・リッシュモン伯だ。家名はモンフォール。ブルターニュのヴァンヌ生まれだ」
「よし、出ろ」

 イングランド兵は剣を抜いていたため、リッシュモンはここで殺されるかと思ったがそうではないらしい。
 戦場での暴れぶりから、目覚めたら抵抗されると考えたのかもしれない。
 リッシュモンは大人しく縛られると、外へ連れ出された。

 そこは牧歌的な村だった。
 イングランド兵ばかりで村人の姿は見えない。
 リッシュモンは家畜小屋に併設された納屋の地下室にいた。
 戦いは午前中だったが、とっくに正午をまわり夕暮れが近づいている。すえた匂いが鼻についた。

(家畜の匂いと藁の匂い。それから、土と水の匂い……)

 匂いも貴重な情報源になる。前夜は嵐だったが、今となっては遠い昔のようだった。
 水の匂いに混ざって、汗と血と鉄錆てつさびの匂いを感じた。
 ここは戦場にほど近い村で、村中の建物に捕虜を収容していると推測できた。

 戦いで殺されずに生け捕りになった場合。
 敵国に連れ去られて、故郷の身内や主君に身代金を要求するのが習わしだ。
 捕虜の待遇はさまざま。罪人のように扱われる場合も、礼節を持って丁重に迎えられる場合もある。
 身代金を払うか払わないか個別の事例があり、交渉の余地もある。
 身代金を要求したからには「捕虜の命は保証する」という意味合いもあった。

 援軍が来ないとも限らない。
 日没前に村を発つのだろうと考えているうちに、リッシュモンは一台の荷馬車に乗せられた。
 中には、武装解除された騎士たちがひしめいていた。いくつか見覚えのある顔もあったが、あの老騎士はいなかった。

 しばらくすると荷馬車が動き出した。
 目的地は港湾都市カレー。港を出てドーヴァー海峡を渡ればイングランドだ。
 背後では、赤い夕陽と焼け付くような紅蓮の炎が揺れていた。

 誰もが暗い顔をしていた。これから捕虜としてイングランドへ護送されるのだから無理もない。
 荷馬車に揺られながら、リッシュモンは生涯忘れられない夕陽を見ていた。

 アジャンクールの戦いにおいて、フランス陣営の死者は1万人だ。

 この物語を読んでいる読者諸氏には、想像し難いかもしれない。
 説明しよう。銃火器のない時代の野戦で、たった1時間で1万人も殺害することは物理的に不可能だ。

 多くの騎士が逃げ切れずに捕われた。
 捕虜を収容する民家が足りなかったため、身分の低い騎士たちは家畜小屋へ集められた。
 多すぎる捕虜は行軍の足手まといになる。
 イングランド国王ヘンリーは、多額の身代金を見込める貴族出身者を選ぶと、残りの捕虜を家畜小屋に閉じ込めたまま火をかけ、この地を去った。

 鼻につく匂いは、干涸びそうな熱気と生臭い血肉の臭いへ変わっていた。
 牧歌的な村は業火に包まれ、想像を絶する火焔地獄が広がっていた。
 捕虜たちを名残り惜しむかのように、空は赤く燃えている。

(胸を刺すような、この痛みは何だろう)

 敗北の屈辱か、同胞への哀悼か、それとも郷愁の念だろうか。
 黄昏時の紅い空が、リッシュモンの瞳に焼き付いた。
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