ちょっとエッチなお店の話

色部耀

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ちょっとエッチなお店の話

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 その奇妙なお店は、社会人になりたての僕には少し刺激的なお店だった。大学卒業後、ごくありふれた本屋で働く僕にとって店というのは何かを売る場所、買う場所だと認識している。五月初旬のこの時期に開かれた歓迎会という名の飲み会の後、上司に連れられて来たこのお店は、何を買うのかというと具体的にはよく分かっていない。

 お酒を買う。というのは一つの事実として正解とも言える。しかし、奥さんからの電話でそそくさと逃げるように店を後にした上司の様子から分かる通り、ただお酒を提供してもらうだけのお店という訳ではない。


「お兄さんキャバクラは初めて?」


「え、まあ、はい」


 俗な言い方をするとキャバ嬢と呼ばれる仕事につく彼女は、僕の隣に座ってそんな当たり前のことを聞く。入店直後に先輩に置いて行かれ、捨てられた子犬のような姿をしているのだから当たり前なのだ。


「おタバコは吸われないのですね」


「はい。よく分かりましたね」


「うふふ。なんででしょうね。勘……かしら? 多分お兄さんのちょっとした仕草とかから分かったんですよ」


 性的な部分を強調したドレスに身を包んだ彼女は流れるように足を組みかえる。高級そうな内装の高級そうなシャンデリアから降り注ぐ淡い光が何とも艶やかに彼女を彩る。……さぞかし高いお店なのだろう。初めのコースの六十分が終わったらすぐに退店させてもらおう。


「お酒は何を飲まれます?」


「じゃあ、水割りで」


 カウンターに座る常連客っぽい男性が注文しているのを聞いて、同じように頼むことにした。慣れていないことがバレていたとしても多少のプライドが小さな小細工をさせる。


「ウィスキー? 焼酎? 焼酎でも芋、麦、米、紫蘇がありますよ?」


「ウィスキーでお願いします」


 初めに言葉にしたものが普通なのだろう。この一杯でいくらするのか分からないが、これで最後にしよう。


「では少し待っていてくださいね」


 そうして席を立った彼女は一分もしない内に戻って来た。


「こういう仕事を水商売なんて言いますけど、なんでそんな呼ばれ方をするかご存知ですか?」


 水割りを僕の目の前に置いて質問をしてくる彼女。どんな話題を振ればいいのか分からなかった僕にとってはこうした質問はありがたかった。


「昔芸妓やなんかが泥水商売って言われてたってところから来たって聞いたことがあります」


「博識なんですね。それも正解かもしれないんですけど、実は諸説あって私は違う説を推してるんです」


 僕が水割りに口を付けたから話を止めたのか、少しだけ言葉に間をおいてくれた。そして、僕のグラスに手をかざして言った。


「水を売るから水商売なんだと。一見価値の無いものに価値を付ける。そんな事ができる仕事なんですよ?」


「なるほど。そんな話は初めて聞きました」


「うふふ。それなら良かったです。せっかく来てくださったのに何も得ずに帰るのはもったいないですからね」


「そうですね」


 微笑む彼女に対して自然とこちらも笑顔になる。キャバクラに対して持っていた警戒心も少し和らいだような気がした。


「そういえば名乗るのが遅れました。すみません。私、アユと申します。名刺は邪魔でしたら置いて帰ってください。多分お兄さんより年上だと思いますけど、気軽に呼び捨ててくれていいですよ」


 年上と言われてもおそらく三つも離れていないだろう。僕も未だに高校生と間違われたりするくらいなので下手をしたら同じ年かそれ以下の可能性も有る。


「僕の名前は――


 名乗ろうとした瞬間、アユさんは僕の顔の前で人差し指を立てた。


「本名を名乗る必要はありませんよ? 呼んでほしい名前でお願いします」


 あくまで仕事上の付き合いだから――個人情報はできる限りやり取りしたくないから――そういった意味合いだろうか。そう言って彼女はまた微笑んだ。


「耀――って言います。年は今年二十二になりました」


 耀――もちろん本名ではない。


「あ、同じ年だったんですね。それより、こんなにすぐに名前が出てくる人は珍しいです。もしかしてSNSかなにかのハンドルネームとかですか? 以前来られた方でそう言った方がいらっしゃいました」


「いえ、ハンドルネームというかペンネームですね」


 趣味というか副業でやっているイラストレーター。そこで使っている名前だ。


「小説か何か書かれているんですか?」


「いえ、僕が描いているのはイラストの方なんです」


「すごいですね! 私絵なんて描けないからそういった人は尊敬します」


 目を輝かせて僕の方を見るアユさんは眩しくて直視できなかった。凄いなんて言ってもほとんど収入もない副業だ。


「本当は漫画家になりたかったんですけどね。本気で打ち込むには仕事をしながらなんてできないし、仕事を辞めてまで漫画家一本なんて勇気も自信も無かったのでイラストレーターで妥協してるんです」


「そのイラストレーターって今は実入りはあるんですか?」


「アプリのカードゲームで契約させてもらってて三か月に一回のアップデートの時に五枚十万円ですね」


「年収だと四十万円ですか。凄いじゃないですか! 漫画家も目指せるんじゃないですか?」


「成功して安定した生活が送れる保証があるなら漫画家もいいんですけど。いつか誰かから声がかかって漫画を描ける時が来ればやるかもしれないですね」


 そこでまた水割りに口をつける。僕が飲み物を口にしている時は話さないようにしているのか、アユさんはまた静かに僕がグラスを置くのを待っていた。


「耀さん。耀さんから見て私って安定した生活を送れているように見えますか?」


 僕がグラスを置いたとたん放たれた問いかけ。水商売と呼ばれる仕事に従事する彼女が安定した生活を送れているかどうか……。そんなこと常識的に考えて否である。もちろん彼女もそれを知ったうえでの問いかけだろうし、そう答えてもらうことを期待しているのだろう。


「申し訳ないけど、そうは思えない――ですね」


「一般的にはそうでしょう。いつ潰れるか分からない。いつ客が付かなくなるか分からない。それ以前に年を取るとほぼ確実に職を失う。そんな仕事が安定しているはずなんてない。そうでしょう?」


 僕は促されるようにして頷いた。


「でも違います」


 きっぱりと言い切った彼女は言葉を続けた。


「安定とは安らかに定まっている事。大きな不安もなく日々を過ごしていける事です。私は不安なく毎日を生きています。多分それは馬鹿だから」


「アユさんは馬鹿じゃありませんよ」


 今までの発言からくる印象だけど、この人は本当に馬鹿だなんて思えない。


「うふふ。ありがとうございます。でも、根拠は馬鹿だからって理由だけじゃないんです。私はいろんな人に支えられて生きて来たってのもありますが、今まで幸せだったんです。もちろん今も幸せなんです。だから将来どんなことがあっても幸せだって思える自信があります。だからどんなにお金がなくっても、一般に安定した仕事と呼ばれるものが無くっても不安には思わないんです」


「なるほど」


 経験からくる自信か。納得した。それなら僕は何をしていたって安定は得られないのかもしれない。過去は悔いてばかりだし、今幸せとも思わない。さらに言うなら未来は不安の塊だ。


「だから、安定って言うのは後悔しない好きな事を今やるって事なんだと思うんです」


「でも、それでも僕は成功しない可能性が高いなら踏みとどまってしまう人間なので」


 だからだろうか、他人からは成功し続けた人生と思われるような道を歩んできたとも言える。競技人口の少ない部活で賞を取ったり、地元の国立大学を卒業したり。職場だって一部上場企業だ。誰の目から見ても失敗とは言い難い。でも、失敗していないという事がすなわち成功とも限らない。……失敗していないというだけで。


「成功する二通りのタイプってわかりますか?」


 そう言ったのはアユさんだった。成功する二通りのタイプ。まるで自己啓発本のタイトルのようなセリフに僕は身構えてしまった。失礼ながら胡散臭さを感じて――


「決める事ができる人か決めさせる事ができる人です」


「決める事ができる人か決めさせる事ができる人?」


「そうです。もちろん自分の意志で」


 そう言われると、自分は今まで何一つ決めた事も決めさせた事も無かったかもしれない。思い返せば僕の成功と言えるものは何だろう? 成功という二文字は僕のものでは無く、親や学校などが得た称号なのかもしれない――


「アユさんは……」


「ん? なんですか?」


「アユさんはどうしてこの仕事をなさってるんですか?」


 自問自答している最中の頭の整理。その為に使ったアユさんへの質問。この人は何か意志を持って決めてこの仕事をしているのか。それを聞けば何か掴めるかもしれない。


「誰かの夢を叶えたくて」


「は?」


 予想外の答えについ素っ頓狂な声を上げてしまった。


「実は私、若い頃にアイドルをやらせてもらったし、やりたい事業の立ち上げも終わったんです。色んな人に助けて貰って十分人生を謳歌したから、次は誰かの夢を叶える側に回りたいと思って」


 照れたようにはにかみながら視線を逸らす彼女は、今日初めて見せる素の表情に思えた。


「それで……キャバ嬢?」


「こういう店って夢があっても諦めて普通の社会人をやってるって人がよく来られるんです。夢を見に来る店なんて揶揄される事もありますけど、その実夢を持った人が集まっていたりするんです」


「なるほど……ね」


 納得できるようなできないような……。


「ところで耀さん。漫画家になりたいって話ですけど」


「ああ、確かに夢ですね」


 今の安定した生活。いや、金銭的に安定した生活を放棄して突き進むかどうかか。


「あ!」


 話を切るようにしてアユさんが声を上げる。


「どうしたんです?」


「そろそろお時間のようです。延長……されますか?」


 いつの間にか一時間を過ぎてしまっていたようで、延長するかどうかを聞いてきたのだった。二分程オーバーしてしまっているが、その辺は大目に見てくれるようだ。


「いや、今日は帰ります。色々と為になるお話ありがとうございました」


 延長を断ったところでアユさんは会計壱萬円也と書かれた小さなメモ紙をそっと僕の前に差し出した。高級そうなお店だった為もっと破格の請求をされるかと覚悟をしていたけれど、想定よりは安くて安心した。高い事には変わりないけれど。

 一万円札をアユさんに渡して立ち上がると僕の斜め後ろにアユさんが立つ。


「外までお送りしますね」


 出口まで案内されると、そっと扉を閉めて中の人に声が聞こえない事を確認したアユさんが僕の耳元で囁いた。


「私、耀さんを応援することに決めましたから」


「え? どういう……」


 僕が聞き返そうとしたところでアユさんは僕の手を握った。

 握られた手の中には先程会計で渡したものと同じ一万円が――


「これは私からの先行投資とお詫びの気持ちです。初めてのキャバクラだというのにキャバクラらしい事を経験させてあげられませんでしたから。なんなら、上司の方に今日の支払いを請求されるのも良いかもしれません。一万円の利益になります」


 妖艶に言葉を漏らす彼女はしれっと黒い一面を見せた。


「私、どうでもいい人に対しては残酷なんです。でも協力しようと決めた相手には何があっても尽くします。私の名刺に個人の連絡先を載せてあります。後はあなたが決めてください。あなたが決めさえしてくれればどんなことがあろうと支えます。見捨てません。成功させます」


 耳元から顔を離した彼女の顔を、僕はまだ真っ直ぐに見れなかった。それは決して彼女の色香に照れてしまってではない。決断できない事が恨めしくて――今まで自分が何一つ決断した事がなかったのだと自覚してしまって恥ずかしくて――

 顔を上げれば彼女は笑顔で僕の事を見ているのだろう。余裕のある表情で僕を試すかのように見ているのだろう。そう思ってちらりと彼女の顔を見ると、戦を前にした武人のような真剣な眼差しで僕の事を真っ直ぐに見ていた。


「ぼ、僕は……」


 何故か気圧されたりはしなかった。何故か姿勢が正されていた。何故か見える景色が変わった気がした。


「漫画家になります」


「安心してください」


 彼女は言う。


「成功するまで、あなたが満足するまで、身の安全は私が保証します」


 まるで人質を取った立てこもり犯の台詞。しかし、僕はその辺の人質と違って大した価値を持ち合わせてはいない。この人は、人質に取った後に価値のある人間に育てようというのだ。全くもって普通じゃない。本当に僕みたいな――そう僕みたいな――


「水のような人間を――」


「私も今日でここを卒業しようと思ってましたが、しばらく水商売であることには変わりないかもしれませんね」


 一見価値の無いものに価値を付ける――


「一日でも早くアユさんを水商売から卒業できるように頑張ります」


 そう、決めたのだから。
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