願い!時を超えて

色部耀

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最後の戦い

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 以前、遊園地に行く日。ワールドメモリーシンパシーの弊害で気絶をして目が覚めた時と同じ部屋で、俺は壁にもたれかかったまま寝ていたらしい。
 もちろん記憶にはない。
 春菜が突然の事故で死んでしまった世界では、俺は一週間経っても立ち直れずに、こうやって春菜の事を思って宮内家に入り浸っているのか――。我ながら女々しいと思う反面、記憶にない世界での自分の行動を想像すると、どれだけ春菜の事を大事に思っていたのかを実感させられた。
 春菜が交通事故から生還していたのなら、俺たちは恋人関係にもなっていなかった訳で――。幼馴染という仲でありながらも、こうして一週間経っても仏壇の前で座って寝てしまうというのは、恋人と明言していなくても、誰よりも大切な人――と言っても過言ではない事の証明だろう。
 しかし、今ここにいる俺は、ただ単に春菜の死に打ちひしがれている幼馴染ではないのだ。春菜を生き返らせるという使命と、異なった記憶を持った人間なんだ。
 そこで、タイミングが良いのか悪いのか、部屋の扉が開いた。

「薫くん。もう起きていたのね……。大丈夫? ひどい顔よ?」

 そう告げるお母さんは、俺のことを言えないほど疲れきった顔をしていた。ここ何日もまともに食事を摂れていないような痩せこけた頬。目を腫らし、髪の艶も落ちている。――娘が亡くなったのだ。当然だ。

「大丈夫ですよ」

 何食わぬ顔で立ち上がった。……つもりだった。

「あれ?」

 急な眩暈で膝をつく。寝起きで体が動かない……そういった感じではない。力が入らない――

「無理して学校にも行っていたし。しばらくはお友達と居たいって言って帰ってくるのも遅くてあまりちゃんと眠れてなかったみたいだし――どうする? 学校には言っておいてあげるから今日くらいは休む?」

 友達……雄介か茜ちゃんだろうか。もしかしたら春菜の死に関して違和感を見つけて動いていたのかもしれない。新しい情報がないかどうか聞いてみないといけないな。

「いえ、学校には――」

 行きますと言おうとしたが、正直な話とても行ける力は出なかった。

「玲菜のことも心配だし、今日は付いていてくれないかしら? 私はちょっと手続きとかがあって家から離れるし。留守番――お願いしていい?」

 お母さんの、この上ない気遣いが俺の意思を一瞬で変えた。お母さんの優しさに甘えたくなったのは、体力が落ちていたからだろうか。

「すみません。今日は学校を休みます。玲菜の事は任せてください」

 俺の言葉に満足したお母さんは、軽く微笑むと部屋を出ようとした。

「朝ごはんはもう準備してあるわ。顔を洗ったらリビングにいらっしゃい」

 俺は、力が入らない体に鞭を打つかのようにして立ち上がり、壁を伝って洗面所に向かう。歩いているうちに、少しづつ体が動くようになり、だるさは残っているが、気を抜かなければ膝が崩れることはなくなった。

「もう、一週間経つのよね……」

 リビングで向かい合って朝食を取り始めると、遠い目で仏壇に視線を送るお母さん。悲しげな眼だが、涙が流れることはなかった。この一週間で――流せる涙は流し切ったのだろう。

「あの子は……春菜は、頑張り屋でいつも無理をしているみたいに人に気を使ってばかりいた子だったわね。一週間経った今でも、まだうじうじしている私たちを見たら、怒るかしら? それとも馬鹿な冗談を飛ばして笑わせてくれるのかしら――」

「そう……ですね」

 俺の思い描く春菜は、どっちもするような奴だ。落ち込むなと言って怒って、笑えと言って馬鹿をする……。そんな春菜に、俺はどれだけ支えられてきたことか――

「本当なら、部屋に引きこもってる玲菜も、母親として元気づけてあげないといけないのに――」

「玲菜は、部屋から出てきていないんですか?」

「何言ってるの? だからいつも薫くんに玲菜を呼びに行ってもらってたんじゃない。お昼ごはんだけは、どうしても出てきてくれないから、今は一日二食しか食べさせてあげられてないのだけど……」

 ――言葉を間違えてしまったかもしれない。本来の俺と玲菜の行動は、今お母さんの言ったようなものになっているみたいだ。変に質問を投げかけることで、無駄な混乱を与えてしまうかもしれない。――気を付けないと。

「玲菜の分の朝ごはんも用意してあるから、あの子が起きたようなら、部屋に呼びに行ってくれない? 私は、もうすぐに出るから。役所と学校と……親戚の家にも回らないといけないから」

 食べ終わった後の食器を片付けながら、お母さんは言う。

「食器はあとで洗っておくから、台所に置いておいて」

 何か体を動かしていないと不安で仕方がない。考えたり思い出してしまう時間を少なくしたい――そうして辛い気持ちをしまい込む。三、四日前の自分のように、お母さんもそうしているのかもしれない。

「じゃあ、玲菜のことはよろしくね」

 片付けが終わったお母さんは足早に出発の準備をして家を出る。
 ――玲菜をよろしく……と言われても、おそらく、玲菜は春菜が死んでしまっている事なんて知らないはずだ。今は単なる寝坊――。夏休みに入っている玲菜は、一概にも寝坊とは言い切れないが、普段より遅く起きているというだけなのだ。
 ――そんな玲菜に真実を告げるべきなのか……。それとも、今日は一日誰とも会話をさせずに部屋に閉じ込めておくべきなのか――
 今日玲菜の持っている写真を捨ててしまえば、おそらく明日には、また過去変えが起こり、春菜は生き返るはず。では、今日一日を無暗に混乱させる必要は無い。――どうにか誤魔化そう。そう思っていると、リビングに近づいてくる足音が聞こえた。

「薫お兄ちゃんおはよう。……どうしたの?」

 俺は慌てて仏壇が見えないように扉を閉める。

「いや、何でもないよ。あ、ほら朝ごはんができてるから食べて食べて」

「うーん。まあいいや」

 玲菜は真っ赤に腫れた目を擦りながら椅子に座ると、いただきますと言って食べ始めた。
 この様子だと、玲菜の中では春菜は生きている状態で間違いないだろう。表情は昨日俺が会った時の延長線上。そして、玲菜は仏壇に関心を持っていない。玲菜の性格からすると、姉が死んだのに、朝一番から仏壇に向かわずにテーブルに向かうことは有り得ない。

「玲菜、ちょっと春菜を探すのに手伝って欲しいことがあるんだけどいいかな?」

 この質問に疑問を持たなければ、玲菜はこちら側の人間だと言える。

「え? なに? 私にできることがあるなら何でも手伝うよ!」

 一瞬、ぱっと明るくなった表情。責任を感じていながら、今まで何も手伝えていなかったのだ。――何かできることがあるのなら、嬉しいに決まっている。

「ああ、食べ終わったら玲菜の部屋に行こう。話はそこでするよ」

「分かった! 急いで食べる!」

 慌てた玲菜は、若干咳き込んだりしながらご飯をかき込んだ。
 俺が手伝って欲しいことというのは……玲菜に遊園地で撮った写真を譲ってもらうことだった。捜索の為に――という口実でなら、玲菜も譲ってくれるのではないかと踏んでいる。
 急いで朝食を終えた寝巻姿の玲菜と共に、玲菜の部屋へ向かう。二つの目的を果たすために。

「さっそくだけど、玲菜。この間遊園地で撮った写真を貸して欲しいんだ」

「え、いやだ。なんで」

 さっそく断られてしまったが、まだ想定内。理由を説明すれば渋々でも貸してくれるだろう。

「遊園地までの道のりでも聞き込みをして回ろうと思ってるんだけど、一番分かりやすい写真は、あのときに撮った写真だろ? でも、俺が持っていた写真は調査に回った時に誰かに渡してしまって無いんだ」

「で、でも。他の写真でもいいじゃん」

「一番有効な手段を使いたいんだ。コピーをとって使うし、明日には返すから。な?」

 明日には返す――これでいいのだ。春菜が生きていれば、必然的に玲菜の手元には写真が残る訳なのだから。
 しばらく考えて、玲菜は答える。

「……じゃあ、いいよ。でも、無くしたら許さないから」

 そう言って、玲菜がいつも身に着けているポーチから小さなアルバムを取り出す。二十枚程収容できそうなそのアルバムから、玲菜は迷うことなく一枚の写真を抜き取る。

「はい」

 渡された写真は、紛うことなくあの時の写真だった。

「ありがとう。それと、もう一つ――玲菜には頼みたいことがあるんだ」

 二つの目的の内の一つは達成した。これからする話は、もう一つの方。

「なに?」

「今日一日、寝て起きて朝が来るまで部屋から出ないでほしいんだ」

「なんで? ご飯はどうするの? トイレは? お風呂は?」

「ご飯は俺が部屋まで運んでくる。トイレとお風呂くらいは良いけど、リビングにも顔を出さないでほしい」

「だから、なんで?」

 理由は――春菜が死んでしまっているということを実感してパニックに陥って欲しくないから――。しかし、そんな事は言えない。

「一日、俺の言うとおりにしてくれたら、春菜を絶対に連れ戻す。一生のお願いだ。頼む」

 だから、ただただ必死に頭を下げてお願いをした。

「理由は言えないけど、どうしても大切なことなのみたいね?」

 理由は言わずとも察してくれた玲菜はそう言う。

「ただし、後で何でも私のお願いを聞いてね」

 ――俺はいったい人生で何度、何でもするという約束を交わすのだろうか――。しかも、今回は世界自身に願い事を聞いてもらっている人の願いだ。俺には荷が重いかもしれない。
 でも――

「もちろんだ」

 二つ返事で了承する。そんなお願いのされ方をされなくても、今までだって、叶えられる玲菜の願いはきいてきたつもりだ。

「面白い話してって言って、面白くない話したら許さないから」

「あ、ごめん。それは保証できないかも」

 玲菜は笑った。

「薫お兄ちゃん、昨日よりも疲れた顔してた。けど、今の顔を見たら少し安心した。聞き込みって、すぐにでも行かなきゃいけないの?」

「いや、目途は立ってるから急ぎはしないけど」

「なら、少し寝てから行って。今の薫お兄ちゃんを外に出すのは危なそう。玲菜のベッド使っていいから」

 そう言って玲菜は、俺を力ずくでベッドに座らせた。小さな玲菜に力で押されてしまう――そのくらいには疲れ切っていた。これは一週間まともに食べたり寝たりしていなかったからなのだろうか。

「襲ったりしないから安心して眠って。私は大人しく夏休みの宿題でもしてるから」

「茜ちゃんみたいなこと言うなよ。じゃあ、少し仮眠をとらせてもらおうかな」

「茜ちゃん?」

「そっか、玲菜は知らないんだったな。高校のクラスメイトだよ。最近春菜とか雄介とかといっしょに仲良くなった子だ」

「ふーん。薫ハーレムの一員かー」

「違うよ。ていうか、薫ハーレムって何だよ」

「私を筆頭に、薫お兄ちゃんに群がる雌のことだよ。ちなみに、他には、春菜お姉ちゃんとか名前は言えないバスケ部女子数名とか」

「ちょっと反応に困る事言うのやめてくれないか?」

「ちょっと、最近失恋したので腹いせです。なにか文句があるなら聞きますよ?」

「――無いよ」

 にこにこと言う玲菜は、もう気にしてはいないように思えた。単なる俺への気遣いかもしれないが――

「ふふっ。じゃあおやすみなさい。薫お兄ちゃん」

 ベッドに横になった俺の額をぺちぺちと嬉しそうに叩いて、勉強机に向かう玲菜。
 昼を過ぎたら、茜ちゃんを呼び出して、作戦内容を伝えておこう。何か新しい話が聞けるかもしれない。この一週間のことも含め、世界の変化についても情報を仕入れておくに越したことはないのだから。
 俺は自分で思っていた以上に疲れていたらしく、ベッドで横になってすぐに意識が無くなった。気が付くともう時計の短い針は天辺を通り過ぎていた。体を起こそうと力を入れたが、布団が若干重くなっていることに気付いて頭だけ持ち上げた。――何だ?
 よく見ると、床に膝立ちでベッドに腕と顔を埋める形で眠る玲菜がいた。気持ちよさそうに寝息を立てている。おそらく、俺が寝ている間にそばに来て、気が付くと眠っていた――そんな所だろう。
 幸せそうに眠る玲菜を見ていると、そっと見守っていたくなる。しかし――

「そんなわけにはいかないよな――」

 俺は、ゆっくりと――ゆーっくりと布団から抜け出す。今日は一応茜ちゃんと話をしておきたい。この世界、この一週間がどのような歴史をたどったのかという情報を少しは仕入れておきたい。
 俺は玲菜を起こすことなくベッドから抜け出すと、携帯で茜ちゃんにメッセージを送る。

『学校にいるところ悪いんだけど、俺の家の近くの公園に来てくれないか? 聞きたいことがあるんだ』

 たったそれだけ。それだけの言葉で茜ちゃんを呼び出す。普通の高校生なら、授業中……今は昼休み中だと思うが――学校にいるときに友人に呼び出されたところで簡単に応じることは無いだろう。
 しかし、茜ちゃんは良くも悪くも普通ではない。二つ返事で承諾してくれるのではないかと思う。――俺の勝手なイメージだが……。間違っていたら、会った瞬間に土下座して謝ってもいい。私はあなたに酷いイメージを持っていましたと――
 返信までの短い時間を無駄のない無駄な想像で繋いでいるうちに、とうとう茜ちゃんから連絡が届く。なになに――

『昼間から逢引きなんて、団地妻の浮気みたいでドキドキが止まらないわ。旦那にばれたらどうしよう――って気持ちが今の私なら理解できそう――。何事も経験……体験してみないと! イクわ、すぐイクわ! 薫くんとの初体験が公園……ふぅ』

 俺は、そっと携帯をポケットにしまった。

「俺が知らないこの一週間で、茜ちゃんは悪い進化を遂げてしまっているのかもしれない」

 ――会うのが恐ろしい。
 空き巣のように家から抜け出すと、寄り道もせずに公園へと向かった。茜ちゃんがもしも同時に学校を出ていたとしても、俺の方が五分は早く着くはず。そう考えていたのは公園に着くまでの束の間だった。

「遅かったわね。遅刻の理由は、愛人と寝ていたからで間違いないかしら」

「間違いしか無いようだけど?」

「あら、失礼。では、薫くん。この一週間何があったのかを聞かせてくれるかしら?」

 まるで、テストの点数を気軽に聞いてくる友人のような言い回しで俺の日常を伺ってくる茜ちゃん。これが恋人ならば、久しぶりに会った時に会えない時間の共有などと言って他愛もない話に花を咲かせることだろう。
 しかし、しかし目の前の小さな少女は単なる同級生。単なる――と称するには些か特質すぎる気もするが、同級生であり友人であることは疑いようのない事実なのだ。
 ついでを言うならば、記憶も共有してはいない……。

「第一声がそれっておかしくないか? もう少し、幼馴染を事故で失った友人にかける言葉があるだろうに」

「そうね、ご愁傷様。ところで、薫くんはこの一週間何をしていたのかしら?」

 木枯らしよりも冷たい台詞を吹かせる茜ちゃんに呆れながら、俺は答えるべき言葉を模索していた。これは単純に俺の記憶に無い一週間で全く茜ちゃんと顔を会わせていなかっただけなのか……。それとも、過去変えが起こったことを察して問いかけてきているのか――。この二択で間違いはないだろう。
 俺のいぶかしげな視線に気付いたのか、茜ちゃんは小さく溜息を吐いた。

「できるだけ無駄な時間を使いたくなかったのだけど、頭の回転が遅い薫くんの為に簡単に説明するわね。先週の宮内さんが死んだ次の日の夜、薫くんが不思議な夢を見たの。内容は宮内さんが生きていて薫くんと恋人になるというもの。私と新田くんはそれを聞いて何も思わなかったのだけど、若菜が過去変えで変わった可能性を示唆したの。そこで話している内に、過去変えで宮内さんが死んでしまった可能性が高いって結論に至ったわ。それから私と薫くん、新田くんと若菜。この四人で宮内さんを生き返らせるために学校をサボって世界中を駆け回っていたの。まあ、海外に出たのは若菜だけだけど……。そしてインドネシアにいた邦男さんを連れて帰ってきた若菜と、この町で異能者を当たっていた新田くんは今病院。私と寝る間も惜しんで玲菜ちゃんのワールドメモリーの修得元を探していたはずの薫くんは、呑気に昼を過ぎてメールをしてきたってわけ――。まあ、過去変えが確定的になったのは良い事だけど……はぁ」

 半眼で睨み付けてくる茜ちゃんを見て汗が止まらなくなった。――俺、悪いことしてないと思うんだけど、なんでだろう……。

「ええと……いくつか質問したいことができたんだけど――。とりあえずは俺から話した方がよさそうかな」

 ジト眼の茜ちゃんには逆らうことなどできず、まずはこちらの情報から――といったところか……。
 公園のベンチに腰掛け、少し長くなるかもしれない話に備えた。茜ちゃんは――仁王立ちからすっと歩き出し、定位置かのように名前の知らないスプリングで動く動物の遊具に乗った。

「みんなが予想している通り、一週間前に過去変えが起きてる。春菜は、事故で骨折はしたものの普段通りの生活を送ってた。ほんの三日前にその……ワールドメモリーシンパシーが発動して未来の玲菜の願いを見てしまった。その未来での願いって言うのが、春菜の死――だったんだ。でも、それは誰かに唆されて願ったもので玲菜の意思じゃない。だから、それまでに茜ちゃんと考えていた作戦を使って春菜を死ななかったことにできるんじゃないかと踏んで、今に至る……。そんな感じかな」

「ふーん……。どんな作戦かはよく分からないけど、勝算は悪くないみたいね? ちなみに、どんな作戦か教えてくれるかしら?」

 俺は時間をかけて茜ちゃんと立てた計画を説明した。俺の説明力不足が大きかったのだろう――上手く伝えられたと思えるまでにはかなりの時間がかかった。未来の俺が玲菜に真実とともに過去を変えることができると教えるという話――
 春菜が死んでしまう歴史をたどる場合は遊園地での写真を取り上げて記憶を残させず、死なない歴史ならば写真をそのまま持っていてもらう……。
 なぜそれで春菜が生き返ることができるのかという点を説明するのにかなりの労力がかかったが、当の茜ちゃんの方は実は初めに簡単な説明を聞いた時から粗方の理解はしていたらしく、長い説明は俺の頭の中を整理するために使われたような結果に終わった。

「薫くん……。多分、薫くんが過ごした歴史では無かった情報が今の私には多く有るの。それで――」

 言いにくそうに口をつぐむ茜ちゃん。遊具のきしむ音だけが規則的に時間を刻む――

「もしかすると、その作戦は失敗してしまうかもしれないわ」

 聞き間違いだろうか? 今、茜ちゃんの口から失敗するかもしれない……と。

「かもしれない運転は大切かもしれないけど、出来れば俺はポジティブになれるような仮定の方が好きだな」

「真剣な話をしているのだから、変なことは言わないで」

 ――まさかそんなことを茜ちゃんの口から聞くことになるなんて思ってもみなかった。普段なら、率先して下ネタを挿んで話の腰を折る茜ちゃんが……。気まぐれだろうか? はたまたそれほどまでに切羽詰った状況だということなのだろうか――

「失敗するかもしれないって理由……。この一週間の間に茜ちゃんが知ったものっていうのはなんなんだ?」

「ふふっ……知りたい?」

 さっきの文句は単なる気まぐれだったことは知ることができたみたいだ。

「私みたいに、特殊な能力を持った人間がこの世界には山ほどいる……っていうのは薫くんもなんとなくは分かってくれていると思う」

「ああ、どんな能力があるかは知らないけど。せっかくなんだし、どんな能力が存在してるか教えてくれよ。不思議なこと――って奴には詳しいんだろ?」

「そうね……例えば、手から炎を出したり宙に浮いたり、念話とか念写なんていうありきたりな超能力もあるわね」

「超能力をありきたりなんて言ってるあたりには、もうつっこまないでおくよ」

「そうね、こんな真昼間の公園で突っ込まれるのは流石の私でも遠慮したいわね。あ、でも私の『干渉させない力』を使えば誰にも見られなくすることも可能だし、薫くんがどうしてもって言うなら」

「真剣な話をしているんだから、変なことは言わないでくれ」

 俺のカウンタートークで茜ちゃんは苦虫の汁を舌の先に付けたような顔をした。――若干悔しそうだ。カウンタートークと言うと、なんだかバーのマスターにでもなった気分だ。

「そうねもう少しの間真面目に行きましょうか。今私たちが抱えている問題は、そういった超能力を持った人たちに狙われているということなの」

「は? 狙われているって何を……?」

「それは分からないわ。でも、はっきりしていることは有るの」

 息継ぎの為に一瞬の間を置いた茜ちゃんに、俺は息を飲まされる。なんとなく――悪い知らせなのだと感付いてしまったから。

「狙われているのは、ワールドメモリーを持った人ということよ」

「狙われているのは俺と春菜……」

 電話で邦男さんに言われた事を思い出す。

「そうよ。正確には、今のこの世界では狙われているのは薫くんだけになるのだけれど」

 そういえば春菜は……。

「いや、でも。それと俺の作戦が失敗するって事がどう繋がってくるんだよ?」

「ごめんなさい。話にはまだ続きがあるの。落ち着いて聞いてね」

 話の続きはなんとなくだが想像がついてきた。少し興奮した頭でもそれくらいは分かる。十年後、玲菜を説得するはずのその瞬間に俺が生きている保証が無いって事なのだろう。しかし、十年後の未来予知にはしっかりと俺の姿があった。

「もしかしたら、薫くんは宮内さんの未来視で自分が見えたから安心しているのかもしれないけれど、私は二つの可能性があると思っているわ」

 指をピンと二本立てた茜ちゃんは続けた。

「一つは、もし宮内さんが居なくなったこの世界で未来視を使えば、そこには薫くんがいないのではないか……という可能性」

 確かに、以前茜ちゃんと未来視について語り合った時に『未来視は今ある情報から未来を高精度で予測するもの』と仮説を立てた。あれは今週の話だったが、今の茜ちゃんも同様の結論を得ているのだろう。つまりは前回未来視をした時から大きく歴史が変わり、『現在』の情報から時間を辿れば、全く異なった未来になってしまうというのだろうか……。
 ここでの違った未来というのは、俺の死んだ世界ということになるのだろう。

「そしてもう一つの可能性。私としてはこちらの可能性の方が高いのではないかと思っているわ」

「もったいぶらないで早く言ってくれよ」

「はいはい。それはね――。十年後に薫くんが生きているにしろ死んでいるにしろ、玲菜ちゃんとは会えない状況にあるということよ」

「……え?」

 話が抽象的すぎて、俺の頭がエンストを起こしたかのようにストンと回転を止めた。

「あ……っと――もう少し具体的に説明してくれないかな?」

「つまり、今まで未来視で見てきた未来の薫くんがニセモノだったという可能性。そして、現在の情報から進む未来でも、同じように薫くんがニセモノに取って代わられる可能性よ。未来で薫くんが死んでいるのか監禁でもされているのか――それは分からないけれど……まあ、そんなことはどうでもいいでしょうけど」

 ああ、確かに未来での俺の生存はどうでもいい。問題は――

「俺は、取り返しのつかない失敗をしてしまったかもしれない――のか?」

 春菜が生きているうちに動いていなければならなかった――? いや、まだそうと決まったわけではないはずだ。今の話は茜ちゃんの推測――可能性の話でしかないはずなんだ。

「茜ちゃん――。可能性が高い……とは言ってたけど、根拠――って言うか、何か理由みたいなものがあるからそんな風に言ったんだよね? ニセモノと言っても、あれはまさに俺そのものだったし……」

「もちろん確信に近い理由があるわ」

 こちらが予想して聞いているのだから、なんら驚くようなことではないのだが――。できることなら、なんとなく……などと言って鼻で笑い飛ばせるような理由であってほしいと思っていた。

「一昨日……、邦男さんが言うところの悪の秘密結社とやらのメンバーの一人で他人とすり替わることが可能な人間が現れたの。変身の能力を持った人――。その人は、若菜の姿をして現れたわ。声も姿も記憶すらも同じ……。正直、私では見分けがつかなかったわ」

「どうやって見分けたんだ?」

「新田くんが……何か違和感を感じたみたいで、若菜が能力を持っているかどうかを確かめたの。そうしたら、ニセ若菜は能力を持っていなくてバレた――ってわけ」

「やっぱり、若菜さんは何か能力を持ってたんだな。これも秘密なのかな?」

「それは本人に聞いてちょうだい。私の口から言うことじゃないわ」

「ああそうだな……次会った時にでも聞いてみるよ。それはそうと、そいつは能力だけは真似できなかったってことか。――よく雄介は分かったなー」

「愛の力って奴かしら? まあ、それは置いておいて。もうひとつ。もし、宮内さんの未来視に出てきた薫くんが本物だったと仮定した場合――」

 そこまで言って一呼吸置く茜ちゃん。もし未来視で見た俺が本物だったなら……何か違和感があるだろうか? 玲菜との会話でも不自然な感じもなかったし……。いや、記憶までコピーできるのならそんなこと関係ないのか。なら、茜ちゃんはいったいどこにニセモノである可能性を見たのだろうか――

「まずおかしいところは、ワールドメモリーを読む能力を持った薫くんが何度も玲菜って子の過去変えを放置しておくとは考えられないの。それに、薫くんは過去が変えられると分かっていて、何の対策もせずに玲菜って子に嫁の自慢をするほど考えなしなのかしら――って」

 茜ちゃんは俺の反応を伺っていた。
 そうだ。俺は無暗に玲菜に過去変えをしてほしいだなんて欠片ほども思っていない。できることなら過去変えなんてしてほしくない。それなのに、わざわざ過去変えをしたくなるような話を振るなんておかしい。ワールドメモリーの能力があるんだ。せめて春菜が予知夢を見た瞬間までの記憶は残っているはず。

「それは――確かに考えられない。何か特殊な事情が無い限りは可能性はゼロだ」

「もし、ニセモノだと仮定した場合。未来視で見た薫くんの話は理由が付くの。……宮内さんを亡き者にするっていう理由が」

「待ってくれよ。何で春菜を死なせる必要があるんだよ」

「悪の秘密結社とやらと戦っていた若菜の話で分かったのだけれど……。ワールドメモリーの能力を奪うのは、その持ち主を殺すことで、魂のような状態のものから能力を引きはがすっていう方法を使うらしいの。だから、力の持ち主の死に際に立ち会う必要がある……。だから、未来の薫くんも、玲菜って子もいつでも殺せる状態にあるって考えてもいいのかもしれないわね」

 つまり、今のまま未来まで進んでしまうと、俺だけじゃなく玲菜にまで命の危険がある――ということか。春菜を死なせないって事だけでも手の打ちようがあるかどうかも怪しいというのに――

「春菜を生き返らせて、玲菜に危険が及ばないようにしなければいけない……。二つのことを解決しないといけないわけか……」

「違うわ。薫くんの身の安全も保障しなければいけないのだから。三つよ」

「そう……だな……」

 春菜が居なくなって俺はこんなにも衰弱しているんだ……。未だに体の感覚が弱いと感じられる。もし春菜と玲菜が助かって俺が死んでしまった場合……それは二人にも同じような気持ちを味あわせてしまうということなのだ。
 ――それは避けてやらないといけない。
 未来では――三人とも笑って過ごしていないといけないんだ!

「でも、おかしいのよね」

「何がだ?」

「何で悪の秘密結社とやらは実力行使で薫くんと宮内さんを襲わないのかしら? 今はまだワールドメモリーの能力者が誰かなんて分かっていないはずだし……」

「ちょっと待てよ。今分かっていないってことは、春菜の能力は奪われていないんじゃないのか?」

「確かにその可能性は高いわね。宮内さんの能力を諦めてでも死んでもらわないといけない理由……」

 何らかの理由で直接手を下すことができない……? それも、春菜が生きているという理由で……。一体なんだ?

「考えても仕方なさそうね。とにかく、何か対策を考えないと……」

「何か対策って言っても……その悪の秘密結社とやらの作戦が失敗すれば全部丸く収まるみたいだけど……」

「その方法を考えないといけないのよ」

 春菜を死なせて、俺を捕縛して、玲菜をいつでも殺せる状態に……。――ん? 待てよ?

「玲菜が能力を持たなければいいんだよな?」

「ええ、そうよ。その為に私たちは玲菜って子の能力が覚醒しない方法も探しているのよ」

 閃いた。もしかしたらこれで全て上手くいくかもしれない。いや、上手くいく。

「ちょっとおさらいだ。俺が知っている情報が間違いないか確認させてくれ。この一週間で覆っていたら、今俺が考えている作戦が失敗するかもしれない」

「何かいいアイディアが思いついたの?」

「これしかない。絶対にうまくいく作戦が!」

 俺は自分で口元が緩んでいるのが分かった。成功率はかなり高いと思う。記録に残らない未来の玲菜には申し訳ないが、みんなの未来を守るためだ。

「玲菜の過去変えは、一度変えた過去より以前の出来事は変えることができない。間違いないかな?」

「ええ、確実な情報よ」

「次に、玲菜はまだ能力に覚醒していない。これは大丈夫だよな?」

「大丈夫……問題ないわ」

「最後に……これは確認なんだけど――」

 これだけは予想の域だ。

「過去変えの能力で覚醒をしなかったことにできると思うか?」

 茜ちゃんは若干予想外と言った風に眉をひそめた。未来で玲菜が願うことに賭けている。そんなことを可能性の高い作戦だと言った俺に不信を持っているのかもしれない。

「思うわ。それは絶対にできる。仮に、過去変えをしようとする時期が遠未来、玲菜って子が覚醒する時期が近未来だとするわ」

 茜ちゃんは、自らの思考を整理するかのように話し始めた。

「遠未来にとって近未来は、単なる過去事象の一部に過ぎない。それなら何の問題もないわ。問題は、近未来で過去変えの能力を得ることができなかったはずなのに、遠未来において過去変えを行うことができるのかって事なんだけど……」

「変わってしまった近未来がそのまま未来まで続けば、願う必要すらなくなるから、何の矛盾も起きない――そうだろ?」

 自信満々に口を挿んだ俺に対して茜ちゃんは頷く。

「それはそうなんだけど……。それだと、玲菜って子の能力が消えるだけで、変わってしまった過去はそのままなのではないかしら? 宮内さんは――死んでしまったままなのではないかしら?」

「それは、未来の玲菜が自分の能力を消すことだけを願った場合――だろ? だからこう願ってもらうんだよ」

 それから俺は茜ちゃんに作戦の詳細を説明した。玲菜に未来で願ってもらうこと。その為にこれから玲菜に話すこと。俺がやろうとしていること――

「ダメよ! 他の作戦を考えましょう! もし失敗したら本当に……本当に取り返しがつかないことになるのよ? 分かっているの?」

「もし失敗しても、悪の秘密結社とやらの野望が潰えることは確かだろ? でも……万が一なんてことは無いよ。保証する」

「薫くんが保証したってどうしようもないじゃない……」

「大丈夫だよ。安心して待っててくれって」

 俺はベンチから立ち上がると、茜ちゃんの頭をポンポンと撫でた。――悔しそうに唇を噛んでいた茜ちゃんは、それで少し寂しそうな表情へと変えた。

「じゃあ、玲菜に話しないといけないし、先行くわ。一旦家にも戻ってみようかな……」

 歩き出した俺の背中に、小さく馬鹿という言葉がぶつけられたような気がした。――馬鹿にできることがあるなら何でもやってやろうじゃないか。
 ブーッ……ブーッ……
 公園から出て一つ目の角を曲がる。するとそこで携帯のバイブが着信を告げた。相手先には『新田雄介』と表示されていた。

「もしもし? どうしたんだ?」

「大変! 大変なんだ!! 今起きたところなんだけど、大変なことになってるんだ!!」

 ああ……。確か、雄介は入院しているって話だったな……。そりゃ、目が覚めたら突然病院のベッドの上となれば大変なことなのだろう。

「今病院なんだろ? 茜ちゃんから聞いたよ」

「違う! いや、違わないけど……。大変なのはそうじゃないんだ」

 ? いったい他に大変なことって何だろう? 春菜のことでも知ったのだろうか? いや、雄介のこの慌てぶり……嫌な予感がする。

「若菜さんが俺のベッドに体を預けてスヤスヤ寝てるんだよーーっ!」

 雄介は囁くような叫びでそう言った。何というか、予想通りというか……。

「うたた寝してるところはよく見てたんだけど、こう……ほとんど俺の上に頭を乗せて寝ちゃってるわけだよ。大変なんだよ!!」

「おお、そうか。良かったな」

「どうすればいい? 俺はどうすればいいんだ? おい薫お願いだ! 教えてくれよ!」

 久しぶりに聞いた『おい薫お願いだ』でなんだかずっと張りつめていた緊張が少しだけ緩んだ気がした。

「なんか……こう……髪の毛が……さらさらーってさぁ!」

「そうか。でも、起こしたくなかったら触るなよ」

「え?」

 その電話先の声は、硬直した雄介をイメージさせるには十分すぎるほど固かった。こいつ、絶対に触ったな……。

「ちょっと……触っちゃったんだけど……」

「若菜さんは?」

「まだ寝てる。てか、実は結構前に触ってたんだけど……」

「あ、じゃあそれ寝たふりだから。残念だったな。今の会話は全部聞かれてるぞ」

「ちょ、おま」

「お大事にーー」

 その言葉を最後に俺は通話を切った。お幸せに――の方が適切だったのかもしれない。
 若菜さんは、物音ではそうそう起きたりはしないが、誰かに触られたりするとすぐに起きてしまう。……これは絶対に――だ。確か、それを理由に目覚ましは携帯のバイブレーションだし、音の鳴る目覚まし時計ではなかなか起きれないと言っていた。
 俺は通話が終わり静かになった携帯を握りしめ、静かな小道を家へと向かって歩く。

「あっ……」

 そういえば、玲菜に貰った写真はもう処分してしまったんだった。宮内宅を出る前にガスコンロで火をつけて燃やしてしまっていた……。最後の作戦では、茜ちゃんに記憶を保持してもらっていた方が都合がいい――
 一応、自分の部屋を探してみるか――。確か、俺の分の写真があったはずだ。
 俺の……いや、ワールドメモリーの記録が正しければ机の一番上の引き出しに入れているはず。今日でも明日でも茜ちゃんを呼び出して渡してしまおう。
 そうやって今後の行動を考えていると、あっという間に自宅に着いた。元からあっという間に着くような距離だったのでわざわざそんなことを言う必要もないのだが……。
 記憶力には自信がある。それはワールドメモリーを読むと言う特殊能力があったからなのだが、それゆえに、過去変えが起こり出してからは現実と記憶が欠片も一致しないということにも慣れてしまっていた。逆に、過去変えが起こったにも関わらず変化が無ければ、それが大きな違和感を持つことになる。
 例えば、家に入って台所から水が滴る音が聞こえないだとか――
 過去が変わる前の世界では、宮内家にお世話になっている間に荷物を取りに戻った時。その時に蛇口の緩みに気が付いて締め直したのだ。変わってしまった世界では、そもそも緩み自体が無かったのか、他のタイミングで締め直したのか――。そんなことを考えてしまったりもする。
 春菜がいない世界――。そこでは祭りにも出かけていないのだろうから、おそらく、前者の理由なのだろう。さして重要ではない推察だが、小さな違和感にも自分では知らない一週間の自分を知るためだと思うと、どうでも良いなどと言って無視することはできなかった。
 そして、写真を探すために入った自分の部屋で違和感がもう一つ――
 思い出そうとすれば部屋の中に何がどのように置いてあったかは全て思い出せる。しかし、もし俺がワールドメモリーを読む能力を持っていなかったり、あまり記憶力の良くない人間だったとしても気が付く――そんな違和感がそこにはあった。
 それはおそらく、記憶を保持していない人間であっても違和感を感じたのではないだろうか。
 それは、部屋の中で一際異質な雰囲気を醸し出していた。
 それは、まるで俺のことを待っていたかのように置かれていた。
 それは、確かに俺が探していたものだったはずなのに、本質的な……根源的なものが違っていると直感できた。
 俺は冷静に現状を分析しようと部屋の扉を開けたまま立ち止まっていた。もしそこにあるそれが、俺が探しに来た目的の物なのだとしたら――。俺はこの部屋で女々しく思い出に浸っていたのだろう。しかし、しかしだ。陽の当たる机の上――。そんなところに無造作に置かれるようなものではない。それを置いたのが俺のはずがない。何度過去変えが起こったとしても、自分の癖、絶対にしないことは分かる。
 大切な人と写った大切な写真をこんな無造作に置いたりなんかしない。
 ――俺は、机の上に置かれた写真には手を触れず、確かめるように引き出しを開けた……。

「やっぱり……」

 そこには、つい口に出してしまうほど予想通りな光景があった。
 俺の記憶では、遊園地での写真は引き出しの一番上にしまってある。開ければすぐにでも見える位置だ。この一週間、わざわざこの写真を使う場面なんて想像できない。
 つまり、今の俺の記憶にある机の一番上の引き出しからは動いていないはず――。ではなぜ俺の机の上にはもう一枚同じ写真が存在しているのか……。
 ――分からない。
 机の上に並べて眺めてみても分からなかった。確かに同じものであることは間違いない。画質は一緒だし、紙質だって同じだった。間違いなく雄介が焼き増ししてくれた写真だ。
 俺は、両手に一枚ずつ写真を持つと、日の光に翳して良く見えるようにして見比べてみた。……一緒だよな――
 右手に持った写真を何の気なしに裏返してみる。……もちろん裏は真っ白。一応左手に持った写真も裏返してみる。……もちろん……ん?

「なにか書いてある……」

 そこには写真の裏の小さなスペースに収まるように小さな字で文章が書かれていた。一瞬で読めてしまうような文量じゃない。どんな時に撮ったものなのかというメモというわけではなかった。
 書き方を見るに、それは手紙のようだった。
 丁寧な文字で……、その文字を見るだけで、まるで受験のための履歴書のような真剣さが伝わってきた。書き方を見るに――とは言ったが、なぜ手紙と言えたのか? それは単純に、宛名と差出人が書かれていたから。

 宛名は俺……。差出人は――

「そういえば、この写真は過去変えの影響を受けないんだったよな……」

 過去変えの影響を受けないということは、イコールここに書かれている言葉は、春菜が生きている世界で書かれたものだということ。ここに置かれているということは、書いた本人がここにいたということ。
 ――灯台下暗しとはよく言ったものだ。あいつが行きそうな場所は遠くまで探したのにいなかったんだもんな……。この差出人――宮内春菜は、よく最後にこんなことを考え付いたものだ――。過去変えに逆らってメッセージを残そうだなんてな――

『マイボーイフレンド 薫へ』そんな書き出しから始まる手紙は、春菜の死を欠片も受け入れていなかった俺にとって、本当の意味で初めて春菜がいない現実を突きつけてくるものだった。

『あなたがこの手紙を読んでいるということは、あたしはもうこの世にいないということだと思います。
 ……なんて一度は言ってみたくてこの手紙を書きました。ただそれだけの理由。どう? がっかりした?
 あたしのいない世界はどう? 何も変わらない? 変わってなければいいな~。変わらずお母さんは優しくて、お姉ちゃんは完璧で、玲菜は可愛くて……。お父さんは相変わらずで――。薫は――あたしのことを覚えていてくれて――
 今だから伝えられるけど、実は自分が消えてしまうことが分かる夢を見た時、あたしは薫の記憶に少しでも楽しい記憶が残ってくれるように色んなことをしようって決めたの。
 ――どうせ消えてしまうなら好きなことをしてやろうって考えもあってね。
 あの日、人気のない神社裏に行ったとき……本当は口づけ以上のこともしてやろうかとも思ってたんだから! でも、そこに良くも悪くも玲菜が来ちゃったから……夢の内容を思い出してあんなことになっちゃった。
 分かってると思うけど、玲菜は少しだって悪くないから。悪いのは、夢に出てきたあいつ。それとあたし……。
 こんなにも薫のことを好きになっちゃったあたし。
 多分、十年後も変わらず好きなんだと思う。ううん、きっと今以上に。だから、記憶を保持していても薫と結婚する選択肢をとった。そうじゃないかな?
 未来では、先週みたいにあたしがゴリ押しして結婚にこぎつけたんだろうし、本当なら薫は玲菜を選んでたんじゃないのかな?
 だから――。これが正しいんだよ。

 あたしはいない方が良いんだよ。

 薫のことだから、あたしを生き返らせようと無駄な抵抗をしてるんでしょ? 分かってるんだから。
 でも、そんなことしちゃダメ。みんなの本当の幸せの為にはあたしは邪魔なの。
 あたしは十分過ぎるほど幸せに生きた。特に最後の一週間のボーナスステージは格別だったわ。
 だから……だからどうか、このままあたしを消えさせて? 遊園地での約束――ここで使うわ。あたしを生き返らせないで。
 玲菜を幸せにしてあげて。
 それと……できることなら、あたしと薫の過ごした日々を、ずっと覚えていて。そしたら、あたしは薫の中でずっと生きていられる。幸せでいられる。これが今薫が探しているあたしを生き返らせる方法。
 頼んだわよ?
 あ、最後に一言……
 可愛い年下の奥さんができて良かったね!
 やったね!』

「良かねーよ」

 締めの一言に、ついつい写真を叩きつけてツッコミを入れてしまった。最後の言葉にそれはねーよ……。
 大切に扱うはずの写真でさえ投げてしまったじゃないか。
 しかし、多分だが、こういう対応を春菜自身が望んでいたのだろう。変わらない漫才のようなノリ。春菜が馬鹿なことをして俺がツッコミを入れる。
 ――それは、あるべくしてそうなったものだった。
 ……という訳では実は無かったりする。
 俺の両親は俺が幼い頃に他界している――。それ自体は、あまりよく分かっていなかった当時の俺には、寂しいとか辛い気持ちこそあれ、長々と引きずるようなことではなかった。
 両親のことを受け止めて生活をしていたつもりの俺を、なぜか元気づけようとしていたのが他でもない春菜だ。
 最初はいつにも増してテンションが高いな――くらいの気持ちだったが、ある日春菜は言った。

『薫はもっと楽しそうにしなきゃダメっ!! 笑ってないとダメなのっ!! だから……あたしが馬鹿なことしたら馬鹿にして笑って。変なことするから、変だって言って大きな声出して。もっと……元気にしてて……』

 ――そんなことしてたら、みんなからいじめられるよ?

『だいじょうぶ。こうやって馬鹿なことしてて思ったの。あたし、こういうノリ嫌いじゃないって。だから、みんなから馬鹿にされても楽しいっ!!』

 そうだ――。俺が使っているあの言葉も。変なことやおかしなことがあればすぐに口に出してしまう癖も。普通ならうざいと思ってもおかしくないような絡みが心地良いと感じてしまう性格も――

「よか……ねーよ」

 自分の言葉一つにも春菜を思い出す――

 春菜の匂いが染みついている――

 落とした写真から視線を上げると、俺の部屋で我が物顔の春菜がベッドで跳ねる。

 窓から外を見ると、千切れんばかりに手を振る春菜が笑う。

 写真を拾うと、部屋のドアが音を立てて開かれる。

「笑え」

 そう言って馬の被り物をした春菜が仁王立ちしていた。

 ――気がした。

 ――全部春菜がくれたものじゃないか……。

 ――ずっと覚えていて。あたしは薫の中でずっと生きていられる。

 逆じゃないか――。春菜を覚えているから……春菜が俺の中にいるから俺は俺として生きていられる――
 なら、これからの俺はどうなるのか? もしこのまま春菜がいない人生を歩むのだとしたら?
 春菜の目論見通り、玲菜と付き合って充実した青春学園生活? それから結婚でもして子供もできて、幸せな家庭? 想像することは難しくない。玲菜といて幸せでないはずがない。でも……どうしても……。そこに春菜がいない景色だけは想像したくない。いや、できない。俺の中に春菜が生きている限り、それだけはできない。理不尽に消えてしまうことなんて、俺が許さない。ここで、生き返らせる可能性に賭けないなんて、俺が俺を許せない!!

「賭けなんだ。相応のリスクが無いと成り立つはずがない」

 ――初めの作戦は茜ちゃんの読み通り失敗する可能性が百パーセントと言っても過言ではない……。そうなれば賭けなければならない。

 俺の命を――

 なんだ、安いじゃないか。世界で一番無価値な人間が、二番目に無価値な人間を生き返らせるために犠牲になるかもしれない――
 全然対等な賭けじゃない。でも、神様がいるのだとしたらそのくらいは妥協してくれてもいいだろう。

 春菜は誰よりも頑張ってきたんだから――




 ――七月十九日木曜日早朝――


 全ての準備が整った俺は、学校近くの廃ビルの屋上で一人立ち尽くす――
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