願い!時を超えて

色部耀

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探しものは……

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 気が付くと、日は高く昇っていた。
気が付くという表現。それがとにかくしっくりくる。なぜか? まさしく俺は、たった今まで気を失うように眠ってしまっていたからだ。河原沿いのベンチで朝方に少し足を休めていたのだが、そこでそのまま眠ってしまっていたらしい。ベンチに腰掛けた時点で九時はまわっていたと思うの約三時間ほど眠っていたのだろう。

「結局、海まで往復したのに見つからなかったな――」

 そもそも河原にヤマをはって探したのもレンタル屋のおばちゃんの案だったのだから、外れたとしてもなんら不思議ではない。むしろ、それで簡単に見つかるようであれば、あのおばちゃんに転職を薦める。探偵とか。
 ――とりあえず、なにかカロリーを取っておかないと探すに探せない。家に帰り、即席麺を茹でて腹に詰める。それだけを頭に自宅へ向かった。

「薫くん。春菜は一緒じゃないの?」

 自宅に着いて玄関をくぐろうとしたその時、腕を組んで仁王立ちする春菜のお母さんに呼び止められてしまった。

「すみません。昨日、神社ではぐれて――」

 怒鳴りつけられるのを覚悟した。いっそ、殴られても不思議ではない。しかし――

「はー。もっと早く連絡して。玲菜から少しだけ話は聞いているわ。今までずっと探してくれてたんでしょ? ご飯――作ってあるから」

「俺の……俺のせいで春菜は行方不明みたいになってるんですよ? 怒らないんですか? 俺が、俺が悪いのに……」

「薫くんが悪いの? なら怒ろうかしら。でも、本当に薫くんが悪かったらの話。春菜が帰って来てから話を聞いて、それからよ。ほら、泥だらけだし、髪もぼさぼさ。先にお風呂に入る? 薫くんにも元気でいてもらわないと。私にとって、息子みたいなもんなんだから」

 お母さんの顔を見て、罪悪感に押しつぶされそうになった。でも、そんな俺のことを気遣ってか、こんな優しい言葉をかけてくれる。多分……昨日の夜から、ずっと帰りを待っていてくれていたのだろう。俺よりも疲れている様子があった。

「一応、警察にも届出を出しておくわ。薫くんは、春菜が帰ってくるまで、うちで生活しなさい。今あなたを一人にすると心配だわ」

 宮内家の玄関を開けて、ひとまずリビングへと向かう。お母さんは家の固定電話で警察に連絡をしていた。何か、いつもと違うような気がするのは気のせいだろうか……。

「じゃあ、ちょっと警察署に行ってくるわね。食べ終わってら、食器は洗って干しといてね」

「はい。行ってらっしゃい」

「お風呂も、ゆっくりお湯を貯めて入りなさい。タオルの場所とかは知ってるわよね?」

「はい。大丈夫です」

「あと、飲み物は冷蔵庫に入ってるものを好きなだけ飲んで。無くなったら、ジュースは冷えてないけど台所の流しの下にあるから」

「はい。ありがとうございます」

「それと、何かあったらすぐに電話してちょうだい」

 何度も何度も、俺に不自由が無いように確認をする。雄介がよく、親が一々めんどくさいって愚痴をこぼしたりしていたが、いざ自分がこうして何度も心配しているような言葉をかけられると嬉しいものだった。

「最後に! 私が帰ってくるまで薫くんは外出禁止よ」

 そう言い残して、後ろ髪を引かれるようにゆっくりと家を出た。――俺の考えはお見通し……か。
 一秒でも早く春菜を探しに家を出たかった。しかし、あんなに気にかけてくれている人の言い付けを破るとなると……。少し気が引けた。リビングに用意されているミートスパゲッティ。――これを食べ終わってから考えることにしよう。家を抜け出すのか、素直に警察に任せるのか……。しかし、何かいつもと違う違和感……。この家には何度も入っているのになぜだ? 見渡しても、いつもと違うところは特に見当たらない。常識の範囲内で物が移動している程度。なんら変化はない。パスタをフォークで丸め、口へと運ぶ。リビングの椅子に座り、何気なく横に視線を移す。そうか――

「玲菜が顔を見せていないな……」

 昨日のことが原因だろう。春菜が走り去っていったあの瞬間に立ち会ったことを何か思っているのか。自分に何か責任があるのかと考えてしまっているのだか――。
玲菜の靴は確かにあった。おそらく部屋にいるのだろう。後で顔を見に行ってみよう。もしかすると何か春菜の行きそうなところを聞けるかもしれない。あわよくば、未来の玲菜の願いをどうにかできる方法も――
 さっとくぐるような速さでシャワーを浴び、新しいTシャツとジーンズに着替える。丁寧にも、脱衣所に『薫くん用』と書いたメモと共に分かりやすく置いてあった。本当に良く面倒を見てくれる。俺にも母がいればこんな感じだったのだろうか……。降ろしたての香りがするTシャツとジーンズ。今日わざわざ買ってくれたのか以前から家にあったものなのかは分からないが、大きな恩を着せてもらっている事は間違いない。
 着替え終わり、玄関に玲菜の靴があることを横目で確認する――。玲菜の部屋は、二階に上がってすぐ。軽くノックをする。淡々と――

「玲菜。入っていいか?」

 返事を待ったが中々声が返ってこない。三十秒? 一分? 感覚的にはもっと長く。その間に、何度扉を開けてしまおうと悩んだことか。しかし、扉は俺の手が触れるより先に、音も立てずにゆっくりと開かれた。

「入って……」

 ずっと自分の爪先を見詰め、俯いたままの玲菜が内側から戸を開けた。

「おじゃま――します」

 以前入った時と変わらない、可愛らしく飾られた部屋。だけれど、そんなものはほとんど目に入らず、俺の目にはただただ背中を丸めて、背中を向けて……力なく立ち尽くす玲菜しか映らなかった。

「春菜は……絶対に帰ってくるから。そんなに心配しなくていい」

 玲菜が沈んでいることが単なる心配からきている訳ではないという事は分かっていた。玲菜は自分を責めているのだろう。あの場に居合わせてしまったせいで――と。

「ううん。違うの。玲菜のせいなの。お姉ちゃんがいなくなったのは全部玲菜のせいなの」

「あの場所に来てしまった事が――か? 玲菜は悪くない。悪いのは、気付くチャンスが何度もあったはずなのに目を背け続けてしまった俺にある」

 実際にそうだ。俺が早く気付いていれば……話を聞いて、何か解決案を探せたかもしれない。春菜が消えるという選択肢を選ばせない方法を提示できたかもしれない。

『誰かの不幸無くして、誰かの幸福は有り得ない』

 そんな理不尽を通さなくていい方法が。

「ううん。だから違うの。玲菜が。玲菜が悪いの。玲菜がお姉ちゃんに好きな人の話なんてしたからいけないの」

 今、この子はなんと……?

「玲菜は……ずっと薫お兄ちゃんの事が好きだったの」

 突然の告白。
 しかし、俺も春菜の予知夢から人の気持ちを理解できないほど馬鹿ではない。知っていた。知っていて春菜を選んだ。……知っていて玲菜に隠していた。

「春菜お姉ちゃんも薫お兄ちゃんの事が好き。そんなことも知ってて薫お姉ちゃんに告白したの。……薫お兄ちゃんの事が好きだって――。私は、間接的に釘を刺したの。薫お兄ちゃんを取らないでって。最低だよね――私。そんな事も分かってた」

 一向にこちらには顔を向けず、ずっと背を向けたまま視線を床に落とす。

「その時、春菜お姉ちゃんは笑顔で私の応援をしてくれた。応援するって言ってくれたの。笑顔で、ずっと笑顔でっ! 苦しかったはずなのに、私の為に自分に嘘を吐いて私の事を応援してくれたの。私なんて……」

 震える玲菜。後ろからでも涙を流しているのが分かる。

「私なんて、お姉ちゃんが応援してくれたことに喜んでただけで……馬鹿みたいに――ずっと子供で――。お姉ちゃんのことなんて何一つ考えてなかった」

 我慢していたものを吐き出すように続けた。

「いっつも可愛くしてようって自分を騙して、みんなを騙して。お姉ちゃんも可愛いって言ってくれるから、可愛くしてなきゃって。嘘ついて――。本当は私、何もできないだけで。本心は汚いことばっかり考えてて――。自分のことしか考えてなくて――。最低で――」

 玲菜は……自分の悪いところを誰にも見せずに生きてきていた。自分の汚いところは自分の中に貯め込んでしまっていた。だから、未来であんな願いをしてしまったのかもしれない。嫌われることが怖かったのかもしれない――
 玲菜は、自分の価値を考えるときに――いや、他人から評価されるときと言った方が良いかもしれない。超人的な姉と、天才的な姉と――二人の才能の塊のような存在と比べられてきたのだ。
 そんなの――自分の弱みを他人に見せられなくなるのは当たり前ではないか? 必然ではないのか? 何かできない事があるたびに、何か過ちを犯すたびに一瞬にして自分が無価値なものだと思えても仕方がないのではないか?

「神社で春菜お姉ちゃんと目が合ったとき……。思っちゃったの――。裏切られたって。多分顔に出てたんだと思う。だから」

 自分のせいで春菜はいなくなったのだと――そう言って玲菜は力なく床にへたり込む。玲菜の中ではそれが答えで……揺るぎようのない完全正答で……。どうすれば許されるのかなどと考えているのだろう。
 見方によっては玲菜は性格の悪いことをした――そう言えるかもしれない。だが、無理をさせ続けた俺達にも責はある。

「玲菜……」

「こっち来ないで!!」

 大声で拒絶する玲菜。

「私、今二つの事が頭の中で回ってるの。お姉ちゃんに申し訳なくて、謝りたくて、どうやって償えばいいかってことと。――薫お兄ちゃんに優しく慰めて貰って、あわよくば同情心から私の事を好きになって貰おうってこと」

 そんなこと考えていたのか、でも――

「私は異常なのっ! 冷酷で自分勝手でっ! でも、でもっ!」

 玲菜は絞り出すかのように――

「お姉ちゃんのことが大好きで――。こんな気持ちになるくらいなら、恋なんてしなければよかった」

 もう声が出ない。崩れ落ちた玲菜からは、聞かなくても分かった。

「玲菜。好きになってほしいって思う事は普通だぞ?」

 玲菜は初めて振り返った。

「慰めてほしいっていうのも当たり前だし、自分の好きな人を取られたときに恨むのだって当然だ。死んでしまえって思うくらいでもおかしくない」

「は?」

 玲菜が素っ頓狂な声を出す。

「いやいや、薫お兄ちゃん何言ってんの? 好きな人を取られたくらいで死んで欲しいって思うのはおかしいよ」

 なんだ、まだ声出るじゃないか。

「統計でもとったのか? だいたい、俺が知ってる話だと、恋人を取られたり不倫されたり浮気がばれたりすると、密室殺人が起きる」

「それ、単なるミステリー小説の話でしょ?」

「なら、好きな人を取られても、恨みもしないし妬みもしない。ましてや、自分に気持ちが向いて欲しくもないなんてどこの話なんだ?」

「そりゃ――学校で教えてもらうじゃない。道徳の教科書とか」

「教科書に人を恨むなとか妬むななんて言葉は出てこない」

「じゃあ、先生とか」

「本当にそんなことを言う先生がいたのか?」

「……」

「玲菜、それは普通じゃなくて理想って言うんだよ。理想が叶わなくても、異常じゃない。理想なんだから、なれなくて当たり前なんだよ」

「でも、でも」

 そんな自分の事を好きになってくれるのか――か?

「じゃあ、試しに俺に嫌われるであろうことを何か言ってみろ。玲菜の事を嫌いにならない自信がある」

 さあ、かかってこい。と言う風に手を広げる。

「じゃあ……。寝顔に落書きする」

「やったぜ! 顔を洗い忘れることが無い!」

「落ちない油性ペンで」

「玲菜専用のキャンバスなんてゾクゾクする」

「出会い頭にほっぺたを叩く」

「ご褒美です」

「靴の中に画びょう」

「丁度足つぼ針治療にハマってたところだ」

「学校の机の上に花を置く」

「う~ん。トレビア~ン」

「教科書に落書き」

「外ばかり見てる」

「湯船のお湯をサラダ油に変える」

「最近、乾燥肌で困ってたんだ」

「靴ひもがトコロテン」

「おいしくいただきます」

「エロ本を捨てる」

「それは困る」

「変な噂を流す」

「二番煎じだ!」

「待ち合わせに二時間遅刻する」

「待ってる時間も貴重なデートさ!」

「二週間遅刻する」

「二週間待つ!」

「一週間履き続けた玲菜の靴下を口の中に詰め込む」

「ご飯何杯でもいけるぜーー」

「気持ち悪い」

「ありがとうございます」

 お互い、早口言葉のように言葉のドッジボールをしたせいか、息が上がってしまっていた。

「もう……なんなの」

「さあ、なんでしょう……」

 さっきまで苦しそうな顔をしていた玲菜は、今や息苦しそうではあるが笑っていた。

「玲菜が思ってるほど、人は簡単に他人を嫌いになれないものなんだよ」

「でも極端でしょ。変態じゃない」

「教科書で習わないぞ?」

「本当に――嫌いにならないの?」

「怒ることはあるだろうけど嫌いになんて、絶対にならない。だからといって何でも許されるわけではないけどな」

「そう……だね。お姉ちゃんが帰ってきたらいっぱい謝らなくちゃ。いっぱいお礼言わなくちゃ」

「本当は謝る必要なんてないけど、玲菜が伝えたい言葉は玲菜の口から伝えないとね」

「うん! 伝えたいことは自分の口から伝える!」

 固くこぶしを握った玲菜に、さっきまでの暗い顔はもうない。

「薫お兄ちゃん!!」

「なんだ?」

 座ったまま背筋を伸ばし、俺をまっすぐに見つめる。
 決意をしたような顔で。
 覚悟を決めたような顔で。

「薫さん!!」

 さっきよりさらに大きな声で、若干叫ぶような物言いで。

「好きです。私と、付き合ってください!!」

「ごめん。付き合うことはできない」

 即答で間を置くことなく、俺はこたえる。

「だよね。一応、聞かせてよ。理由」

「今更だけど、紹介が遅れた。俺には春菜って言う最高の彼女がいる。恋人は春菜しか考えられない」

「へへっ。知ってるよそんなこと」

「玲菜……」

「出て行って!!」

 突然立ち上がって背を向ける玲菜。

「振られた女の子には誰にも見せられない大事な仕事があるの!!」

 空が見えるわけでもないのに上を向く玲菜。

「お姉ちゃんも泣かせたら殺すから」

 それはちょっと勘弁だな。お母さんの言い付けを破ることになるけど……やれることは早いうちからやっておこうか。『玲菜の部屋』と可愛らしく装飾がされたプレートがついている扉を閉めると、足早に階段を降りる。少しでも玲菜から遠くへ。玲菜の声が聞こえないところへ。そして、そのまま玄関から外へ。
 夕方には一度戻って来よう――。多分……いや、確実に無断外出を咎められるだろうが、そんなことを言っている場合ではないのだ。春菜の命がかかっている――。一秒でも早く見つけ出して解決策を探さないといけない。
 眠気と疲れを蹴り飛ばして、玲菜の気持ちを拭って、焼けるようなアスファルトを駆け出した。もうしばらくは止まるつもりはない。
 今日は、手あたり次第のコンビニに聞き込みをしていくつもりだ。深夜の人気の少ないときに食料を調達できる場所。コンビニなら今後立ち寄る可能性を考えても早いうちに手を打つべきだろう。
 時間は湯水のように流れた――。それこそ、時計を見る暇さえ無かったので、気付いた時には夕方六時……。一度帰ろうと決めていた時間だった。今日一日で廻ることが出来たコンビニの数は、約三十。目につく店に片っ端から立ち入った。実際に行った事と言えば、写真を見せて聞き込みと、写真を渡して、もし春菜が訪れた時に連絡を入れて貰うように頼むことだった。
 警察は、事件性が少ないと判断して、あまり大きく動いてはくれないだろう。
 家出人捜索願を出したとしても、未成年とは言え高校二年生。巡回中の警官が見つけた不審人物や、夜間外出中の制服姿の高校生と照合するだけだろう。特に、この辺りは大学生も多い。制服姿でなければ、警官がわざわざ声をかけて見つけるなんてことはないと考えるのが妥当だ。
 これからは、足で探すしかない。人の寄り付かないような山中や高架下や橋の下。もしくは、木を隠すなら森と言うし、人が多く集まる場所――この辺りなら、飲み屋街か、大学キャンパスになるか……。とにかく、今日は一旦家に戻ってみよう。

「薫くん」

 場所は宮内家。金剛仁王像吽形のような姿で立つおばさん。必然的に窮鼠のように震える俺。

「ごめんなさい。少しでも早く見つかるように協力したくて……」

「そんなことは聞かなくても分かっているわよ。でも外出禁止って言わなかったかしら?」

「はい。言いました」

「はー……」

 大きくため息を吐くおばさん。

「今日は、もう家から出ないこと。どうせまともに睡眠もとれていないのだろうから、ゆっくり休んで明日はちゃんと学校に行くのよ」

「分かりました」

「学校に行ってなかったら縛り付けます。分かった?」

「……分かりました」

「それと」

 また一つため息を吐くおばさん。

「学校のある日は、九時までに帰ってきなさい。それを超えたら薫くんの分の捜索願も出すからね」

「それは勘弁ですね」

「分かったなら、お入りなさい。今日はハヤシライスよ」

 今日は、俺の好物を作ってくれたみたいだ。本当にこの人は、みんなの好きな食べ物を熟知しているんだな。
 長らくほぼ休みなく歩き回ったせいか、好物であるはずのハヤシライスも、夢見心地のフラフラ状態で口に運んだ。玲菜は食卓に顔を出さなかったが、ここは俺が心配をかけて伺いに行くわけにはいかないだろう。

「そんなに疲れてるなら、早くお風呂に入っておやすみなさい。寝巻用にジャージなら用意してあるから」

「すみません。そうさせてもらいます」

「その代り、明日は少し早く起こすわよ。学校の準備で、荷物を取りに行く時間が必要だからね。あと、しばらくウチにいてもらうつもりだから、服も持ってこられるだけ持ってきておいてちょうだい」

「はーい」

「……お風呂で寝ちゃだめよ?」

「はーい」

 そこから、俺の記憶はほとんど無かった。いや、思い出そうと思えば全て思い出せるので、記憶が無いではなく意識が無いと言った方が正しいのかもしれない。ぼんやりと風呂に入り、ぼんやりと布団に入った。
 部屋は、孤児院時代に使っていた空き部屋の一つ。八畳の畳部屋に布団だけを敷いて寝た。布団に入った瞬間の心地よさは、強烈過ぎるもので、一瞬と言わず、布団に入りながら眠ってしまったのではないだろうか。夢を見る余裕すらなく熟睡。泥のように寝ると言うが、なるほど。こういう時に使うのかと納得した。

 翌朝――。日が昇るよりも前に目が覚めた俺は、二日分の着替えと授業道具だけを取ろうと自宅へ向かった。昨日の夕方に比べて体が妙に軽く感じる。流石に疲れていたと言っても、夜の七時から九時間も眠れば疲れは吹き飛ぶ。
 まだ暗い朝方、当然だが妙に静かな自宅が物寂しく、自分の家――と言う認識が無くなりそうだ。台所から時たま水が滴る音が聞こえる。そこだけには、慣れ親しんだ感じがあり、安心感が生まれる。力を入れて蛇口を閉めておかないと、少しだけ水漏れがするんだよな。ここで寝ていたら、音に気付いて閉めなおすけれど、そうでなければなかなか気付かないからな。台所の蛇口を閉めなおすと、自室の衣装ケースの中から適当にTシャツや学校用のカッターシャツ、下着などを二日分掴んだ。そして、戻ろうとしたときに、台所の蛇口が目に入った。
 ……今閉めなおしたところで、明後日には全て世界が書き換わるから意味が無いんだろうな。いや、そんなことを考えだしたら生きていくこともままならないか――
 一通りの荷物を持つと、宮内宅へと戻る。まだ、誰も起きてきていない――

 時間が許す限りは春菜を探したい。休息は十分に取った。あと二日間だけだと思えば、もう休みなしでも問題ない。――少しでも早く家を出て、学校の中の捜索でもしよう。隠れ家としては、十分に機能するであろう校舎。隅々まで調べるには一日かかるだろう。
 俺は、行ってきますとだけ書き置きを残して学校へと向かった。学校までの道のり――散々調べて回ったが、昨日の行動がすでに身体に染み付いてしまったのか、走りながらでも隅々まで目を光らせてしまう。ここで見つかれば話が早いのだけど……。現実はそう言うわけにはいかないみたいだ。――何も収穫はなく学校に到着してしまった。
 さて、始業まで三時間……。部室棟の使われていない部屋あたりから調べてみるとするか……。
 俺はまず、壁に備え付けられた鍵の保管ボックスへと向かった。保管ボックス自体はバールか何かで叩けば壊すことが出来そうなくらいには錆び付いている。
 普段はナンバーロック式の錠を教員の誰かが開けて部員に渡す。使い終われば教員に鍵を渡し、ボックスの中にしまって貰う。――そうルール付けされている。残念なことにまだ教員は誰も登校しておらず、俺もナンバーロックの解錠コードは知らない。――知らないはずなんだが……。見たことがあるかもしれない――
 ちらりとでも、視界の端ででも見たことがあるかもしれない。思い出そうとすれば、番号くらいなら……。俺は、意識を集中して解錠コードを思い出そうとした。目をつむり、この場で鍵を開ける教員の姿を思い浮かべて……。
 ワールドメモリー! たまには役にたてよ!
 じわりじわりと瞼の裏に目の前の……過去の光景が再生され始める。横から見た教員の図だ。ゆっくりと鍵を開けているシーン。しかし、手で隠れていてナンバーが見えない。
 ――もっと! 手元が見えないとだめだ!
 そう――願った瞬間。視点は突然移動し、手元が見える場所からの映像が思いおこされる。
 こんな記憶は無いぞ……?
 手元を見ると、先程の教員の服装が映る……。
 そうか、そう言うことか。他人の記憶でも問答無用で見ることができる――
 ワールドメモリーを見る力――思っていた以上に性悪な能力のようだ。
 俺は、鍵置き場からすべての鍵を取ると近場から順番に捜索を始めた。二十程の部屋を教員、もしくは朝練をする生徒が登校してくるまでに調べつくさなければならない。
 ――タイムリミットはおおよそ一時間か……。
 中に人がいないかどうかを調べるだけなのでそこまで時間はかからないが、一時間――それに近い時間を要した。女子部の部室を調べるのには色々な意味で生半でない神経を使ったが、どうにか誰にもばれずに全ての部屋を調べ終わった。
 全ての部屋を調べ終わった……という事は見つからなかったという事と同義で――。何も得るもののなかった俺は、大人しく校舎に入ることにした。丁度、教頭が校舎のシャッターを開けているところを見たので、時間を空けて校舎内に忍び込む。
 もちろん、各教室の鍵は閉まっている。だからこそ、初めに調べようとしていた場所。誰にでも入ることが出来て、あまり人目に付かないところ。そういった部屋を当たろうとしていた。
 しかし、ここで意外な人物と再開することになった。

「あら、薫くんこんな朝早くにどうしたのかしら? 夜這いならぬ朝這いかしら?」

「俺は学校の校舎で女の子を襲うような馬鹿じゃない」

 廊下でこそこそと歩く俺に後ろから声をかけてきたのは、開口一番から個性を発揮してきた茜ちゃんだった。

「あら、その言いぶりだと学校じゃなかったら女の子を襲う賢い人みたいじゃない」

「学校外だとしても女の子を襲う行為自体が賢い人間のする事ではないと、ここで訂正させてもらうよ」

「え? 襲ったことないの? 案外、そういうシチュエーションに憧れている女の子は多いものよ? 馬鹿ね、薫くんは」

「え? そうなのか?」
 
「そうよ。襲われているところを白馬に乗ったの王子様に助けられて、その王子様に襲われるの」

「無茶苦茶じゃないか」

「よく分かっているじゃない。無茶苦茶になるのよ。性的な意味で」

「ごめん。全然わかってなかったみたいだ」

 普段通り無茶苦茶なやり取りをし、無駄な下ネタをぶっ込んで来る茜ちゃん。

「そんな事より、なんでこんな時間に茜ちゃんが学校にいるんだ? 学校に入ってくる瞬間を見ていないけど、まさかずっと校舎内にいたのか?」

 茜ちゃんは、いつもの無表情で当然のごとく答える。

「今日は宿直室に泊まっていたから」

 宿直室――。今は使っていないはずの職員が寝泊りをする際に使う部屋だ。現在でも給湯室替わりや、夕方に教員が晩飯を取るために使っていたりはするそうだが……。

「なんで茜ちゃんがそんなところに泊まっているんだ? 家はどうしたんだ?」

「家は貰ったんだけど、中々同じところに住み続けることに慣れていなくて、こうして気分転換に色々なところで夜を過ごしているのよ」

「家を――貰った?」

 どういうことだ? まさか、この子は陰で夜の蝶をやっていて、そのお父さん的な人から家を買って貰ったとかいうのだろうか? それまでは、いろいろな人の家を転々として……。いや、実は世界中を飛び回る両親がいる大層なお嬢様で、ここに住むために家を買って貰ったという線がまだ可能性としては高い。

「うん。宮内邦男さんて人に貰った」

 まさかの、よく知る人だった!! まあ、しかしそれを聞くと逆に驚きは少ない。あの人なら何でもありだ。おそらく、過去に大量に建てた孤児院の一つでも譲ったのだろう。とすると……茜ちゃんも両親がいない――のか?

「邦男さんとは、どういう仲なんだ? 邦男さんは娘みたいなもの――って言ってはいたけど」

「あら、そんなこと聞いたの? たしかにまあ、間違いじゃないわ。邦男さんは十五年前にパリで落ちていた私を拾って育ててくれたの。わざわざ日本に孤児院まで建てて」

「パリ? なんでそんなところに? 茜ちゃんってフランス人だったのか?」

それより、落ちてた? 拾った? 色々ツッコミどころが多くて何から聞いていいか分からなくなりそうだ。

「生まれた場所で言うならフランス人になるのかもしれないわね。でも、見た目的には日本人だし、茜だから日本人で良いんじゃないかしら? まあ、織田茜って名前も邦男さんがつけてくれたんだけれど――。薫くんが洋物好きって言うならフランス人ってことにしてもいいわよ?」

「……突っ込まないからな?」

「あら、突っ込んでくれないの? 寂しいわね。ところで、薫くんの方こそ、こんな朝早くにどうしたの? エッチじゃない事以外なら何でも手伝ってあげるわよ?」

「それ、エッチなことしか手伝う気が無いじゃないか!!」

「冗談よ。で、どうしたの?」

 いつにもなく真剣なトーンで聞いてくる茜ちゃん。持つべきは友――か。少しでも事情を知っている人には手伝ってもらわない手はない。

「実は……」

 俺はあまり人の来ない渡り廊下に移動し、今までの事を洗いざらい話すことにした。春菜が行方不明なことはもちろん、探した場所、これから探す予定の場所、春菜が居そうな場所の情報。そして、春菜の予知夢。水曜日の朝には春菜が消えてしまうという事――。茜ちゃんは、黙って全てを聞いていた。気付いた時には、始業まで二時間近くあった時間があとわずかになっていた。

「薫くん。重要なのは宮内さんを探すことじゃないわ」

 きっぱり言った茜ちゃんに、俺は思考を停止させられていた。

「だってそうじゃない。宮内さんを見つけたところで何も解決しない。消えてしまう事実を変えられない。探すだけ時間の無駄だわ」

「でも、春菜に会って話し合うことで解決の糸口が見つかるかもしれないじゃないか! 無駄なんかじゃない!」

「いいえ、無駄よ。気付いていないようだからこの際はっきり言ってあげる。薫くんは今、宮内さんに会いたいって言う目先の欲求にかどわかされているだけよ。冷静に考えればそんな事よりも宮内さんが消えなくて良くなる方法を探すべきだわ」

「そう言われればそうなのかもしれないけど……」

 心が納得しない。何か……今の春菜をないがしろにしている様で――

「薫くんはまだ現在が未来に繋がっているという感覚を持っているかもしれないけど、今はそんな状況じゃないの。現在と未来は全て繋がっているわけじゃない。ましてや一方通行でもない。今の薫くんが今を大切にすることに大きな価値はないの」

 言い切った茜ちゃんは一呼吸置く。俺はまだ思考が追いつかず、考えがまとまっていなかった。

「今の薫くんは――ね」

 そう言う茜ちゃんの目には希望の光が差しているように見えた。

「ここからはパンドラの箱よ。誰も開けたことのない、中身の分からないものとの勝負。何が起こるか分からないし、実際に成功するかも分からない、それに方法だってもちろん分からない」

「それでも」

「考えて試す以外無いわよね?」

 渡り廊下で朝日を逆光で浴びる茜ちゃんの表情は、あまりはっきりと見えなかったが、かすかに口元が笑っているように見えた。不思議なことが好きな茜ちゃん。その好奇心を最高にくすぐった挑戦なのかもしれない。茜ちゃんの案――。それは、要約するとこうだった。将来、玲菜が能力で春菜を消すことが出来ない状況を作り出す。ただ単純にそういう話だった。
教室に入り、ホームルーム中に茜ちゃんは堂々と後ろを向いて話をする。干渉させない力を使っているのだとかどうとか。

「そういえば、茜ちゃんの能力は元に戻ったのか?」

「ええ、どうにか邦男さんを見つけて戻してもらったわ。何の能力かは言えないけれど、邦男さんも能力者だから、その力を使ってね」

「ああ、むしろあの人が超能力的な何かを持っていないと言った方が驚きだ。でも、確か能力を二人で分けることで丁度良くしてるとかなんとか言ってたよな? その相手って言うのが邦男さんなのか?」

「いえ、違うわ。分けているのは若菜よ。でも、それ以上は質問しないで、口止めされているから」

 疑問はどんどん増える一方だが、今知らなくていいことは無理に聞かない方が良いのだろう。――ただでさえこんな力を持ってしまっているのだから。

「じゃあ、話を戻すけど。どうやって玲菜の能力が発動しないようにすればいいのかな」

「まずは、能力について教えるところから始めましょうか」

 茜ちゃんも茜ちゃんでワールドメモリーの能力について調べてくれていたらしく、その特性について教えてくれた。そこから何か解決策が浮かばないものかと……。

「ワールドメモリーの能力と言うのは、三つ。過去を変える力・未来を予測する力・ワールドメモリーを読む力。過去には、それぞれ違う時代にその能力者が現れているわ。偉人として歴史の教科書に載っている人もいる」

 例えば日本では卑弥呼や聖徳太子なんかもそうだ――と茜ちゃんは付け加えるように言った。

「私の持つ不干渉の力の様な特殊能力は、大体三歳頃に発現するの。おそらく、脳の容量の問題だと言われているわ。でも、ワールドメモリーの能力は別。完全に後天的で、しかもいつどうやって発現するかが分からない」

「確かに、春菜が予知夢の話をし始めたのも俺が記憶違いを起こしてからだったな。それまでは聞いた事も無い」

「参考までに、薫くんの能力はいつから有るのか教えてくれないかしら?」

 俺の場合は――

「それこそ、物心がついた頃からだと思う。ずっと記憶力は異常だから」

「なるほどね。前回の能力者も同じように語っているわ」

「前回の能力者? ワールドメモリーを読む力のか? 誰なんだ? それは」

「アルベルト・アインシュタインって人なんだけど、言っても分からないわよね?」

「馬鹿にしてるだろ? 小学生でも知ってるよ」

「あれ? 有名なんだ、彼。その人が日記に書いていたのよ。ワールドメモリーについて、そして、その力を使って知ったことを」

「なんだか、話が大きくなりすぎて頭が痛い」

「それまでもワールドメモリーの能力者がいたみたいだけど、記録には全く残っていなかったの。それを、アルベルトは自らの能力で記録し、誰にでも読めるように本に残したの。結局、公開されることはなかったみたいだけど」

 なぜそんな情報を茜ちゃんが持っているのか……。そんな疑問も当然あるのだが、それより――

「そこに書いていなかったのか? 他のワールドメモリーの能力について」

「そこに書かれていたのは、過去に存在した能力だけよ。誰がどこでどんなふうに使ったとか――そのくらい。その時代に、他の二つの能力者は現れなかった訳だし」

「でも、その話を聞いて希望が出たじゃないか。俺がワールドメモリーを読んで解決策を探ればいいだけだ」

「悪いけど、それはちょっと無理だと思うわ。彼だからワールドメモリーの深遠まで読み取れたの。それでもすべてではない。ワールドメモリーの予測能力を使わずに未来予知に近いことが出来た彼でさえ。……薫くんには――。ごめんなさい」

 それは……残念だけど、認めざるを得ないのかもしれない。

「でも、試すには試してみて。可能性がゼロではないのだから」

「ああ、挑戦はしてみるよ」

「話を変えるわ。私の推測では玲菜って子はまだ能力は発現していないんだけど……薫くんはどう思う?」

「そうだな……今までの玲菜が過去を変えたっていう記憶はない。俺の記憶の限りでは。でも、証拠が無いから証明とまではいかない。分からないな。でも、なんで茜ちゃんはそう思うんだ?」

「アルベルトの日記にもあったんだけど、過去を変える能力は、一度変えた過去より以前の過去は変えることが出来ない。そんな制限がある。薫くんが大きな違和感を感じる程世界が変わっていないのだとしたら、幼い女の子が願うような事は起きていない。この世界に魔法少女もいなければ怪獣もいない。なら、比較的現実的な考えを持ってから覚醒した能力だと思うの。だから、中学二年生以降。早くて最近。それか、高校に上がってからだと思うわ」

「茜ちゃん……。中学二年生が、非現実的な過去を願うなんて、単なる思い込みだと思うけど……」

「……」

 少し的外れな感じはあるが、茜ちゃんなりに考えてみた結果らしい。

「まあ、まだ能力を発現していないという点に関しては同意見だし、自信持とうよ。そうだ、その能力が発現しないように仕向けるのはどうかな?」

 若干唖然としている茜ちゃんに対して、我ながら名案と思う作戦を提案してみた。

「問題は、発現の原因が分からないということだけど……」

「そ、そうね。説得してみるのはどうかしら」

「今、明らかに適当に言ったよな?」

「そんなことないわ。本人の意思で能力の発現を取りやめられる可能性だってゼロじゃないもの。特殊能力だって、後天的に他人に付与させるなんてこともできないわけじゃないし」

 そこまで言った茜ちゃんは、何か思いついたように右手を顎に当てた。

「もしかしたら、未来を変える能力自体が誰かから与えられるのかも……」

 自問自答で考えをまとめようとする茜ちゃん。

「良い考えかもしれない。私は、玲菜って子に能力が付いた後、逆にその能力を引きはがす方法を考えてみるわ。薫くんは、その子が能力を望まないようにどうにか説得してみてちょうだい」

「え? 本当にそんな作戦で行くのか? 成功率は有るのか?」

「成功率は……ほぼゼロって言っていいわ」

 ならもっと他に……。

「ただ、このまま百パーセント宮内さんが消えるよりはいいわ。――次は私が薫くんを助ける番だって言ったでしょ? 全力を尽くすわ」

「そうか――なら、俺もその作戦に乗るよ。でも、他にもできることがあれば常に動く。あと二日しかないんだ。体が壊れるまで、頭が破裂するまで全力で春菜を助ける!」

 それから二人して、午前中を余すこと無く使い、玲菜がどうすれば能力を手にしたくなくなるのかについて話し合った。――時計の針が全て上を向き、昼休みになる。

「今更だけど、春菜が未来予知をした内容を俺達が変えるなんてことが本当に可能なのか?」

 ワールドメモリーを使って未来を演算しているという、未来予知ならぬ未来予定。

「俺達の行動や考えだって演算の範囲内なんじゃないのか?」

 俺は諦めたというわけでは無いが、思いのままに言葉にした。

「確かにそうなのかもしれないわ。でも、私が思うに未来を変えることは十分可能よ。なぜなら……」

 椅子に後ろ向きに座った茜ちゃんは、ゆっくりと俺を指差した。

「なぜなら、イレギュラー中のイレギュラー。ワールドメモリー自体を読むことが出来る人間が動くのだもの」

 ワールドメモリーが書き換えられても不思議ではない……茜ちゃんは、そう付け加えた。

「私達は今、地道にバタフライ効果を作ろうとしているに過ぎないわ。ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを起こす可能性なんて分からないけれど、目的を持った行動は蝶の羽ばたきとは比べ物にならない影響力を持つはずよ」

「そう……だな。でも、バタフライ効果の本質って――」

 蝶の羽ばたきがトルネードを起こす可能性についての考察の肝となっているのは、羽ばたきそのものではなく――

「大きな他の流れを若干ズラすことで、何処かに力が収束してしまうことだよな? 力点から作用点までの間接的なエネルギーの連動の中の一つに蝶の羽ばたきが含まれる……」

 まるで、煩雑に並べられたドミノの向きを少しずつ変えるかのように――。ならば――

「その大きな流れは、何なのだろう。玲菜が能力を得ることがなくなるための大きな流れ――」

「やっぱり、彼女の感情を大きく動かす出来事は、最低でも起こさないといけなくなりそうね」

「玲菜の能力を発動させないために使う大きな流れっていうのは、そうなるのか……」

 まあ、妥当なところだろう。使うという表現があまり妥当とは言えないが……。

「今日は早退するよ。確か、玲菜の学校は終業式で早く帰ることになっていたから」

 一秒でも早く――

「あ、会ったら確認して欲しいことがあるの」

 荷物をまとめ始めた俺を茜ちゃんが引き止める。

「玲菜って子に会ったら、まずワールドメモリーシンパシーが使えるかどうかを試して欲しいの」

 ああ、なるほど。ここでワールドメモリーシンパシーが使えてしまえば、俺の説得自体が無意味なものになる。早めに無理な行動が分かれば、軌道修正も可能――か。

「分かった。すぐに試してみる」

 昨日の話でもすれば良いだろう。――俺の記憶は長く見ると体力が奪われるから、念のため短めに話してみよう。

「それなら良いわ。私は、またツテを頼ってワールドメモリーの能力を剥ぎ取る方法を探すわ」

「ところで、茜ちゃんが言うところのツテってどういう人達なんだ?」

 先程から聞いている限り、茜ちゃんがこれだけの知識を得る手段となっているツテなのだ。路地裏の怪しい人達なんかも絡んでいそうだ。おそらく、それらの知識の多くを邦男さんから得ているであろうことは予想できる。

「だいたい予想はついているとは思うけれど、基本的には邦男さんよ。それと、私は邦男さんと長い付き合いだから、色々な国家の重鎮なんかも私の情報源になってくれるのよ」

「情報料とかは請求されたりしないのか?」

 もう、総理大臣だとか大統領だとか言われてもあまり驚いたりしない。なんと言うか、当然の世界のような気がしてきた。どうでも良いような金の話をしてしまうくらい動揺は無い。もう何を言われても驚かない自信がある。動揺しないと言い切れる。

「身体で払っているわ」

「う・そ・だ・ろ!?!?」

 ものすごく動揺した。

「何かおかしいかしら? 女子高生が貴重な財産として身体を売るのよ? 相応の対価じゃないかしら? むしろ安いわ。お安い御用よ」

「いや、情報の重さとしては安いのかもしれないけれど……。個人的には――やめて欲しい――かな」

「あら、心配してくれてるの? 大丈夫よ。知っての通り私は安全性を保つ手段があるから。超能力犯罪の取り締まりに体を張るくらいなんてことないわ」

「そっちかよ!」

「もしかしてエッチな妄想しちゃったのかしら? 今はそんなことしないわよ。でも、薫くんには只今無料体験実施中よ?」

「今は、そんな話をする気分じゃないな」

「そんなことをする気分になったらいつでも呼んでちょうだい」

「ならないよ」

 多分。

「じゃあ、俺は家に戻るよ。先生とかには適当に言っておいてくれ。そういう事は得意なんだろ? その能力とかを使って」

「任せておいてちょうだい。でも思うんだけど、誰の記憶からも消えてしまうことが分かっている世界で体裁を整える必要なんてあるの?」

「確かにそうなのかもしれない。けれど、俺の記憶には残るんだよ。パソコンのデータを一度消しても復元できるみたいに俺の中には消された記憶が残る。春菜に協力をしてもらえば、それを他人とだって共有できる」

「そんなことしなければいいじゃない。薫くんが望まなければ、誰にもばれることはないのだから。考えてみれば、何をしたって一週間後には無かったことになって許されてしまう自由な世界なのよ?」

「でもそれはやらないと決めているんだ。誰が許すとか、誰が覚えているとか、そんな理屈じゃないんだ。ただ」

 俺は一息だけ入れた。少しキザなのかもしれないと思った。

「一週間後の自分が許してくれないと思うから」

「そう。そうね。罪は他の誰でもなく自分が背負うものだものね」

「それに、俺が経験した一週間を無かったことにしたくないって気持ちもある」

「薫くんがそういう人だから、私も喜んで性奴隷に立候補できるのよ」

「下ネタもほどほどにしておきなさい。そんなことをしなくても茜ちゃんが俺の記憶から消えることはないんだから」

「別に、忘れられるのが怖いとかそんな理由じゃないんだから。ただ面白いから言っているだけなんだから。でも……ずっと自分の事を覚えていてくれる人がいるって、すごく幸せなことね」

「たまには可愛いことも言うじゃないか」

「惚れちゃだめよ?」

「俺が惚れているのは春菜だけだ。さて、時間がもったいない。もう行くよ」

 通学カバンを乱暴に掴んで教室から駆け出る。

「行ってらっしゃい」

 後ろから小さく囁かれた言葉に手を振り、走る。今回のキーパーソン、玲菜が帰ってくる宮内邸へと。

 家に着くと、すでに玲菜の靴が揃えてあった。時間を鑑みるに、玲菜も終業式が終わってすぐに帰ってきたのだろう。俺は、鞄だけ寝室に置き、玲菜の部屋に向かう。――昨日の今日で若干気まずくはあるのだが、そんなことを言ってはいられない状況なのだ。

「玲菜? ちょっと入っていいか?」

「ひゃっ! 薫お兄ちゃん!?」

 あからさまに驚いた声を上げる玲菜。玄関を開けて入ってきた音に気が付かないほど何かに夢中になっていたのだろうか?

「ちょっと待って! いいって言うまで開けちゃダメだから!」

 部屋の中から、何やらバタバタと音が聞こえる。バタバタと言っても、ドミノをしているというわけではない。

「いいよ!」

 そう言ってドアを開けてくれた玲菜。制服は着替えていないようだった。昨日のことは心にしまってくれているみたいで、表情に不自然さはない。

「ちょっと話しないか? 二人で」

「薫お兄ちゃん、学校はどうしたの?」
 
 いきなり痛いところを突いてくる。さて、この展開は予想していなかったぞ。どうしようか……。

「先生に事情を話したら、午後からなら帰っても構わないって言ってくれてね。普段真面目な分、こういう時は融通を利かせてくれるみたいだ」

「ふーん」

 じっとりと絡みつくような疑いの眼差し。これはどうにかしないといけない。

「ところで、玲菜はさっきまで何してたんだ? 妙に焦っていた感じだけど?」

「そ、それは言えないかなー? お、女の子には色々と秘密があるもんだし?」

 何やら突っ込まれたくない事だったみたいで、顔を赤くした玲菜は、俺のサボりの件から思考を外してくれた。

「いいから、入って。とりあえずベッドにでも座っておいて」

 心なしか、玲菜の口調が春菜のような気取らない喋り方になっている気がする。言われるがままにベッドに腰かける俺。そして、すぐ隣に腰かける玲菜。――近くないか?

「で、話ってどんな話かな? いつもの面白くない話? それとも、お姉ちゃんのこと?」

 ああ玲菜よ、俺の話をいつも面白くない話だと感じていたのか……。素直に育ったものだ。

「どっちかと言うと面白い話かな?」

「そんなものは選択肢にありません」

「普段と違って今日は辛らつだな」

「そう? いつも通りよ、いつも通り」

 足をバタバタと振りながらとぼける玲菜。

「じゃあ、いつも通り面白い話をするか。玲菜、たとえ話だけど、もしもタイムマシンが手に入ったら何がしたい?」

 唐突な質問。だが、普段から玲菜に話して聞かせている面白い話と言うのはいつもこういった唐突な話題振りから始まる。――玲菜は面白くない話だと思っていたみたいだが……。

「そうだな……。過去の有名人に会いに行ってみたりしたいなー。今はいないロック歌手のライブとか行ってみたいし」

「過去を変えようとか、そんなことは考えないのか? 例えば、俺なんか今の情報を過去に持っていって、万馬券とか株の高騰でぼろ儲けしたいとか考えちゃうんだけど」

「薫お兄ちゃんってしょうもないね」

「いやいや、誰もが考える夢だよ? これは」

「お金なんか、今からでも稼げるものをわざわざ過去に行って稼ぐ必要なんてないよ。過去に行けるなら、過去でしかできない事をするべきだよ。万馬券は過去に行かなくても当たるかもしれないんだから」

 いやいや、当たらないよ。

「なるほど、それで玲菜は今は会うことが出来ない人に会うって選択肢を選んだわけか。それなら俺は、小さい頃に亡くなった両親に会いたいな」

 この台詞は、茜ちゃんと考えたシナリオの中の一つだった。もちろん嘘ではない。嘘ではないのだが、今俺がしみじみと話しているほど深刻な考えと言うわけではない。

「そっか……玲菜の中では、薫お兄ちゃんのお父さんとお母さんは、玲菜たちと同じって感覚だったから。――本当のお父さんとお母さんは別にいるんだよね」

「そうだな」

 当たり前のことだけど。俺自身も忘れてしまいがちなんだけど。

「死んでしまうこと以上に取り返しのつかない事って無いのかもしれないな。本当に過去に戻れるのなら、俺はあの事故を起きないようにしたいかな」

「でも、そうしてたら、薫お兄ちゃんは今頃海外に行っていて玲菜たちとは離れ離れになってたかもしれないよ?」

「それでも、今玲菜が言った言葉を借りるなら、今後玲菜たちに会える可能性はあるけど、死んでしまった両親には会えない。それなら、両親を選ぶべきだろう。しょうもなくはない薫お兄ちゃんならそうするのかなって」

「そう……だね。二度と会えない人っていうのは嫌だもんね」

「例えばだよ? 例えば、春菜がこのまま帰ってこなかったりしたら玲菜はタイムマシンを使って春菜を探す?」

 この質問は、玲菜がワールドメモリーを書き換える能力を手にしたときに、春菜を救うのかと間接的に聞いているようなもの。ここで玲菜が助けるという選択肢をとるのであれば、まだ春菜が助かる希望がある。

「もちろんだよ。春菜お姉ちゃんがいないままだなんて、玲菜には絶対に耐えられない。最優先事項だよ」

「そうか、それは良かった」

 玲菜は首を傾げていた。質問の意図も、俺が何に安堵したのかも分からないからだろう。……当然ではあるのだが。

「じゃあ、次は玲菜からの例え話ね」

「ああ、玲菜の番ね」

「助けないと崖から落ちてしまう大切な人が二人います。片方を助ければ片方が助かりません。さてどちらを助けますか?」

 その例え話は、以前春菜の口から聞いたものと同じだった。あの時は、自分よりも玲菜を選べと言うために使っていたのだが、玲菜の場合はどうなのだろう?

「その二人って言うのは?」

「それは薫お兄ちゃんの中で勝手に想像して。それで、そのどちらかを助けたところで、助けられた側はどんな気持ちになるのかな? 生き残って嬉しい? その後、助けてくれた人と幸せになれる?」

 そんな事まで考えたことはなかった。どちらかを助けてどちらかが助からない。片方が不幸で片方を幸せにする。ただそれだけの思考パズルではなかったのか?

「もし、玲菜と春菜お姉ちゃんが崖から落ちそうで、誰かが助ける立場にいた時。お姉ちゃんならすぐに崖から飛び降りると思うの。自分以外の方を助けさせるために。多分、それが玲菜じゃなくても」

 ああ、確かにそうだろう。俺もそう思う。

「今の状況が、もしかするとそうなんじゃないかって……。今、お姉ちゃんは崖に落ちていっているところなんじゃないかって――」

 暗い顔をした玲菜は、一呼吸おいて続けた。

「そんなので助けられても、全然嬉しくない。幸せになんてなれない!」

 幸せになれない――そう言った玲菜は、俯き……また昨日のような罪悪感に苛まれている顔をしていた。

「俺に任せろ。絶対に二人とも助けてやるから」

「うん」

「何かを助けるために他の何かを犠牲にするなんて間違ってる。それは結局のところ三択の選択肢の内の二つを失うことだから」

「それってどういう……こと?」

「Aを助けてBを見捨てるか。Bを助けてAを見捨てるか。AとBを助けてルールを壊すか」

「そんなっ……そんなのずるいよっ!」

「ルールは――人を幸せにするためにあるんだ。厳密に言えば、誰かを――ということになるけど。今の玲菜の思考ゲームは、誰も幸せになることが出来ないように決められている。そんなもの、ルールとは言えない。破って当たり前だ」

「じゃあ、どうやって二人を助けるの? どうやってルールを破るの?」

「そうだな。こういう方法はどうだ? 例えば――」

 そうして、俺と玲菜は他愛のない話で一日を潰した。もう、俺が焦る必要は無い――そう確信したからだ。
 確実に玲菜が能力を発動できない状況にする方法……。茜ちゃんと話をして、お互いに自信をもっている方法だ。しかし、説得をするという方法よりも実際に動くことはなく、不安が残る手だったのだ。その手段とは、記憶を保ち続けている俺が将来玲菜が願いを込めた時間よりも後で玲菜に新たな願いを頼む――というものだ。
 春菜が死んでしまった世界を長く経験しているはずの玲菜に、春菜を生き返らせる方法を教え、強く願わせる。例えば、病院で死んだ春菜が奇跡的な蘇生をとげる――とか。何でも良いのなら、偶々現れた人を生き返らせることのできる能力者が春菜を生き返らせるとかでもいい。
 ここで、一つ問題がある。未来の玲菜が春菜のいない世界を経験していなければならないということだ。今までも大きな疑問が一つあった。願いが叶って満足しているはずの玲菜が、未来の願いを込めた時間軸に到達した時、同じ願いをしなければ願いが叶わず矛盾が生じるのではないのか? ということ。
 そこには、茜ちゃんの仮説が有力となっていた。そもそも、春菜の未来視自体が『今』の情報だけを元に予測しているという説だ。だからこそ、春菜の未来視は玲菜が未来で願った瞬間に途切れるのだ――と。願わなくても望んだ未来に繋がる『今』になってしまっていれば、願う必要が無くなるだけ。
 その仮説を踏まえた上で、確実に未来の玲菜に春菜のいない人生を歩んでもらわなければならない。かなり残酷な話になるが、これだけは俺も頭を痛めるところだが、どうにか気持ちと信念に蓋をしてでも実行しなければならない。
 未来の玲菜がどういう経験をするかということには、大きなキーアイテムが存在する。

 ――遊園地での写真だ。

 変わってしまった過去の記憶を保持するかどうか――。この場合、春菜の死が確定してしまった後に玲菜から写真を奪い捨てることで予定した未来に繋げられると思われる。春菜が死に、玲菜の記憶が保持されない瞬間で未来を予測するとすれば、そこには確実と言ってもいいほど春菜を生き返らせたいと願う玲菜がいるはずだ。
 それは今日の会話で確信した。
 後は、春菜の未来視で出てきた怪しげな男をどうするか――。それが約十年後までの長い課題となりそうだ。
 明後日、俺は玲菜のポーチから写真を奪い取り、破り去る。それだけで、残りは未来の俺の仕事。大丈夫だ……信じろ。

 そして、二日後――――

 俺は春菜の写真が飾られた仏壇の前で目を覚ますことになる。
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