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ワールドメモリーを読むと言うこと
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翌朝。いや、朝という表現は正しくないのかもしれない。俺は夢を見た。それは春菜がよく見る未来の夢のようなものだった。違う点を挙げるとするならば、俺が見た夢は過去を見るものだったという所だ。もちろん共通点も有る。それは、夢の視点が玲菜のものだったこと――
場面は宮内家に変わる。リビングにいるのは玲菜とお母さんだ。庭に植えられている木の低さ、モデルチェンジする前のテレビ――おそらく玲菜が小学二年生の頃だろう。
「玲菜、お母さんはあなたのことが一番大切よ。何も無理したりしなくて良いのよ。何もできなくても良いのよ。お母さんを頼ってくれて良いのよ」
お母さんは、玲菜を強く抱き締める。
「玲菜ー! 遊びに行くよー!」
聞き慣れた春菜と俺の声がする。家にいる玲菜を誘いに来たのだろう。
「いってらっしゃい」
「うん!」
元気に走り出す玲菜。俺と春菜について庭にある倉庫に向かう。自分の記憶を探って思い出したのは三人で裏山に遊びに行った時だった。秘密基地を作ろうと息巻いて出かけた結果、途中で大人に見つかって中断になったのを思い出す。
俺と春菜は大きなスコップを担いでいた。玲菜も同じスコップを担ぐが、重たくて足がふらつく。
「玲菜は無理しちゃダメだよ。ほらこっち」
そう言って俺が手渡したのは、小さなスコップ。
「ありがとう!」
『薫お兄ちゃん優しいなぁ。学校の子達はみんな玲菜にさせるのに』
そう玲菜の心の声が聞こえた。いじめ……と言うことはなかったと思う。むしろ、率先して学校で働いているイメージだった。しかし、今の声を聞くと、いつも無理して頑張っていたのだと――単純にそう思えた。
俺と春菜の歩く後ろ姿を最後に場面が移り変わる。餅を引き伸ばして混ぜるかのように空間が歪んだ。視界が固まってくると、そこは中学の教室だと分かる。今度は俺も全く関わりがない場面。自分の記憶には存在しない情景。
「あなたが宮内さんの妹さんね。やっぱりお姉ちゃん達に似て優秀そうね」
そう言ったのは中学の先生だった。確か、俺が中学三年の時に玲菜の担任になっていた記憶がある。何の他意もないまっすぐな言葉だった。
「ありがとうございます。姉に追い付けるよう頑張ります」
礼儀正しく俺の口から、いや玲菜の口から返答がされる。
俺はその言葉に若干の違和感があった。いつも甘えたような口調で話しかけてくる玲菜。そんなイメージしかなかった俺は、そのかしこまった喋り方に引っ掛かるような感じがしたのだ。
「部活はやっぱり陸上部に入るのかしら? 先生期待してるわよ」
「部活は……まだ考えていませんが、充実した中学生活になるようにしたいと思います」
「そう。先生、あなたみたいな生徒を持てて幸せだわ。頑張ってね」
「はい」
まるで優等生の見本のような返事。自分では見えないが、常に笑顔で話しているのが分かる。その返事を聞いて先生は満足したのか、玲菜の元から歩き去っていく。一方の玲菜は、先生の姿が見えなくなったところで自分の席に座り頭を抱えた。
『またお姉ちゃん達の話……。もううんざりなのよ。どうせまた、期待外れって分かった途端に態度が変わるんでしょ。教員なんて、みんなそう』
頭の中で聞こえたそれは、暗く重く苦しい気持ちだった。
姉二人と比べられて辛いだろうことは薄々分かっていた。教員だけに限らず一目置かれる優秀さを発揮する若菜さん。元気で人当たりが良く、スポーツで結果を出し続ける春菜。そんな二人と比べられることに苦痛を感じないはずがないとは分かっていた。しかし、実際に玲菜の想いを聞くことで自分の考えがまだまだ甘かったのが分かる。
その後、また空間の歪みと共に時間が移り変わった。
「それでは投票結果により、学級委員長は宮内さんに決定します」
先生が玲菜の名前を読み上げると、玲菜は席から立ち教卓まで移動する。
「これから一学期間、よろしくお願いします」
クラス中から拍手が沸き上がる。と同時に玲菜の心に怒りが沸き上がる。自分の感情ではないが、この感情は紛れもなく怒り――
『私のことを何も知らないくせに。何が投票よ。新入生代表を言わされた私に票が集まるに決まってるじゃない』
玲菜の心は言葉や表情とは裏腹に拒絶を示していた。
舞台は目まぐるしく変化する。まるで時間を旅行しているかのように。まるでハイライトを見るように。今度は、教室の席に座っているところだ。教室の黒板には……丁度先週の日付が書かれている。
「宮内さんさぁ。お姉ちゃん超頭良いんでしょ? ちょっとこれやってくれるように頼んどいてよ。塾で課題貰ったんだけど難しくってさぁ」
明らかに柄が悪い。あからさまにたちが悪い。玲奈はそんな女生徒達に絡まれていた。挑発的な口調で玲菜を脅すように。
「別にあんたがやってくれても良いんだけどさぁ。なんつーか、無理っしょ? 宮内さんってあんま勉強できないし?」
返事も聞かないまま塾の課題とやらを玲菜の机に置いて去っていく女生徒とその取り巻き。ぎゃははと不潔な笑い声を上げている。
『言えるわけないじゃん。頼めるわけないじゃん。これ以上お姉ちゃん達に迷惑かけられないよ。これ以上不出来な私を見せることなんてできないよ』
内心呟く玲菜は強烈な劣等感に苛まれていた。いじめともとれるクラスメイトからの当たりを受けても、辛さや苦しさや怒りなど芽生えず。ただただ若菜さんと春菜に対する惨めな気持ちだけが募っていた。
何もできない自分の無力感を感じていただけだった――
「――――」
その夢を最後に、俺は眠りから覚めた。夢にしてはやけにはっきりと内容を覚えている――
ワールドメモリーなんて変な能力を持っていなければ、単なる夢として終わらせていただろう。しかし、春菜の未来を見る力の件もある……。現実である可能性はゼロじゃない。かといって、すぐに自信を持って過去を見たなんて言えるわけでもない。確認はしておくべきか……知らない振りを通すべきか……。
「悪いもの見ちゃったな――」
確かめもせずに憶測で新しい能力が増えたと結論付けても良い。そうすれば玲菜に探りを入れる必要もないし、嫌な思いをさせる可能性もない。しかし、能力が能力だし実際にどれだけ正確に見えてしまっているのか確かめておく必要はある。これは玲菜の未来にも少なからず関わってくるだろうし……。玲菜にできるだけ辛い記憶を思い出させないようにどうにか上手く確かめるというのがベストな訳だが――
「はぁ……聞いてみるしかないか」
とりあえず、玲菜に確かめるのは後日にでもしよう。そう決めて、朝食を済ませて身支度を終える。そして学校へ行こうとリビングで立ち上がると、家のチャイムが鳴り響いた。……一体こんな朝早くに誰だ? 春菜は朝練があるから違うし――なら、雄介に決まっている。だが俺は玄関を開けると、予想外な来訪者に驚かされた。
「おはようございます! 薫お兄ちゃん!」
そう、そこにいたのは玲菜だったのだ。玲菜と話をする覚悟はまだ決まっていないし、どうやって確かめるかなんてもちろん頭にない。俺はできるだけ動揺を悟られずに玲菜と話をするしかなかった。
「おはよう玲菜。こんな時間にどうしたんだ?」
「えへへー。今日は薫お兄ちゃんと登校しようと思って来ちゃった」
本来なら、早くても明日こちらから玲菜に会いに行く予定だったのだが、なんと言うタイミングの悪さだろう。
「そうだな。道も途中まで一緒だし、たまにはそういうのも良いな」
「そうそう! たまには朝一番から薫お兄ちゃんの面白い話を聞きながら登校するのも良いなって」
「そうそう、面白い話を聞きながら――って、またやるのか? いつもそんなに面白くないだろ?」
「確かに面白くないかもしれないけど、玲菜は薫お兄ちゃんの面白い話大好き!」
この子、面白くないって認めてきたよ。前回上がったハードルも今や地面に付く勢い、いや寧ろ地中に埋まっているくらいだな。
「仕方ないなぁ……。玄関で話すのもなんだから、歩きながらにするか」
「うん!」
「確か、あれは一昨年の話だな」
「一昨年と言えば、薫お兄ちゃんが今の玲菜と同じ中三の時ね!」
「そうそう。丁度その頃だな、俺の友人に好きな人ができた」
「なるほど、薫お兄ちゃんはその友人さんの恋愛相談を受けた訳だ」
「そうなんだ。だけど、単なる恋愛相談じゃなかったんだ」
「……と言うと?」
「その友人は、まずラブレターで想い人を呼び出したかった。でも、その友人は字が汚いことで有名だった」
「確かに汚い字で書かれたラブレターは、お世辞にも好印象は持てないかも……」
「友人もそうやって悩んでいたわけだ。そこで、友人が思い立ったのは代筆でラブレターを出す事だった」
「なるほど……。そこで白羽の矢が立ったのが薫お兄ちゃんだったんだ! 確かに薫お兄ちゃんの字は綺麗だよね。ザ・ゴシック体って感じで!」
「それは誉められていると受け取って良いのか?」
「もちろん! ゴシック体なんて、書こうと思って書けるものじゃないよー。『ザ』が付く事で更にその代表を飾っているようなものです」
「今回は妥協して、誉めてもらったことにしておこう」
「うん! まんまと誉められてやってください」
「その、まんまと嵌められてやってください――みたいな言い回しはやめろ」
「やだなぁ薫お兄ちゃん、そんな他意は無いよ。それより続き続きっ!」
「はいはい、話が脱線しかけたな。そう、俺が友人の代わりにラブレターで呼び出しの文章を書いた。差出人不明で時間と場所、それと伝えたいことがありますとだけ書かれたラブレターを朝に下駄箱へ投函した」
「それだけじゃ、告白されるとまでは分からないよね?」
「ハートのシールで封をしておいた」
「さすが芸が細かいっ!」
「当たり前じゃないか。俺を誰だと思ってるんだ? しかし、問題があった。俺の字体が思いの外有名だった事だ」
「つまり、代筆がバレたと?」
「いや、代筆と言うか俺が書いたと言うことがバレた。が、そこまでは許せる。その後がまずかった」
「何があったの?」
「手紙を受け取った女の子が、俺の席にラブレターを叩き付けて言ったんだ『伝えたいことがあるなら、今ここで言いなさい』と」
「伝えたいことがあったのは友人さんだから、薫お兄ちゃんは何も言えないね……」
「そこで俺は女の子の迫力に押されて言っちゃったんだ。伝えたいことがあるのは俺じゃないって」
「突然そんなことを言われた女の子は困ったんじゃないの? どういうこと? って」
「いや、その女の子は困るなんてことはなかった。頭の回転が早かったからな。でも、それが仇となった」
「どういうこと?」
「間接的な呼び出し方法ですら他人にやらせるなんて、応じるわけないじゃない! バカじゃないのっ! そう俺に言って去っていったんだよ。ちなみに俺の隣の席に座っていた友人はこの世の終わりみたいな顔をしてた」
「多分、そのバカってセリフは薫お兄ちゃんに対して言ったのだと……」
「え? どういうこと?」
「面白い話と言うより可哀想な話……。色々な意味で」
「面白くなかったか……そう……だな」
実のところ、面白い話をすることが目的で話したエピソードではなかった。だからこそ、あまりウケなくてもショックは少なかった。――少なかった。
「ところで、玲菜は他の人に手紙の代筆を頼む奴についてどう思う?」
「良いとは言えないけど、頭ごなしに悪いとも……言えないかな。自分の苦手分野を誰か得意な人にしてもらうって言うのは賢いやり方だと思うし」
「その友人は、客観的に見て告白を失敗したわけだけど、それでも賢いやり方だと思う?」
「友人さんは、運とタイミングと相手が悪かったんだと。その方法なら、告白まで持ち込むくらいは可能だったんじゃないかな? 付き合えたかどうかは知らないけど」
「なら、ついでに聞くけど――宿題とかを他人にやらせる人って、どう思う?」
俺の言葉を聞いて固まるように立ち止まる玲菜。その反応を見てほぼ確信する。今日の夢が現実だったという事を。いや、まだ百パーセントとは言い切れないか。
「さあ、どうかな? 勉強は自分のためにやるものだから、他人にやらせるのは無意味だとは思う」
「なら、頼まれた側はどういう気持ちなのかな?」
「……能力を認めて貰えたのなら、多少は嬉しいと思うかも。でも、そうじゃないなら、辛いだけじゃないかな?」
「断る事って難しいのかな?」
「さあ。その人のキャラクターによるんじゃないかな? 演じてるキャラクターによって対応のしやすさも変わるし」
「演じてるキャラクターか……」
玲菜は、俺たちの前とは違って学校では真面目なキャラクターを演じている。学校とは違って俺たちの前では素直で可愛らしいキャラクターを演じている――
どちらが本物でどちらが偽物と言うわけではない。どちらも玲菜なのだろう。しかし、本当に玲菜が幸せに感じるキャラクターと言うのはどれなのだろう? 一番無理をしていないのはどういう瞬間なのだろう――
「玲菜は――」
「私は! 薫お兄ちゃんとこうやって少し真面目な話をしているのも楽しいですし、普段優しくされて甘えてしまっている時もとても幸せに思います。学校で頼られたりするのも嫌いじゃありません」
俺のセリフを遮って出てきた言葉は、とても。とても前向きな発言だった。
「でも本物は、もっと暗いんです。黒いんです。でも、それを言葉とか態度に出したくなくて。でも、嫌な感情を持っていることを誰かには知っていて欲しかったりもして。でも、暗い雰囲気になるのが怖くて。でも――」
何度も『でも』と繰り返す玲菜は、自らの中で葛藤していることがよく分かった。楽しい空気の中でも嫌な事に嫌だと答える事は難しい。みんなの為と思うと、ついつい自分の気持ちを抑えてしまう。それは俺にだって分かる。
「俺にも、その気持ちは分かる。多分みんな分かると思う。だけど、玲菜がどれだけ沢山抱えているかまでは誰にも分からない。どこまで我慢できるかも分からない」
玲菜は静かに俺の言葉に耳を傾けていた。
「だから、いつでも言ってくれ。話……聞いてあげるから」
「はい!」
いつもの笑顔で元気に返事をした玲菜。それでは、と言って道を別れた時には、何だか吹っ切れた顔をしていた。おそらく、本音を言えていたからなのだろう。初めて玲菜が自分のことを『私』と言っていたくらいだ。
それからしばらく歩き、高校近くの信号で止まっていると、玲菜からメールが届いた。俺と春菜と若菜さんに宛てて。
『明日、友達と勉強会をしようと思ってるんだけど、みんなにも教えてくれたら嬉しいです』
一件落着……かな? これで、夢が現実だったことも確実と言って良いだろうし、能力の件は学校に着いてから茜ちゃんと雄介にでも相談してみるか。
信号が青になり、横断歩道を渡ろうとしたところで聞き慣れたサイレン音が近付いてきた。 近くには救急病院があるため、嫌でも聞き慣れるのだ。そう、救急車のサイレンは。赤信号も問答無用で直進していく救急車。方角からして病院に戻っていくところなのだろう。
……救急車を見ると思い出す。幼い頃に事故に合ったことを――実際に記憶があるわけではないが、入院していた記憶が呼び起こされる。一週間意識が戻らず、意識が戻った時には両親がいない――あのすっぽりと何か空洞ができたような感情が――
「あっ、また赤になったよ」
救急車が通り過ぎて、気が付いた時にはまた信号が赤に。まあ、たまにはのんびり学校に行くのも悪くないかな。待つというのは嫌いじゃないし。しかしそれも、あまり長く待つという経験をしたことがないからなのかもしれないな。なにせ、あいつのもっとうは『昨日の自分の前を行く』だったし。……部のスローガンだったか?
学校に着き、下駄箱で靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。
「おう薫。今日はちょっと遅めの登校じゃねーか」
「遅めって言ってもまだホームルームまで五分はあるぞ。それに、雄介よりは早い」
「ははっ! 確かにそうだ。それよりどうだ? みんなで思い出話語り合ったのは楽しかったか?」
何だか二・三日前の出来事みたいに感じるが、良く考えてみれば昨日の事か――
「ああ。知らないことばっかりで新鮮な気分だったよ。今まで自分だけ違う世界にいたみたいな寂しさとか戸惑いとかも、あれで完全に無くなったな。ありがとう雄介」
「なんだよ。気持ちわりーな。お前って恥ずかしげもなくそんなこと言うキャラだっけか?」
「感謝されるときくらい素直に聞けよ。あと、春菜にもお礼言っとかないとな」
「お前、春菜にもさっきみたいなちょっと臭いセリフで礼言うのか? 言葉考えた方が良いぜ」
「臭いとか言うな。恥ずかしくなるだろ。それにまあ、春菜の奴はまだ朝練だろうから、お礼を言うのも放課後とかにしとくさ」
「それまで熟考だな」
「率直に昨日はありがとうって言うだけだよ。何も捻るつもりはない。第一、雄介には何も言うつもりも無かったんだがな。若菜さんの写真探ししてただけだし」
「ふふふ。今やそれどころでは無いのだよ。聞いてくれたまえ。詳細は機密事項だが」
「なんだよ」
「とうとう俺は若菜さんの物になったのだ! ……彼氏じゃないけど」
「いや、全くもって意味が分からない」
「つまり、俺は幸せと言うことだ」
「勝手につまらせるな」
俺がつまらない突っ込みを入れた頃。丁度教室に着いた。なぜか全員席についてひそひそ話をし、担任の山本が教壇に立っている。のんびり歩いていたせいか、たまたまか、俺達が最後だったらしい。もちろん朝練で遅刻常習犯の春菜の影はない。
雰囲気に呑まれた俺達は急いで席につく。席について茜ちゃんにおはようと挨拶をしたが、華麗に無視された。若干傷付く。
「えー。全員揃ったので今から大事な話をする」
8.変化は突然に
俺は走っている。もういつから息が切れているのか分からない。だが走り続けている。不思議と疲れは感じていない。日も昇りきっていないこんな時間に校外を走るということは、かれこれ冬のマラソン大会ぶりだろうか。
個人的にはマラソンは嫌いで、なかなか走る気にもなれない。もちろん走る側で嫌いと言うだけであって見る分にはそうでもない。しかし、なぜマラソンが嫌いなのか。俺は目的意識を持って最短で事を進めることが好きだ。マラソンはゴールという目的までを最短にする工夫が一切とれない。だから、競技として参加するのは好ましくない。陸上競技全般に言えることな訳だが……。
俺がバスケットをしていることも、その中でガードというポジションでパス回しに特化していることも――。つまるところ、結果を出すまで最短最速を工夫によって追い求めることができるからなのかもしれない。
そこが楽しい。予測出来ない先のことを予定通りに迅速に遂行出来ることが面白い。逆に、最短で進むことができると信じての行いが失敗した場合。改善策を考え、より効率的な方法を編み出す――それもまた楽しいのだ。
そしてマラソン、長距離を走ることが楽しいと思えない理由はゴールをした瞬間の高揚の少なさにある。達成感よりも先に終わったことへの安堵にも似た虚無感があるのだ。長距離を走ると虚無感がある。長距離を走り終えると負の感情が沸き上がる。
……こんなに長々と何が言いたいのかと言うと――。余計なことで考えを紛らわせていたかと言うと――
つまり、こういうこと。
今――
目的地である病院に到着した――
俺は手早く受付を済ませ、目的の病室のドアを開けた。病院なので当然だが、静まり返ったその空間が不安をかき立てる。走る自分の足音、荒い息遣い。音は他に無かった。
「はぁっ……はぁっ……」
声を出そうにもまともな言葉が出ない。今更だが、受付の看護師さんも良く案内できたと思う。
「はっ……、春」
「あら、早かったわね。ご飯にする? お風呂にする? それとも、た・わ・し?」
いつものイタズラな笑顔でベッドに横たわっていたのは、紛れもなく春菜だった。
「い……いや……。んっ……はぁはぁ。たわしって選択肢は……はぁ、ないから」
「あら残念。渾身のネタだったのに」
俺は黙って春菜を見た。いつもの様に、本当にいつもの様に笑う春菜だった。とてもトラックに跳ねられて意識を失っていたなんて信じられないくらいに――
「何か喋ってよ。ほら、玲菜に言うみたいな面白い話とかさあ」
何も変わらないテンションで、トーンで話しかけてくる春菜。
「しょうがないわねー。優しい優しい春菜様が話題を振ってあげようではありませんか。うーん……。そうだな……。あたしって綺麗?」
おそらく、置いてけ堀の怪談ののっぺらぼうかよ――そんなツッコミでも期待していたのだろう。そんな気楽なやり取りでもしたかったのだろう。
「汚いよ。お前は本当に汚いよ」
「あーひどーい! これでも乙女なんだからね。乙女心所持者なんだからね! 傷付いたー。あー傷付いたー」
「そんなんだから汚いんだよ。お前は……。その足――どうなったんだよ」
俺の目に映っているのは、強固に固められたギプスをはめられた足――試合で良いタイムを出す為、少しでも早く走る為にと朝から晩まで懸命に鍛えていた足を覆い隠す白――
「ははっ。バレちゃった?」
「笑うなよ」
「何で薫が泣きそうな顔がしてんのよー」
「お前が――笑ってるからだろ……」
「大丈夫、大丈夫だって」
「春菜、頭は大丈夫なのか?」
「失礼ねっ! 誰がバカよっ!」
「こんなときにふざけるなよ!! 頭に包帯ぐるぐる巻きにして!! 意識だって無かったって聞いて心配してるんだぞ!!」
「CTの結果はまだだけど、大丈夫よ。そろそろお母さんが戻って教えてくれるわ」
終始笑顔の春菜、そんな春菜の気遣いが逆に不安で仕方なかった。
「で、実際のところどうなんだ? CTの結果はともかく、足の方は分かるんだろ?」
やはりといったところか――。春菜は顔を曇らせた。
「単純骨折だってさ。綺麗に折れてるから後遺症も無いし、むしろ治ったら前より頑丈になるってさ。でも……」
俺は続きの言葉が分かっている。分かっているが黙って聞くことにした。
「全治六週間なんだって。早ければ一ヶ月でギプスは取れるけど、走れるようになるには二ヶ月は安静って言われちゃった」
「インターハイには出れないな……」
「ははっ! 笑えるよね。あんなに頑張ってたのに、運が悪いや。今までの幸運のツケが来たかな?」
「確かに運は悪い。でも、笑うことなんかできないよ。お前も笑ってないで、辛いなら辛いって言えよ。我慢するなって」
しかし、春菜は笑顔で首を振った。
「辛いのよりも幸せの方がおっきかったからいいんだー」
「はあ? 事故に遭って幸せなんか無いだろ。若菜さんと走る最後のインターハイだって楽しみにしてたじゃないか」
「確かにそれは残念だったけど……。ねえ、先月の雨の日のこと覚えてる? 薫にしか記憶が残ってない雨の日」
「ん? ああ、もちろん覚えてるよ」
傘を誰かに盗まれて、困っているところに春菜が居合わせたんだ。そして一緒に帰ることになった。
「あたしは、未来の玲菜が薫から聞いた話でしか知らないんだけど……。内容としては……ですね……。なんというか……やっぱり……ねぇ?」
ここはとぼけておいた方が良いのだろうか?
「今の春菜の記憶にないことは無かったことにできるんだけど……」
春菜は首をフルフルと振った。
「いいの! だったら分かるでしょ。あたしが何で今幸せなのか」
俺をまっすぐに見つめる瞳。つい照れ臭くて顔を背けてしまう。
「お母さん以外で一番初めに病院に駆け付けてくれたのは薫なのよ」
「そうか」
「だから……そういうことっ!! この話はおしまいっ!! あたしは、好きな人が幸せになってくれたらそれでいいの。それが一番幸せなの。だから……あたしの恋もこれでおしまい――」
意外な言葉に顔を向けると、当の春菜は顔を背けていた。
「さあ、あたしが元気なのが分かったなら、早く帰って。明日には退院だから」
一向に俺の方に振り返ろうとしない春菜。
「ほら、午後の授業くらい出なさいよね」
「あ、ああ。うん、分かったよ」
これ以上ここにいないで欲しいという雰囲気を感じとれないはずもなく、俺は病室を出ることにした。
「じゃあな、明日学校で待ってるからな」
「うん。午後からだけど、ちゃんと行くから」
病院から出て、ゆっくりと帰路に付く。その際、ずっと頭のなかで流れていた映像は、あの雨の日のことだった。
春菜の傘に入れてもらい、家に帰る途中。俺は密着する春菜の肩に照れてしまい、濡れる事も気にせずに離れてしまう。しかし、春菜は離れる俺を腕を組むという荒業で阻止したのだ。そして問題はこの後。お互い無言のまま赤信号に捕まってしまい、そこで春菜に言われたのだ。
インターハイが終わったら、付き合って欲しい――と。
ビクビクしながら俺の事を見上げる姿が、普段の春菜の印象と違っており、なんだかこう……。むちゃくちゃ可愛かった。嬉しかったし、実のところ、先を越された――そんな感情もあった。その時は、もちろん快諾したわけだ。だからというのもある。あの雨の日が無かったことになっていたことに執着していたのは。
おそらく、未来の俺は今のような事を嬉しそうに語ったのだろう。……相手の気も知らずに。しかし、さっき春菜は言っていた。あたしの恋もこれでおしまい――と。まったく……。相手の気も知らずに勝手なことを言うのが流行ってるのだろうか?
帰り道、と表現するには若干の違和感があるが学校への帰り道は病院へ向かっていた時と比べて距離が短く感じた。歩いていた――ということもあるだろうが、恐らくは心配事が片付いたことが大きいのだろう。
校門に着くと、丁度三時間目終了のチャイムがなるところだった。ペースを落とさずに教室まで向かえば四時間目には余裕で間に合う時間である。しかし、ここで上手くいかないのが『丸岡薫』という男だった。いや、正確に言うなら『新田雄介』という男だった。
「奇遇だな薫。今暇か?」
休み時間のことを暇と言うなら暇なのだろう。だが、ここで雄介が言うところの暇と言うのは十中八九その後の四時間目のこと。
「一応、先生には午後から授業に出ますって伝えてある。それまでは暇にしようと思えば暇にできるよ」
「そうか、ならちょっと付き合え。あんまり人が来ない所で話がしたい」
「俺は良いけど、雄介は大丈夫なのか? 先生に何か言ってるのか?」
「後で素直にサボりましたって言うさ」
親指をぐっと立てて笑う雄介に、俺は思わず溜息が出る。
「ところで、わざわざ俺を校門で持つほどの用事ってなんだよ」
「一先ず場所を移そう。今なら生徒会室があいてるから」
俺は言われるがまま、雄介の後ろについて生徒会室に向かう。いつもなら、ここでいらない雑談やらを投げ合う場面だが、真剣な顔をしている雄介に話し掛けることができなかった。生徒会室は校舎の一階下駄箱で靴を履きかえるとすぐの場所にあるため、そう時間はかからない。
「話って何だよ」
俺は生徒会室内のソファーに腰かけて、雄介に聞く。一方の雄介はというと、立ったままフラフラと歩き回っていた。何か言いだしにくいことのようだ――
「一刀両断に言った方が良いか?」
「単刀直入に言ってくれ」
行き過ぎた間違い。流石に勉強が苦手な雄介でも間違えるには酷過ぎる。……余程これから話す内容のことで頭がいっぱいなのだろう。
「もう気を遣う様な間柄でもないし、さっさと言ってくれよ」
「薫は知らないかもしれないけど、俺には心に決めた女性がいる」
「うん。知ってる」
てか、この学校で知らない人は居ないんじゃないか?
「俺は、若菜さんの事が好きだ。理由もなく好きだ。いや、理由が無いって言うか、好きだと言うことが理由と言うか――。あーもうわけわかんないや!!」
いやいや、俺の方がわかんないから。雄介は頭を掻き毟りながら、自分の言いたいことをどうにか絞り出そうとしている様でうまくいっていない。
「だから、そんな事は学校中周知の事実で今更告白されたところで俺にどうしろって言うんだよ。というか、告白するなら言う相手が違う」
「俺が言いたいことは、若菜さんの事を好きだってことじゃなくって、あれだよ。人を好きになる理由っていうか、俺の場合だけど……」
確かに、雄介の口から好きになった理由――そんなものは聞いたことはなかった。あれが好きこれが好き。あんなことがあって嬉しかったこんなことがあってときめいた。そんな瞬間瞬間の感情論しか聞いていない。
俺の中に積もり積もった雄介の感情論は十分に人を好きになる理由たり得るとは思える。しかし、何事にもきっかけというものはあるのかもしれない。
「だから、好きになったのに理由なんて無いんだって!! いつの間にか好きだって思えてて、いつの間にか自分より大切な人だって言えるようになってて……そんな感じなんだって!!」
無かった。
「だから、分からねーって……。ああ雄介はそんなものなんだな――ってくらいで。いったい何を伝えようとしてるんだよ」
「俺は薫みたいに記憶を全部持ってる訳じゃないから、てかはっきり言って頭悪いから、出会いとかも忘れたし、いつから好きって思うようになったのかも忘れた。でも人間ってそんなもんだろうなって思うんだよ。そんなに難しく考えてたら、思ってたより早く人生終わっちまうかも知んねーし。普通の人より早く死んじまうかも知れねーし。誰に普通って言われても、自分じゃ自分を普通なんて思えねーし」
雄介は、フラフラと考えがまとまらない内に口から言葉だけこぼれているようだった。ただ、普通って言葉だけが何度も何度も俺の頭の中で木霊する。それは頑なに『普通』という単語を使いたがらない人を知っているからか……その人を思う人から出た言葉だからか――
「薫って何でも覚えてるから、悩むための選択肢が多いから答えが出にくいのかも知れないけど――」
そこまで言って、雄介はふぅと一息ついて真面目な顔をする。
「薫って今好きだって言える人はいるか?」
は? まさか、こいつはそんなことを聞くために授業をサボってまで俺を呼び出したのか?
「そんなの……。別にどうだっていいじゃないか。聞きたかったことはそれだけか? 他に無いなら授業に行くぞ。今ならまだ間に合う」
俺がそう言って生徒会室から出ようとすると、おもむろに雄介に腕を掴まれた。
「どうでもいいことじゃない! お前は春菜が好きなのか、玲菜ちゃんが好きなのか――はっきりさせておかないといけないんだよ。世界の為にも……」
苦しそうに絞り出すかのように言ったそれは、俺の心に刺さった。感動というニュアンスではない。最近いつも考えさせられていることを他人に言われたから図星を突かれた――そんな感じだろうか。
「それは……分からないよ。春菜は幼馴染として大切に思ってる。玲菜は妹のように大事に思ってる……。どっちが好きかなんて決められるようなものじゃないだろ」
「薫――お前、あれだけ未来を見せられて二人の気持ちがまだ分からないなんて言わないだろうな? お前は選ばないといけないんだよ。選んであげないといけないんだよ」
俺は腕を掴む雄介を振りほどいた。
「だから! 何で突然こんな話になるんだよ。雄介、なんか変だって! さっきまでの三時間くらいの間で何かあったのか?」
いきなり世界とか言いだすし――話についていけない。どっちが好きかという話が気になるのは仕方ないとして、……唐突過ぎる。必死過ぎる。
「何か――。ああ、あったよ。確かにあったよ。薫には、事が落ち着くまで黙っておくつもりだったけど……。やっぱり知っておいてもらわないと、自覚しておいてもらわないといけないのかもしれない」
「だから何だよ。もったいぶらずに言ってくれよ。若菜さんと抱えていた問題と何か関係があるのか?」
雄介は、俺の言葉を聞いて少し口ごもった。何を言って良くて何が駄目なのか。それを考えているようだった。
「ワールドメモリー。その能力は世界を滅茶苦茶にしてしまう力があるんだよ」
ああ……。言われなくても分かっていた。玲菜が能力の自覚をしたことを知って確信していた。
「世界でたった三人しか持っていないその能力を持つ、薫と春菜と玲菜ちゃんには」
三人? 聞き間違いだろうか? 世界でたった三人しかいないって? 俺はてっきりもっといるものだと思っていた。身近に三人もいるんだ。世界中探せば何万人と言わずとも数千人か数百人か――そのくらいはいるものかと思っていた。
「それで、その世界が滅茶苦茶になるとかどうとかって話と、俺が誰を好きかって話がどう繋がるんだ?」
「分かんねーよ!! 俺に聞くなよ!!」
逆に怒鳴られた。何だよそれ。どういう理論だよ。分からないのに話を繋げてくるなよ。そんな文句を言ったところで話が前に進まないのは分かっているので、ここは大人しく情報を整理する方向にもっていくことにした。
「じゃあ、雄介がそんなに混乱している理由から聞こうか」
「若菜さんを引き止められなかった……。怪我をしてた若菜さんを引き止められなかった。若菜さんは世界の為になら自分の事はどうでもいいとか言うし。世界の為に薫に選んでもらわないといけないとか言うし。茜ちゃんは保健室で倒れてるし。話せるやつがいなくて薫を校門で待ってて、俺が分かることは薫にどっちか選ばせないといけないってことだけで、取り敢えず薫に選んでもらわないと」
「分かった! 分かったから落ち着け」
結論から言うと、全く分からなかった。いや、分からなかった訳ではないが、要領を得なさ過ぎて理解し難い。
「えっと、若菜さんは怪我をしたままどこかへ行ってしまった。茜ちゃんは保健室で寝ている。俺は世界の為に春菜か玲菜のどっちを好きなのかはっきりさせないといけない。これでいいか?」
「そう! そうだよ!」
「だから、分からないって!」
何だよ、世界の為に好きな人をはっきりさせろって。
「はぁ……。一先ず茜ちゃんは保健室にいるんだな? 俺は今から茜ちゃんのところに行くよ。雄介はとりあえず落ち着け。春菜と玲菜の事は……ちゃんと考えておくから安心しろ」
「本当だな? 信じるぞ? 俺も、よく分かんねー事ばっかり言って悪かった」
「本当だよ」
俺はそう言い生徒会室の扉に手をかける。
「茜ちゃんによろしく言っといてくれ」
雄介は最後まで訳の分からない事を言っていた。だから、俺は訳の分かることを言ってやることにした。
「俺は、今から保健室に行くけど、雄介は若菜さんのところに行ってやれよ。憧れの人なんだからさ」
「憧れじゃない。愛してる人だ」
もし、俺の会話相手が春菜だったのなら、前文から会話を読み、モノローグから結論まで出すのだろう。若菜さんなら読むまでもないのかもしれないが……。
「若菜さんには言うなよ。昔な……、誰にも見られないように泣いているところを見たことがあるんだ。普通になりたい――って……。別の時だけど、こんな事も言ってた。誰より普通が好きなのに普通にはなれない――って」
黙って聞いている雄介だったが、いまいちピンと来ていないようだった。
「俺はそれ以来、あの人の口から自発的に普通って言葉を聞いたことがない。雄介も聞いたこと無いんじゃないのか? 今日までは」
雄介は、ああとだけ答える。
「――若菜さんは、普通が好きなんじゃないか?」
俺のその言葉を聞いた瞬間、さっきまで混乱と不安で灰色だった雄介の目は淡い期待で光りが差しだした。
「何で若菜さんは雄介に普通なんて言葉を使ったのかな?」
雄介の言葉を借りるのなら、理由は好きだから――ではないか?
「ちなみに、俺は変な奴が好きだ。俺の目から見たら雄介は……結構変だと思うぞ」
「俺、若菜さんのところに行ってくる。俺、若菜さんのところに行ってくる!!」
「ああ、早く行け」
扉を開けた俺よりも先に生徒会室を飛び出す雄介。
「すまん薫! 俺、好きな人がいるからお前の気持ちには応えられねー!」
……颯爽と何かを勘違いしたまま走っていく雄介だった。
――さて、俺も早く茜ちゃんのいる保健室へ向かうか。
授業には元より行くつもりは無かった。俺は教室に顔を出さずに保健室に直行した。茜ちゃんが待っている。倒れた原因とやらは分からない。だからこそ、心配がつのる。いったい俺は一日に何度見舞いに行かなければいけないのだろうか。
保健室に入った俺は、まっすぐに茜ちゃんが寝ているであろうベッドの傍へと歩いた。保健室に二つあるベッドは片方だけカーテンが締まっており、そこに茜ちゃんが横たわっている事は容易に想像できる。先生がいなくても、案内がなくても間違いなくたどり着ける。
カーテンレールを滑る音を最小限に抑え、静かに茜ちゃんの様子をうかがう。寝ているようであればそのまま静かに起きるまで待つつもりだった。
「あら、丸岡くん夜這いかしら?」
相変わらず、変わらず、変わらない茜ちゃんがいた。
「何だよ、元気だな。雄介から倒れたって聞いて心配してたんだぞ」
「あら、心配し続けられるようにぐったりしていた方が良かったかしら? 丸岡くんて見た目と違って鬼畜ね。いえ、もしかしてAVみたいに寝こみを襲いたかったのかしら? それなら悪いことしたわね、それなら私の方もまんざらでもないから、保健室の入り口からやり直してくれたら手伝うわよ」
マシンガントークならぬガトリングガントークとでも言える破壊力満点の連射言語。倒れたといっても衰えなど無いようだ。寧ろ、溜まっていたものを吐き出すようだった。
「本当に、倒れていたのか? 何も変わらないじゃないか」
「ごめん。変わらないなんて言わないで……。今はその言葉聞きたくなの」
茜ちゃんは、何か辛そうな顔をした。いや、表情が変わらない茜ちゃんに辛そうな顔と表現するのは若干違和感というものを覚える。実際、今も表情は変わっていない。今の台詞で俺が勝手に解釈しただけなのかもしれない。
「ごめん……」
何があったのか分からず、察することもできない俺には、黙ることしかできない。
「丸岡くんが謝ることはないわ。これは私の問題だし、あなたには関係ないもの」
茜ちゃんがそう言った瞬間、まるで見えない分厚い壁が現れたようだった。水族館の巨大水槽に使われているアクリルガラスのような分厚い壁。ピンと張りつめた空気と小さな耳鳴りのせいで俺も少しの間ガラス細工のように硬直していたかもしれない。しかし、こうもわざとらしく突き放されたら食い下がるしかない。
「そんな事言うなよ。寂しいじゃないか」
俺は当たり障りのない導入句で茜ちゃんに言った。ただいつも通り、くだらない悩みで落ち込んだ友人に言うみたいに。
俺は本当に、特に大きな意味を持たせたわけではなく、心配だから言っただけだった。わざわざ俺を遠ざけるような言い回しをしてる人間が何も抱えていないなんて思えなかったから。ただそれだけの事だったのに、茜ちゃんは想像以上に目を丸くして驚いていた。正直言うと茜ちゃんの無表情以外を見たのは初めてだった。驚く顔をした茜ちゃんよりも、俺の方が驚いたくらいである。
「ほんと、ほんと、ほんとあなたって異常よね」
「酷い言い方だな」
「いえ、良い意味でよ。なんだか、私の悩みがくだらないことみたい。私の五百年返してよ」
「五百年分悩んでても、実際に俺たちが生きてるのはたった十六年なんだよ。案外短いのかもな」
「そうね、そうよね。私たちはまだ十六歳なのよね。私は誕生日が終わっているから十七歳だけどね」
そんな言い方をされると誕生日を忘れてしまっている最低な男みたいだな。心外だ。
「じゃあ、次の休みにでも誕生日パーティでも開こう。もちろんみんなでな」
「ありがとう。それで、薫くんに聞きたいんだけど、今の私って朝会ったときと何か違わない?」
誕生日パーティーの事はサラッと流すつもりのようだ。信じていない様なら後日サプライズを仕掛けてあげよう。それよりも突然丸岡くんから薫くんに呼び方を変えられたことにドキッとさせられた。何だろう。茜ちゃんに何か心境の変化があったのだろうか……分からない。
「朝会ったって言っても、俺は教室にほとんど居なかったし」
「覚えているのでしょう? だって薫くんだもの。薫くんだもの!」
いきなり薫くんって呼び始めたと思ったら、楽しそうに何度も呼ぶ茜ちゃん。
「確かに全部覚えてはいるけど……。違いって言われてもな――」
言われて俺は、改めて茜ちゃんを見る。まじまじと見る。
「なんだかゾクゾクするわね」
「変なこと言わないでくれ。――そうだな、なんていうか、感覚的なものなんだけど、朝よりも人形みたいな?」
温もりのような感じのものが感じられないというか――。このまま窓の外でも眺めていたら深窓の令嬢なんて呼ばれるんじゃないかと思うほど儚く感じる。
「そうね。大方正解よ。私は今、死んでるの」
……死んでる?? は?
「気でも狂ったか? じゃあ、幽霊だとでも言うのか?」
「薫くんは、生物の定義って何だと思う?」
突然何を言いだすんだ? 俺は喉元まで出たその言葉を飲み込み答えた。
「確か、自己複製能力の有無とか、代謝機能の有無とか、細胞膜みたいなもので個を確立できているかどうかとか……。授業ではそんな事言ってた気がする。俺自身、それで納得だと思うよ」
「先生はまだそんな話してないわ……」
「そうだっけ?」
小学校の先生が言ってたんだけど、まあいい。
「私はね、もっと単純に考えてるわ。どんなサイズでも能動的に外界と何かしらのエネルギーのやり取りを行えるものが生物だと思うの。能動的の定義範囲で個の確立もできるわ。それで、社会的な死というものとも絡めて考えてみると、私は死んでるのよ。人間の中でヒトとして死んでるの」
話がややこしくて分からない。記憶力は変な能力のせいで高いが、思考力はそうでもない。いったいどういうことか。
「いやいや、こうして俺と話してるじゃないか。ほら、生きてるよ」
「だから言ったのよ。薫くんは異常だって。今、世界中の生き物は私を認識できないの。いや、生き物だけじゃないわ。物も時間さえも私に干渉することができないの。そういう馬鹿げた能力なのよ、私は。誰の記憶にも居ないし認識にもないし、今この場を見た人がいても薫くんが一人で何か喋っているように見えるかもしれない。記憶に全く残らない誰かと話しているように見えるかもしれない、電話しているように見えるかもしれない。でもそこに私は居ないの」
突然の告白に俺の思考はただただ停止するばかりだった。
「干渉させない能力、実はあれは二人で分け合うことで能力って言える状態になっていたの」
――二人。
「さっき『関係ない』って言葉を口にした瞬間に完全に力が戻ってしまったみたいね」
だから俺が違和感なく返答したことに驚いたのか――
「じゃあ、何で俺とはこうやって話ができるんだ? やっぱりワールドメモリーの能力が関係してるのか?」
「私の推測だけど……。全知であるワールドメモリーが記録したものをすべて知ることができる。それが薫くんの本当の能力だと思うの。私はこの世界のバグみたいなものだけど、全知の例外ではないということね。だから、薫くんはワールドメモリーの記録を通して私を認知しているんじゃないかしら?」
俺は、まるで優しく答え合わせを受けているような感覚だった。辻褄が綺麗に合っていく。
「確かにそうかもしれない。それなら――」
「私は――薫くん以外が持っている記憶も薫くん自身が知ることができると思うの。世界中の過去の出来事の全てさえも」
それを聞いたとき、俺は背筋がゾッとした。能力の凄さに感動したのではない。恐怖でだ。
「この世界は辛いことの方が多いわよね」
そうだろう――
「今度は私が薫くんを助ける番ね」
私は大丈夫だから、そろそろ帰った方がいいわ。その言葉を聞き俺は保健室を後にした。ずいぶんと淡白な対応かと思われるかもしれないが、茜ちゃんの安心したような顔を見ればこちらも安心できるのは道理だ。
しかし、午後からの授業はあまり集中して聴くことができなかった。これは、みんなのことが心配でたまらなかった――。それが理由だったということにしよう。集中できなかった授業が比較的苦手な数学だったというのはここだけの話である。
結局、雄介が教室に戻ってくることは無く、茜ちゃんは早退した。おかげで俺は下校時刻まで誰とも話をせずに考え事をすることになった。寂しいやつ――と言われればそうかもしれない。確かに高校生活で雄介と春菜と話をしている時間というのは大きな比重を占めている。
……思えば、俺は雄介や春菜たちにずいぶんと助けて貰っていた気がする。昔から何でもかんでも覚えてしまっているせいで孤独感を抱えて過ごしていた。俺が覚えている事を他の誰も覚えていない――そんなことは日常茶飯事で、自分一人が違う世界を歩んでいるかのような感覚……。元からあまり人と話すことが好きでなかった俺は、どんどん自分一人の世界に浸っていった。
雄介と会うまでは、本当に宮内家の人としか口を利いていなかったし、さっきの茜ちゃんの言葉を借りるとするなら、社会的に死んでいる――といったところだろう。どうにか宮内家で生きているというやつだった。血の繋がった家族もおらず、社交的でも何でもない俺に今があるのは、大げさではなく春菜や玲菜、若菜さんたちのおかげである。感謝の言葉を紡ぐなら果て無く長くなるだろう。雄介に出会ったこと、バスケにのめり込んだこと、それも俺を構成する大きな要因だ。
現時点でこの理不尽な問題、能力が無ければ只々我武者羅に雄介を最強の選手にすることに打ち込んでいただろう。――雄介は忘れてしまっているが、俺をバスケに引き込んだ雄介とした約束。
『俺が雄介を世界一のプレイヤーにさせる』
『じゃあ、薫からのパスは一つだってリングから外さない』
実際は世界一のプレイヤーにはできていないし、リングから外すことだってある。しかし、もし二対二の全国大会があれば優勝できる自信がある。そのくらい馬鹿みたいにバスケ三昧の日々だ。つまり、俺はバスケ以外何もしていない。必死に勉強をしている訳でもなければ、放課後に遊んでいる訳でもない。行動理念は全てバスケに帰着する。
今はバスケの為に生きています。――そう言っても過言ではない。
バスケをするわけでもなく、雄介も春菜も、茜ちゃんもいない教室で誰とも話さず一人きりなのは明々白々たる事実だった。――久しぶりに孤独感を感じている気がする。……我ながら女々しい。人は一人では生きていけないなんて言葉は耳に胼胝ができる程聞いているが、実感する。茜ちゃんの話に感化されたというのも少なからずあるのだろう。だがそれだけではない。
授業が全て終わり、帰路に着いた時。校門に差し掛かった時。そこには、当たり前のように必然のように、自然の摂理かのように――。一人の少女が立っていた。同い年を少女と呼ぶのは幾分か違和感を感じる。幼馴染を少女と呼ぶのは若干筋違いな表現に感じる。
「丁度ストレッチしてた所なのよ。今終わったし、ついでに一緒に帰ろっか?」
わざわざ校門前でストレッチする阿保がいったいどれだけいるだろう?遠回しなツンデレを披露しやがって。そんな言葉を聞くこっちとしては疲労もたまるってもんだ。
「ああ。そうだな、わざわざ待っててくれてありがとな」
何か秘技があった気がするけど。
「おまえがこうやって神出鬼没に俺の目の前で笑ってくれると」
ツンデレ? 何だろう? 昔の流行語? 死語か何か?
「それだけで生きてて良かったと思えるよ」
――生きてるって思えるよ。春菜は、くるっと半回転すると一歩俺から離れる。
「何キモイこと言ってんの?」
キモイって言われちまったよ。
「さっ行くわよ。久しぶりに二人きりの下校なんだから」
今度は一歩俺に向かって近づく。
「別に、キモイって気持ち悪いの略じゃないから」
ああ、なんとなく分かってた。
「俺は最初から選んでたよ。決まってた」
「えっ? 何が」
「いや、こっちの話。久しぶりだから手でも繋いで帰るか?」
「足なら繋いであげるわよ?」
「気持ち悪っ」
春菜は笑顔で振り返った。
当たり前だが、手を繋ぐことはなく普段通り横並びで歩いて帰る。心なしか、いつもより距離が近いような気がした。近いような気がするが、それが気のせいだということは分かっている。それはなぜか? 理由は簡単。なぜ近く感じているかの理由を知っているからだ。知っている。心が近づくと距離が近く感じるということを。
「ねぇ薫。あんたって女の子に告白された事とかある?」
わざわざ足を止めて、藪から棒にいったい何を聞いているのだろうか? 俺が色恋沙汰を持ったことが無い事をこいつは知っているはずだ。いや、無くなってしまった過去の事を言うならば一度だけあると言えるかもしれない。
「分かってる事をいちいち聞くなよ」
「いや~、もしもの事があるかもしれないじゃない?」
「ねーよ」
「そう……」
一呼吸。一息ついて春菜は歩みを戻そうとする。
「で? 春菜は何が聞きたかったんだ? それを確かめたかっただけじゃないだろ?」
俺は足を止めたまま聞いた。
「さすが薫ね。もし、あんたが誰かに告白されたとき。どんな対応するのかなって」
「そりゃー……」
相手には悪いけど、受けるわけにはいかないな。
「好きじゃなけりゃ断るだけだろうな」
「相手の女の子が泣いても?」
「泣くほど俺の事を好きな子なんていないから、そんなシミュレートをしたことは無いな」
「はぁ……」
春菜は大きなため息をついた。
「何だよ」
「なんかなー。話が進まないなー。そんなことを聞きたいんじゃないんだって」
「話の結果を急ぐなって、無駄な話も楽しもうって。そんなに頭を掻き毟ってたら将来禿げるぞ」
「男女逆転したみたいな会話ね」
確かに俺らしくない言葉かもしれないな。
「薫なら、涙を流す女の子に同情して付き合ってあげちゃうのかなって思ったりして」
「そんなことしないと思うんだけどな~」
「ならいいけど」
そう言って春菜はポイ捨てされていた空き缶を道路の反対側のごみ箱に投げ入れた。――なんてコントロールしてやがるんだ。
「じゃあ、もう一個質問いい?」
「答えられる範囲でなら」
「好きなら付き合ってあげるんだよね?」
「まあ、そうだろうな」
付き合ってあげるなんて上から目線にはなれないけど。
「だったら……」
「お姉ちゃんの事好き?」
? なぜここで若菜さんの事が出てくるのだろう?
「新田君の事は? 茜ちゃんの事は? バスケ部のみんなは? ……玲菜の事は?」
? なぜここでみんなの事が出てくるのだろう? 話の流れが分からず俺は黙り込んでいたが、そんな様子を見てか見ないでか、春菜は話を続ける。
「好きって色々あると思うんだよね。友情とか、後輩愛とか、家族愛だとか。男の人なら組織愛みたいなものもあるのかな?」
今日雄介に対して話した内容を思い出す。春菜か玲菜、どちらの事を好きなのか――。今はもっと選択肢を与えられているが……。
「今挙げた中で好きじゃないって言うものがあったら訂正して」
俺は無言を以って返答とする。好きじゃないはずがない。全て俺にとって大切な……大好きな人達だ。
「好きな人から付き合って欲しいって言われたら付き合うんだよね?」
「違っ!! それはちょっと話が飛躍し過ぎてるぞ」
「あれ? あたし何か変な事言ってるかしら? 好きな人なら付き合うって言ったのは薫よ? 論理的に言うなら何も間違ってる事は言ってないわ」
「論理的に言うなよ。そこは論理だけで説明できるような話じゃないだろ。感情が絡んだ話だ」
「その感情が好きかどうかなんでしょ? なら、付き合えないって言う理由とか感情的な何かがあるの? 好きでも付き合えないって言う――」
「ほら、男相手だったら付き合ったりできないじゃないか」
「あら、今は同性同士の恋愛も広く認められている時代よ?」
広くは認められてねーよ。
「付き合う対象としては異性がいい。もう俺の我儘ってことでいいよ」
我儘とまで言う必要はないと思うが……。
「じゃあ、女なら大丈夫な訳ね」
まるで詰み将棋を受けているかのよう。会話が始まった瞬間に詰むことができる。論理的に話を進められるならば開始がイコール終了ということ。流石の俺でもそろそろ帰着点が見えてきた。
「……あたしって性格悪いね」
溜息を吐いて肩を落とす春菜。
「でも最後まで言うわ。薫は優柔不断だから決められない事くらい分かってるわ」
――ほっとけよ。これでも頑張って選んだつもりなんだ。
「初めに薫に告白した人が薫と付き合うんだろうなって思ってたんだー」
「俺の事馬鹿にしてるだろ? 俺だってちゃんと選ぶ意志があるんだ」
「馬鹿にはしてないわよ。でも、その選ぶ意志ってやつを決めてほしいの」
知らず知らずのうちに歩いていた足を止め、少し前を歩いていた春菜は笑顔で振り返る。俺はその姿に息を飲む。夕日を受けた姿が、まるで橙色を題材とした絵画のように鮮烈な迫力を出していた。
この後に続く言葉は、あの日――雨のあの日に聞いた言葉と同じものだろうか。覚悟を決め、はっきりと返事ができるように。――俺はまっすぐに春菜の目を見た。
……逆光で若干眩しい。
「よくこんな話があるじゃない?」
少し話を延ばすつもりのようだ。いつまでも待とう。いや、いっそ話を断ち切ってこちらから言うべきか?
「崖から落ちそうな大切な人たちがいた時に誰を選ぶのか……ってやつ。極端な話だけどそれって真理を捉えていると思うの。誰を好きって話は比較があって、誰よりも誰を選ぶか――。その時に選ぶ相手が本当に好きな人だと思うの」
少し俯いた春菜の表情は陰に入ってしまって良く見えない。
「薫は優しいから、みんな落ちちゃうまで悩んじゃうんじゃないかなって思うの。それって優しさじゃないんだけどね。だから、代わりにあたしが選ぶわ。これは完全にあたしのわがまま。誰の意思も関係のない。あたしだけの勝手な思い」
大きく息を吸い込んだ春菜は小さく顔を上げた。そこには小さな笑顔と――大きな雨粒。
「玲菜を……幸せにしてあげて――」
夕立は、雲一つ無い空から、嘘のように激しく降り注いだ。
場面は宮内家に変わる。リビングにいるのは玲菜とお母さんだ。庭に植えられている木の低さ、モデルチェンジする前のテレビ――おそらく玲菜が小学二年生の頃だろう。
「玲菜、お母さんはあなたのことが一番大切よ。何も無理したりしなくて良いのよ。何もできなくても良いのよ。お母さんを頼ってくれて良いのよ」
お母さんは、玲菜を強く抱き締める。
「玲菜ー! 遊びに行くよー!」
聞き慣れた春菜と俺の声がする。家にいる玲菜を誘いに来たのだろう。
「いってらっしゃい」
「うん!」
元気に走り出す玲菜。俺と春菜について庭にある倉庫に向かう。自分の記憶を探って思い出したのは三人で裏山に遊びに行った時だった。秘密基地を作ろうと息巻いて出かけた結果、途中で大人に見つかって中断になったのを思い出す。
俺と春菜は大きなスコップを担いでいた。玲菜も同じスコップを担ぐが、重たくて足がふらつく。
「玲菜は無理しちゃダメだよ。ほらこっち」
そう言って俺が手渡したのは、小さなスコップ。
「ありがとう!」
『薫お兄ちゃん優しいなぁ。学校の子達はみんな玲菜にさせるのに』
そう玲菜の心の声が聞こえた。いじめ……と言うことはなかったと思う。むしろ、率先して学校で働いているイメージだった。しかし、今の声を聞くと、いつも無理して頑張っていたのだと――単純にそう思えた。
俺と春菜の歩く後ろ姿を最後に場面が移り変わる。餅を引き伸ばして混ぜるかのように空間が歪んだ。視界が固まってくると、そこは中学の教室だと分かる。今度は俺も全く関わりがない場面。自分の記憶には存在しない情景。
「あなたが宮内さんの妹さんね。やっぱりお姉ちゃん達に似て優秀そうね」
そう言ったのは中学の先生だった。確か、俺が中学三年の時に玲菜の担任になっていた記憶がある。何の他意もないまっすぐな言葉だった。
「ありがとうございます。姉に追い付けるよう頑張ります」
礼儀正しく俺の口から、いや玲菜の口から返答がされる。
俺はその言葉に若干の違和感があった。いつも甘えたような口調で話しかけてくる玲菜。そんなイメージしかなかった俺は、そのかしこまった喋り方に引っ掛かるような感じがしたのだ。
「部活はやっぱり陸上部に入るのかしら? 先生期待してるわよ」
「部活は……まだ考えていませんが、充実した中学生活になるようにしたいと思います」
「そう。先生、あなたみたいな生徒を持てて幸せだわ。頑張ってね」
「はい」
まるで優等生の見本のような返事。自分では見えないが、常に笑顔で話しているのが分かる。その返事を聞いて先生は満足したのか、玲菜の元から歩き去っていく。一方の玲菜は、先生の姿が見えなくなったところで自分の席に座り頭を抱えた。
『またお姉ちゃん達の話……。もううんざりなのよ。どうせまた、期待外れって分かった途端に態度が変わるんでしょ。教員なんて、みんなそう』
頭の中で聞こえたそれは、暗く重く苦しい気持ちだった。
姉二人と比べられて辛いだろうことは薄々分かっていた。教員だけに限らず一目置かれる優秀さを発揮する若菜さん。元気で人当たりが良く、スポーツで結果を出し続ける春菜。そんな二人と比べられることに苦痛を感じないはずがないとは分かっていた。しかし、実際に玲菜の想いを聞くことで自分の考えがまだまだ甘かったのが分かる。
その後、また空間の歪みと共に時間が移り変わった。
「それでは投票結果により、学級委員長は宮内さんに決定します」
先生が玲菜の名前を読み上げると、玲菜は席から立ち教卓まで移動する。
「これから一学期間、よろしくお願いします」
クラス中から拍手が沸き上がる。と同時に玲菜の心に怒りが沸き上がる。自分の感情ではないが、この感情は紛れもなく怒り――
『私のことを何も知らないくせに。何が投票よ。新入生代表を言わされた私に票が集まるに決まってるじゃない』
玲菜の心は言葉や表情とは裏腹に拒絶を示していた。
舞台は目まぐるしく変化する。まるで時間を旅行しているかのように。まるでハイライトを見るように。今度は、教室の席に座っているところだ。教室の黒板には……丁度先週の日付が書かれている。
「宮内さんさぁ。お姉ちゃん超頭良いんでしょ? ちょっとこれやってくれるように頼んどいてよ。塾で課題貰ったんだけど難しくってさぁ」
明らかに柄が悪い。あからさまにたちが悪い。玲奈はそんな女生徒達に絡まれていた。挑発的な口調で玲菜を脅すように。
「別にあんたがやってくれても良いんだけどさぁ。なんつーか、無理っしょ? 宮内さんってあんま勉強できないし?」
返事も聞かないまま塾の課題とやらを玲菜の机に置いて去っていく女生徒とその取り巻き。ぎゃははと不潔な笑い声を上げている。
『言えるわけないじゃん。頼めるわけないじゃん。これ以上お姉ちゃん達に迷惑かけられないよ。これ以上不出来な私を見せることなんてできないよ』
内心呟く玲菜は強烈な劣等感に苛まれていた。いじめともとれるクラスメイトからの当たりを受けても、辛さや苦しさや怒りなど芽生えず。ただただ若菜さんと春菜に対する惨めな気持ちだけが募っていた。
何もできない自分の無力感を感じていただけだった――
「――――」
その夢を最後に、俺は眠りから覚めた。夢にしてはやけにはっきりと内容を覚えている――
ワールドメモリーなんて変な能力を持っていなければ、単なる夢として終わらせていただろう。しかし、春菜の未来を見る力の件もある……。現実である可能性はゼロじゃない。かといって、すぐに自信を持って過去を見たなんて言えるわけでもない。確認はしておくべきか……知らない振りを通すべきか……。
「悪いもの見ちゃったな――」
確かめもせずに憶測で新しい能力が増えたと結論付けても良い。そうすれば玲菜に探りを入れる必要もないし、嫌な思いをさせる可能性もない。しかし、能力が能力だし実際にどれだけ正確に見えてしまっているのか確かめておく必要はある。これは玲菜の未来にも少なからず関わってくるだろうし……。玲菜にできるだけ辛い記憶を思い出させないようにどうにか上手く確かめるというのがベストな訳だが――
「はぁ……聞いてみるしかないか」
とりあえず、玲菜に確かめるのは後日にでもしよう。そう決めて、朝食を済ませて身支度を終える。そして学校へ行こうとリビングで立ち上がると、家のチャイムが鳴り響いた。……一体こんな朝早くに誰だ? 春菜は朝練があるから違うし――なら、雄介に決まっている。だが俺は玄関を開けると、予想外な来訪者に驚かされた。
「おはようございます! 薫お兄ちゃん!」
そう、そこにいたのは玲菜だったのだ。玲菜と話をする覚悟はまだ決まっていないし、どうやって確かめるかなんてもちろん頭にない。俺はできるだけ動揺を悟られずに玲菜と話をするしかなかった。
「おはよう玲菜。こんな時間にどうしたんだ?」
「えへへー。今日は薫お兄ちゃんと登校しようと思って来ちゃった」
本来なら、早くても明日こちらから玲菜に会いに行く予定だったのだが、なんと言うタイミングの悪さだろう。
「そうだな。道も途中まで一緒だし、たまにはそういうのも良いな」
「そうそう! たまには朝一番から薫お兄ちゃんの面白い話を聞きながら登校するのも良いなって」
「そうそう、面白い話を聞きながら――って、またやるのか? いつもそんなに面白くないだろ?」
「確かに面白くないかもしれないけど、玲菜は薫お兄ちゃんの面白い話大好き!」
この子、面白くないって認めてきたよ。前回上がったハードルも今や地面に付く勢い、いや寧ろ地中に埋まっているくらいだな。
「仕方ないなぁ……。玄関で話すのもなんだから、歩きながらにするか」
「うん!」
「確か、あれは一昨年の話だな」
「一昨年と言えば、薫お兄ちゃんが今の玲菜と同じ中三の時ね!」
「そうそう。丁度その頃だな、俺の友人に好きな人ができた」
「なるほど、薫お兄ちゃんはその友人さんの恋愛相談を受けた訳だ」
「そうなんだ。だけど、単なる恋愛相談じゃなかったんだ」
「……と言うと?」
「その友人は、まずラブレターで想い人を呼び出したかった。でも、その友人は字が汚いことで有名だった」
「確かに汚い字で書かれたラブレターは、お世辞にも好印象は持てないかも……」
「友人もそうやって悩んでいたわけだ。そこで、友人が思い立ったのは代筆でラブレターを出す事だった」
「なるほど……。そこで白羽の矢が立ったのが薫お兄ちゃんだったんだ! 確かに薫お兄ちゃんの字は綺麗だよね。ザ・ゴシック体って感じで!」
「それは誉められていると受け取って良いのか?」
「もちろん! ゴシック体なんて、書こうと思って書けるものじゃないよー。『ザ』が付く事で更にその代表を飾っているようなものです」
「今回は妥協して、誉めてもらったことにしておこう」
「うん! まんまと誉められてやってください」
「その、まんまと嵌められてやってください――みたいな言い回しはやめろ」
「やだなぁ薫お兄ちゃん、そんな他意は無いよ。それより続き続きっ!」
「はいはい、話が脱線しかけたな。そう、俺が友人の代わりにラブレターで呼び出しの文章を書いた。差出人不明で時間と場所、それと伝えたいことがありますとだけ書かれたラブレターを朝に下駄箱へ投函した」
「それだけじゃ、告白されるとまでは分からないよね?」
「ハートのシールで封をしておいた」
「さすが芸が細かいっ!」
「当たり前じゃないか。俺を誰だと思ってるんだ? しかし、問題があった。俺の字体が思いの外有名だった事だ」
「つまり、代筆がバレたと?」
「いや、代筆と言うか俺が書いたと言うことがバレた。が、そこまでは許せる。その後がまずかった」
「何があったの?」
「手紙を受け取った女の子が、俺の席にラブレターを叩き付けて言ったんだ『伝えたいことがあるなら、今ここで言いなさい』と」
「伝えたいことがあったのは友人さんだから、薫お兄ちゃんは何も言えないね……」
「そこで俺は女の子の迫力に押されて言っちゃったんだ。伝えたいことがあるのは俺じゃないって」
「突然そんなことを言われた女の子は困ったんじゃないの? どういうこと? って」
「いや、その女の子は困るなんてことはなかった。頭の回転が早かったからな。でも、それが仇となった」
「どういうこと?」
「間接的な呼び出し方法ですら他人にやらせるなんて、応じるわけないじゃない! バカじゃないのっ! そう俺に言って去っていったんだよ。ちなみに俺の隣の席に座っていた友人はこの世の終わりみたいな顔をしてた」
「多分、そのバカってセリフは薫お兄ちゃんに対して言ったのだと……」
「え? どういうこと?」
「面白い話と言うより可哀想な話……。色々な意味で」
「面白くなかったか……そう……だな」
実のところ、面白い話をすることが目的で話したエピソードではなかった。だからこそ、あまりウケなくてもショックは少なかった。――少なかった。
「ところで、玲菜は他の人に手紙の代筆を頼む奴についてどう思う?」
「良いとは言えないけど、頭ごなしに悪いとも……言えないかな。自分の苦手分野を誰か得意な人にしてもらうって言うのは賢いやり方だと思うし」
「その友人は、客観的に見て告白を失敗したわけだけど、それでも賢いやり方だと思う?」
「友人さんは、運とタイミングと相手が悪かったんだと。その方法なら、告白まで持ち込むくらいは可能だったんじゃないかな? 付き合えたかどうかは知らないけど」
「なら、ついでに聞くけど――宿題とかを他人にやらせる人って、どう思う?」
俺の言葉を聞いて固まるように立ち止まる玲菜。その反応を見てほぼ確信する。今日の夢が現実だったという事を。いや、まだ百パーセントとは言い切れないか。
「さあ、どうかな? 勉強は自分のためにやるものだから、他人にやらせるのは無意味だとは思う」
「なら、頼まれた側はどういう気持ちなのかな?」
「……能力を認めて貰えたのなら、多少は嬉しいと思うかも。でも、そうじゃないなら、辛いだけじゃないかな?」
「断る事って難しいのかな?」
「さあ。その人のキャラクターによるんじゃないかな? 演じてるキャラクターによって対応のしやすさも変わるし」
「演じてるキャラクターか……」
玲菜は、俺たちの前とは違って学校では真面目なキャラクターを演じている。学校とは違って俺たちの前では素直で可愛らしいキャラクターを演じている――
どちらが本物でどちらが偽物と言うわけではない。どちらも玲菜なのだろう。しかし、本当に玲菜が幸せに感じるキャラクターと言うのはどれなのだろう? 一番無理をしていないのはどういう瞬間なのだろう――
「玲菜は――」
「私は! 薫お兄ちゃんとこうやって少し真面目な話をしているのも楽しいですし、普段優しくされて甘えてしまっている時もとても幸せに思います。学校で頼られたりするのも嫌いじゃありません」
俺のセリフを遮って出てきた言葉は、とても。とても前向きな発言だった。
「でも本物は、もっと暗いんです。黒いんです。でも、それを言葉とか態度に出したくなくて。でも、嫌な感情を持っていることを誰かには知っていて欲しかったりもして。でも、暗い雰囲気になるのが怖くて。でも――」
何度も『でも』と繰り返す玲菜は、自らの中で葛藤していることがよく分かった。楽しい空気の中でも嫌な事に嫌だと答える事は難しい。みんなの為と思うと、ついつい自分の気持ちを抑えてしまう。それは俺にだって分かる。
「俺にも、その気持ちは分かる。多分みんな分かると思う。だけど、玲菜がどれだけ沢山抱えているかまでは誰にも分からない。どこまで我慢できるかも分からない」
玲菜は静かに俺の言葉に耳を傾けていた。
「だから、いつでも言ってくれ。話……聞いてあげるから」
「はい!」
いつもの笑顔で元気に返事をした玲菜。それでは、と言って道を別れた時には、何だか吹っ切れた顔をしていた。おそらく、本音を言えていたからなのだろう。初めて玲菜が自分のことを『私』と言っていたくらいだ。
それからしばらく歩き、高校近くの信号で止まっていると、玲菜からメールが届いた。俺と春菜と若菜さんに宛てて。
『明日、友達と勉強会をしようと思ってるんだけど、みんなにも教えてくれたら嬉しいです』
一件落着……かな? これで、夢が現実だったことも確実と言って良いだろうし、能力の件は学校に着いてから茜ちゃんと雄介にでも相談してみるか。
信号が青になり、横断歩道を渡ろうとしたところで聞き慣れたサイレン音が近付いてきた。 近くには救急病院があるため、嫌でも聞き慣れるのだ。そう、救急車のサイレンは。赤信号も問答無用で直進していく救急車。方角からして病院に戻っていくところなのだろう。
……救急車を見ると思い出す。幼い頃に事故に合ったことを――実際に記憶があるわけではないが、入院していた記憶が呼び起こされる。一週間意識が戻らず、意識が戻った時には両親がいない――あのすっぽりと何か空洞ができたような感情が――
「あっ、また赤になったよ」
救急車が通り過ぎて、気が付いた時にはまた信号が赤に。まあ、たまにはのんびり学校に行くのも悪くないかな。待つというのは嫌いじゃないし。しかしそれも、あまり長く待つという経験をしたことがないからなのかもしれないな。なにせ、あいつのもっとうは『昨日の自分の前を行く』だったし。……部のスローガンだったか?
学校に着き、下駄箱で靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。
「おう薫。今日はちょっと遅めの登校じゃねーか」
「遅めって言ってもまだホームルームまで五分はあるぞ。それに、雄介よりは早い」
「ははっ! 確かにそうだ。それよりどうだ? みんなで思い出話語り合ったのは楽しかったか?」
何だか二・三日前の出来事みたいに感じるが、良く考えてみれば昨日の事か――
「ああ。知らないことばっかりで新鮮な気分だったよ。今まで自分だけ違う世界にいたみたいな寂しさとか戸惑いとかも、あれで完全に無くなったな。ありがとう雄介」
「なんだよ。気持ちわりーな。お前って恥ずかしげもなくそんなこと言うキャラだっけか?」
「感謝されるときくらい素直に聞けよ。あと、春菜にもお礼言っとかないとな」
「お前、春菜にもさっきみたいなちょっと臭いセリフで礼言うのか? 言葉考えた方が良いぜ」
「臭いとか言うな。恥ずかしくなるだろ。それにまあ、春菜の奴はまだ朝練だろうから、お礼を言うのも放課後とかにしとくさ」
「それまで熟考だな」
「率直に昨日はありがとうって言うだけだよ。何も捻るつもりはない。第一、雄介には何も言うつもりも無かったんだがな。若菜さんの写真探ししてただけだし」
「ふふふ。今やそれどころでは無いのだよ。聞いてくれたまえ。詳細は機密事項だが」
「なんだよ」
「とうとう俺は若菜さんの物になったのだ! ……彼氏じゃないけど」
「いや、全くもって意味が分からない」
「つまり、俺は幸せと言うことだ」
「勝手につまらせるな」
俺がつまらない突っ込みを入れた頃。丁度教室に着いた。なぜか全員席についてひそひそ話をし、担任の山本が教壇に立っている。のんびり歩いていたせいか、たまたまか、俺達が最後だったらしい。もちろん朝練で遅刻常習犯の春菜の影はない。
雰囲気に呑まれた俺達は急いで席につく。席について茜ちゃんにおはようと挨拶をしたが、華麗に無視された。若干傷付く。
「えー。全員揃ったので今から大事な話をする」
8.変化は突然に
俺は走っている。もういつから息が切れているのか分からない。だが走り続けている。不思議と疲れは感じていない。日も昇りきっていないこんな時間に校外を走るということは、かれこれ冬のマラソン大会ぶりだろうか。
個人的にはマラソンは嫌いで、なかなか走る気にもなれない。もちろん走る側で嫌いと言うだけであって見る分にはそうでもない。しかし、なぜマラソンが嫌いなのか。俺は目的意識を持って最短で事を進めることが好きだ。マラソンはゴールという目的までを最短にする工夫が一切とれない。だから、競技として参加するのは好ましくない。陸上競技全般に言えることな訳だが……。
俺がバスケットをしていることも、その中でガードというポジションでパス回しに特化していることも――。つまるところ、結果を出すまで最短最速を工夫によって追い求めることができるからなのかもしれない。
そこが楽しい。予測出来ない先のことを予定通りに迅速に遂行出来ることが面白い。逆に、最短で進むことができると信じての行いが失敗した場合。改善策を考え、より効率的な方法を編み出す――それもまた楽しいのだ。
そしてマラソン、長距離を走ることが楽しいと思えない理由はゴールをした瞬間の高揚の少なさにある。達成感よりも先に終わったことへの安堵にも似た虚無感があるのだ。長距離を走ると虚無感がある。長距離を走り終えると負の感情が沸き上がる。
……こんなに長々と何が言いたいのかと言うと――。余計なことで考えを紛らわせていたかと言うと――
つまり、こういうこと。
今――
目的地である病院に到着した――
俺は手早く受付を済ませ、目的の病室のドアを開けた。病院なので当然だが、静まり返ったその空間が不安をかき立てる。走る自分の足音、荒い息遣い。音は他に無かった。
「はぁっ……はぁっ……」
声を出そうにもまともな言葉が出ない。今更だが、受付の看護師さんも良く案内できたと思う。
「はっ……、春」
「あら、早かったわね。ご飯にする? お風呂にする? それとも、た・わ・し?」
いつものイタズラな笑顔でベッドに横たわっていたのは、紛れもなく春菜だった。
「い……いや……。んっ……はぁはぁ。たわしって選択肢は……はぁ、ないから」
「あら残念。渾身のネタだったのに」
俺は黙って春菜を見た。いつもの様に、本当にいつもの様に笑う春菜だった。とてもトラックに跳ねられて意識を失っていたなんて信じられないくらいに――
「何か喋ってよ。ほら、玲菜に言うみたいな面白い話とかさあ」
何も変わらないテンションで、トーンで話しかけてくる春菜。
「しょうがないわねー。優しい優しい春菜様が話題を振ってあげようではありませんか。うーん……。そうだな……。あたしって綺麗?」
おそらく、置いてけ堀の怪談ののっぺらぼうかよ――そんなツッコミでも期待していたのだろう。そんな気楽なやり取りでもしたかったのだろう。
「汚いよ。お前は本当に汚いよ」
「あーひどーい! これでも乙女なんだからね。乙女心所持者なんだからね! 傷付いたー。あー傷付いたー」
「そんなんだから汚いんだよ。お前は……。その足――どうなったんだよ」
俺の目に映っているのは、強固に固められたギプスをはめられた足――試合で良いタイムを出す為、少しでも早く走る為にと朝から晩まで懸命に鍛えていた足を覆い隠す白――
「ははっ。バレちゃった?」
「笑うなよ」
「何で薫が泣きそうな顔がしてんのよー」
「お前が――笑ってるからだろ……」
「大丈夫、大丈夫だって」
「春菜、頭は大丈夫なのか?」
「失礼ねっ! 誰がバカよっ!」
「こんなときにふざけるなよ!! 頭に包帯ぐるぐる巻きにして!! 意識だって無かったって聞いて心配してるんだぞ!!」
「CTの結果はまだだけど、大丈夫よ。そろそろお母さんが戻って教えてくれるわ」
終始笑顔の春菜、そんな春菜の気遣いが逆に不安で仕方なかった。
「で、実際のところどうなんだ? CTの結果はともかく、足の方は分かるんだろ?」
やはりといったところか――。春菜は顔を曇らせた。
「単純骨折だってさ。綺麗に折れてるから後遺症も無いし、むしろ治ったら前より頑丈になるってさ。でも……」
俺は続きの言葉が分かっている。分かっているが黙って聞くことにした。
「全治六週間なんだって。早ければ一ヶ月でギプスは取れるけど、走れるようになるには二ヶ月は安静って言われちゃった」
「インターハイには出れないな……」
「ははっ! 笑えるよね。あんなに頑張ってたのに、運が悪いや。今までの幸運のツケが来たかな?」
「確かに運は悪い。でも、笑うことなんかできないよ。お前も笑ってないで、辛いなら辛いって言えよ。我慢するなって」
しかし、春菜は笑顔で首を振った。
「辛いのよりも幸せの方がおっきかったからいいんだー」
「はあ? 事故に遭って幸せなんか無いだろ。若菜さんと走る最後のインターハイだって楽しみにしてたじゃないか」
「確かにそれは残念だったけど……。ねえ、先月の雨の日のこと覚えてる? 薫にしか記憶が残ってない雨の日」
「ん? ああ、もちろん覚えてるよ」
傘を誰かに盗まれて、困っているところに春菜が居合わせたんだ。そして一緒に帰ることになった。
「あたしは、未来の玲菜が薫から聞いた話でしか知らないんだけど……。内容としては……ですね……。なんというか……やっぱり……ねぇ?」
ここはとぼけておいた方が良いのだろうか?
「今の春菜の記憶にないことは無かったことにできるんだけど……」
春菜は首をフルフルと振った。
「いいの! だったら分かるでしょ。あたしが何で今幸せなのか」
俺をまっすぐに見つめる瞳。つい照れ臭くて顔を背けてしまう。
「お母さん以外で一番初めに病院に駆け付けてくれたのは薫なのよ」
「そうか」
「だから……そういうことっ!! この話はおしまいっ!! あたしは、好きな人が幸せになってくれたらそれでいいの。それが一番幸せなの。だから……あたしの恋もこれでおしまい――」
意外な言葉に顔を向けると、当の春菜は顔を背けていた。
「さあ、あたしが元気なのが分かったなら、早く帰って。明日には退院だから」
一向に俺の方に振り返ろうとしない春菜。
「ほら、午後の授業くらい出なさいよね」
「あ、ああ。うん、分かったよ」
これ以上ここにいないで欲しいという雰囲気を感じとれないはずもなく、俺は病室を出ることにした。
「じゃあな、明日学校で待ってるからな」
「うん。午後からだけど、ちゃんと行くから」
病院から出て、ゆっくりと帰路に付く。その際、ずっと頭のなかで流れていた映像は、あの雨の日のことだった。
春菜の傘に入れてもらい、家に帰る途中。俺は密着する春菜の肩に照れてしまい、濡れる事も気にせずに離れてしまう。しかし、春菜は離れる俺を腕を組むという荒業で阻止したのだ。そして問題はこの後。お互い無言のまま赤信号に捕まってしまい、そこで春菜に言われたのだ。
インターハイが終わったら、付き合って欲しい――と。
ビクビクしながら俺の事を見上げる姿が、普段の春菜の印象と違っており、なんだかこう……。むちゃくちゃ可愛かった。嬉しかったし、実のところ、先を越された――そんな感情もあった。その時は、もちろん快諾したわけだ。だからというのもある。あの雨の日が無かったことになっていたことに執着していたのは。
おそらく、未来の俺は今のような事を嬉しそうに語ったのだろう。……相手の気も知らずに。しかし、さっき春菜は言っていた。あたしの恋もこれでおしまい――と。まったく……。相手の気も知らずに勝手なことを言うのが流行ってるのだろうか?
帰り道、と表現するには若干の違和感があるが学校への帰り道は病院へ向かっていた時と比べて距離が短く感じた。歩いていた――ということもあるだろうが、恐らくは心配事が片付いたことが大きいのだろう。
校門に着くと、丁度三時間目終了のチャイムがなるところだった。ペースを落とさずに教室まで向かえば四時間目には余裕で間に合う時間である。しかし、ここで上手くいかないのが『丸岡薫』という男だった。いや、正確に言うなら『新田雄介』という男だった。
「奇遇だな薫。今暇か?」
休み時間のことを暇と言うなら暇なのだろう。だが、ここで雄介が言うところの暇と言うのは十中八九その後の四時間目のこと。
「一応、先生には午後から授業に出ますって伝えてある。それまでは暇にしようと思えば暇にできるよ」
「そうか、ならちょっと付き合え。あんまり人が来ない所で話がしたい」
「俺は良いけど、雄介は大丈夫なのか? 先生に何か言ってるのか?」
「後で素直にサボりましたって言うさ」
親指をぐっと立てて笑う雄介に、俺は思わず溜息が出る。
「ところで、わざわざ俺を校門で持つほどの用事ってなんだよ」
「一先ず場所を移そう。今なら生徒会室があいてるから」
俺は言われるがまま、雄介の後ろについて生徒会室に向かう。いつもなら、ここでいらない雑談やらを投げ合う場面だが、真剣な顔をしている雄介に話し掛けることができなかった。生徒会室は校舎の一階下駄箱で靴を履きかえるとすぐの場所にあるため、そう時間はかからない。
「話って何だよ」
俺は生徒会室内のソファーに腰かけて、雄介に聞く。一方の雄介はというと、立ったままフラフラと歩き回っていた。何か言いだしにくいことのようだ――
「一刀両断に言った方が良いか?」
「単刀直入に言ってくれ」
行き過ぎた間違い。流石に勉強が苦手な雄介でも間違えるには酷過ぎる。……余程これから話す内容のことで頭がいっぱいなのだろう。
「もう気を遣う様な間柄でもないし、さっさと言ってくれよ」
「薫は知らないかもしれないけど、俺には心に決めた女性がいる」
「うん。知ってる」
てか、この学校で知らない人は居ないんじゃないか?
「俺は、若菜さんの事が好きだ。理由もなく好きだ。いや、理由が無いって言うか、好きだと言うことが理由と言うか――。あーもうわけわかんないや!!」
いやいや、俺の方がわかんないから。雄介は頭を掻き毟りながら、自分の言いたいことをどうにか絞り出そうとしている様でうまくいっていない。
「だから、そんな事は学校中周知の事実で今更告白されたところで俺にどうしろって言うんだよ。というか、告白するなら言う相手が違う」
「俺が言いたいことは、若菜さんの事を好きだってことじゃなくって、あれだよ。人を好きになる理由っていうか、俺の場合だけど……」
確かに、雄介の口から好きになった理由――そんなものは聞いたことはなかった。あれが好きこれが好き。あんなことがあって嬉しかったこんなことがあってときめいた。そんな瞬間瞬間の感情論しか聞いていない。
俺の中に積もり積もった雄介の感情論は十分に人を好きになる理由たり得るとは思える。しかし、何事にもきっかけというものはあるのかもしれない。
「だから、好きになったのに理由なんて無いんだって!! いつの間にか好きだって思えてて、いつの間にか自分より大切な人だって言えるようになってて……そんな感じなんだって!!」
無かった。
「だから、分からねーって……。ああ雄介はそんなものなんだな――ってくらいで。いったい何を伝えようとしてるんだよ」
「俺は薫みたいに記憶を全部持ってる訳じゃないから、てかはっきり言って頭悪いから、出会いとかも忘れたし、いつから好きって思うようになったのかも忘れた。でも人間ってそんなもんだろうなって思うんだよ。そんなに難しく考えてたら、思ってたより早く人生終わっちまうかも知んねーし。普通の人より早く死んじまうかも知れねーし。誰に普通って言われても、自分じゃ自分を普通なんて思えねーし」
雄介は、フラフラと考えがまとまらない内に口から言葉だけこぼれているようだった。ただ、普通って言葉だけが何度も何度も俺の頭の中で木霊する。それは頑なに『普通』という単語を使いたがらない人を知っているからか……その人を思う人から出た言葉だからか――
「薫って何でも覚えてるから、悩むための選択肢が多いから答えが出にくいのかも知れないけど――」
そこまで言って、雄介はふぅと一息ついて真面目な顔をする。
「薫って今好きだって言える人はいるか?」
は? まさか、こいつはそんなことを聞くために授業をサボってまで俺を呼び出したのか?
「そんなの……。別にどうだっていいじゃないか。聞きたかったことはそれだけか? 他に無いなら授業に行くぞ。今ならまだ間に合う」
俺がそう言って生徒会室から出ようとすると、おもむろに雄介に腕を掴まれた。
「どうでもいいことじゃない! お前は春菜が好きなのか、玲菜ちゃんが好きなのか――はっきりさせておかないといけないんだよ。世界の為にも……」
苦しそうに絞り出すかのように言ったそれは、俺の心に刺さった。感動というニュアンスではない。最近いつも考えさせられていることを他人に言われたから図星を突かれた――そんな感じだろうか。
「それは……分からないよ。春菜は幼馴染として大切に思ってる。玲菜は妹のように大事に思ってる……。どっちが好きかなんて決められるようなものじゃないだろ」
「薫――お前、あれだけ未来を見せられて二人の気持ちがまだ分からないなんて言わないだろうな? お前は選ばないといけないんだよ。選んであげないといけないんだよ」
俺は腕を掴む雄介を振りほどいた。
「だから! 何で突然こんな話になるんだよ。雄介、なんか変だって! さっきまでの三時間くらいの間で何かあったのか?」
いきなり世界とか言いだすし――話についていけない。どっちが好きかという話が気になるのは仕方ないとして、……唐突過ぎる。必死過ぎる。
「何か――。ああ、あったよ。確かにあったよ。薫には、事が落ち着くまで黙っておくつもりだったけど……。やっぱり知っておいてもらわないと、自覚しておいてもらわないといけないのかもしれない」
「だから何だよ。もったいぶらずに言ってくれよ。若菜さんと抱えていた問題と何か関係があるのか?」
雄介は、俺の言葉を聞いて少し口ごもった。何を言って良くて何が駄目なのか。それを考えているようだった。
「ワールドメモリー。その能力は世界を滅茶苦茶にしてしまう力があるんだよ」
ああ……。言われなくても分かっていた。玲菜が能力の自覚をしたことを知って確信していた。
「世界でたった三人しか持っていないその能力を持つ、薫と春菜と玲菜ちゃんには」
三人? 聞き間違いだろうか? 世界でたった三人しかいないって? 俺はてっきりもっといるものだと思っていた。身近に三人もいるんだ。世界中探せば何万人と言わずとも数千人か数百人か――そのくらいはいるものかと思っていた。
「それで、その世界が滅茶苦茶になるとかどうとかって話と、俺が誰を好きかって話がどう繋がるんだ?」
「分かんねーよ!! 俺に聞くなよ!!」
逆に怒鳴られた。何だよそれ。どういう理論だよ。分からないのに話を繋げてくるなよ。そんな文句を言ったところで話が前に進まないのは分かっているので、ここは大人しく情報を整理する方向にもっていくことにした。
「じゃあ、雄介がそんなに混乱している理由から聞こうか」
「若菜さんを引き止められなかった……。怪我をしてた若菜さんを引き止められなかった。若菜さんは世界の為になら自分の事はどうでもいいとか言うし。世界の為に薫に選んでもらわないといけないとか言うし。茜ちゃんは保健室で倒れてるし。話せるやつがいなくて薫を校門で待ってて、俺が分かることは薫にどっちか選ばせないといけないってことだけで、取り敢えず薫に選んでもらわないと」
「分かった! 分かったから落ち着け」
結論から言うと、全く分からなかった。いや、分からなかった訳ではないが、要領を得なさ過ぎて理解し難い。
「えっと、若菜さんは怪我をしたままどこかへ行ってしまった。茜ちゃんは保健室で寝ている。俺は世界の為に春菜か玲菜のどっちを好きなのかはっきりさせないといけない。これでいいか?」
「そう! そうだよ!」
「だから、分からないって!」
何だよ、世界の為に好きな人をはっきりさせろって。
「はぁ……。一先ず茜ちゃんは保健室にいるんだな? 俺は今から茜ちゃんのところに行くよ。雄介はとりあえず落ち着け。春菜と玲菜の事は……ちゃんと考えておくから安心しろ」
「本当だな? 信じるぞ? 俺も、よく分かんねー事ばっかり言って悪かった」
「本当だよ」
俺はそう言い生徒会室の扉に手をかける。
「茜ちゃんによろしく言っといてくれ」
雄介は最後まで訳の分からない事を言っていた。だから、俺は訳の分かることを言ってやることにした。
「俺は、今から保健室に行くけど、雄介は若菜さんのところに行ってやれよ。憧れの人なんだからさ」
「憧れじゃない。愛してる人だ」
もし、俺の会話相手が春菜だったのなら、前文から会話を読み、モノローグから結論まで出すのだろう。若菜さんなら読むまでもないのかもしれないが……。
「若菜さんには言うなよ。昔な……、誰にも見られないように泣いているところを見たことがあるんだ。普通になりたい――って……。別の時だけど、こんな事も言ってた。誰より普通が好きなのに普通にはなれない――って」
黙って聞いている雄介だったが、いまいちピンと来ていないようだった。
「俺はそれ以来、あの人の口から自発的に普通って言葉を聞いたことがない。雄介も聞いたこと無いんじゃないのか? 今日までは」
雄介は、ああとだけ答える。
「――若菜さんは、普通が好きなんじゃないか?」
俺のその言葉を聞いた瞬間、さっきまで混乱と不安で灰色だった雄介の目は淡い期待で光りが差しだした。
「何で若菜さんは雄介に普通なんて言葉を使ったのかな?」
雄介の言葉を借りるのなら、理由は好きだから――ではないか?
「ちなみに、俺は変な奴が好きだ。俺の目から見たら雄介は……結構変だと思うぞ」
「俺、若菜さんのところに行ってくる。俺、若菜さんのところに行ってくる!!」
「ああ、早く行け」
扉を開けた俺よりも先に生徒会室を飛び出す雄介。
「すまん薫! 俺、好きな人がいるからお前の気持ちには応えられねー!」
……颯爽と何かを勘違いしたまま走っていく雄介だった。
――さて、俺も早く茜ちゃんのいる保健室へ向かうか。
授業には元より行くつもりは無かった。俺は教室に顔を出さずに保健室に直行した。茜ちゃんが待っている。倒れた原因とやらは分からない。だからこそ、心配がつのる。いったい俺は一日に何度見舞いに行かなければいけないのだろうか。
保健室に入った俺は、まっすぐに茜ちゃんが寝ているであろうベッドの傍へと歩いた。保健室に二つあるベッドは片方だけカーテンが締まっており、そこに茜ちゃんが横たわっている事は容易に想像できる。先生がいなくても、案内がなくても間違いなくたどり着ける。
カーテンレールを滑る音を最小限に抑え、静かに茜ちゃんの様子をうかがう。寝ているようであればそのまま静かに起きるまで待つつもりだった。
「あら、丸岡くん夜這いかしら?」
相変わらず、変わらず、変わらない茜ちゃんがいた。
「何だよ、元気だな。雄介から倒れたって聞いて心配してたんだぞ」
「あら、心配し続けられるようにぐったりしていた方が良かったかしら? 丸岡くんて見た目と違って鬼畜ね。いえ、もしかしてAVみたいに寝こみを襲いたかったのかしら? それなら悪いことしたわね、それなら私の方もまんざらでもないから、保健室の入り口からやり直してくれたら手伝うわよ」
マシンガントークならぬガトリングガントークとでも言える破壊力満点の連射言語。倒れたといっても衰えなど無いようだ。寧ろ、溜まっていたものを吐き出すようだった。
「本当に、倒れていたのか? 何も変わらないじゃないか」
「ごめん。変わらないなんて言わないで……。今はその言葉聞きたくなの」
茜ちゃんは、何か辛そうな顔をした。いや、表情が変わらない茜ちゃんに辛そうな顔と表現するのは若干違和感というものを覚える。実際、今も表情は変わっていない。今の台詞で俺が勝手に解釈しただけなのかもしれない。
「ごめん……」
何があったのか分からず、察することもできない俺には、黙ることしかできない。
「丸岡くんが謝ることはないわ。これは私の問題だし、あなたには関係ないもの」
茜ちゃんがそう言った瞬間、まるで見えない分厚い壁が現れたようだった。水族館の巨大水槽に使われているアクリルガラスのような分厚い壁。ピンと張りつめた空気と小さな耳鳴りのせいで俺も少しの間ガラス細工のように硬直していたかもしれない。しかし、こうもわざとらしく突き放されたら食い下がるしかない。
「そんな事言うなよ。寂しいじゃないか」
俺は当たり障りのない導入句で茜ちゃんに言った。ただいつも通り、くだらない悩みで落ち込んだ友人に言うみたいに。
俺は本当に、特に大きな意味を持たせたわけではなく、心配だから言っただけだった。わざわざ俺を遠ざけるような言い回しをしてる人間が何も抱えていないなんて思えなかったから。ただそれだけの事だったのに、茜ちゃんは想像以上に目を丸くして驚いていた。正直言うと茜ちゃんの無表情以外を見たのは初めてだった。驚く顔をした茜ちゃんよりも、俺の方が驚いたくらいである。
「ほんと、ほんと、ほんとあなたって異常よね」
「酷い言い方だな」
「いえ、良い意味でよ。なんだか、私の悩みがくだらないことみたい。私の五百年返してよ」
「五百年分悩んでても、実際に俺たちが生きてるのはたった十六年なんだよ。案外短いのかもな」
「そうね、そうよね。私たちはまだ十六歳なのよね。私は誕生日が終わっているから十七歳だけどね」
そんな言い方をされると誕生日を忘れてしまっている最低な男みたいだな。心外だ。
「じゃあ、次の休みにでも誕生日パーティでも開こう。もちろんみんなでな」
「ありがとう。それで、薫くんに聞きたいんだけど、今の私って朝会ったときと何か違わない?」
誕生日パーティーの事はサラッと流すつもりのようだ。信じていない様なら後日サプライズを仕掛けてあげよう。それよりも突然丸岡くんから薫くんに呼び方を変えられたことにドキッとさせられた。何だろう。茜ちゃんに何か心境の変化があったのだろうか……分からない。
「朝会ったって言っても、俺は教室にほとんど居なかったし」
「覚えているのでしょう? だって薫くんだもの。薫くんだもの!」
いきなり薫くんって呼び始めたと思ったら、楽しそうに何度も呼ぶ茜ちゃん。
「確かに全部覚えてはいるけど……。違いって言われてもな――」
言われて俺は、改めて茜ちゃんを見る。まじまじと見る。
「なんだかゾクゾクするわね」
「変なこと言わないでくれ。――そうだな、なんていうか、感覚的なものなんだけど、朝よりも人形みたいな?」
温もりのような感じのものが感じられないというか――。このまま窓の外でも眺めていたら深窓の令嬢なんて呼ばれるんじゃないかと思うほど儚く感じる。
「そうね。大方正解よ。私は今、死んでるの」
……死んでる?? は?
「気でも狂ったか? じゃあ、幽霊だとでも言うのか?」
「薫くんは、生物の定義って何だと思う?」
突然何を言いだすんだ? 俺は喉元まで出たその言葉を飲み込み答えた。
「確か、自己複製能力の有無とか、代謝機能の有無とか、細胞膜みたいなもので個を確立できているかどうかとか……。授業ではそんな事言ってた気がする。俺自身、それで納得だと思うよ」
「先生はまだそんな話してないわ……」
「そうだっけ?」
小学校の先生が言ってたんだけど、まあいい。
「私はね、もっと単純に考えてるわ。どんなサイズでも能動的に外界と何かしらのエネルギーのやり取りを行えるものが生物だと思うの。能動的の定義範囲で個の確立もできるわ。それで、社会的な死というものとも絡めて考えてみると、私は死んでるのよ。人間の中でヒトとして死んでるの」
話がややこしくて分からない。記憶力は変な能力のせいで高いが、思考力はそうでもない。いったいどういうことか。
「いやいや、こうして俺と話してるじゃないか。ほら、生きてるよ」
「だから言ったのよ。薫くんは異常だって。今、世界中の生き物は私を認識できないの。いや、生き物だけじゃないわ。物も時間さえも私に干渉することができないの。そういう馬鹿げた能力なのよ、私は。誰の記憶にも居ないし認識にもないし、今この場を見た人がいても薫くんが一人で何か喋っているように見えるかもしれない。記憶に全く残らない誰かと話しているように見えるかもしれない、電話しているように見えるかもしれない。でもそこに私は居ないの」
突然の告白に俺の思考はただただ停止するばかりだった。
「干渉させない能力、実はあれは二人で分け合うことで能力って言える状態になっていたの」
――二人。
「さっき『関係ない』って言葉を口にした瞬間に完全に力が戻ってしまったみたいね」
だから俺が違和感なく返答したことに驚いたのか――
「じゃあ、何で俺とはこうやって話ができるんだ? やっぱりワールドメモリーの能力が関係してるのか?」
「私の推測だけど……。全知であるワールドメモリーが記録したものをすべて知ることができる。それが薫くんの本当の能力だと思うの。私はこの世界のバグみたいなものだけど、全知の例外ではないということね。だから、薫くんはワールドメモリーの記録を通して私を認知しているんじゃないかしら?」
俺は、まるで優しく答え合わせを受けているような感覚だった。辻褄が綺麗に合っていく。
「確かにそうかもしれない。それなら――」
「私は――薫くん以外が持っている記憶も薫くん自身が知ることができると思うの。世界中の過去の出来事の全てさえも」
それを聞いたとき、俺は背筋がゾッとした。能力の凄さに感動したのではない。恐怖でだ。
「この世界は辛いことの方が多いわよね」
そうだろう――
「今度は私が薫くんを助ける番ね」
私は大丈夫だから、そろそろ帰った方がいいわ。その言葉を聞き俺は保健室を後にした。ずいぶんと淡白な対応かと思われるかもしれないが、茜ちゃんの安心したような顔を見ればこちらも安心できるのは道理だ。
しかし、午後からの授業はあまり集中して聴くことができなかった。これは、みんなのことが心配でたまらなかった――。それが理由だったということにしよう。集中できなかった授業が比較的苦手な数学だったというのはここだけの話である。
結局、雄介が教室に戻ってくることは無く、茜ちゃんは早退した。おかげで俺は下校時刻まで誰とも話をせずに考え事をすることになった。寂しいやつ――と言われればそうかもしれない。確かに高校生活で雄介と春菜と話をしている時間というのは大きな比重を占めている。
……思えば、俺は雄介や春菜たちにずいぶんと助けて貰っていた気がする。昔から何でもかんでも覚えてしまっているせいで孤独感を抱えて過ごしていた。俺が覚えている事を他の誰も覚えていない――そんなことは日常茶飯事で、自分一人が違う世界を歩んでいるかのような感覚……。元からあまり人と話すことが好きでなかった俺は、どんどん自分一人の世界に浸っていった。
雄介と会うまでは、本当に宮内家の人としか口を利いていなかったし、さっきの茜ちゃんの言葉を借りるとするなら、社会的に死んでいる――といったところだろう。どうにか宮内家で生きているというやつだった。血の繋がった家族もおらず、社交的でも何でもない俺に今があるのは、大げさではなく春菜や玲菜、若菜さんたちのおかげである。感謝の言葉を紡ぐなら果て無く長くなるだろう。雄介に出会ったこと、バスケにのめり込んだこと、それも俺を構成する大きな要因だ。
現時点でこの理不尽な問題、能力が無ければ只々我武者羅に雄介を最強の選手にすることに打ち込んでいただろう。――雄介は忘れてしまっているが、俺をバスケに引き込んだ雄介とした約束。
『俺が雄介を世界一のプレイヤーにさせる』
『じゃあ、薫からのパスは一つだってリングから外さない』
実際は世界一のプレイヤーにはできていないし、リングから外すことだってある。しかし、もし二対二の全国大会があれば優勝できる自信がある。そのくらい馬鹿みたいにバスケ三昧の日々だ。つまり、俺はバスケ以外何もしていない。必死に勉強をしている訳でもなければ、放課後に遊んでいる訳でもない。行動理念は全てバスケに帰着する。
今はバスケの為に生きています。――そう言っても過言ではない。
バスケをするわけでもなく、雄介も春菜も、茜ちゃんもいない教室で誰とも話さず一人きりなのは明々白々たる事実だった。――久しぶりに孤独感を感じている気がする。……我ながら女々しい。人は一人では生きていけないなんて言葉は耳に胼胝ができる程聞いているが、実感する。茜ちゃんの話に感化されたというのも少なからずあるのだろう。だがそれだけではない。
授業が全て終わり、帰路に着いた時。校門に差し掛かった時。そこには、当たり前のように必然のように、自然の摂理かのように――。一人の少女が立っていた。同い年を少女と呼ぶのは幾分か違和感を感じる。幼馴染を少女と呼ぶのは若干筋違いな表現に感じる。
「丁度ストレッチしてた所なのよ。今終わったし、ついでに一緒に帰ろっか?」
わざわざ校門前でストレッチする阿保がいったいどれだけいるだろう?遠回しなツンデレを披露しやがって。そんな言葉を聞くこっちとしては疲労もたまるってもんだ。
「ああ。そうだな、わざわざ待っててくれてありがとな」
何か秘技があった気がするけど。
「おまえがこうやって神出鬼没に俺の目の前で笑ってくれると」
ツンデレ? 何だろう? 昔の流行語? 死語か何か?
「それだけで生きてて良かったと思えるよ」
――生きてるって思えるよ。春菜は、くるっと半回転すると一歩俺から離れる。
「何キモイこと言ってんの?」
キモイって言われちまったよ。
「さっ行くわよ。久しぶりに二人きりの下校なんだから」
今度は一歩俺に向かって近づく。
「別に、キモイって気持ち悪いの略じゃないから」
ああ、なんとなく分かってた。
「俺は最初から選んでたよ。決まってた」
「えっ? 何が」
「いや、こっちの話。久しぶりだから手でも繋いで帰るか?」
「足なら繋いであげるわよ?」
「気持ち悪っ」
春菜は笑顔で振り返った。
当たり前だが、手を繋ぐことはなく普段通り横並びで歩いて帰る。心なしか、いつもより距離が近いような気がした。近いような気がするが、それが気のせいだということは分かっている。それはなぜか? 理由は簡単。なぜ近く感じているかの理由を知っているからだ。知っている。心が近づくと距離が近く感じるということを。
「ねぇ薫。あんたって女の子に告白された事とかある?」
わざわざ足を止めて、藪から棒にいったい何を聞いているのだろうか? 俺が色恋沙汰を持ったことが無い事をこいつは知っているはずだ。いや、無くなってしまった過去の事を言うならば一度だけあると言えるかもしれない。
「分かってる事をいちいち聞くなよ」
「いや~、もしもの事があるかもしれないじゃない?」
「ねーよ」
「そう……」
一呼吸。一息ついて春菜は歩みを戻そうとする。
「で? 春菜は何が聞きたかったんだ? それを確かめたかっただけじゃないだろ?」
俺は足を止めたまま聞いた。
「さすが薫ね。もし、あんたが誰かに告白されたとき。どんな対応するのかなって」
「そりゃー……」
相手には悪いけど、受けるわけにはいかないな。
「好きじゃなけりゃ断るだけだろうな」
「相手の女の子が泣いても?」
「泣くほど俺の事を好きな子なんていないから、そんなシミュレートをしたことは無いな」
「はぁ……」
春菜は大きなため息をついた。
「何だよ」
「なんかなー。話が進まないなー。そんなことを聞きたいんじゃないんだって」
「話の結果を急ぐなって、無駄な話も楽しもうって。そんなに頭を掻き毟ってたら将来禿げるぞ」
「男女逆転したみたいな会話ね」
確かに俺らしくない言葉かもしれないな。
「薫なら、涙を流す女の子に同情して付き合ってあげちゃうのかなって思ったりして」
「そんなことしないと思うんだけどな~」
「ならいいけど」
そう言って春菜はポイ捨てされていた空き缶を道路の反対側のごみ箱に投げ入れた。――なんてコントロールしてやがるんだ。
「じゃあ、もう一個質問いい?」
「答えられる範囲でなら」
「好きなら付き合ってあげるんだよね?」
「まあ、そうだろうな」
付き合ってあげるなんて上から目線にはなれないけど。
「だったら……」
「お姉ちゃんの事好き?」
? なぜここで若菜さんの事が出てくるのだろう?
「新田君の事は? 茜ちゃんの事は? バスケ部のみんなは? ……玲菜の事は?」
? なぜここでみんなの事が出てくるのだろう? 話の流れが分からず俺は黙り込んでいたが、そんな様子を見てか見ないでか、春菜は話を続ける。
「好きって色々あると思うんだよね。友情とか、後輩愛とか、家族愛だとか。男の人なら組織愛みたいなものもあるのかな?」
今日雄介に対して話した内容を思い出す。春菜か玲菜、どちらの事を好きなのか――。今はもっと選択肢を与えられているが……。
「今挙げた中で好きじゃないって言うものがあったら訂正して」
俺は無言を以って返答とする。好きじゃないはずがない。全て俺にとって大切な……大好きな人達だ。
「好きな人から付き合って欲しいって言われたら付き合うんだよね?」
「違っ!! それはちょっと話が飛躍し過ぎてるぞ」
「あれ? あたし何か変な事言ってるかしら? 好きな人なら付き合うって言ったのは薫よ? 論理的に言うなら何も間違ってる事は言ってないわ」
「論理的に言うなよ。そこは論理だけで説明できるような話じゃないだろ。感情が絡んだ話だ」
「その感情が好きかどうかなんでしょ? なら、付き合えないって言う理由とか感情的な何かがあるの? 好きでも付き合えないって言う――」
「ほら、男相手だったら付き合ったりできないじゃないか」
「あら、今は同性同士の恋愛も広く認められている時代よ?」
広くは認められてねーよ。
「付き合う対象としては異性がいい。もう俺の我儘ってことでいいよ」
我儘とまで言う必要はないと思うが……。
「じゃあ、女なら大丈夫な訳ね」
まるで詰み将棋を受けているかのよう。会話が始まった瞬間に詰むことができる。論理的に話を進められるならば開始がイコール終了ということ。流石の俺でもそろそろ帰着点が見えてきた。
「……あたしって性格悪いね」
溜息を吐いて肩を落とす春菜。
「でも最後まで言うわ。薫は優柔不断だから決められない事くらい分かってるわ」
――ほっとけよ。これでも頑張って選んだつもりなんだ。
「初めに薫に告白した人が薫と付き合うんだろうなって思ってたんだー」
「俺の事馬鹿にしてるだろ? 俺だってちゃんと選ぶ意志があるんだ」
「馬鹿にはしてないわよ。でも、その選ぶ意志ってやつを決めてほしいの」
知らず知らずのうちに歩いていた足を止め、少し前を歩いていた春菜は笑顔で振り返る。俺はその姿に息を飲む。夕日を受けた姿が、まるで橙色を題材とした絵画のように鮮烈な迫力を出していた。
この後に続く言葉は、あの日――雨のあの日に聞いた言葉と同じものだろうか。覚悟を決め、はっきりと返事ができるように。――俺はまっすぐに春菜の目を見た。
……逆光で若干眩しい。
「よくこんな話があるじゃない?」
少し話を延ばすつもりのようだ。いつまでも待とう。いや、いっそ話を断ち切ってこちらから言うべきか?
「崖から落ちそうな大切な人たちがいた時に誰を選ぶのか……ってやつ。極端な話だけどそれって真理を捉えていると思うの。誰を好きって話は比較があって、誰よりも誰を選ぶか――。その時に選ぶ相手が本当に好きな人だと思うの」
少し俯いた春菜の表情は陰に入ってしまって良く見えない。
「薫は優しいから、みんな落ちちゃうまで悩んじゃうんじゃないかなって思うの。それって優しさじゃないんだけどね。だから、代わりにあたしが選ぶわ。これは完全にあたしのわがまま。誰の意思も関係のない。あたしだけの勝手な思い」
大きく息を吸い込んだ春菜は小さく顔を上げた。そこには小さな笑顔と――大きな雨粒。
「玲菜を……幸せにしてあげて――」
夕立は、雲一つ無い空から、嘘のように激しく降り注いだ。
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